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No.1478) うわぁ・・・ kiya2014[HOME](Tue May 31 08:13:49 2005)
エロゲー嫌悪の話とかはまだ理解できたのですけど、今回追加されたコラムは最悪だなあ・・・

神様って・・・

世界についての理解については、「神様は必ず正しく判断する」なんて気持ちの悪い梯子を使うんじゃなくて、「そりゃこの世は不条理そのものだよ、それでも自分は正しく生きる」くらいのほうが、余程健全だと思うんだけどなあ。

No.1477) しらさき(Tue May 31 04:51:13 2005)
根本的なところにおける理解を促したいという理由からまたひとつ意見を。
もう長文はうんざりだという人は読まなくて良いし、おかしなことを言っていると決めてかかって読んでもらってもかまわない。断定的な口調で話を進めるが、あくまでもこれは「私の」考えである。これが一般的に言えることかどうかというのは読んだ人が自分で決めたように解釈すればよい。
−−−
まずは今までに出てきた典型的な疑問に対する回答を示す。
Q.あんな書き方をされたら普通怒ったって当然でしょう?
A.それを言ってしまうと前提が決定論の方へ傾き、自由意志を否定する方向に進むので言ってはならない。質問の意味を受け入れることは、読み手の行動が文章に支配されることを意味する。これは意思の否定に繋がり、私はロボットですと宣言することになる。決定論を受け入れるならどのようなことに対しても責任の追及は許されない。また、あらゆる行動は潜在的に無意味となる。ここで私たちが議論することも無意味となってしまうから、議論を続けるつもりなら少なくとも主観的なレベルにおいては自由意志を認めなければならない。つまり自分の行動の責任は自分でとらなければならない。あなたが気分を害する文章を読んだときにどう行動するかは自分で決めたと言わなければならない。それを言わずに文章のいいなりになることを選択するのは究極の自己否定であり、絶対にやってはならない。
−−−
Q.多くの人の目に触れる場所に公開するなら、もっと文章の書き方を気をつけるべきでは?
A.そもそもエロゲーオタクはなぜ嫌われるかというコラムが多くの人の目に留まったのはなぜか。私は他のブログなどの紹介がきっかけで読むことになった人が少なくないと予想する。もしブロガーがこのコラムを悪く評価するなら、そもそも紹介するべきではないはずだ。ブロガーたちが紹介したから多くの人の目に触れたのであり、その責任は彼らの方にも向けられるべきである。現在の状況はiwatam氏に対して一方的過ぎると感じる。そもそもこういった文書は必要とする人が読むから価値があるのであり、そうでない人が読むべきではない。そういう意味で、ほとんどの人は「来る場所を間違えた」のであり、なぜそんなことになったのかというと「ブロガーにしてやられた」が答えだ。してやられたという表現はアクが強すぎるきらいがあるが、それくらい言ってしまってもいいと私は思う。もちろん、自分の知らないことを考えるいいきっかけになったと前向きに考えるのであれば何も問題はない。
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Q.そもそも文章のレベルが低いと感じる。言葉が足りなかったり、根拠が明確でない。
A.本当にそう思うのか。まず前提として、あなたがこのコラムを自身の学習といった目的に使うつもりがないならすぐに立ち去るべきだ。次にこのコラムの読解難度について考えよう。このコラムは読みやすい。が、理解するのは難しい。そういった意味で意地悪な文章だといえる。このコラムを理解するには人間心理に関するまとまった知識が必要不可欠だ。さらに人から与えられることの喜び、与えることの喜び、人を傷つけた時の自分の心の痛み、人に傷つけられたときの心の痛み、といった感覚、心の働きを実体験に即して理解していることが重要だ。このコラムはあなたの知識や考え方、及びにあなたという人間自身を試しているのである。このコラムはいわば試験問題であり、どのような回答がなされるかによってその人のレベルや考えがわかる。不足されている要素を補ってうまい解釈を見出すことができるかが求められているのである。もう一度言うが、学習する意思がないならすぐに立ち去るべきだ。学習する意思がある人にとってはこのコラムはいい文章だ。理解の難しい問題を提供し、自分に何かが足りないと教えてくれるからだ。質問に答える。文章のレベルが低いと感じるなら、あなたはこのコラムから学べることはもうないはずだ。次の段階へ進めばよい。次に、言葉が足りなかったり、根拠が明確でないのは、あなたが思っているのとは違う意味で良いことである、ということだ。補足するが、これはあくまで「私の」考えである。iwatam氏本人はどんな理由であれ、自分のコラムを読んでくれたことを、そしてどんな内容であれゲストブックに書き込んでくれたことをうれしく思っているかもしれない。また、iwatam氏と私とではコラムの意義に対する見解はまったく異なる可能性がある。私は決してiwatam氏の代弁者ではない。
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次は私が質問を用意する。私自身の回答も用意してあるが、自分で答えを出せるようになって欲しい。
Q.自分の感覚は本当に真実を伝えてくれているのか?
A.盲目の人と、健常者。精神病者と正常な人。絶対音感を持つ人と、そうでない人。落ち込んでいる時と、いい気分の時。病気にかかっている時と健康な時。そういった時と場合の違いによって、同じ物や、同じ事象、同じ作用をどう感じ取るかは変化する。真実を伝えてくれることを期待するには、人間の感覚は不完全すぎる。さらには自身の感覚を通して見た現実がどれだけ真実に近いかを知る確実な方法はその性質上、ない。しかし、あらゆる学問が真実をうまく記述しているという事実はすなわち、現実と真摯に向き合い、自身の感覚を疑いに疑いぬいて洗練させれば真実により近いところに到達できるということだ。あらゆる学問は人間の感覚を基礎に置いている。人間の感覚は正しく鍛えれば信頼に足る道具になり得るのである。要はあらゆることを学習せよ、ということだ。自分が「それ」を知っているということは非常に重要だ。自分が「それ」を知らないということにさえ気づいていない、という領域にある真実は、それが存在しているのに無いようにしか見えないという恐ろしい事態を招く。
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やっと本題に入れる。以上をふまえてエロゲーをプレイするというのはどういうことか。エロゲーに限らずではあるが、これすなわち、自身の感覚をわざと歪めることによってひしゃげた真実を現実として楽しむ、ということだ。こういった行為はもう日常にありふれている。だからそれを悪と決めるのはどうかという意見もあるだろうが、こういった行為が「人間」が幸福に生きるのに絶対必要なものなのか。例を挙げるなら、現在も存在する原始的少数民族がこういった行為を必要とするか?答えはおそらくNOだ。その立場で考えるなら真実を歪めて受け取ることの危険性という理由でもってこれを良くないこととするのは正当だといえるはずだ。しかしながらこのことを考慮するとしても、こういった行為とともに自身の感覚が歪むことを許容できるなら、私たちの文化においてはそれが許されるべきであろう。ただ、一つ言えることはコミュニケーションには感覚の共有という側面があり、感覚を歪めることになればコミュニケーション能力は低下(というより対象が減るといった方が良いかもしれない)することになると思われる。さらにエロゲーが特別に問題とされるのはこれが性的嗜好品であるが故に意思に反して進んでそういった行為をさせる「魔力」があるからだ。人間の意思が性欲の前ではあまりにも無力であるという経験はほとんどの人にあるだろう。だからエロゲーをプレイすることに対する抑止効果が必要と考える。これがエロゲーを悪としておくべきであることの一つの答えである。実際の例で言えば、性的欲求に負けて陵辱系エロゲーで性処理をし終えたあとに、一昔前の人が自慰行為をしてしまったときに感じたような「あ〜あ、やっちゃったよ・・・」という感覚くらいは持っていて欲しいということだ。誰だってエロゲーで人生を棒に振るのは御免だろう。このちょっとしたことでエロゲーを安全に楽しめるのなら安いはずだ。次に、iwatam氏が嫌悪の対象としているのは、こういった行為を「自ら進んで」やるような人のことだと思われる。こういった人はたいてい自分の感覚が歪んでいることの、ひいては歪みが進行していっていることへの自覚が無い。感覚の歪みが良くないことだという「感覚」を信じてくれるなら、それに対する自浄作用が絶対に必要だということを理解してもらえるだろう。それを促すことができるからというのがエロゲーを悪としておくべきもう一つの理由である。
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以上。本当に長くなりました。読んでくれた人へ、お疲れ様でした。
補足ですが、ここでは謂れの無いバッシングをどう受け止め、どう対処するか等の複合する別の問題については考慮していません。あくまでも各個人が自分自身とどう向き合うべきかという点についてのみ書いています。
No.1489) ありがとうございます iwatam(Wed Jun 1 00:52:37 2005)
この意見に関しては、私からはもう何も言うことはありません。
No.1494) (no name)(Wed Jun 1 02:19:26 2005)
このしらさきさんの意見に対してきちんと反論してくださらなかったのが、残念で仕方ありません…。
結局、正しいかどうかではなく、自分に賛成か反対かがiwatamさんの判断基準だったんですね…。
これからこのサイトを訪れることはないと思いますが、今回の論争は色々なことを考えるきっかけになりました。
今までありがとうございました。
No.1497) (no name)(Wed Jun 1 03:17:06 2005)
あなたはiwatam氏が自分の意見への賛成論に対して反論しなかったことを残念に思うのか。それ本気?
そんな精神を持ってると、どこに行っても残念で仕方なくなるよ。

