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No.496) コラム:日本人の宗教嫌い ほげげん(Fri Dec 3 18:08:27 2004) |
コラムでは
「絶対を信じていなければ仏教徒」
のような表現をしていますが、疑問を感じています。
仏教徒とは
仏教を学び、その教えを念頭において思想や行動する人
ではないのかと思います。
(つまり学んだだけでは仏教徒ではない)
私は「絶対を信じていない」ですが、その思想は日常生活で得られたあらゆる情報から導きだしたものであり、仏教の事はまったく頭にありませんでした。
宗教を批判する気は無いですが、やはり信者になりたいとは思いません。
No.497) 信仰とは iwatam(Fri Dec 3 23:53:13 2004) |
No.498) Re信仰 ほげげん(Mon Dec 6 11:54:13 2004) |
私が「絶対を信じない」ようになったのは
・TVのニュースで戦火に泣く人を見る
・現実の厳しさに直面した
・世の中理不尽な事ばかりと思う
、、他にもあるような気がしますが、大きい所ではこんな所です。
こういったものの背景に仏教はないと思います。
また、この考えは誰から教えられたり聞いたりして学んだ覚えがありません。
あと仏教にも仏陀や釈迦や仏、無の境地など否定する部分や理解できない部分もたくさんあります。
仏教の考え方に賛成(前述するとおり反対部分もあるが)できる所もありますが、
それで「あなたは仏教徒です」というほうが、おかしく思えます。
人によって「信者」「信仰」って言葉の意味は結構違う物ですね。
辞書によっても内容が違ってたりするみたいです。
なので、人によって「信者」「信仰」に対する考え方は違っても良く、
誰かが決めなくてもいいのではないのでしょうか?
No.499) お返事は気の向いたときにどうぞ iwatam(Wed Dec 8 00:14:42 2004) |
仏教徒というのは、「仏教を完全に理解してそれを全面的に肯定する人」ではありません。この定義だと、修行中のお坊さんは仏教徒ではないことになってしまいます。理解できないから仏教徒ではないというのはおかしいのです。
それに、仏教という教えは全体で一つのまとまった考え方です。すべてが論理的につながっていますから、ある部分だけを否定してある部分を肯定することはできません。もしある部分だけがおかしいと思うなら、それは方便ととらえるべきです。
結局、仏教徒とは何かというと、仏教の教え(=「絶対は存在しない」という考え方)には深い真実があるのではないかと思う人のことです。
私が奇妙に感じたことを例え話で語ることをお許しください。人が音楽にのって踊っているのを見て、「それはダンスというもので、あなたのような人はダンサーと呼ばれます」と言ったのに対して、「私はダンスなど習ったこともないし、ダンサーでもない」と言われたようなものです。
「信仰という言葉の意味は人それぞれ」はその通りではあるんですが、それを言ってしまうと対話が成り立たなくなってしまいます。私はこういう意味で信仰という言葉を使いますと説明しました。あなたがどういう意味でこの言葉を使っているのかはわかりませんが、私の意見を誤解したままでいてほしくはないと思っています。
No.500) 返答ありがとうございます。 ほげげん(Wed Dec 8 11:42:37 2004) |
繰り返し書きますが「絶対を信じない」を誰かから教えられたり聞いたりして学んだ覚えがないというのは本当です。
前述したように
・TVのニュースで戦火に泣く人を見る
・現実の厳しさに直面した
・世の中理不尽な事ばかりと思う
が大きなところで、これに仏教と何の関わりがあるのでしょうか?
誤解されているようですが
「仏教徒というのは仏教を完全に理解してそれを全面的に肯定する人」
とは思ってないですよ。
私が言いたいのは仏教に局所的にしか賛成できておらず、しかもその賛成する動機(発端)のほとんどに仏教が見当たらない。それで仏教徒はおかしいと思うということです。
「仏教の教え」=「絶対は存在しない」
という解釈が私の疑問の核心ですね。
「仏教の教え」の中に「絶対は存在しない」が
あるわけでイコールではないですよね?
