それは守るべき倫理や道徳の話でしょう?
それがなぜ、「エロゲーオタクは人とモノの区別がつかない」などという偏見と繋がるのですか?
文化や芸術というものは必ずしも倫理や道徳に縛られるのものじゃありません。
パンクなんかは良い例でしょう。
貴方は、貴方の愛する文化や芸術の健全さを微塵も疑っていないからこそ、
そうやって他人の愛する文化や芸術を平気で否定できるのです。
ですが、それがどれだけ傲慢なことだか少しは自覚してください。
格闘ゲームにはまる人間は、他人に暴力をふるえる人間ですか?
サバイバルゲームに興じる人間は、戦場に行っても戦える人間ですか?
TRPGでヒトを殺せる人間は、現実で人を殺せる人間ですか?
馬鹿馬鹿しい、そんなはずはないでしょう。
貴方はSFやTRPGを趣味に持つことで、謂れのない偏見を受けて悔しい思いをしたことはないのですか?
他人を殴りつけながら、自分だけは正しいかのような態度の人間は最低です。
氏が御返信下さったことに心より感謝を申し上げると共に、再度こちらに書かせて頂くことをお許し下さい。
エリー氏の発言、平素自分が志している点は似通った点もありましたので、首を縦に何度も振りました次第です。
どんな趣味を持っていても、結局は自分の向かうところにしか行かない。しかし人間の集合の中に生きる以上、その中での妥協点とも言うべき、別の趣味趣向をもつ集団への入り込み方というのが必要になると考えます。
これは非常に私的な考えではありますが、またエロゲーに限らずの事ですが、趣味趣向自体にいいの悪いのというよりは、そして、理解してもらうような努力といったことよりも、むしろ徹底的に成熟し、趣味についても「まぁそれはそれとして」と言ってもらえる努力を常にするべきという考えです。
私的な考えと留めるべきは、誰しもがその努力を出来るわけではない上、その成熟という基準についてももちろん曖昧な為です。
しかしそういった姿勢は老若男女すべてにおいて不足していると考えています。
なにオタがキモいだの、そう言った物言いは一面としてはそういう後退的な面を指すものと考えています。
また、No1459において頂いた氏の発言について大変恐縮ではありますが申し上げます。
倫理、道徳の例外を認めた上で、例えば90パーセントのデッドラインをもって認められうる絶対的基準を提示なさった。これは非常に現実的かつ理性的な判断をされていると思います。
しかし議論に対しての倫理、道徳の必要性はあるとおっしゃる点については、これを承服できかねております。
かなり話題が跳躍しますが、先日少女に首輪をつけ監禁した東京都足立区の男性が逮捕されたのは記憶に新しいと思います。
パトカーの中でステキなジャージを着ていらっしゃった王子こと例の事件ですが。これに対しておそらく、一般的倫理道徳に照らし合わせてみて、どこに非難が集中するかは既に周知のことと思います。
しかし本当に件の事件と、それに類似する過去の、そしてこれからの事件について非難されるべきは、容疑者がその行為について同意を得られる適切なパートナーの選択を誤ったことにおいて他にないと私は考えます。
具体的な例で、極めて限定的な話を持ち出すことはあまり上手い事とは思えませんが他にどう表現しようもないので記しますが、例えば昨今の女性自立の風潮にのっとり、自由な人権を認めてくれる男性を望むよりは、束縛されたい、それが仮に異常なものつまりはDVに近い、あるいは限度を超えた物、それこそ首輪に至っても、それを望むという女性人口は決して少なくはありません。
まぁそれを生活に、あるいは社会的に支障があるという理由で精神科にかかる方はいても、それを反倫理に対する恐れからかかる人はほとんどいません。
