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No.1746) 初めまして (no name)(Fri Jul 1 22:48:12 2005)
初めまして。iwatam様。匿名にて失礼します。
いつもコラムを楽しく拝見させていただいています。

さて。この度書き込ませていただいたのは、iwatam様のオタク関連のコラムを拝見していて少々個人的な疑問がわいたからでした。

その疑問というのは、iwatam様の個人的な部分に触れてしまうのですが、以下のようなものです。

<質問>
・ずいぶんとつまびらかにオタク(マニア)関連の批評をなさっていますが、 iwatam様は実際にマニア(ないしはオタク)と、世間一般でカテゴライズ されるような人物なのでしょうか(つまりコラム内で語られている
 オタクやマニアの行動(歴史)を実体験として経てきたのでしょうか)。

ということです。要するに、経験者が書いたのか否かを個人的に知りたいなー……ということです(それによって、私個人としてのコラムに対する評価(視点)ががらりと変わってきますので)。

もちろん、著者の個人的来歴はコラムの内容とは、まるで関わりがないではないかという場合は、お答えいただかなくとも結構です。

それでは、唐突かつ不躾な初書き込みとなってしまいましたが、此度は
これにて失礼いたします。

あ、ちなみに私はオタクです(とは言ってもオタクの世界をあまり知らない人間なので、iwatam様のコラムに教えられる部分も多かったのですが)。

No.1754) 少し迷いましたが回答 iwatam(Sat Jul 2 23:35:27 2005)
まず、「著者の個人的来歴はコラムの内容とはまるで関わりがない」と言っておきます。書いた人がどんな人かがわかったところで、書いてある内容が変わるわけではありません。そういうことでコラムの評価や視点を変えて欲しくはありません。
しかし、あるコラムの内容を自分なりに評価した上で、もっとよく考えるために、著者の個人的な来歴が助けになること否定はしません。
ここでは、私が多少なりとも実感できる対象について、その実感を自分の言葉で書いているとだけ言っておきます。それ以上の個人的なことが知りたいのであれば、具体的な質問をメール(捨てメアドでも何でもいいので)でもでしていただければ、お答えできるかもしれません。
No.1761) ご回答ありがとうございました。 (no name)(Sun Jul 3 08:32:24 2005)
こんにちは、iwatam様。初めましての匿名者、No.1746の人間です。
この度は、ご丁寧にご回答をありがとうございました。

No.1746の質問は、ぶっちゃけ「あなたは、マニア(もしくはオタク)ですか」と聞いているので、我ながら「失礼な質問をしてしまったかな。答えてもらえなくても当然かな」と思っていたので、こうしてお答えいただけたことは、望外の喜びです。

それでえっと、私が(プロフィールから察する以上にはっきりした)著者来歴をちょっと知りたいな、と思ったのは、たとえば海外のすぐれたSF小説やノンフィクション作品に触れた際に、著書の中で展開されている知識(や見識、価値観)などに感心した後、さらに納得(あるいは賞賛)するための心理だったりします(つまり、自分では及びもつかないような発想や、知識に触れられると「なぜこの人は、こんなに博識なんだろう。……ああ、複数の博士号を持ってる(勉強した)人が(もしくは過去に外交官を歴任したとか、世界中を旅したなどの過去があって)書いているんだ。だからこんなにも厚みのある知識や描写、観察力が展開されているんだな」ということです)。

私も、書いた人間が誰であれ、「正しいことは正しい」と主張する人の気持ちは分かります。ですが、同時に人間はやはり発言にはそれにふさわしい発言者の背景を無意識に求めるものだと思っています(たとえは悪いですが、たとえば連続殺人犯が(一般的に述べられている)人道や正義について語った(他人に対してこうしなければならないと説教した)としても、ほとんどの人は聞く耳を持たないと想像できるのと一緒です)。

特に経験を重視する人、もしくは経験からしか語らない人からすれば、経験もないのに語ること自体が笑止な限りであり、その分析力や思考力には感心すれど「ああ、経験してない(やったことない)のに書いてるのね」と一笑にふされる(あるいは割り引いて考えられる)のがオチではないでしょうか(「まあ、言いたい奴には言いたいことを言わせておけ」(相手しないけど)という心理と一緒です)。