って、もう来ないのね……。

No.1505) そうだったんですか? 臥猫(Wed Jun 1 13:26:53 2005)
てっきりiwatamさんは、エロゲーによって人間の「感覚」が歪む危険性よりも、
エロゲーを面白いと思い、望んでしまうエロゲーオタクの「感覚」を「歪んでいる」と批判しているのだと思っていたのですが。

ところで、しらさきさんの言われる「感覚の歪み」は、

・「相手を殺したい」などの非倫理的な欲望を抱いてしまうこと
・非倫理的な虚構を現実のように楽しむことで、現実に対する感覚そのものが歪むこと

この二つを含んでいると思います。
しかしこの二つは混同しないようにしてください。

例えば僕は、エロゲーが後者の危険性を含んでいることは認めます。
エロゲーが表現しているのは主に「悪」であり、それが非倫理的な芸術性であることは充分な自覚が必要であると考えます。
ですから、自我の未発達な人間の感覚が歪まないように、年齢的な規制などの対処が必要でしょう。

しかし「非倫理的な欲望を抱いてしまうこと」を、僕は「感覚の歪み」だとは思いません。
そういった欲望は程度の差はあれ誰もが持つものであり、そういった欲望を否定することは、それこそ「感覚の歪み」だと思います。
No.1510) iwatam(Wed Jun 1 20:01:38 2005)
まず、「非倫理的な欲望」とは何でしょうか。
私は、例えば「誰でもいいから一度人を殺してみたい」は非倫理的だが、「あいつムカつく。殺してやりたい」は非倫理的ではないと考えます。その上で、私は、前者のような非倫理的な欲望は「感覚の歪み」だと思います。
それとは別に、「こうした欲望を否定する」とはどういうことなのか、考えてみてください。当然のことながら、これは「こうした欲望は存在しないとする」ということではありません。こうした欲望自体は現に存在するわけですから。
No.1515) そんな事を言っちゃって良いんですか? 臥猫(Thu Jun 2 00:25:07 2005)
> まず、「非倫理的な欲望」とは何でしょうか。

まぁ、定義するなら「現実で実行した場合、社会の倫理・道徳に反する欲望」でしょうね。


> 「誰でもいいから一度人を殺してみたい」は非倫理的だが、「あいつムカつく。殺してやりたい」は非倫理的ではないと考えます

えーと、後者のみを非倫理的ではないとした理由が本気で理解できないのですが。
倫理・道徳は、確かに簡単に定義できるものではありませんが、それにしてもこの判断は…。
ひょっとしてiwatamさんは、ご自身で理解できる欲望を倫理的、理解できない欲望を非倫理的だと思ってやいませんか?
倫理・道徳というのは、少なくとも貴方のフィーリングだけで決めて良いものではないのですが。

とりあえず、「あいつムカつく。殺してやりたい」を非倫理的ではないと判断したポイントを知りたいのですが、
次の中で、iwatamさんが非倫理的だと判断するものはどれですか?

「あいつムカつく。犯してやりたい」
「あいつムカつく。妄想の中で犯してやった」
「あいつを愛してる。だから殺してやりたい」
「病気で苦しんでるあの人を、殺して楽にしてあげた」
No.1517) 理解できないですか? iwatam(Thu Jun 2 02:46:04 2005)
「あいつムカつく。殺してやりたい」が本当に非倫理的なら、忠臣蔵はここまで人気は出ないし吉良上野介もここまで悪役にはされないと思いますよ。
理由のある殺人は、その理由によっては正当化されます。そして、理由というのは程度問題であり比較問題ですから、簡単に「非倫理的」と決め付けてしまうことはできません。
4つの例の中では、1つだけ、理由と行動がつながっているものがあります。それだけは非倫理的ではないと私は考えます。
No.1533) 一つ質問させてください 鳥人(Thu Jun 2 23:33:20 2005)
コラム:ゲームとリアリティ
でFull Spectrum Warrior というゲームの事が書いてありました。このゲームをプレイしてiwatamさんは、
「面白い」と思ったんですよね。

戦争とはいえ、人を殺しまくって「面白い」と感じることは、果たして倫理的にどうなんでしょうか?
No.1534) iwatam(Fri Jun 3 01:15:12 2005)
「人を殺しまくったことを」面白いと言っているのではないことは、あのコラムを読んでいればわかると思います。
それから、すぐ上で「人を殺すことすべてが非倫理的ではない」とも言っています。
この2つのことから、答えは明らかだと思うのですが、いかがでしょうか?
No.1537) 臥猫(Fri Jun 3 06:15:39 2005)
少々意地悪な質問でしたが、iwatamさんが非倫理的でないと判断したのは
「病気で苦しんでるあの人を、殺して楽にしてあげた」で宜しいんですかね。

まぁ、承知の上で答えてくださったのだろうとは思いますが、その答えは現実の社会において、
ほとんどの場合、iwatamさんの主張とは全く逆に非倫理的、つまり「悪」と判断されます。
ここで指摘しておきたいのは、社会の倫理と個人の倫理の間には、埋めようのない溝があるということです。
人間が社会の倫理に適応しているという事は、自らの「感覚」が正常であることの証明にはなりません。
むしろ社会の倫理に適応する為に、誰もが自らの「感覚」を歪めて生きていると考えた方が自然です。


で、忠臣蔵ですが。

忠臣蔵における「殺し」が倫理的に「見える」のは、吉良を殺すことに正当性を持たせることで、
「殺し」の持つ非倫理性を徹底的にスポイルしているからなんですが。
現実において、倫理的な「理由」が非倫理的な「殺し」を帳消しにするわけではありません。
もっとも法的には帳消しになるケースもあるでしょうが、法を守ってれば何をやっても良いわけじゃないんですよね?
っていうかiwatamさんは、虚構の中で行われる「悪」に無自覚になることを批判してたんじゃなかったでしたっけ?

「普通の人間は、たとえ相手が悪人だろうと、相手を殺すことで目的を達成しようなんて出来るはずがない。
忠臣蔵を楽しいと思ってしまう人間は、現実においても、ムカつく相手なら平気で殺せる感覚の歪んだ人間である」

とかいって、忠臣蔵を楽しんでる老若男女を批判しなくて良いんですか?
さらに付け加えるなら、時代劇において殺陣の爽快感が魅力の一つであることは明らかだと思いますがね。
50人斬り、100人斬りといった言葉が謳い文句になり、人を斬るシーンに派手な効果音や血飛沫が加えられる。
それらが「人を殺す面白さ」を演出しているのは、貴方がいくら否定しようと事実なんですが。

ちなみに、それらの批判に対して僕は忠臣蔵をこう擁護します。

「虚構の中の吉良上野介は、ヒトであって人じゃない。
視聴者は『善でありたい』という欲望を、忠臣蔵という物語によって解消しているだけであり、
その際、殺すことの非倫理性や、殺す相手への共感能力は一時的に脇に追いやられているに過ぎない。
だから虚構に対して現実の倫理・道徳を突き付けて、『虚構とはいえ殺しを肯定するとは何事だ!』
などと非難するのは馬鹿のやることである」