また「絶対は存在しない」という考えは仏教を通さずに学べますよね?
「信仰という言葉の意味は人それぞれ」っていうのは失言でしたね。ごめんなさい。
No.501) 失礼を承知で iwatam(Wed Dec 8 15:50:42 2004) |
専門用語で言えば、仏教の三大原理は諸行無常(=絶対は存在しない)、諸法無我(=だから絶対不変の自我も存在しない)、涅槃寂静(=だから、過去や未来をあれこれと思いわずらっても無駄だ)の3つです。諸行無常が最初にあり、後の2つは「だから」でつながっています。だから、諸行無常こそが仏教の根本理念であり、あとの2つはそこから論理展開によって導き出されたものです。
つまり、「仏教の教え」=「絶対は存在しない」です。
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「仏教を通して学ぶ」というのは変な言い方です。仏教は何かを学ぶ方法ではなく、対象である「何か」だからです。
だから、「仏教を学ぶ」という言い方でないとおかしいのです。「お経を通して仏教を学ぶ」とか「お寺を通して仏教を学ぶ」のように。
もちろん、仏教を学ぶには、仏門に入る必要も坊さんの法話を聞く必要もお経を読む必要もありません。「何も通さず仏教を学ぶ」もあり得ます。ただ、これは仏教を学ぶ近道ではありませんが。
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失礼を承知でお聞きします。あなたは、仏教とは何だと考えていらっしゃるのでしょう?
No.502) ほげげん(Wed Dec 8 15:17:03 2004) |
No.503) ほげげん(Wed Dec 8 15:28:25 2004) |
No.504) 繰り返しになりますが iwatam(Wed Dec 8 16:08:22 2004) |
「仏教=絶対は存在しないという考え方」なので、「絶対は存在しないという考え方は仏教を通さずに学べる」というのは「仏教は仏教を通さずに学べる」といっているのと同じことです。これは変です。
「仏教を通して学ぶ」といった場合、何を学ぶのですか?
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その通り、外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなくても、「絶対は信じない」ならば、あなたは仏教徒です。
私が疑問を投げかけたのは、あなたが「他の影響を受けていない」と言っていたことに対してであって、受けていようがいまいがそれが仏教であることとは実際は関係がありません。
もし本当に独自に釈迦の境地にまで至ったのであれば、それは非常にすばらしいことです。
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仏教は「仏陀の説いた教え」であるというのは、間違ってはいませんが定義が変です。これだと、仏陀が説いたことはすべて仏教になってしまいます。仏陀は仏教も仏教以外のこともいろいろ説いたでしょう。その中で、「絶対は存在しない」に連なる一連の教えを仏教と呼んでいるのです。
万有引力の法則を「ニュートンが発見した法則」と定義するのが変であるように、仏教を「仏陀の説いた教え」と定義するのは変なのです。
No.505) ほげげん(Wed Dec 8 16:38:46 2004) |
No.508) こちらから質問です ほげげん(Thu Dec 9 17:41:56 2004) |
No.509) すみません iwatam(Thu Dec 9 22:27:15 2004) |
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仏教の3大理念を書きましたが、これは3つが別々にあるのではなく、すべては一つのことなのです。一つのことを3つの違う言い方で言い表しただけなのです。
だから、これらを一つだけ抜き出して話をすることはできません。
「諸行無常」は「仏教」の説明文ですから、当然のことながら別のものではなくて同じものです。
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あなたは「仏教とは何か」という問いに対して、中身に一切触れないで答えをしています。そんな答えには意味はありません。
仏教とは、紀元前5世紀頃、インドで「仏陀」を開祖として旗揚げした宗教であり、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3大原理からなるものであり、その中でも根本になるのが諸行無常、つまり「絶対は存在しない」という教えなのです。
あなたがそういう形で仏教をどう定義しようと、それは今回の話とは何の関係もありません。
No.510) ほげげん(Fri Dec 10 13:01:43 2004) |
No.515) 「原理」という文の意味 iwatam(Sun Dec 12 13:40:19 2004) |
yはものの名前ではなく、文章であることに気をつけてください。
No.517) なるほど ほげげん(Mon Dec 13 13:56:56 2004) |
例え話になり申し訳ないのですが、、
「仏教は絶対を信じない思想」を「電球は電気を使った明かり」とします。
iwatamさんの見解では
「電球」は電気を使い照るから「電球」=「電気を使った明かり」である。
となり、私の見解では
「電気を使った明かり」は「電球」だけに限らない。
となり、ここで大きな食い違いがあるみたいですね。
「電気を使った明かり」は私にとっては、カテゴリととらえています。
iwatamさんにとっては、その物の説明ととらえているのでしょうか?