長くなってしまいましたが、要するに私個人がより深くiwatam様のコラムに感心したいがゆえにさせていただいた質問だったのでした。

お答えいただいた内容は、想定の範囲内といえばいえるのですが、これ以上立ち入ったことをお伺いするのも失礼かと思いますので、この度はこれにて失礼させていただきます。

ほんとうにありがとうございました。

それでは、これからも楽しくコラムを執筆なされてください。
影ながらご期待申し上げています。

No.1771) iwatam(Mon Jul 4 00:21:53 2005)
人は、経験したからこそ詳しく見えることもあれば、逆に、その中にはまってしまっている人にはかえって見えないこともあります。だから、経験していないことを書く人を笑っていると、大事なことを見落としてしまう可能性があります。特に、自分も同じところにはまっていると、そういう傾向が高くなってしまいます。
だからこそ、著者からいったん切り離して、内容だけを読んで考えるべきです。そしてその内容がたいしたことがないと思ったならゴミに捨てればいいわけですし、たいしたものだと思ったら今度は著者とつなげて考えるべきです。
もちろん、いったんたいしたものだと思ったものを、著者来歴を知ったとたんゴミに捨てることが良くないのは言うまでもありません。
No.1773) えっと…… No.1746(Mon Jul 4 20:10:59 2005)
 ええ。そうですね。全般的には、妥当な意見だと思います。

 確かに、何らかの情報を得て判断することも決断することも、自分自身の責任(能力)においてなされなければならないでしょう(iwatam様のコラムやここの返信に「自分の言葉で」という一言が付け加えられているところから、「何事も自分の頭で考えて答えを出してください」のようなiwatam様の考え方は伺えます(それ自身は、正論だと思いますけど))。

 でもまあそれとはべつに、私個人の考え方として、「どんな価値観も情報も、処理する知性(能力)の器を越えることはできない」というのがあります。器は訓練次第である程度は深さや広さを増すことができるのでしょうが、正直なところ他者の考えを一〇〇パーセント理解できない(もしくは共感できない)のと一緒で、一定の限界があると思ってます(そうでなければ、誰もがアインシュタインやモーツァルト(は適切じゃないかな)にだってなれているはずですから)。

 で、自分の知性を越える価値観や見識、知識を提示された場合、何によってそれらの情報の妥当性を判断するかということになるのですが、まあその手段の一つとして「経験」があるものだと、私は思っています(それの対極にあるのが「想像力」でしょうけど)。

 経験がないことを書くのであれば、その妥当性を証明するために、他人の「経験」を借りてくる必要がでてくるでしょう。他人の経験とは、その人とかわした会話(意見ないしは視点)であったり、その人の著作であったりするわけです。

 一般的な意見から申し上げれば、たとえ他人の経験(つまりは著作中の言葉や内容)であっても、それを自分の頭で考え、咀嚼した時点でそれは自分の言葉(もしくは知性)になるといわれるでしょうが、他人へ提示する場合はほんとうにそれだけでよいのでしょうか。

 確かに「自分の言葉」にはなるかもしれません。しかし能力を超えた部分は、どうなるのでしょう。欠落はしないでしょうか。矮小化されてはいないでしょうか。

 それらを総合的に判断するためには、著作の内容に対してどこからどこまでが著者自身の言葉で、どこからどこまでが他人の経験からのアレンジであるか見極める必要が出てきます。

 著者自身の言葉は、その人の経験(見聞きしたこと、あるいは行動したこと)が(基本的に)もとになっていると思いますので、(自然な読者の感情として)まあ大きな誤りはない(またはそういったこともあったのだな)と判断できます(無批判に全面肯定する行為は、かなり危険ではありますが、それはまたべつの話、ということで)。ただ問題は、重ねて申し上げるとおり、(他者の経験としての)著者の言葉です。

 著者来歴や資料名の提示などは、読者がそれらを総合的に判断するために必要な情報ではないかと、私などは思っています(もちろん必須ではないですし、それはむしろ著者の良心的な部分からくるといえばいえるのですが(公的な著作に関しては、基本的に必須ですけど))。

 でもまあ、長々と書いてしまいましたが、私自身上で述べた内容で、著者来歴や提示された資料などをいちいち当たったりすることが少ないのですけど(つまり総合的な判断を言うほど下してはいません)。あればあったで安心ていどの心づもりなのです。