そして何度も言ってる事ですが、僕は「悪でありたい」という欲望を満たす為の不健全な芸術性にも意義があると思います。
No.1544) iwatam(Fri Jun 3 19:09:27 2005)
あなたが「現実の社会において非倫理的とされると思っていること」が、実際に社会で非倫理的とされることと食い違っているのですよ。
普通の人は、社会の倫理と個人の倫理は一致していて、わざわざ感覚を歪めなくても普通に生きていけるのです。あなたが歪んでいるからそう思うだけでしょう。
そして、普通の人は現実と空想をまったく別のものだとは思っていません。
私が批判していないことを擁護するのは勝手ですが、一人相撲だということだけは認識してください。
No.1555) 臥猫(Sat Jun 4 00:41:29 2005)
>私が批判していないことを擁護するのは勝手ですが、一人相撲だということだけは認識してください。

これは公開された掲示板での議論です。
僕は貴方と相撲を取ってるのではなくて、貴方の意見と相撲を取ってるのです。
だから貴方に伝わらなくても、貴方と同じ意見の人に伝われば良い。

社会の倫理というのは、そうやって少しずつ変化していくのです。

No.1576) ずれてますね iwatam(Sun Jun 5 10:46:06 2005)
今回の話は、私が言ってもいないことを勝手に「私が言っている」と勘違いしているから一人相撲だと言っているんです。
公開されているかどうかは関係ありません。
No.1618) 臥猫(Mon Jun 6 02:43:45 2005)
貴方の理屈だと、忠臣蔵も批判の対象ですよ?

……という皮肉だったんですが、伝わらない人には伝わらないようです。
まぁ、こちらで合わせますよ。

No.1547) 鳥人(Fri Jun 3 19:31:32 2005)
「面白い」と感じたのは事実なんでしょう?そう思えるのは
ゲームの中で自分が色々操作する中で、敵兵士が死んでも罪悪感が沸かないからじゃないんですか?
人を殺しまくったことが「面白い」のではないのかもしれません。しかし、ゲームの中で人を殺すことには
何の抵抗もないのではありませんか?

>すぐ上で「人を殺すことすべてが非倫理的ではない」とも言っています。
これは戦場ではどれだけ人を殺しても、倫理的に問題は無い、ということでしょうか?
No.1548) iwatam(Fri Jun 3 21:00:59 2005)
その通りです。戦場では人を殺しても英雄です。
No.1554) 鳥人(Sat Jun 4 00:29:30 2005)
それは殺人を無理やり正当化しているだけでしょう。そう思い込まないと、とても平静を保てないほど
戦争というのは非倫理的で残酷なことだと思います。
No.1577) いいえ、違います iwatam(Sun Jun 5 10:56:13 2005)
あなたがそう思い込んでいるということはわかりましたから、その主張はもう結構です。
あなたが何を言おうと、現実に正当なものであり、あなたの思い込みの方がずれているということに変わりはありません。
No.1583) くある(Sun Jun 5 13:39:28 2005)
「あいつムカつく。殺してやりたい」って、社会で非倫理的とされることなんでしょうか?
うーん、私の知る限り、「ムカつく」とかいう感情レベルだけの理由で殺人を犯した人に関して、殺人が正当化されて無罪放免になったような事例は知らないのですがー。
大なり小なりちゃんと刑罰くらっているようなんですがー。
------
私なんかは判例は社会の倫理の一基準と出来るのではないかと思っているのですがー。
(盲目的に信じるわけではありませんけども)
------
こうなると、Iwatamさんが「現実の社会において非倫理的とされると思っていること」が、
実際に社会で非倫理的とされることと食い違っているような気がします。
Iwatamさんが歪んでいるからなのかしら?
------
もちろん、「裁判所が絶対に社会の倫理の決定機関だ」なんていうつもりもありませんので、なにか代わりにそのようなものがあるかどうか、お聞きしたいですー。
No.1593) iwatam(Sun Jun 5 15:15:22 2005)
私の言う「非倫理的」とは、裁判所で罪になるかどうかという話ではありません。倫理というのはルールではなく、ルールの根底にあるものです。
「ムカつく」というのは単なる感情レベルのことではありません。必ず「ムカつく」理由があるはずです。問題があるとしたら、その理由が問題か、あるいは理由もないのに勝手に人に「ムカつく」ことです。
現在の日本では、殺人以外の方法でいくらでも問題解決の方法があるため、殺人は正当化されません。しかし、現在の社会体制になければ、殺人が正当化されることもあるでしょう。
「今の日本で殺人は許されるか」という答えはNoですが、「どんな社会でも殺人は許されないか」という質問の答えも、Noでしょう。
「どんな社会でも許されないことはあるか」という質問を考えてみてください。それに私はYesと答えますし、それこそが倫理であると思っています。
No.1601) (no name)(Sun Jun 5 18:32:04 2005)
あなたが個人的にそう思っていることは否定しない。
問題はあなたがその個人的価値観を普遍的なものと思い込み、それに異を唱える者を見下すことだ。
No.1607) iwatam(Sun Jun 5 23:01:37 2005)
問題は、勝手に「見下されている」と思うことです。
No.1623) (no name)(Mon Jun 6 16:35:02 2005)
わかってないね。
あなた自身は見下しているつもりはないのかもしれない。
しかしあなたの発言は「見下している」と取られても仕方のない、というか普通は「見下している」と解釈される表現をしているって事。
極端なたとえだが、自分は真剣に謝っているつもりでもニヤニヤ笑いながら「わりーわりー」じゃ、相手は「馬鹿にされている」と感じるだろう。
それを指摘されて「こちらは真剣に謝っているんだ。馬鹿にされたと感じるほうが間違っている」は通らないんだよ。
No.1602) 鳥人(Sun Jun 5 19:41:36 2005)
戦争で人が人を殺すことは確かに仕方のない事でしょう。しかしだからと言って、倫理的に正しい事だとは
言えません。
「戦争では人を殺しても英雄だ」と本気で、心の底から思える人ははっきり言って異常です。
前のレスでも書きましたが、そう思い込まないと平静を保てないだけです。

あなたの思っている「現実」というのは、戦場に行ったことすらないミリタリーオタクの妄想の中の
「現実」です。
No.1603) おや iwatam(Sun Jun 5 20:05:10 2005)
「仕方がない」ということは、倫理的に正しいということだと思いますが。
倫理的に正しくないとは、いかなる場合であっても否定されるべきということです。
No.1604) 鳥人(Sun Jun 5 20:43:16 2005)
倫理的に正しくないことだと分かっていても、やらねばならない事もあります。
「仕方がない」と思ったことを全部「倫理的に正しい」ことにしてしまったら、
世の中のあらゆる物事が「倫理的に正しく」なってしまいます。
No.1617) 臥猫(Mon Jun 6 02:38:07 2005)
有名な「カルネアデスの板」ってやつですな。
ですが論点がずれてます。



エロゲーマーは、エロゲーの女の子に対して、
「傷つけたら可哀相だ」などの倫理的・道徳的な感情を持たない。
だから現実の女の子に対しても、そういった感情を持たない。(はずだ)
なぜなら、人間の虚構への態度は現実と変わらないからだ。

↑ iwatam氏の主張

↓ 反論

多くの人間は、ゲームの戦争において敵兵を躊躇わずに殺せるだろう。
だがそういう人間の全てが、現実の戦争において敵兵を平気で殺せるわけではない。
なぜなら、虚構は「想像」であり、現実は「体験」だからだ。


虚構の人間の命が、現実の人間と同じ重さを持ってるわけないでしょうが。
No.1627) キット(Mon Jun 6 20:05:47 2005)
>多くの人間は、ゲームの戦争において敵兵を躊躇わずに殺せるだろう。
>だがそういう人間の全てが、現実の戦争において敵兵を平気で殺せるわけではない。
>なぜなら、虚構は「想像」であり、現実は「体験」だからだ。

>虚構の人間の命が、現実の人間と同じ重さを持ってるわけないでしょうが。

この文の中の「ゲーム」がシミュレーションウォーゲームを、「人間」がそのゲームのプレイヤーを指しているのなら、誤りです。

ゲームの規模により肩書きは隊長から将軍までとさまざまですが、プレイヤーの立場は、いわば戦争遂行組織の中間管理職です。その立場で自分の陣営にもっとも有利なことは何かを考え、プレイするのです。

ウォーゲームは現実の戦争の再現や、起きたかもしれない可能性を追求するためのシステムです。現実の戦争がそうであるなら、殺傷より捕虜の方が高得点を獲得できるようにシステム化されます。