何が言いたいかと申しますと、件の王子が適切なパートナーと巡り合っていた場合、もちろん事件性はなく倫理や道徳についての非難からも開放されていたという点です。年端も行かない少女に、というよりはその行為の異常性、非倫理性について声が大きかったことに対して、これは倫理、道徳の流動性について再考すべき点と考えます。
これは例外として認定される案件というよりも、事情によりその倫理道徳の是非のパーセンテージがひっくりかえる具体例と考え、それは安易に一事象を指しての議論の際、普遍的倫理道徳を基準とすることに(もちろん氏の言う認定式をとったうえでも)重大な流動性と非絶対性を提示するものと考えます。
(もちろん少女だったという点において将来性や未発達について指摘されるかもしれませんが、どのみち成人女性に対して同じ事件をおこしても同じ論風だったと考えますし、それはエロゲーの登場人物が未成年か成年かと同じくらいどうでもよいことと考えます。また、児童ポルノについての論議に発展することは、これは発達心理学の範疇にありまた別の根拠となりますので、現時点ではエロゲーという包括的なテーマについての文章とします。)
逆に言えば、適切なパートナーの選択を誤った点においては氏がコミュニケーションの不足云々と記載されるくだりに近い内容にも取られる方がいらっしゃるかもしれませんが、私は若干違う意味で申し上げておりまして、むしろコミュニケーション能力と言うのは大小関わらずというよりも、むしろ人間すべてにおいて、これが不足しています。
発達過程において人間が収集していく情報に基づいて人格と行動原理が形成されるわけですが、エロゲーをしている人がしていない人よりそのコミュニケーション能力を著しく欠如しているとはとても考えられません。
安易に言えば一般人とオタク層にどれほどの違いがあるのか、興味の対象は違えど、別種の主義、趣向に対する閉鎖性も同種の主義趣向に対する同和性も、ほとんどといっていいほど違いはない。
常にこういった議論にコミュニケーション能力という単語が入り込むことは、実に我々人間の平素行う集団性を棚に上げていて滑稽でなりません。
むしろこう考えます。
例えば昨今際立ってきたDVについても、過去無言のうちに容認されてきたものが現在では重大な犯罪行為と認定されるのは、流動してしまった倫理道徳を基準にすえて非倫理道徳として非難するよりも、むしろ被害としての概念が定着し、また認定されるようになったという事象の経過に注目して、ある意味氏が否定なさった被害の認定について基準を据えるべきと考えます。
今現在目の前にある事柄についての議論なら暫定的な倫理道徳で十分事足りますが、それを個人であれ法であれ主張として広く示す場合、これを決定的な根拠において提示する必要があります。
その点では加害と被害の認定という絶対的な図式によって議論されるのも一方法ではないでしょうか。
私は倫理道徳の形成の過程、そしてそれを乱用する安易さに非常に危惧しております。
倫理道徳の形成の過程で、氏のご返信の言葉を揚げ足取りのつもりでなく引用するならば、ほとんどの人間が認めるという点において既に多数派論理であり、その多数派とはいかなる国家においてもいかなる集団においても、決して理性的でも中立的でもないという事、これこそが最も問題となる点です。多くは庶民層、耳聞こえが悪いことを承知ではありますが、彼らは一般に低所得であり、低学歴であり、十分な判断力と情報力を持たず確固たる意思決定もしない層です。
これは、倫理面での議論をするよりも、むしろ被害者保護の観点において議論されるべきとするに十分な理由ではないでしょうか。
むしろ、被害に対する制裁や規制ありき、倫理道徳などについて持ち出さないストイックさこそ必要だと考えます。
そうでなくては、まったくただの異物排斥の構図と変わらない。人間意識の負の普遍と思います。