 だからダメもとでiwatam様にお伺いを立ててみたのです。

 あ、それから、たしかに著者来歴によって失望したからといって、感心した意見のすべてを捨てることはないと思います。ただし、感情的な反発はまぬかれないでしょうね(人間の自然な心情として)。

 昔から西洋の哲学では、感情の上に理性を置こうと四苦八苦してきましたが、未だ多くの人間は人間足り得ず、動物レベルなのかも……知れませんね(もっとも、哲学者の言う前提を肯定すれば、の話ですが)。

 またまた長文にて返信をしてしまいましたが、お返事をありがとうございました。それでは今宵は失礼させていただきます。

No.1783) iwatam(Wed Jul 6 01:45:11 2005)
特にどうだというわけではありませんが、面白い話なので続けます。
自分の知性を超える価値観や見識、知識を提示された場合、その妥当性を判断する必要はなく、単に放置しておけばいいでしょう。こういったものの目的が「理解」にあるとすれば、自分が理解できない見識は意味のないものです。自分が理解できるようになるまで置いておけばいいのです。
自分の理解に頼らず、正しさの基準を他人に依存してしまうことは大変危険です。
私が変に思うのは、私の言ったことの妥当性を証明するもの(=来歴)を、なぜ「私に」尋ねるのかです。私が来歴を述べたとしても、今度はその妥当性が問題になります。そして、たとえ来歴が正しかったとしても、それは内容が正しい証明にはなり得ません。こんなあやふやなものに妥当性の判断をまかせるくらいなら、自分で判断したほうがずっとマシです。
「自分の経験」も同じで、人は自分で経験したことを客観的に見ることはできません。自分の経験であっても、能力を超えた部分は欠落し矮小化するのです。
私は著作を理解するのに著者の研究をするのは良くないと言っているのではありません。しかし、これは理解度を高めるためにするものであって、理解しないままその妥当性を判断するためのものであってはなりません。騙すほうにしてみれば、そういう人がもっとも騙しやすいのです。
No.1789) うーんと……。 No.1746(Thu Jul 7 01:11:34 2005)
 こんばんは、iwatam様。毎回お返事をありがとうございます。

 うーん……でもなんといおうか、iwatam様のお考えは、一つの価値観として承っておきますが、お返事を拝見していて自分以外の他人を基本的には信用なさらない方なのかな、という印象を強く持ちました(私も大抵、猜疑心は強いですけど)。

 妥当性を判断するということは、「まあ概ね正しいだろう」と結論づけることで、それは言い換えると発言者を信頼するということにほかなりません。

 安易に信頼することは、確かに危険ですが「まあ概ね正しいだろう」と結論づけるのに、個人の経験が説得力を持つのは、それが実際に行われてきたことだから、という一点につきます(その点で、自分自身の経験が矮小化されていようが欠落していようが関係ありません。なぜならば基本的にその人が「見てきたことだけ」を語ることになるからです(重ねて申し上げる通り、矮小化と欠落が問題になるのは「他人の」経験を自分流にアレンジして語ることです))。

「安易に他人を信じちゃいけないよ」というのは、人生訓としては確かに間違ってはいないと思いますが、一方で社会システム(人間関係)は基本的に(他人への)信頼性をベースに構築されていると思います。ですので、理解できないことまたは、経験していない(できない)こと(の情報)に遭遇した場合、すべては自分自身で行えない(確認できない)以上、他人が何をやってきたかを知ることによってその人の発言を信頼するというのは、べつだん特異な考え方ではないと思うのですが、いかがでしょうか(そうでなければ、そもそもマスコミ(今では信頼性は低いですが)という職業も、学者という職業もほか、大抵の職業は成り立ちません)。

 むろん、安易な思考停止におちいる危険や、それは全面的な他人への依存であって、自分で判断していることにはならない、などの反論が成り立つことは、充分に承知しております。「科学者は基本的に自分の目で見て確認したこと以外信じてはならない」といった訓戒もあることも承知しています(実際、科学では他人が追試を行い証明するまで、どんな優れた学説でも仮説にしかすぎませんが)。ですが可能性ばかりを言い立てて、「危険だから信じない」「わからないから必要ない」では、穴蔵の中に閉じこもって一人で一生をすごすことと同じような気がするのは、気のせいでしょうか(騙されるくらいならそっちの方がマシだろう、というのであればもはや何もいいませんけど)。