現実の軍が敵兵をどのように扱うかを間違えているゲームシステムや、上層部の意向を無視したプレイヤーでは、もはやシミュレーションとは言えず、妄想となってしまいます。

No.1634) 臥猫(Tue Jun 7 02:11:42 2005)
別にシミュレーションじゃなくても、アクションゲームでもガンシューティングでも何でも良いんですけど。
っていうか、虚構の中で人を殺すのと同じ軽さで、現実で人を殺せますか? という話なんですけど。
No.1636) キット(Tue Jun 7 12:54:07 2005)
レス元(No.1533)がコラム「ゲームとリアリティ」を受けていたので、そう思いました。失礼いたしました。

現実で「小学生の女の子に性的なイタズラをしている所を見かけたら」、そして、犯人を無力化する手段が他に無ければ、躊躇せずに犯人を殺すことを考え、実行します。

虚構で、人間狩りや虐殺が主題のゲームが目の前にあったら、そもそもそのゲームをプレイしようとは思いません。

No.1638) 鳥人(Tue Jun 7 19:48:49 2005)
>キットさん

FPSだろうがRTSだろうが、戦場で兵士を操って敵を殲滅するゲームであることに違いはありません。
やっていることは、本質的に変わらないと思います。

>現実で〜〜、実行します。
多分あなたは、正義感の強い人だと思います。しかしこれはいけません。実行したら間違いなく
犯罪者になってしまいます。
それに相手がどんなに鬼畜な人間でも、殺してしまったら永遠にその記憶は消えません。一生苦しみ
続けることになるでしょう。

虚構で人を虐殺できる人間よりも、現実で「正当な理由」さえあれば人を殺しても、倫理的に
何の問題もないと思っている人間の方が、問題があると私は思います。
No.1639) キット(Tue Jun 7 21:58:18 2005)
私も殺人が良いことだとは思っていません。おっしゃるとおり、殺してしまったら犯罪者ですし、その記憶を死ぬまで背負うことになるでしょう。しかし躊躇した結果、女の子を助けられなかったら、そちらの記憶を背負うほうがもっと嫌です。もちろん、殺人以外に犯人を効果的に無力化できる方策があるのなら、そちらを選択します。

数十人を惨殺して逃亡し指名手配されている犯人を見つけたら、通報するのが普通でしょう。これは、その犯人が自然死できる可能性を減らし、犯人を死刑にする、すなわち殺す手助けをすることになりますが、そんな考えでためらう人はいません。死刑は公的殺人です。みもふたもない言い方ですが、社会全体がムカついたから死刑にするんです。

戦争も同様に悪いことです。ですが、もし私が1940年のヨーロッパにタイムスリップしたら、ユダヤ人たちに「ヒトラーは本気だぞ。ナチスドイツは本当に君たち民族を根絶やしにしようとしているぞ」と説得し、選択肢が他に無ければ、武器を持たせ、戦うように勧めます。その方が何百万人も虐殺されるよりマシだからです。そのような背景をもつゲームがあったなら、私はためらいません。

個人的には、人を殺めることに関して、虚構と現実の区別はつけていません。殺人は悪いことですし、嫌いです。しかしながら、もっと悪い事態を避けるためにはためらわない、ということです。

No.1642) くだらない 臥猫(Wed Jun 8 04:39:42 2005)
貴方はガンシューティングなどで、間違って民間人を殺してしまったときなどにも
責任を感じてトラウマとか引きずったりするわけですか?

ガンシューティングは、「絶対に誰も傷つかない」という前提があるからこそ、安心して人に向けて銃を撃てるのです。
言い換えれば、「相手は虚構である」という感覚が、ゲームにおける「殺人」という行為を、
それを意識させない娯楽にまで引き下げるのです。

逆に、虚構に過ぎない演習なども、実戦さながらの緊張感を持って挑めば、
間違って民間人を撃ってしまったときに、現実に近い責任感を感じることもあるかもしれません。
それは「相手は生身の人間である」という感覚が、虚構を実戦に近い位まで引き上げたということなのです。

違い、判ります?

キットさんは、戦争ゲームだろうとエロゲーだろうと、常に「相手は生身の人間である」という感覚で挑んでいるのかもしれません。
ちょっと僕には信じがたい感覚ですが、まぁ、そういう人もいるのでしょう。

No.1645) キット(Wed Jun 8 20:34:14 2005)
確認ですが、いくら撃っても弾が減らない銃や、たとえ減っても0.3秒で装填できる銃や、同じシーンでまったく同じタイミングで現れる敵や、銃弾の雨の中を無傷で潜り抜ける足捌きができる主人公が出てくるゲームの話ですか?

私が前提としているのは、銃弾が足を貫通すれば移動できず、手なら銃を持ち上げられず、腹なら重症で動けず、頭なら即死する主人公が出てくるゲームです。長時間激しく動いたなら、疲労で状況把握や判断能力が鈍り、動作も緩慢になる兵士ししかおらず、数十倍の敵を前にしたら、逃げたり隠れたり降伏できるゲームです。

某国軍の教練用に採用された教材の、元となったゲームも所有しております。PCであろうが空砲を用いた屋外であろうが、演習であることに変わりはなく、真摯に取り組むのは言うまでもありません。

恐れも慈悲も疲労も痛みも知らない、人間の形をした「何か」に対しては、虚構の「人間」とは別の感覚を覚えます。

補足です。私はいわゆるガンシューティングはやりません。やるのはターン制のウォーシミュレーションです。どちらにしろ、主人公を含め、登場する人々は生身の人間として扱いますし、ゲームにも生身の人間の挙動を期待します。加えて、私は現実の自分と主人公を同一視しているわけではありません。私は、私が主人公と同じ技能・立場だったら、こうするだろうという指示を出しているにすぎません。現在のゲームではこの壁を越えることはできませんから、間違って民間人を殺してしまったときに感じるトラウマは、ゲームと現実とでは別のものになるでしょう。

No.1646) もまえら(Wed Jun 8 21:56:24 2005)
くだらん煽りあいは止めろよ
No.1647) 鳥人(Wed Jun 8 22:21:07 2005)
>私も殺人が〜〜そちらを選択します。
人を助けられなかった苦しみというのは、非常に大きいと思います。しかしながら、
人を殺してしまった苦しみの方が遥かに大きいと私は思います。
ゲームや映画の中のヒーローは、悪人を殺しても平気な顔をしていられますが、現実の
人間はそんなに強くありません。

>数十人を惨殺して〜〜人はいません。
そんな殺人犯がうろうろしていたら危険極まりないから、警察に捕まえてもらうために
通報するのです。その犯人が死刑になるかどうかは余り関係ないと思います。
別に日本に死刑制度が無くても、通報するのが当然ですよね。

>死刑は公的殺人〜〜死刑にするんです。
法律に詳しいわけではありませんが、死刑というのは犯人の更生の見込みが無いから、あるいは
社会的な責任が非常に大きいから、最終手段として用いられるものだと思います。
社会全体がムカついたから・・・というのはちょっと違うと思います。

>戦争も同様に悪いことです。〜〜私はためらいません。
歴史にifはないので、そういう事を考えても仕方がないと思いますが・・。
もしも未来が全て見通せたら、戦争以外の選択肢がいくらでも見つかるので、戦争なんて
起こらないのではないかと思います。(あくまで私の妄想ですが)

>個人的には、〜〜つけていません。
先月からのエロゲ議論の中で、虚構の楽しみ方に人によって個人差があることに気がつきました。
大きく二つに分けると

・どんな馬鹿げた虚構でも面白ければ楽しめるというタイプ
・虚構とは言え、倫理やルール、物語の整合性などが完璧にそろっていなければ楽しめないタイプ

両者は虚構に対して求めるものが違うだけで、優劣がつけられる物ではないと思います。
しかし後者から見ると、前者は時として異常な人間に見えてしまうようですが・・・。
価値観の違いを分かって頂きたいと思います。