(勝手に憶測した事、ご容赦ください。違うようでしたら気軽に
ご指摘頂けたらと思います。)
No.519) 例え話へのつっこみで申し訳ありませんが iwatam(Tue Dec 14 03:17:28 2004) |
上の例で言えば、「電球」と言うより「電灯」と言った方がより私の言いたいことに近いです。
「電灯は電気を使った明かり」です。「電気を使った明かりは電灯だけではない」というのはなんか変で、蛍光灯だろうがLEDだろうがそれは電灯だろ、と言いたくなるわけです。
「電気を使った明かり」はカテゴリ(=概念)であり、「電灯」というのはそのカテゴリを一言で表すための名前です。
同様に、「仏教」というのもカテゴリをあらわす名前です。
No.527) やっぱりちがうような・・・ ほげげん(Fri Dec 17 13:18:23 2004) |
やっぱりiwatamさんの言いたいことを理解できてないようです。
「絶対はない思想」の名前は「仏教」なのですか・・・質問しようかと思ったのですが、どうやら始めの質問に戻ってしまいます。
なんか他の方からも似たような質問がゲストブックに出されているようですね?
私とiwatamさんの議論はややつまり気味かな?と思いますので、私はとりあえずそちらの議論を観たいと思います。(不躾ながらそちらにコメントを出すかもしれません。)
ご親切にご返答・ご質問いただけたこと、とても感謝しています。
No.493) Administrator(Sat Nov 20 21:37:27 2004) |
No.488) 日本の教育ビジョン ASAP(Fri Nov 5 00:59:33 2004) |
これらのコラムはIQとEQの考え方も入れるとまた新しい見解が産まれるような気がします。乱暴な言い方になってしまいますが、IQは道具的能力、EQはIQを上手に使ったり成長させるための能力と考えてみると、
・ゆとり教育はEQを伸ばすための教育を目的としているように思います。如何せん、現状のゆとり教育は本質を見抜いていないために有効な手段を取り得ているとは思えませんが。(そもそも、国がどういう大人に育てたいのかビジョンが不明確!)
・文系と理系という分類法は、多様な人の能力を分類するにはちょっと苦しいかな、とも思います。(定義が難しい)
IQ・EQの考え方を踏まえて分類してみるとどうでしょう?