 ちなみに、私がiwatam様ご本人にご自身の来歴をお伺いしたのは、単純に「自分のことは自分が一番よく知る」という一般通念からであり、またiwatam様の数々のコラムを拝見していて感心すると同時に、教育のことを雄弁に語っていらした際、「教育者ではないですよ」という一言があったからです(それでは、マニア(オタク)のことはどうなのでしょうか、という疑問です(むろん、HP上のプロフィール自体は拝見しているので、勝手な推測はしていますがあくまでも私的推測ですので、ご本人自身から(より確実な)なんらかの裏付けがとれれば、その方がましかなというていどです)。

「騙すほうにしてみれば、そういう人がもっとも騙しやすい」のであれば、いくらでも偽りを語ればいいです。ただし嘘がばれた場合は、次からは信頼もしないし、相手もしなくなる、それだけのことですから。

 以上のようなところでしょうか。正直なところ議論はあまりやったことも、やろうとも思っていないので矛盾点があったり見苦しかったりするところも多々あるかも知れませんが、ご指摘ないしはご容赦いただけましたら幸いです。

 それでは長々となりましたが、これにて失礼します。おつき合いくださいましてありがとうございました。

No.1790) iwatam(Thu Jul 7 01:38:43 2005)
「正しいかどうか」というのはどうでもいいのです。問題は「分かるか分からないか」なのです。
だから、すべてのことをとりあえず受け入れていろいろ考えてみて、それがどうしてもつじつまが合わなければ、どこが間違っていたんだろうと考えればいいのです。で、自分の中でその答えが出たのであれば、元の文章が正しかろうが間違っていようがどうでもよく、自分が出した答えこそが自分の得たものです。
つまり、その文章が信頼できるかどうかというのはどうでもいいことなのです。とにかく全部読んで、自分の中で答えが出せればそれでいいのですから。
No.1796) shiono(Fri Jul 8 17:15:10 2005)
質問者さんは、「書かれた文章を読む」ことと「人間関係を構築する」ことを混同しているような気がします。僕は、書かれた言葉がどれだけ自分の心に響くかがすべてだと思います。賛同であっても否定であっても、その文章によって心が動いたのであれば、それは自分にとって有益だった、と。でもこのトピックも掘り下げると深いですね。
No.1797) 書かないつもりでしたけど…… No.1746(Fri Jul 8 20:30:53 2005)
 こんばんは、No.1746です。ほんとう議論とか好きではないですし、お手をわずらわせるのも何だと思っていたので、もう書かないつもりでしたが、ちょっとだけ。

 実をいうと私が問題にしているのは、「文章内容の信頼性」だったりします(客観視できるか否か、人間関係を構築するとかは、まるで関係ないです)。

 ある「事実」を元にした文章の場合、その内容を(あるていど)信頼(実際にあったことと判断)するためには、その文章のどこからどこまでが、著作者自身の経験で、どこからどこまでが他人の経験(言葉など)からの引用か、見極める必要があると思うので、質問させていただいただけのことです(べつに厳密である必要はないです。ただおおざっぱでも、他人の経験の部分がわかるのであれば、なにかで調べた際より豊かに内容を把握(つまりは理解)できるかな、と思っただけで)。

 まあでも、コラムページの注意書きや、今回のiwatam様の書き込みを拝見していて、そもそもの前提が違っていたことに気づかせていただきました。要は「(内容が)間違っていようがいまいが、自分の言葉で言いたいことを書いているだけ」なのかな、と。そして「読者はそれについて勝手に考え判断してください」、と(iwatam様は必ずしも「事実」を伝えたいわけではないらしいのだな、と(思い違いの場合はすみません))。

 確かに、著者の内情を知らなくても、何かを感じる言葉、内容はあります(私も大抵は、その場における文章の内容のみで考え、判断してます)。ただ、色々考えて自分なりの結論を出すためには、著者の立場や周囲の状況、その人柄に由来する物の見方がわかれば、より深くなるのではないか、と勝手に考えているだけで(まあ、こんなネット上の不特定多数が見る場に書く方が、どうかしているのですけど)。

 印象を悪くするかも知れませんけれど、私は自分のことを「観察者」だと思っています。他人の言葉も、(私自身を含めた)すべての事象も私にとっては観察する対象にしかすぎません(逆に他人から観察されたとしてもべつにどうこういうつもりはありません)。