>殺人は悪いことですし、〜〜ということです。
世の中、「殺す」という選択肢しかない事なんて、ほとんどないと私は思います。
性犯罪者の例を上げれば、殺すまでもありません、警察に通報した後、大声を出して助けを
求めましょう。「近くに人がいる」と分かった時点で、9割の性犯罪者は一目散に逃げ出します。
それでもまだ止めない馬鹿には、思いっきり金的を食らわせて上げましょう。
No.1587) (no name)(Sun Jun 5 14:23:20 2005)
戦場での殺人が倫理的に問題ないのなら、ハーグ陸戦協定なんてのは無意味になってしまうのだが。
No.1595) iwatam(Sun Jun 5 15:38:08 2005)
倫理面以外で問題がいろいろあるから、意味があるのでしょう。
No.1476) iwatamの主張を全肯定すると (no name)(Tue May 31 02:55:50 2005)
こうなってしまうのですが。

 オタクはコミュニケーション能力の無い人間→iwatam氏の言う一般人にこのゲストブックを見せてもiwatam氏には能力が無いように見える、変わった人だと。

変わってる人間はオタクと主張してる→じゃぁ2つ共要件満たしてるからiwatam氏もオタクじゃん。

オタクはエロゲーマー→じゃぁiwatam氏もエロゲーマーだね。

どう考えても支離滅裂なんですが…。

ちなみに一般人の定義はエロゲをしない、陵辱等に嫌悪を持っている人でした。

No.1470) 自分の快楽のために少女を犠牲にするのは妥当 サトー(Mon May 30 23:43:29 2005)
「コラム:なぜエロゲーオタクは嫌われるか」では、「人をモノとしてしか見られないこと」が(心の)問題だとしています。
しかし、自分の快楽のために他人(例えば少女)を犠牲にすることは、まさしく利己的ですから妥当なはずです。
(※「コラム:利己主義のすすめ」で、iwatamさんは利己的であることを勧めています。)
 
これではiwatamさんは、利己主義を否定するか、「エロゲーは悪」論の根拠を否定するかのどちらかになります。
No.1474) 臥猫(Tue May 31 01:13:15 2005)
あんまりiwatamさんの弁護などしたくはないのですが、それは「コラム:利己主義のすすめ」を曲解しすぎでしょう。

というか、エロゲーオタクが利己主義で少女を犠牲にできるかのような言い方をされると困ります。
No.1487) 刑罰は、快楽を得るための“料金”。 サトー(Wed Jun 1 00:14:38 2005)
曲解?自分の快楽を満たす道具として、他者を犠牲にするのは利己的なことでしょう。(少なくとも利他的とは考えづらいです。)iwatamさんが利己主義を勧めるなら、当然このような考え方も勧めることになるはずです。
 
もちろん実行すれば刑罰などの応報を受けることになりますが、「コラム:利己主義のすすめ」でiwatamさんは『自己への危険性が許容範囲内ならOK』という感じのことを言ってます。ですから、少女を犠牲にすることに対する応報は、快楽を得るための料金のようなものと見なせます。受ける応報(懲役など)が「高すぎる、割に合わない」と思うならやめればいいし、「それくらいなら払ってもいい」と思うなら実行すればいい、となります。
 
iwatamさんの考えに沿えば、「エロゲーオタクは利己主義者である」というのは非難ではありません。
世間一般の“良識ある”人達にとっては違うかもしれませんが。
 
No.1469) コラム Latte(Mon May 30 23:25:57 2005)
このコラムを見て思ったことを・・
あなたは、自分が正しいと思い込みすぎではないでしょうか?
何故人の話に耳を傾けないのでしょうか?

「女の子に首輪をつけて「ご主人様」と呼ばせるとうれしく感じる、その感情が良くないと言っているのだ。」とありますが、確かにこの感情がいいものとは思えない、しかし、ではもし道に傷ついた動物がいるとし、その傷ついた動物を周りの人たちは、汚い・臭い・危ないと罵ります。しかし、あなたは可哀想だと思いました。あなたは、悪ですか?感情とは自分で意識して作れますか?

「正常な人間の感情」とはなんでしょう?多数派ですか?それとも健全な心の持ち主達でしょうか?では、「健全」とは、誰が決めたことですか?

乱文で、すみませんが一意見として捉えてもらえれば幸いです

No.1488) 自分で考えてみてください iwatam(Wed Jun 1 00:22:14 2005)
そういう問いをしたなら、自分で考えて、自分で結論を出してみてください。
No.1438) ふーむ・・・ 神波(Mon May 30 10:18:52 2005)
皆さんのように文章が上手くはありませんので大変恐縮ですが大変氏のコラムに興味を持ちましたので一言。
基本的にエロゲーとその周辺の異常性について、加害とそれに伴う被害があることを認定し、また心理的な異常性、正常性についての議論の方向性を持っていて、またように見受けられますが、後者が根本的に間違っているように思えます。
これを議論するうちは、いわゆる文化そのものを否定することに他ならない。なぜなら、異常性をまったく持たない文化などないからです。
非常に包括的で大雑把な論理と受け取られかねませんが、これが、自分と係わり合いのないエロゲーだのフィギア族だのを槍玉に挙げているうちは特に問題もないのですが、ドラマや映画、音楽と、それに伴って発達する心理の重大な異常性を言及していくと、賛否の地図がガラリと変わってしまいます。
確かにエロゲーは問題点を形成してしまいやすいテーマであるとは思います。
しかし人間の判断、意思決定の何を正常とするのかは非常に難しい問題です。またそれは倫理や道徳から決定されるものではないと考えます。これは、その倫理や道徳すら、絶対的な基準になりえない流動的なものであるからです。
悪く言えば、加害と被害の絶対的な関係から来る嫌悪や排斥でまず異常性を認められ、そこから理由を見つけ出されるという、まったく順序の逆な議論が為されているといってもいいと思います。

あぁ。やっぱり文字書くの苦手だよ。もう一点。

冒頭に挙げたうちの前者、加害と被害の関係を認定し、そして法規制とか、氏のコラムの言葉を借りれば最終的には法律に違反しなければ何をやってもよいかという論議になっていくのだと思いますが、これも非常に流動的な基準であって根拠として決定的ではないと考えます。まず法律の、ルールの解釈がまったく統一的ではない。そもそもがあやふやに形成された基準である以上、コレを論理の根幹としておくに至らないというのが私の考えです。
これは平素法律に携る職の人間なら分かって頂けると思います。ただし地元で細々と相手をしている類の法務なら分からないと思いますので、少なくとも県境を越えて仕事をしている方ならば。(この根拠こそ倫理、道徳の非絶対性の表れなのですが)

あーやっぱり苦手。しゃべるのなら大丈夫なんだけどなぁ。手紙も書いたことないもんなぁ(笑)
どうも流動的な基準を元にイイの悪いのという浮いた話をしていらっしゃるようで、そういうことを言おうと思ったのですよ。
駄文にて失礼致しました。

No.1447) なんとなく分かります エリー(Mon May 30 14:27:52 2005)
 「嫌われる理由」なんてあってないようなものなんだから、「自分は嫌われていない」と言ってしまえば終わりだと思います。
---
 私はエロゲー愛好者ではありませんが、自分を成熟した人間だとは思っていません。
 もし「未熟だから嫌われる」と言われたなら、「あなたが私を嫌いでも、私は私が好きだ」と答えます。そして「いくら他人に好かれても、自分が自分を嫌いなら嫌だ」と続けます。最後に「未熟だからどうしたの? 成熟しないと決めないで」と反論する。
---
 「好き・嫌い」だけではなく、「良い・悪い」も同じことが言えると思います。「何故嫌なのか?」「何が嫌なのか?」という互いの価値観を知ることには興味がありますが、「どちらが正しいか」には興味がありません。「どちらも納得出来る妥協点」を探す方がいいと思う。
---
 その上で、自分の希望を出すしかないと思うのです。なぜなら、自分が考えていることは他人には分からないからです。
No.1459) 倫理・道徳の話 iwatam(Mon May 30 20:19:41 2005)
まず、私は、倫理や道徳には、ある種の絶対的な基準になりえるものが存在すると思っています。そうした、絶対的な基準である「倫理」「道徳」は、人間が普遍的に認めることができるものであり、逆にすべての人間が認めているという理由付けしかできないものです。しかし、残念ながら、現実世界では例外はつきものであり、本当に「すべての人間が認める倫理」はおそらく存在しないでしょう。だからといって「存在しない」と言うのではなく、「ほとんどの人間が認める」というところで手を打つ必要があります。
少なくとも私は、加害/被害という関係は無視して考えています。「被害があるから」問題なのではなく、そもそも考え方が倫理・道徳に反している、と言っているのです。そして、倫理・道徳を持ち出さないと、この手の話はできません。だからといってしなくていいかというと、そういうわけにもいきません。
「倫理・道徳」は、存在しないのではなく、単にそれは有限の言葉で言い表すことができないだけだという解釈です。とすると、正確に言い表せない限り存在しないというのではなく、どこかあいまいなままで何かを言う必要が出てきます。あいまいでないものは理論の上でしか存在しないのです。
なお、繰り返しになりますが、この話は規制の話とはまったく別の話です。
No.1472) いい加減にして欲しい 臥猫(Tue May 31 00:57:27 2005)
それは守るべき倫理や道徳の話でしょう?
それがなぜ、「エロゲーオタクは人とモノの区別がつかない」などという偏見と繋がるのですか?