これらのコラムを考察しつつ、日本の教育のビジョンを議論したいのですが、どういったビジョンが良いと思いますか?私は世界でリーダーシップのとれる大人に育て上げるというのが良いと思うのですが、これは思いつきなので意見を少し聞ければと・・・。
以上、まとまりのない文章になってしまいましたが何かご意見が頂ければ幸いに思います。
No.489) 問題提起ありがとうございます iwatam(Sat Nov 6 01:26:50 2004) |
No.490) ASAP(Sat Nov 6 10:08:23 2004) |
No.491) 自己レスです ASSP(Mon Nov 8 02:02:22 2004) |
以上の疑問も私の認識違いかもしれないので、もう少し調べてみようと思います。それでもどうしても分からない場合は文部科学省にでも質問を投げてみようと思います。
以上、iwatamさんのBBSに意味の無い投稿をしてしまったようで申し訳なく思います。もし、iwatamさんのBBSにふわわしくない内容でしたらお手数ですが削除して頂ければと思います。
No.492) 気兼ねなさらず書き込みはご自由にどうぞ iwatam(Tue Nov 9 02:10:57 2004) |
絶対評価についてですが、相対評価だとクラスによってたまたま出来の悪い子が揃ってしまうと、自分の実力以上の評価がされてしまいます。ある事柄を自分が理解できたかどうかという評価をするのに、他人がその事柄を理解できたかどうかは関係ないでしょう。ただ、そうやって絶対評価をするのは難しいとは思います。
おっしゃるように、総合的な学習とかゆとり教育といったものは、教師が大変でしかも先生の力量によってばらつきがあることが問題だと思います。本当だったらそこで「お金をたくさん払っていい先生をたくさん揃えよう」になると思うのですが、先生の方にばかりしわ寄せが行ってしまっているのが現状のように思います。
(といっても現状をほとんど知らないのですが)
良い教育をするにはコストがかかりますので、それをどう負担するのかという話になると思います。
結局、何を目指しているかはわかっているけれどどうやってやればいいのかがわかっていない状態なのではないでしょうか。そして、その成果はテストの点のように簡単には見えてこないので、現場にも迷いがある状態のように感じます。
最後に余談:レンタルビデオで映画「スクール・オブ・ロック」を観ました。こじつけて言えば、この映画はゆとり教育の話です。堅苦しくないコメディ映画ですので、もし機会がありましたらどうぞ。
No.486) kuon[HOME](Mon Nov 1 04:18:03 2004) |
ゲームは「道」だとおっしゃっていましたが、
私も極度のゲームファンですので、何か大変嬉しいです。
また、最近のゲームには学ぶところがないとのことですが、全く同感です。
私はCIVILIZATION3にはまっているのですが、
このゲームからは多くのことを学ぶことができました。
http://stack-style.org/SidGame/civ3_introduction.html
日本でもこのようなゲームが出ればいいのですが。
おたくの歴史、カネの時代の終わりなどのコラムも素晴らしいですね。
衝撃的な内容で、時代の先見を見通しているなと感じ入ってしまいます。
いつも痛快な文章の更新の方を楽しみにしています。
蔭ながら、iwatamさんの今後のご活躍を祈念しております。
No.487) コメントありがとうございます iwatam(Tue Nov 2 22:13:24 2004) |
No.494) キット(Thu Nov 25 00:16:50 2004) |
「ヘックス」と「へクス」はどちらかに統一すべきでしょう。
そんなことを考えながら読んでいたので、気づきました。
実は伝えたかったことはこれだけなんです。すいません。
No.495) ご意見ありがとうございます iwatam(Thu Nov 25 03:52:07 2004) |
どのあたりからが「読み解くのが難しい」と思われますか?よろしかったらご意見をお聞かせください。できるだけなんとかしようとは思います。
MMORPG FPS あたりは大丈夫かと思っていますが、TCGやTRPGあたりは少し危ないかなぁと思っています。ボードゲーム系の言葉や将棋のたとえなどはもはやほとんど通じないのかもと心配になってもいます。
長文を書くときにはできるだけ前に言葉の説明を載せるようにしていますが、コラムではそれは少々難しいです。どこかに用語集でも作っておく(か誰かが作った用語集へのリンクをはっておく)といいんでしょうか。
例としてあげてるものは確かにマニアックさ全開でわかりにくくなっているかもしれません。しかし一つ問題があって、皆がわかるような一般向けのゲームはほとんどやってないからよくわからないんです。うーん、困った。
No.476) 「確信犯」 ふにゅ(Thu Oct 14 17:19:50 2004) |
>正しい側面より悪い側面の方が上回っていると判断してなされる
>これは定義上あり得ない。判断は行動のベースになるものだからだ。
>「悪い行動」という言葉を「自分が避けるべき行動」と定義すれば、この矛盾がよくわかるだろう。
正しい側面より悪い側面の方が上回っていると判断したが悪い側面が無効になると信じてなされる。
俗に言う「許される、見逃される、見つからない」と思って行う行為で故意犯に当たる。
・確信犯
正しい側面の方が悪い側面を上回っていると判断してなされる犯罪
・故意犯
正しい側面より悪い側面の方が上回っていると判断したが悪い側面が無効になると信じてなされる。
・過失犯
正しい側面と悪い側面の比較ができないままなされる
正しい側面も悪い側面も考えないでなされる
としてみては如何でしょうか?