 なのでより深く把握したいがゆえに、させていただいた質問ということで、お許しいただけましたら幸いです。

 それでは、ほんとうに失礼しました。これにて最後にさせていただきます。

No.1742) 確信犯について はるゆき(Fri Jul 1 21:36:16 2005)
「政治的・宗教的」という言葉は「など」があるから重要ではない、というのはかなり乱暴な理屈ではありませんか? これは「トラやライオンなどの歯は牙というんだよ」と言われて「トラやライオンはあまり重要ではない。ウサギやリスの歯も牙と呼んでいい」というのと同じくらいおかしいと思います。「政治的・宗教的」という部分には確信犯がどのような場合に使われるのかを示す重要な意味があるのです。
ライブドアの売名行為は確信犯か?・・・これはやはり誤用でしょう。確信犯とはそもそも崇高な動機に基づいて行われた犯罪を減刑しようという文脈から出てきたものですから、私利私欲のためではなく「世のため人のため」になると考えられるものでなくてはなりません。本人が「個人が私利私欲に走ることで結局は世の中がよくなるのだ」という正義を信じている可能性もありますが、確信犯を認定するのはあくまで裁く側ですから、あまりにも特殊な理屈は考慮されないと思われます。
No.1744) iwatam(Fri Jul 1 23:30:50 2005)
「など」があるから、これは例であって定義ではないと言っているのです。政治的・宗教的なものが確信犯だと言われるのは、「政治的・宗教的だから」という理由ではなく、「本人が正しいと信じているから」という理由だからです。
あなたの例を見てもわかると思います。あなたの例でいう「トラ」「ライオン」は、象に生えているのが牙なのかどうかを考えるのに役に立ちません。「象はトラでもライオンでもないしまったく似てもいないから、象に生えているのは牙ではない」というのはおかしいのです。(なお、あなたがそう言っているという意味ではありません。)
「崇高な動機」とは、本人が「崇高だ」と思えば何だって本人にとって崇高な動機になります。それは、あなたも認めているところでしょう。
裁く側は、それが本当に崇高な動機なのか、それとも崇高な動機だと言い張っているだけで本当は本人も崇高だと思っていないのかを見分けようとします。本人が主張することをそのまま正しいとするわけではないから、特殊な理屈は考慮されないのです。これは、「本当に崇高な動機であっても考慮されない」とはまた違います。
No.1764) はるゆき(Sun Jul 3 19:03:48 2005)
まず、「政治的・宗教的だから」という理由ではなく、「本人が正しいと信じているから」・・・という部分ですが、私が言っているのは何故「政治的・宗教的」という理由があげられているのか?ということです。ここには「崇高な動機である」という意味が含まれています。確かに例に過ぎないですから、ニュアンス的なものではありますが、単に「本人が正しいと信じているから」だけでは定義として不十分だと言っているのです。
なんだって本人が「崇高だ」と思えば崇高である、は確かにそうですが、「崇高だ」と判定するのは本人ではなくあくまで裁く側です。
「本当に崇高な動機」なのか「崇高な動機だと言い張っているだけで本当は本人も崇高だと思っていない」のかの2パターンだけではなく、「本人は崇高な動機だと本気で信じているようだが、客観的には崇高な動機とは認められない」というパターンもありえます。
「法律に触れることを知らない場合、犯罪とは呼ばない」についてですが、「むささび・もま事件」はご存知ないですか? この事例では「事実の錯誤」であれば無罪だが「法律の不知」にあたるので有罪、という判決が下されています。
No.1765) iwatam(Sun Jul 3 20:50:36 2005)
きっと、「たぬき・むじな事件」はご存知ですね。
この2つの違いはどこにあると思いますか?
No.1736) (no name)(Fri Jul 1 05:30:09 2005)
おたくの本来の意味ということで、当時は下のリンク先で説明されているような意味で言葉が使われていたのが普通だったとおもいます。
他にも調べれば色々出てくるかもですが。

ちょっとコラムで説明されているものとは違う意味合いで使われているので違和感を持ちましたのでご紹介しました。

http://www.burikko.net/people/otaku.html

No.1738) ご紹介ありがとうございます iwatam(Fri Jul 1 10:29:55 2005)
ご紹介いただいたリンク先の「おたくの研究(2)」以降は、こちらのコラムで書いた意味とほとんど同じニュアンスで使っていると思うのですが、いかがでしょうか。
No.1728) 「こころを強くする」 あだち(Thu Jun 30 21:52:30 2005)