文化や芸術というものは必ずしも倫理や道徳に縛られるのものじゃありません。
パンクなんかは良い例でしょう。

貴方は、貴方の愛する文化や芸術の健全さを微塵も疑っていないからこそ、
そうやって他人の愛する文化や芸術を平気で否定できるのです。
ですが、それがどれだけ傲慢なことだか少しは自覚してください。

格闘ゲームにはまる人間は、他人に暴力をふるえる人間ですか?
サバイバルゲームに興じる人間は、戦場に行っても戦える人間ですか?
TRPGでヒトを殺せる人間は、現実で人を殺せる人間ですか?

馬鹿馬鹿しい、そんなはずはないでしょう。

貴方はSFやTRPGを趣味に持つことで、謂れのない偏見を受けて悔しい思いをしたことはないのですか?
他人を殴りつけながら、自分だけは正しいかのような態度の人間は最低です。
No.1492) iwatam(Wed Jun 1 01:07:05 2005)
> 貴方はSFやTRPGを趣味に持つことで、謂れのない偏見を受けて悔しい思いをしたことはないのですか?
ありませんね。
本当にいわれのない偏見なら、悔しいとは思いませんから。
No.1543) (no name)(Fri Jun 3 18:48:55 2005)
>本当にいわれのない偏見なら、悔しいとは思いませんから。

この辺が一般人とあなたの違いだな。
普通の人は謂れのない偏見を受けることこそが悔しいんだよ。
何故ならその偏見を持つ人とのコミュニケーションの障害となるからだ。
謂れのない偏見を受けても悔しくないのは、他人なんかどうでもいいと思っている人くらいじゃないかな。

No.1500) 神波(Wed Jun 1 07:49:08 2005)
氏が御返信下さったことに心より感謝を申し上げると共に、再度こちらに書かせて頂くことをお許し下さい。
エリー氏の発言、平素自分が志している点は似通った点もありましたので、首を縦に何度も振りました次第です。
どんな趣味を持っていても、結局は自分の向かうところにしか行かない。しかし人間の集合の中に生きる以上、その中での妥協点とも言うべき、別の趣味趣向をもつ集団への入り込み方というのが必要になると考えます。
これは非常に私的な考えではありますが、またエロゲーに限らずの事ですが、趣味趣向自体にいいの悪いのというよりは、そして、理解してもらうような努力といったことよりも、むしろ徹底的に成熟し、趣味についても「まぁそれはそれとして」と言ってもらえる努力を常にするべきという考えです。
私的な考えと留めるべきは、誰しもがその努力を出来るわけではない上、その成熟という基準についてももちろん曖昧な為です。
しかしそういった姿勢は老若男女すべてにおいて不足していると考えています。
なにオタがキモいだの、そう言った物言いは一面としてはそういう後退的な面を指すものと考えています。

また、No1459において頂いた氏の発言について大変恐縮ではありますが申し上げます。
倫理、道徳の例外を認めた上で、例えば90パーセントのデッドラインをもって認められうる絶対的基準を提示なさった。これは非常に現実的かつ理性的な判断をされていると思います。
しかし議論に対しての倫理、道徳の必要性はあるとおっしゃる点については、これを承服できかねております。

かなり話題が跳躍しますが、先日少女に首輪をつけ監禁した東京都足立区の男性が逮捕されたのは記憶に新しいと思います。
パトカーの中でステキなジャージを着ていらっしゃった王子こと例の事件ですが。これに対しておそらく、一般的倫理道徳に照らし合わせてみて、どこに非難が集中するかは既に周知のことと思います。
しかし本当に件の事件と、それに類似する過去の、そしてこれからの事件について非難されるべきは、容疑者がその行為について同意を得られる適切なパートナーの選択を誤ったことにおいて他にないと私は考えます。
具体的な例で、極めて限定的な話を持ち出すことはあまり上手い事とは思えませんが他にどう表現しようもないので記しますが、例えば昨今の女性自立の風潮にのっとり、自由な人権を認めてくれる男性を望むよりは、束縛されたい、それが仮に異常なものつまりはDVに近い、あるいは限度を超えた物、それこそ首輪に至っても、それを望むという女性人口は決して少なくはありません。
まぁそれを生活に、あるいは社会的に支障があるという理由で精神科にかかる方はいても、それを反倫理に対する恐れからかかる人はほとんどいません。
何が言いたいかと申しますと、件の王子が適切なパートナーと巡り合っていた場合、もちろん事件性はなく倫理や道徳についての非難からも開放されていたという点です。年端も行かない少女に、というよりはその行為の異常性、非倫理性について声が大きかったことに対して、これは倫理、道徳の流動性について再考すべき点と考えます。
これは例外として認定される案件というよりも、事情によりその倫理道徳の是非のパーセンテージがひっくりかえる具体例と考え、それは安易に一事象を指しての議論の際、普遍的倫理道徳を基準とすることに(もちろん氏の言う認定式をとったうえでも)重大な流動性と非絶対性を提示するものと考えます。

(もちろん少女だったという点において将来性や未発達について指摘されるかもしれませんが、どのみち成人女性に対して同じ事件をおこしても同じ論風だったと考えますし、それはエロゲーの登場人物が未成年か成年かと同じくらいどうでもよいことと考えます。また、児童ポルノについての論議に発展することは、これは発達心理学の範疇にありまた別の根拠となりますので、現時点ではエロゲーという包括的なテーマについての文章とします。)

逆に言えば、適切なパートナーの選択を誤った点においては氏がコミュニケーションの不足云々と記載されるくだりに近い内容にも取られる方がいらっしゃるかもしれませんが、私は若干違う意味で申し上げておりまして、むしろコミュニケーション能力と言うのは大小関わらずというよりも、むしろ人間すべてにおいて、これが不足しています。
発達過程において人間が収集していく情報に基づいて人格と行動原理が形成されるわけですが、エロゲーをしている人がしていない人よりそのコミュニケーション能力を著しく欠如しているとはとても考えられません。
安易に言えば一般人とオタク層にどれほどの違いがあるのか、興味の対象は違えど、別種の主義、趣向に対する閉鎖性も同種の主義趣向に対する同和性も、ほとんどといっていいほど違いはない。
常にこういった議論にコミュニケーション能力という単語が入り込むことは、実に我々人間の平素行う集団性を棚に上げていて滑稽でなりません。

むしろこう考えます。
例えば昨今際立ってきたDVについても、過去無言のうちに容認されてきたものが現在では重大な犯罪行為と認定されるのは、流動してしまった倫理道徳を基準にすえて非倫理道徳として非難するよりも、むしろ被害としての概念が定着し、また認定されるようになったという事象の経過に注目して、ある意味氏が否定なさった被害の認定について基準を据えるべきと考えます。
今現在目の前にある事柄についての議論なら暫定的な倫理道徳で十分事足りますが、それを個人であれ法であれ主張として広く示す場合、これを決定的な根拠において提示する必要があります。
その点では加害と被害の認定という絶対的な図式によって議論されるのも一方法ではないでしょうか。

私は倫理道徳の形成の過程、そしてそれを乱用する安易さに非常に危惧しております。
倫理道徳の形成の過程で、氏のご返信の言葉を揚げ足取りのつもりでなく引用するならば、ほとんどの人間が認めるという点において既に多数派論理であり、その多数派とはいかなる国家においてもいかなる集団においても、決して理性的でも中立的でもないという事、これこそが最も問題となる点です。多くは庶民層、耳聞こえが悪いことを承知ではありますが、彼らは一般に低所得であり、低学歴であり、十分な判断力と情報力を持たず確固たる意思決定もしない層です。
これは、倫理面での議論をするよりも、むしろ被害者保護の観点において議論されるべきとするに十分な理由ではないでしょうか。
むしろ、被害に対する制裁や規制ありき、倫理道徳などについて持ち出さないストイックさこそ必要だと考えます。
そうでなくては、まったくただの異物排斥の構図と変わらない。人間意識の負の普遍と思います。