まったく氏の考え方と逆方向に行っているのかもしれませんが今回も書かせて頂きました。よろしければご一読頂ければ光栄です。
長い文章にて大変申し訳ありませんでした。
No.1447の投稿は、「神波さんが言いたいこと」を想像した内容です。私自身が思っていることなので、嘘ではありませんが続きがあります。
---
私は自分が成長すると思っているので、iwatamさんに「私は成長する。未熟と言う言葉を訂正しろ」とは要求しません。iwatamさん自身も「自分にも未熟な一面はある」と言っています。「成長する・しない」は時間が経たなければ結果は出ません。自分で自分を「信じるか・信じないか」の問題だと思います。
議論の場合、「未熟=確信が持てない部分」だと思います。だから、訂正を求めるのではなく、自分が疑問に思ったことを質問しました。別の投稿で「未熟=言動の不一致」という私の意見について、iwatamさんの意見を求めています。
---
私は「客観的であろうとする場合は根拠を問題にする」「主観で話す場合には希望を問題にする」と考えています。だから「二つのアプローチを共存させる為、立場を明らかにした上で根拠を述べる」というスタンスをとっています。
女の私が、「もし男だったら?」と考えたところで、結局は想像でしかありません。想像することは理解の助けにはなるけれど、最終的には本人に聞く以外にないと考えています。
---
他人に対してそうである以上、「自分の意見は自分で言うしかない」と考えます。私があなたに聞くしかないように、あなたも私に聞くしかないと思うからです。それを聞かずに話を進められると不快になるし、言ってくれなくても不快になります。
---
神波さんがおっしゃるように、合意が得られていないから「監禁=犯罪」ですが、同意を得ていれば似たような行為をしているSMは「趣味扱い」です。
「そう望む」という主観を否定することは出来ないし、裁く権利はないと思います。たまたま「私自身の好みは他人に迷惑がかからない程度のものだった」というだけの話です。
しかし迷惑を迷惑のまま放置しておく訳にもいきません。「ここまでは認めるが、これ以上は許せない」というルールが必要になると思います。こちらの意向を尋ねることなく、「そのうち好きになるに違いない」などと思われては困ります。監禁されてからでは遅いからです。
---
「監禁は駄目」という社会全体として形成されているルールがあれば、「同意しない限り監禁されないだろう」となります。「90%の人が考えること=社会ルール」を知ることで、「少数派である自分の希望をどう実現すれば良いか決められるようになる」と思います。だから私は「監禁してみたい」「監禁したらどうなるか?」という気持をゲームで解決するのは良い方法だと思います。
「私は望まない」と言った時、相手が信じて辞めてくれれば私は問題を感じません。「ゲームを辞めたいのに辞められない」と言う問題が残っていますが、その人自身の問題であって「社会問題ではない」と判断します。
「社会ルール」と「個人対個人で決めたルール」が異なる場合、「変わった趣味」と言われるのだと思います。
---
「ルールについて合意を得る」為には、他人の考えを知る必要があります。
神波さんがおっしゃるように、この過程で「人の意見なんて聞きたくない」「自分の気持ちをうまく言えない」という問題があります。
この問題を話し合う為に、コラムでは「iwatamはこう考える」と断定調で意見を書かれたのだと考えています。「共通認識を作る為のたたき台」であって、「全員の合意を得ていること」と言いたい訳ではないと考えます。
---
以上から、「iwatamさんのコラム」は「神波さんの書かれた投稿が前提となっている」と判断します。逆方向に行っている訳ではないと思います。
神波さん、iwatamさん、ご本人の意見を聞かせていただけませんか?