   失礼します
     「勝手書き込み」をお許しください。

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No.1724) コラム『漢の不在』読みましたが… ゲロニモ(Thu Jun 30 05:05:25 2005)
あなたはつくづく世間一般で使われている言葉を自分だけの独自の意味で使用するのがお好きなようですね。だから齟齬が生まれるんですよ。今までのゲストブックについたコメントを見てそれが分からないんですか?
「マニアアニメとオタクアニメの違いはこうだ!」じゃなくて、「こういうアニメはマニアアニメでこういうアニメはオタクアニメと呼ぶべきだ!」と何故書かないんですか?
別にどんな言葉をどんな意味で使おうとあなたの自由ですが、それで読者に理解しろと言うのは無茶でしょう。
あなたのコラムは使われている言葉の意味が世間一般と相違ないものと、そうでないものとで質に差がありすぎます。
No.1718) はじめまして 蟲森真(Mon Jun 27 01:05:52 2005)
アシモフとネット右翼と信仰についてのコラムを読ませていただきました。漠然とした疑問や感覚がうまく整理されていくようで非常に楽しく読ませていただきました。他のものも順次読ませていただきます。
ちなみに僕自身は恐らく左翼的思考の持ち主でクリスチャンの二世です。今度質問等に答えていただけるとありがたいです。
No.1719) こんにちは iwatam(Tue Jun 28 02:11:45 2005)
ご感想ありがとうございます。
何かありましたら、いつでもここに書き込んでいってください。私に答えられるようなことならよいのですが。
No.1705) はるゆき(Tue Jun 21 21:53:22 2005)
ごぶさたしております。以前確信犯について書き込みしていたものです。久しぶりにここを拝見したのですが、くだんのコラムがかなり書き加えられていますね。で、さっそく読ませていただきました。

結論から申しますと、やはりiwatamさんは思い違いをされているように思います。
iwatamさんは「的を射ていない」とされていますが、やはり「確信犯であるには犯罪だと認識している必要はない」のです。確信犯とは本人が自分について言う言葉ではなく、裁く側がいう言葉だからです。
iwatamさんの「確信犯とは、社会のルールと自分の正義が違う結論を出している時に、社会のルールより自分の正義を優先すること」という定義ですが、はっきり申し上げてこれはiwatamさんが勝手にそう思い込んでいるだけで、正しい定義ではありませんよ。なんというか、わざわざ文化庁が誤用と指摘しているのに、どうして頭がそこから離れないのかが不思議でなりません。