まったく氏の考え方と逆方向に行っているのかもしれませんが今回も書かせて頂きました。よろしければご一読頂ければ光栄です。
長い文章にて大変申し訳ありませんでした。

No.1506) 補足させて下さい エリー(Wed Jun 1 15:06:51 2005)
 No.1447の投稿は、「神波さんが言いたいこと」を想像した内容です。私自身が思っていることなので、嘘ではありませんが続きがあります。
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 私は自分が成長すると思っているので、iwatamさんに「私は成長する。未熟と言う言葉を訂正しろ」とは要求しません。iwatamさん自身も「自分にも未熟な一面はある」と言っています。「成長する・しない」は時間が経たなければ結果は出ません。自分で自分を「信じるか・信じないか」の問題だと思います。
 議論の場合、「未熟=確信が持てない部分」だと思います。だから、訂正を求めるのではなく、自分が疑問に思ったことを質問しました。別の投稿で「未熟=言動の不一致」という私の意見について、iwatamさんの意見を求めています。
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 私は「客観的であろうとする場合は根拠を問題にする」「主観で話す場合には希望を問題にする」と考えています。だから「二つのアプローチを共存させる為、立場を明らかにした上で根拠を述べる」というスタンスをとっています。
 女の私が、「もし男だったら?」と考えたところで、結局は想像でしかありません。想像することは理解の助けにはなるけれど、最終的には本人に聞く以外にないと考えています。
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 他人に対してそうである以上、「自分の意見は自分で言うしかない」と考えます。私があなたに聞くしかないように、あなたも私に聞くしかないと思うからです。それを聞かずに話を進められると不快になるし、言ってくれなくても不快になります。
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 神波さんがおっしゃるように、合意が得られていないから「監禁=犯罪」ですが、同意を得ていれば似たような行為をしているSMは「趣味扱い」です。
 「そう望む」という主観を否定することは出来ないし、裁く権利はないと思います。たまたま「私自身の好みは他人に迷惑がかからない程度のものだった」というだけの話です。
 しかし迷惑を迷惑のまま放置しておく訳にもいきません。「ここまでは認めるが、これ以上は許せない」というルールが必要になると思います。こちらの意向を尋ねることなく、「そのうち好きになるに違いない」などと思われては困ります。監禁されてからでは遅いからです。
---
 「監禁は駄目」という社会全体として形成されているルールがあれば、「同意しない限り監禁されないだろう」となります。「90%の人が考えること=社会ルール」を知ることで、「少数派である自分の希望をどう実現すれば良いか決められるようになる」と思います。だから私は「監禁してみたい」「監禁したらどうなるか?」という気持をゲームで解決するのは良い方法だと思います。
 「私は望まない」と言った時、相手が信じて辞めてくれれば私は問題を感じません。「ゲームを辞めたいのに辞められない」と言う問題が残っていますが、その人自身の問題であって「社会問題ではない」と判断します。
 「社会ルール」と「個人対個人で決めたルール」が異なる場合、「変わった趣味」と言われるのだと思います。
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 「ルールについて合意を得る」為には、他人の考えを知る必要があります。
 神波さんがおっしゃるように、この過程で「人の意見なんて聞きたくない」「自分の気持ちをうまく言えない」という問題があります。
 この問題を話し合う為に、コラムでは「iwatamはこう考える」と断定調で意見を書かれたのだと考えています。「共通認識を作る為のたたき台」であって、「全員の合意を得ていること」と言いたい訳ではないと考えます。
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 以上から、「iwatamさんのコラム」は「神波さんの書かれた投稿が前提となっている」と判断します。逆方向に行っている訳ではないと思います。
 神波さん、iwatamさん、ご本人の意見を聞かせていただけませんか?
No.1511) iwatam(Wed Jun 1 21:05:25 2005)
自分から「自由な人権を望まない」と思うのは、言葉の矛盾です。そう思うこと自体が自由な人権の表れだからです。
「自我」というキーワードで話を書きましたが、「自由な人権を望まない」というのは自我が確立していないからであり、従ってこれは「自分で望んだ」とは言えません。それは本当の意味での「同意」ではありません。
「精神科」という言葉を持ち出されてますから、これが一種の心の病気だということはおわかりだと思います。その人が精神科へ行かなければ病気ではないということはなく、生活に支障がなければ病気ではないということでもありません。こういう人は往々にして、自己判断が間違っていて、自分で「生活に支障がない」と思っていること自体が間違いだったりします。心の病気は、自己というものが危うくなり、判断力自体が弱まる病気ですから、そうした人の行いは「その人の意志に基づく」とはいえないのです。
つまり、正常な人ならとうてい望まないようなことを望むという時点でそれは正常な判断ができない人だということであり、正常な判断ができない人の「合意」は何の意味もないということです。そういうわけですから、いくら合意に基づいていても、異常は異常なのです。
人間は常に自分が思ったことを言えるわけではありませんし、自分が思ったと主張することが本当に自分が思ったことであるという保証もありません。ですから、その人が本当に思ったことは何なのかをその人の主張だけで決めるのは問題です。人間は時には自分の望まない考えを持ってしまうという事実を心に留めて、ある程度は外部からの判断を入れてやる必要があります。
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「多数派論理に基づくこうした倫理基準は低学歴の無知な層が支持している」というのは、事実誤認だと思います。おそらく中立ではありませんが(「中立」という言葉が何を指すのかがわかりませんが)、少なくとも理性的であり、知識人と呼ばれる多くの人に支持されています。これを単なる異物排斥だと言って否定するのは、物事を単純化しすぎです。異物排斥はたまには悪いこともありますが、多くの場合、それは良いことです。あまりにも当たり前すぎて、それが異物排斥であると気づいていないだけです。
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あなたは「被害者保護の観点で議論されるべき」と言っておられますが、そのためにも、事件が起きてしまった後でどうするかを考えるのではなく、事件が起こらないように考えるべきだと思うのです。そして、そのためには倫理と道徳が重要な役割を果たします。それも、従来のような「ルールは守りなさい」という表面的なものではなく、もっと深いものが必要だと考えます。
No.1521) 神波(Thu Jun 2 04:43:29 2005)
再度御返信頂いたことを氏に心より感謝申し上げます。
また、返信中にエロゲーの文字が見受けられないことは、これが議論の根幹にある認識問題であることであり、根源的な問題に方向性を向ける上で良い議論にあると思う次第です。
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さて、No1511において氏が書かれた
>自分から「自由な人権を望まない」と思うのは、言葉の矛盾です。そう思うこと自体が自由な人権の表れだからです。
という点においてまず、これは非常に限定的な時点を捉えたのみの全体的本質を失った論理と考えます。
これはごく短期的な時間の上でも、また結果的に見ても、外部要因等によって非自由人権のもとにおかれる以上、それが希望した瞬間の時点で自由人権を保障されていたとはいっても、結果としてみれば自由人権下にあり続けるとは決していえないからです。
また、自我の確立という点でも、完全に社会性を持ち、発達心理学上、また一般論として成熟した思想を形成した上で、さらに自由な人権を望まないという例がまったくもって少なくない。
メリット、デメリットを完全に、ともすると我々が5分考えて思いつくそれよりももっと広い視点で把握している上で望む非自由人権下の生活を、あなたはそれが自らの希望でもなく、また同意もしていないと事象であると断言できるでしょうか?
我々人間というのは常に自分の理解できる範囲において、自我や自由というものについて定義付けを行いますが、もっと広い定義づけが現実的に存在するという点について視野を広げる必要があると考えます。
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また、
>「精神科」という言葉を持ち出されてますから、これが一種の心の病気だということはおわかりだと思います。
のくだりにおいて、大変言葉穏やかでなく恐縮ではございますが、氏は一切の反論の余地なく認識を今日より改めねばならないと考えます。
まず心の病気である、という発言において先の引用以降続く氏の文章より判断しますと、氏が病気という定義を、いわゆる便宜的正常値から良し悪しの区別なく上下している状態事象を指す、極めて便宜的な概念において呼称される病気という名詞、という認識とは別の認識をされていると考えます。
つまり、普通、病気、の2極概念における病気という呼称です。