自分から「自由な人権を望まない」と思うのは、言葉の矛盾です。そう思うこと自体が自由な人権の表れだからです。
「自我」というキーワードで話を書きましたが、「自由な人権を望まない」というのは自我が確立していないからであり、従ってこれは「自分で望んだ」とは言えません。それは本当の意味での「同意」ではありません。
「精神科」という言葉を持ち出されてますから、これが一種の心の病気だということはおわかりだと思います。その人が精神科へ行かなければ病気ではないということはなく、生活に支障がなければ病気ではないということでもありません。こういう人は往々にして、自己判断が間違っていて、自分で「生活に支障がない」と思っていること自体が間違いだったりします。心の病気は、自己というものが危うくなり、判断力自体が弱まる病気ですから、そうした人の行いは「その人の意志に基づく」とはいえないのです。
つまり、正常な人ならとうてい望まないようなことを望むという時点でそれは正常な判断ができない人だということであり、正常な判断ができない人の「合意」は何の意味もないということです。そういうわけですから、いくら合意に基づいていても、異常は異常なのです。
人間は常に自分が思ったことを言えるわけではありませんし、自分が思ったと主張することが本当に自分が思ったことであるという保証もありません。ですから、その人が本当に思ったことは何なのかをその人の主張だけで決めるのは問題です。人間は時には自分の望まない考えを持ってしまうという事実を心に留めて、ある程度は外部からの判断を入れてやる必要があります。
----
「多数派論理に基づくこうした倫理基準は低学歴の無知な層が支持している」というのは、事実誤認だと思います。おそらく中立ではありませんが(「中立」という言葉が何を指すのかがわかりませんが)、少なくとも理性的であり、知識人と呼ばれる多くの人に支持されています。これを単なる異物排斥だと言って否定するのは、物事を単純化しすぎです。異物排斥はたまには悪いこともありますが、多くの場合、それは良いことです。あまりにも当たり前すぎて、それが異物排斥であると気づいていないだけです。
----
あなたは「被害者保護の観点で議論されるべき」と言っておられますが、そのためにも、事件が起きてしまった後でどうするかを考えるのではなく、事件が起こらないように考えるべきだと思うのです。そして、そのためには倫理と道徳が重要な役割を果たします。それも、従来のような「ルールは守りなさい」という表面的なものではなく、もっと深いものが必要だと考えます。
再度御返信頂いたことを氏に心より感謝申し上げます。
また、返信中にエロゲーの文字が見受けられないことは、これが議論の根幹にある認識問題であることであり、根源的な問題に方向性を向ける上で良い議論にあると思う次第です。
-------------
さて、No1511において氏が書かれた
>自分から「自由な人権を望まない」と思うのは、言葉の矛盾です。そう思うこと自体が自由な人権の表れだからです。
という点においてまず、これは非常に限定的な時点を捉えたのみの全体的本質を失った論理と考えます。
これはごく短期的な時間の上でも、また結果的に見ても、外部要因等によって非自由人権のもとにおかれる以上、それが希望した瞬間の時点で自由人権を保障されていたとはいっても、結果としてみれば自由人権下にあり続けるとは決していえないからです。
また、自我の確立という点でも、完全に社会性を持ち、発達心理学上、また一般論として成熟した思想を形成した上で、さらに自由な人権を望まないという例がまったくもって少なくない。
メリット、デメリットを完全に、ともすると我々が5分考えて思いつくそれよりももっと広い視点で把握している上で望む非自由人権下の生活を、あなたはそれが自らの希望でもなく、また同意もしていないと事象であると断言できるでしょうか?