No.477) 故意犯とは iwatam(Thu Oct 14 19:18:28 2004) |
No.478) ふにゅ(Fri Oct 15 09:53:24 2004) |
No.479) 社会的な考えとは iwatam(Fri Oct 15 14:52:47 2004) |
No.482) ふにゅ(Mon Oct 25 14:15:32 2004) |
No.483) 原義はそうじゃないかと思います iwatam(Tue Oct 26 02:23:16 2004) |
大きな社会を批判して小さな社会を作り、その小さな社会も批判して結局個人になってしまったというのが、私の言う確信犯の解釈に納得のいく人たちなのではないかと思います。
大きな社会に反対して小さな社会を正当化するのは何か変じゃない?それって社会の大きさが変わっただけで結局同じ穴のムジナじゃん。どうせやるなら社会をすべて否定しないとダメだよ。というわけです。これが正しいかどうかは別として、こんな感じで確信犯=社会正義の否定になってしまったのではないかなぁと思います。
No.484) もともとの「確信犯」 miy(Tue Oct 26 20:30:07 2004) |
私は「文化庁の定義は言葉足らず」という主張に賛成しますし、コラムの本文にも反論はありません。
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もともとの「確信犯」意味に従うなら、文化庁の掲げる「確信犯の正しい意味」が示そうとした意味は、
「政治・宗教等に関係した、(この世はこうあるべきであるという価値観に由来する)信念に基づいてなされる、法規定の違反」あたりになるのではないかと思います。
文化庁の文における「政治的・宗教的など」という限定句は、政治・宗教が世界に対する見方を強く提供するものであるために添えられたものなのでしょう。(解釈する人によって、ここに「道徳的」「思想的」などの言葉を並べていることもあります。また、「信念」の部分を「信念にもとづく義務感」と表すものもあります。)
「(もともとの)確信犯」と「(法律用語としての)故意犯」の領域は、重なる部分もそうでない部分もあるようです。「確信犯」は、法規定に違反するという認識の有無について言及しません。
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文化庁の文の問題は、コラム本文でも述べられているように、「正しい」「悪い」に関係した情報を欠いている点だと思います。
間違いとされている文に関しては、直感的に、私は「『(法体系において)悪い』(=法律違反の)行為であると分かっていながらなされる犯罪行為」、つまり故意犯を指し示す文だと感じました。
一方、誤用する人の解釈として、コラム中では「『(自己の利益において)悪い』(=損な)部分がある行為であると分かっていながらなされる犯罪行為」というものが挙げられています。文化庁の文を見る限りはどちらともとれるのであって、「正解」「間違い」のラベル貼りをするには確かに曖昧すぎる文だと思います。
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上の話とはあまり関係がありませんが、
確信犯といって「右翼・カルト」が浮かぶという背景には、「既存の国(およびその法律)は正しい」という意識の方がむしろ生きているような気がします。
「政治・宗教等の側面から正しいと信じて、実定法に反する行為を行う」という文から、例えば、
・国の政策により、国内にいる、ある特定の身分の人間を捕らえて収容所に送る(あるいはこれに協力する)ことが国民に義務づけられる。その身分の人間をかくまった者は、法律により処罰される
・自分が属する宗教の側面から見て、このような状況は許されないと考え、あえて法律に反する行為をとる
という確信犯人の像が浮かびます。
ラートブルフが生きた時代はドイツの1800年代後半から1900年代前半であったそうですが、彼の持つ国家像は、今の日本のそれとは大きく異なっていたのではないかと思います。
No.485) 確信犯のもともとの意味 iwatam(Wed Oct 27 21:11:30 2004) |
No.471) 問題の問題の問題 狩野宏樹(Thu Oct 7 12:52:19 2004) |
No.472) 実は・・・ iwatam(Thu Oct 7 16:11:42 2004) |
No.473) 「「問題」の問題」はやはり問題? あらきけいすけ[HOME](Tue Oct 12 13:59:23 2004) |
きちんと作図をし「ほぼ30°」というあたりをつけてから、必要な精度に応じて電卓、そして理論計算に移行していくというのが、貴方の考えるベストの教育像に近いのではないですか?