2極概念による正常異常の判断を行った場合、これはすべての人を正常な人ではない、正常な判断の出来る人などいないという結論に導く極めて短絡的な概念です。
これはいわゆる「中立」という概念に結びつくことですが、もしも自己という物を絶対的に形成し、強い判断力をもつという点において正常な判断とするならば、すべての人間は異常となります。
これは大小の区別なく、という生易しいものではなく、まったくもって人間の精神活動においてそのような正常の定義における自己判断力は作用していないというのが現状です。
そのうえで、広義的でない理由付けを持って病気であるという判断、また異常であるという判断は極めて軽率であるといわざるをえません。
どのようなものであれ、本当にどのようなものでも安易な定義で言う一般的な状態とは違う精神状態は誰の中にも存在します。それについて、たとえ統計学上の優劣があったとしてもそれを病気であり異常状態であるという判断はなされません。
むしろ氏の文章を借りれば、生活に支障がある事柄について、これを加害、被害の関係を認定した上で「病気」と便宜的に呼びます。
そうである以上、生活に支障がなければ病気ではない、という事が、間違いでは決してないというのが全体的視野にのっとった解釈であると考えます。
(これは精神的作用を指しての論理である以上、外科的な解釈とはまったく違うものです。また、このようにHPにおいて外部に自らの考え方を公表することは、精神学上は安易な定義の上での異常性を認められ、また今日もそれが覆ることはありませんが、ユーザー人口増加に従い、その異常性が一般に論議されることが少なくなったことは、いわゆる一般論での異常正常の定義は正しく為されていないことを分かりやすく示しています。)
病気についての定義について長くなりましたが、そういった観点から、氏が提示する「合意」についての異常性と有効性についてはこれを否定する次第です。
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氏の
>ある程度は外部からの判断を入れてやる必要があります
という点については同意致します。しかし、上記背景から、これを一端のみを見た上での広義的でない、限定的な定義において外部判断が形成されることを危惧しています。
もちろん、国家維持のための教育、あるいは治安維持のための啓蒙という大義の元、ある程度の限定的な視野に納めるという行為は仕方がないことであると考えますが、それが決定的な一般論に昇華するという理解のされ方は、すでに自己判断を失った状態であると考えますし、そういった安易な理論形成はある種前時代的であると考えます。(前時代の新時代のという概念論議を避けるため、これは私的感覚に基づく表現であると付け加えます。)
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また、氏が事実誤認とされた多数派論理について申しますと、異物排斥であるという点、無知層から形成される多数派論理について、理性的知識人層からの支持という事実に基づいて氏は否定されましたが、これこそがまったく正誤の判断を外部に託し、もっとも単純な理由において判断された安易な判断力ととらえます。
これについては理性的である、という非理性、知識人であるという非知識性についての概念を提示いたします。
理性的という概念に基づいた非経時的無論議のなかで形成された理性は、歴史によって作り出され成熟したものではありませんし、また論理に正当性が約束されるものでも、またそれぞれの人に対して非共通性も多いことは平素の生活の中で大なり小なり理解されていることと思います。
そして、理性的であろうとするほど、絶対多数派の論調に近づこうとする精神作用が長期的に見て顕著に現れます。
また知識層という根拠についても、限定的知識に基づく論理や、一般概念的な論理に基づく、広域的知識に対する絶対的無知を抱える以上、上記2点を倫理基準を根拠づける氏の理論に対し、倫理形成者の内訳に対して先日私が提示した内容はまったく相違ないと判断し、決して事実誤認ではないという証拠として示すものです。
--------------
最後の一点、
>事件が起きてしまった後でどうするかを考えるのではなく、事件が起こらないように考えるべきだと思うのです
とのくだりにおいて、これを非常に短期的な捉え方をされているのかもしれません。加害、被害の図式と被害者保護という単語において、既に起こってしまったこととして捉えられていると思いますので補足させて頂きますと、これには見込みの被害者も含まれ、つまりは発達心理にのっとった被害想定を含みます。
ですから被害想定というのは常に為されるべきであり、それは明らかに倫理や道徳によって想定される範疇を超えています。
また倫理道徳によって多くは安易に包括的な制限が為されていきますが、これが今回のような議論の発端となる。被害想定によって限定的制限を加え、いわば「ここまではいいけど、ココから先は被害者が出るからダメですよ」という明確な線引きを加えていくことは、重要なことだと思います。
もしかすると包括的制限に比べて、限定的制限は取り漏らしのある方法かもしれません。しかし、包括的制限によって現実的に得られる少ない実績とそれに伴う不調和音よりも、むしろ常に限定的制限について検討し実施するという事のほうが、これまでも、そしてこれからも変わり続ける人間の心理と倫理に対してできる有効なアプローチのように思えます。
-------------
変わり続けるという点において直接的ではない具体例を挙げれば、神を冒涜するとの倫理観からクローン技術が否定される傾向にあり、しかし一方で再生医療などの分野においてそれほどの否定傾向がないのは、どちらも神に対してのアプローチという主張には抵触するにもかかわらず、意思を持たぬ一有機物に対しての倫理観は薄いという、なんとも一貫性なく、また経時的に変化してしまう事象があります。
これについてのアプローチとして、表面的には「ルールを守りなさい」という結論に至り、しかし深く内面的には倫理観というそのものを定義しようとする作業と、それにはどうしても無理がかかるという流れをもちます。
--------------
以上の観点から判断基準としての倫理道徳の否定と言うに至っております。
また長くなっております。ご返信の際大変お手数をお掛けいたしておりますことをお詫び申し上げます。
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>エリー氏
最後2文の他においては非常に同意するところでありますが、基本的に判断の根幹となる部分で別の基準を持つ論理は既に前提と結果の関係を持たないものと考えますので、同方向ではないと考えます。
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追伸・加えるという文字列変換がいつも「咥える」になるのは当方の平素の行いが悪いからですか?w
また、点線にて段落をつけるということを覚えました。
No.1529) iwatam(Thu Jun 2 19:35:18 2005)
まず、心の問題において、統計学的な優劣以外のものがあると考えるほうが認識不足です。
「生活に支障がなければ病気ではない」というのは、一見正しそうに見えますが、「生活に支障」という言葉をきちんと定義できないことには、これは言うことはできません。そして、これは究極的には「多数の人がそうだと思う」という理由でしか定義することのできないものです。
あなたは、「正常」「異常」の2極に分けることを問題にしていますが、私も同様に2極に分けることには問題があると思います。中間の値もあってしかるべきです。しかし、このことは、「正常」「異常」の定義とは関係がありません。
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次に、「自由」の意味についてです。
あなたは、「自由」をどんな意味で使っていますか?
私は、「自由」を「自らの意志で行動すること」としています。たとえ他人のいいなりになって行動するとしても、それは「他人に言われたとおりに行動しよう」という意志の表れです。意志がある限りそれは自由な行動であり、意志がなくならない限り自由の放棄はできないのです。
そして、意志がなくなった状態で何を言っても、それは「同意」ではないでしょう。
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ところで、私が「事実誤認」と言ったのは、「多数派論理が無知層から形成される」という点においてです。「多数派論理」をあなたは「多数派が正しいと言うから正しい」という意味にとらえているのではありませんか?私の言う「多数派論理」は逆で、「正しいことは多くの人が正しいと言う」という意味です。
もともと、「正しい」という言葉も、つきつめて考えればこのようにしか定義できないものです。
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あなたは、倫理道徳を社会や被害者のためのものだと勘違いしてはいませんか?
倫理道徳は、社会のためでもなければ、人に迷惑をかけないようにするためのものでもありません。その人自身がよりよい人生を生きるためのものです。
ですから、倫理道徳が否定されて困るのは、むしろ対象となる我々です。倫理道徳は行動の制限なのではなく、行動の指針なのです。
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最後に、もしかしたらまだ伝わっていないかもしれないので、繰り返します。
私は、規制の話はしていませんし、規制に対してはNoと言います。
No.1542) 私は同方向だと考えています エリー(Fri Jun 3 16:45:46 2005)
 似たような意見に見えて、「全く違う理由からそうなっただろう」と思ったので補足しました。
No.1428) ビット(Sun May 29 23:47:51 2005)
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