我々人間というのは常に自分の理解できる範囲において、自我や自由というものについて定義付けを行いますが、もっと広い定義づけが現実的に存在するという点について視野を広げる必要があると考えます。
---------------
また、
>「精神科」という言葉を持ち出されてますから、これが一種の心の病気だということはおわかりだと思います。
のくだりにおいて、大変言葉穏やかでなく恐縮ではございますが、氏は一切の反論の余地なく認識を今日より改めねばならないと考えます。
まず心の病気である、という発言において先の引用以降続く氏の文章より判断しますと、氏が病気という定義を、いわゆる便宜的正常値から良し悪しの区別なく上下している状態事象を指す、極めて便宜的な概念において呼称される病気という名詞、という認識とは別の認識をされていると考えます。
つまり、普通、病気、の2極概念における病気という呼称です。
2極概念による正常異常の判断を行った場合、これはすべての人を正常な人ではない、正常な判断の出来る人などいないという結論に導く極めて短絡的な概念です。
これはいわゆる「中立」という概念に結びつくことですが、もしも自己という物を絶対的に形成し、強い判断力をもつという点において正常な判断とするならば、すべての人間は異常となります。
これは大小の区別なく、という生易しいものではなく、まったくもって人間の精神活動においてそのような正常の定義における自己判断力は作用していないというのが現状です。
そのうえで、広義的でない理由付けを持って病気であるという判断、また異常であるという判断は極めて軽率であるといわざるをえません。
どのようなものであれ、本当にどのようなものでも安易な定義で言う一般的な状態とは違う精神状態は誰の中にも存在します。それについて、たとえ統計学上の優劣があったとしてもそれを病気であり異常状態であるという判断はなされません。
むしろ氏の文章を借りれば、生活に支障がある事柄について、これを加害、被害の関係を認定した上で「病気」と便宜的に呼びます。
そうである以上、生活に支障がなければ病気ではない、という事が、間違いでは決してないというのが全体的視野にのっとった解釈であると考えます。
(これは精神的作用を指しての論理である以上、外科的な解釈とはまったく違うものです。また、このようにHPにおいて外部に自らの考え方を公表することは、精神学上は安易な定義の上での異常性を認められ、また今日もそれが覆ることはありませんが、ユーザー人口増加に従い、その異常性が一般に論議されることが少なくなったことは、いわゆる一般論での異常正常の定義は正しく為されていないことを分かりやすく示しています。)
病気についての定義について長くなりましたが、そういった観点から、氏が提示する「合意」についての異常性と有効性についてはこれを否定する次第です。
------------
氏の
>ある程度は外部からの判断を入れてやる必要があります
という点については同意致します。しかし、上記背景から、これを一端のみを見た上での広義的でない、限定的な定義において外部判断が形成されることを危惧しています。
もちろん、国家維持のための教育、あるいは治安維持のための啓蒙という大義の元、ある程度の限定的な視野に納めるという行為は仕方がないことであると考えますが、それが決定的な一般論に昇華するという理解のされ方は、すでに自己判断を失った状態であると考えますし、そういった安易な理論形成はある種前時代的であると考えます。(前時代の新時代のという概念論議を避けるため、これは私的感覚に基づく表現であると付け加えます。)
------------
また、氏が事実誤認とされた多数派論理について申しますと、異物排斥であるという点、無知層から形成される多数派論理について、理性的知識人層からの支持という事実に基づいて氏は否定されましたが、これこそがまったく正誤の判断を外部に託し、もっとも単純な理由において判断された安易な判断力ととらえます。
これについては理性的である、という非理性、知識人であるという非知識性についての概念を提示いたします。
理性的という概念に基づいた非経時的無論議のなかで形成された理性は、歴史によって作り出され成熟したものではありませんし、また論理に正当性が約束されるものでも、またそれぞれの人に対して非共通性も多いことは平素の生活の中で大なり小なり理解されていることと思います。
そして、理性的であろうとするほど、絶対多数派の論調に近づこうとする精神作用が長期的に見て顕著に現れます。
また知識層という根拠についても、限定的知識に基づく論理や、一般概念的な論理に基づく、広域的知識に対する絶対的無知を抱える以上、上記2点を倫理基準を根拠づける氏の理論に対し、倫理形成者の内訳に対して先日私が提示した内容はまったく相違ないと判断し、決して事実誤認ではないという証拠として示すものです。
--------------
最後の一点、