あなたの趣旨では中学の解き方がパズル的であることが問題だったのですが、高校数学を用いた解放も10、20、等の角度の三角関数の処理というパズル的要素を含んでしまうという点で「同じ穴の狢」になりかかってませんか?
あなたの主張の骨子は「問題解決の能力をつける教育とは」のはずです。作図はダメで電卓はOKという回答に基準の曖昧さ、思考の詰めの甘さを感じます。
No.474) 値を出すことは問題ではありません。 iwatam(Tue Oct 12 16:16:30 2004) |
No.475) 貴方のページを拝見しました iwatam(Tue Oct 12 20:16:29 2004) |
No.480) がっかりしました あらきけいすけ(Fri Oct 15 20:08:46 2004) |
「「問題」の問題」の問題点についてはここでは議論しません。
わたくしの拙いページをご高覧いただきまことにありがとうございます。 自分のページがこんなに曲解され得るものかと思うと、 自分の筆力の無さに内心忸怩たるものがあります。
あなたはこうおっしゃいました。
「教わる」というのは、記号として与えられた知識を自分で内面化することです。多数の例や断片的な記述から、自分の中でその総体的なイメージを作り上げることです。
「多数の例や断片的な記憶」が私の述べる「データベース」に対応し、
「自分の中でその総体的なイメージを作り上げる」際に
私の述べる「状況を分析する能力」を用いて知識を「海馬から」読み出し、
読み出された知識の間の関係、関連を調べ、
体系付けるという内面的な行為を行っています。
あなたの述べた「内面化の行為」の基礎には、
私の述べた二つの要素がすべからく関わっています。
わたくしは「生きた知識」を定義していません。
「生きた知識」すなわち「現実に活動している人間の認識、実践の能力」には、
「ソフトウェア」と「データベース」でモデル化できる側面があることが
見て取れるという観察事実を述べているだけです。
観察事実を述べているから、
あなたの「内面化の行為」を私が提示した言葉で説明できるのです。
わたくしたちの間に「根本の食い違い」などどこにもありません。
そこをわざと食い違っているかのように前提して議論を進められたので心外です。
あなたはわたくしが「問題解決能力」という語を用いたとき、
「問題」を「ペーパーテスト」の意味で解釈していませんか?
わたくしの教師としての経験から言うと、
「わかりました」などと軽率に発言する学生ほど理解が浅いものです。
わたくしはあなたの意見を尊重します。 しかし問題があると考えれば、批判をします。 わたくしはこの「反論」をあなたの意見を変えるつもりで発してはいません。 わたくしの意見を誤解されたので誤解を訂正していただくために申します。
[追伸] 「そのコタエは自分で見つけるものだよ」の真意は (なぜかここは誤解されていないのですが)「そんなクダラナイ質問はするな!」 という意味です。自然科学の教育では自然現象の理解が大切です。 「運動方程式とは何か」ではなく 「運動方程式の解が自然現象の理解をどう進めるか」を体得することが大切です。 そこのところであなたの自然科学のこれまでの勉学が うわすべりの浅薄なもので終わっていやしないかと推察しています。
No.481) 食い違いがないとわかってうれしいです iwatam(Fri Oct 15 22:11:13 2004) |
No.459) Administrator(Wed Sep 15 22:27:01 2004) |
No.463) その理由は iwatam(Wed Sep 15 23:58:37 2004) |