No.1706) iwatam(Wed Jun 22 12:23:36 2005)
だいぶ修正。
「犯罪だと認識していない」状態は、いわゆる「錯誤」の状態です。錯誤は犯罪ではありません(刑法38条)。だから、犯罪だと認識していない人は、犯罪がどうこうという議論の対象外なのです。
その上で、この誤用の問題は、実はそこにはないのです。私は、「文化庁は間違い」と言っているのではありません。「文化庁のやり方では、本当に誤用しているかどうかをうまく測れていない」と言っているのです。
これは、「社会のルール」「信念」「正義」「正しい」という言葉の定義そのものがゆれていることの問題なのです。今の人は、文化庁が正解として書いた文章にたいして「これは悪いことだ」と解釈してしまいます。「確信犯はキチガイの考えることで悪いことだ」という解釈で正しいのだと思ってしまいます。だから、文が悪いと言っているのです。
「確信犯とは、社会のルールと自分の正義が違う結論を出していたとしても、社会のルールより自分の正義を優先すること」でどうでしょう。重要なのは、「何よりも自分の正義を優先する」というところです。しかし、これを言うためには、その比較対象となる「自分の正義よりは優先されないもの」を考えないといけません。だからこそ、私が書いたような文章になるわけです。
この問題は、「正義という概念をわかっていない人にどうやって確信犯という概念をわかりやすく伝えるか」という問題なのです。だから、「文化庁の定義で合っている」という答えは意味がないのです。
No.1708) はるゆき(Thu Jun 23 21:49:35 2005)
錯誤というのは、マネキンと思ってナイフで刺したら実は本当の人だった…というような状況をいうのであって、人を人と認識したうえで殺してしまった場合に「人を殺すのが犯罪とは知らなかった」というような状況をいうのではありません。刑法にも「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない」と明記されています。知らなかったではスマンのです。
それから、ある人にとっての正義とは絶対的なものであって、社会のルールに照らし合わせて相対的に正しい、というものではありません。
No.1709) 違法性の錯誤 iwatam(Thu Jun 23 22:34:24 2005)
それが悪いことだと本当に知らなければ、知らなかったで済むのです。これが、第38条1項です。
ただし、今の日本で、本当に人を殺すのが犯罪だと知らないような人がいるとは考えられません。だから、いくら本人が「知らなかった」と言っても、こいつは本当は知っていて嘘をついているだけだ、と判断するわけです。もし本当に知らなかった場合は、おそらく精神鑑定で無罪になるでしょう。
第3項で言っているのは、それが悪いことだとはわかっているが、それが法律にまでちゃんと書いてあることを知らなかった場合のことです。「悪いことをしている」と認識している時点で、知らなかったという言い訳はできない、と言っているのが第3項です。
繰り返します。それが犯罪であるとするには、本人が「悪いことをしている」と認識していることが必要です。ただし、それが法律に書いてあることまで知っていないと罪に問えないというわけではありません。
なお、あなたの出したマネキンの例は、錯誤の一つではありますが、それだけが錯誤なわけではありません。錯誤とはつまり勘違いなわけですから、いろんなことを勘違いする可能性があります。「違法性の錯誤」というキーワードで調べてみるといいと思います。
最後に、あなたの言うとおり、ある人にとっての正義とは絶対的なものです。あなたはなぜ、私が「正義とは絶対的なものではない」と言っていると思ったのですか?
No.1712) はるゆき(Sat Jun 25 08:59:52 2005)
業務上過失致死のようなケースはどう考えますか?罪を犯すつもりはなくても、犯罪として処理されると思いますが。
ある人にとっての正義が絶対的なものであるなら、なぜ社会のルールなり法律なりと比較する必要があるのでしょうか。相対的に判断する必要があるものごとは「絶対的」なものとはいえないのではないでしょうか。
No.1713) それは特例です iwatam(Sat Jun 25 19:39:40 2005)
業務上過失致死は、第38条1項の特例にある「法律に特別の規定がある場合は、その限りではない」にあたります。業務上過失致死は、例外的な事項です。特に法律に規定がない限り適用されません。
不注意によって他人に危害を加える可能性のあることを日常的にする人に対しては、細心の注意を払うことを求められます。業務上過失の場合、「人を殺したこと」が罪とされるのではなく、「細心の注意を払わなかったこと」が罪とされるのです。
ある人にとっての正義は絶対的なものですが、それと同時に法律も存在します。法律は、その人がどう言おうと存在します。そして、犯罪はその人の正義ではなく、法律に対して規定されます。
つまり、「犯罪かどうか」という話には、その人の正義は関係がないのです。
No.1714) はるゆき(Sat Jun 25 20:09:23 2005)
「過失犯」という言葉があるように、例外規定などがあるため過失だからといってまったく犯罪にはあたらない、ということはないわけですよね。「確信犯」もそれと同じで、もともとは崇高な精神に基づいてなされた犯行について減刑を認めるという文脈から生まれた用語だと聞いています。
「正しいと信じてしたことで、法律に触れると知らなかったのなら、そもそも犯罪ではないのでは?」という疑問はもっともだと思います。実際にそういった議論もあるそうですが、それはまた別の問題なのではないでしょうか。