>事件が起きてしまった後でどうするかを考えるのではなく、事件が起こらないように考えるべきだと思うのです
とのくだりにおいて、これを非常に短期的な捉え方をされているのかもしれません。加害、被害の図式と被害者保護という単語において、既に起こってしまったこととして捉えられていると思いますので補足させて頂きますと、これには見込みの被害者も含まれ、つまりは発達心理にのっとった被害想定を含みます。
ですから被害想定というのは常に為されるべきであり、それは明らかに倫理や道徳によって想定される範疇を超えています。
また倫理道徳によって多くは安易に包括的な制限が為されていきますが、これが今回のような議論の発端となる。被害想定によって限定的制限を加え、いわば「ここまではいいけど、ココから先は被害者が出るからダメですよ」という明確な線引きを加えていくことは、重要なことだと思います。
もしかすると包括的制限に比べて、限定的制限は取り漏らしのある方法かもしれません。しかし、包括的制限によって現実的に得られる少ない実績とそれに伴う不調和音よりも、むしろ常に限定的制限について検討し実施するという事のほうが、これまでも、そしてこれからも変わり続ける人間の心理と倫理に対してできる有効なアプローチのように思えます。
-------------
変わり続けるという点において直接的ではない具体例を挙げれば、神を冒涜するとの倫理観からクローン技術が否定される傾向にあり、しかし一方で再生医療などの分野においてそれほどの否定傾向がないのは、どちらも神に対してのアプローチという主張には抵触するにもかかわらず、意思を持たぬ一有機物に対しての倫理観は薄いという、なんとも一貫性なく、また経時的に変化してしまう事象があります。
これについてのアプローチとして、表面的には「ルールを守りなさい」という結論に至り、しかし深く内面的には倫理観というそのものを定義しようとする作業と、それにはどうしても無理がかかるという流れをもちます。
--------------
以上の観点から判断基準としての倫理道徳の否定と言うに至っております。
また長くなっております。ご返信の際大変お手数をお掛けいたしておりますことをお詫び申し上げます。
-------------
>エリー氏
最後2文の他においては非常に同意するところでありますが、基本的に判断の根幹となる部分で別の基準を持つ論理は既に前提と結果の関係を持たないものと考えますので、同方向ではないと考えます。
-------------
追伸・加えるという文字列変換がいつも「咥える」になるのは当方の平素の行いが悪いからですか?w
また、点線にて段落をつけるということを覚えました。
まず、心の問題において、統計学的な優劣以外のものがあると考えるほうが認識不足です。
「生活に支障がなければ病気ではない」というのは、一見正しそうに見えますが、「生活に支障」という言葉をきちんと定義できないことには、これは言うことはできません。そして、これは究極的には「多数の人がそうだと思う」という理由でしか定義することのできないものです。
あなたは、「正常」「異常」の2極に分けることを問題にしていますが、私も同様に2極に分けることには問題があると思います。中間の値もあってしかるべきです。しかし、このことは、「正常」「異常」の定義とは関係がありません。
----
次に、「自由」の意味についてです。
あなたは、「自由」をどんな意味で使っていますか?
私は、「自由」を「自らの意志で行動すること」としています。たとえ他人のいいなりになって行動するとしても、それは「他人に言われたとおりに行動しよう」という意志の表れです。意志がある限りそれは自由な行動であり、意志がなくならない限り自由の放棄はできないのです。
そして、意志がなくなった状態で何を言っても、それは「同意」ではないでしょう。
----
ところで、私が「事実誤認」と言ったのは、「多数派論理が無知層から形成される」という点においてです。「多数派論理」をあなたは「多数派が正しいと言うから正しい」という意味にとらえているのではありませんか?私の言う「多数派論理」は逆で、「正しいことは多くの人が正しいと言う」という意味です。
もともと、「正しい」という言葉も、つきつめて考えればこのようにしか定義できないものです。
----
あなたは、倫理道徳を社会や被害者のためのものだと勘違いしてはいませんか?
倫理道徳は、社会のためでもなければ、人に迷惑をかけないようにするためのものでもありません。その人自身がよりよい人生を生きるためのものです。
ですから、倫理道徳が否定されて困るのは、むしろ対象となる我々です。倫理道徳は行動の制限なのではなく、行動の指針なのです。
----
最後に、もしかしたらまだ伝わっていないかもしれないので、繰り返します。
私は、規制の話はしていませんし、規制に対してはNoと言います。
似たような意見に見えて、「全く違う理由からそうなっただろう」と思ったので補足しました。