No.1715) 話がずれてませんか? iwatam(Sat Jun 25 21:26:53 2005)
上で書いたように、どんな種類の犯罪でも「過失犯」になるわけではありません。「過失であっても犯罪になる」と法律に書いてある場合に限り、犯罪になるわけです。そして、それはまったく別の条項ですから、別のものとして考えなくてはなりません。
そして、「確信犯」は、もともと減刑を認めるという文脈から生まれた用語だというだけではなく、今でも同じ意味です。そういう文脈で使わないことが「誤用」なのです。
もしかして、あなたも「確信犯」という言葉を誤用していませんか?
「疑問はもっとも」なのではなく、「実際にそういった議論もある」のでもなく、「実際にそう」なのです。きちんと法律にも書いてあります。あなたの解釈の方が間違っているのです。
No.1716) はるゆき(Sat Jun 25 21:55:15 2005)
別に話がずれているつもりはないのですが・・・。
過失犯が「別のものとして考えるべきもの」なら、確信犯も同じだということです。そもそも確信犯は特殊なケースであるのに、一般的な刑法の原則をそのまま当てはめて「法律を知らなかったのなら犯罪にはならないから、確信犯も法律を知っていたはずだ」と勝手に定義を付け加えるのはおかしいのでは?といっているのです。
No.1717) 確信犯とは何か iwatam(Sat Jun 25 22:20:49 2005)
「過失犯」も「故意犯」も、原則は同じです。「悪いことであると知っていてやった」ことが必要です。その上で、例えば殺人では「悪いこと」=「人を殺すこと」なのに対して、業務上過失致死では「悪いこと」=「わき見運転をすること」であるということです。だから、殺人と業務上過失致死はまったくの別物なのです。別物であるからこそ、「悪いことであると知っていない場合には罪に問われない」という原則に一見矛盾するように見える両者が、実は矛盾していないのです。知っているべき「悪いこと」が違っているのですから。
ついでに、確信犯の本当の定義の話もしましょう。それは、この話と深く関わってきます。
「犯罪」とは、「悪いことと知っていてやる」ことを罰するものです。だから、本人が悪いことであることをまったく知っていなかったら、そもそも罰することはできません。
犯罪をなぜ非難するかというと、悪いことと知っていたならそれをやめなければならなかったのに、実際はやってしまったということを非難しているのです。
では、「それは社会が悪いことであるとしている」ということを知っていて、さらに「社会はそう判断しているが、それは間違いだ」と思っていたとしたらどうでしょう。この場合、「社会が悪いことであるとしている」ということは知っているので、この時点で「悪いことと知っていたならそれをやめなければならなかった」と非難することが可能です。しかし、「これは実は正しいことなんだ」と思い込んでいたのであれば、これはある意味正しいことです。
だから、確信犯は犯罪の要件を満たしているにも関わらず、犯罪と呼ぶにはためらいがあり、通常の犯罪よりは軽いものとして扱わなければなりません。これが「確信犯」の理念です。
「犯罪である」とも「犯罪ではない」とも言い切れない微妙な問題だから、「確信犯」という新しい言葉が作られたのです。「社会的にも悪いとしていない」と思っている場合には、「犯罪ではない」と言い切れるので、確信犯ではないわけです。
No.1741) はるゆき(Fri Jul 1 20:56:00 2005)
あなたの書いていることは「厳格故意説」といって学問上の説のひとつに過ぎません。判例ではその立場はとっていませんから、「知らなかった」にもかかわらず有罪判決が下されている例はいくらでもありますよ。
そもそも、確信犯は現在の刑法において明確に定義付けられている用語ではありませんから、現在の刑法の理論から定義を演繹することは不可能です。何度も言いますが、確信犯の定義とは「正しいと信じてやった」これだけであって、「社会のルールや法律に触れることを知っていた」ということは含まれていません。
No.1743) iwatam(Fri Jul 1 22:09:29 2005)
いいえ。「制限故意説」も、「厳格に適用することはできない」と主張しているだけで、故意説がベースになっています。
そもそも、あなたの主張する制限故意説の方が新しい説ですから、「確信犯」と結びつけて考えるのはよりおかしいということになります。
何度も言いますが、社会のルールや法律に触れることを知っていない人は犯罪とは呼ばないのです。
No.1711) 補足 iwatam(Fri Jun 24 03:08:19 2005)
上ではいきなり精神鑑定という単語を出してしまいましたが、人を殺しても犯罪にならないケースがいくつかあります。自分がそういうケースにあたると考えて人を殺した場合には、錯誤が成立します。
ただし、この問題は非常に難しい問題で、専門家でも議論の分かれるところではあります。しかし、議論のわかれるのは、何を「罪を犯す意志」とみなすかであり、まったく罪を犯す意志のない行為が犯罪ではないということに変わりはありません。
第38条は第1項がメインであり、第3項は追記です。あなたは、第1項の存在を無視してはいませんか?ここには「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」とはっきり書いてあります。
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