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No.496) コラム:日本人の宗教嫌い ほげげん(Fri Dec 3 18:08:27 2004)
コラム拝見しました。感想です。

コラムでは
「絶対を信じていなければ仏教徒」
のような表現をしていますが、疑問を感じています。

仏教徒とは
仏教を学び、その教えを念頭において思想や行動する人
ではないのかと思います。
(つまり学んだだけでは仏教徒ではない)

私は「絶対を信じていない」ですが、その思想は日常生活で得られたあらゆる情報から導きだしたものであり、仏教の事はまったく頭にありませんでした。

宗教を批判する気は無いですが、やはり信者になりたいとは思いません。

No.497) 信仰とは iwatam(Fri Dec 3 23:53:13 2004)
日本人には、長い仏教の伝統があります。だから、仏教は日本的な考えの奥にもう染み付いてしまっているわけです。日本古来からある考え方やことわざ、教えの中には仏教由来のものがたくさんあります。そして、そういうものを聞いて育ってきた私たちの心の奥底にも既に仏教は染み付いてしまっています。
 あなたが「日常生活で得られた」と思っている情報のある部分は、あなたがそれを仏教のものだと知らないだけで、実は仏教のものです。だから、あなたは知らず知らずのうちに仏教を学び、一部は実践してしまっているわけです。それなのに「仏教を信じたくない」と言うのがおかしいのです。あなたの頭の中には仏教の概念は既にあり、ただそれに仏教という名前がついていることを知らなかっただけなのではありませんか?
----
なぜあなたは、自分が仏教徒であることをことさらに否定しようとするのでしょう?
あなたが本当に仏教の考え方に反対で、それで信者であることを否定するならあなたの言うとおりです。しかし、あなたは仏教の考え方に賛成なのに信者と呼ばれることには反対しているように見えます。だとするとこれはおかしいのです。
私は、「信者」あるいは「信仰」という言葉の意味の使い方が違うのだと思いますが、いかがでしょうか?
No.498) Re信仰 ほげげん(Mon Dec 6 11:54:13 2004)
返事がおくれました。すいません。

私が「絶対を信じない」ようになったのは
・TVのニュースで戦火に泣く人を見る
・現実の厳しさに直面した
・世の中理不尽な事ばかりと思う
、、他にもあるような気がしますが、大きい所ではこんな所です。
こういったものの背景に仏教はないと思います。
また、この考えは誰から教えられたり聞いたりして学んだ覚えがありません。

あと仏教にも仏陀や釈迦や仏、無の境地など否定する部分や理解できない部分もたくさんあります。

仏教の考え方に賛成(前述するとおり反対部分もあるが)できる所もありますが、
それで「あなたは仏教徒です」というほうが、おかしく思えます。

人によって「信者」「信仰」って言葉の意味は結構違う物ですね。
辞書によっても内容が違ってたりするみたいです。
なので、人によって「信者」「信仰」に対する考え方は違っても良く、
誰かが決めなくてもいいのではないのでしょうか?

No.499) お返事は気の向いたときにどうぞ iwatam(Wed Dec 8 00:14:42 2004)
あなたは、誰かから教えられたり聞いたりして学んだ覚えはありませんとおっしゃっていますが、本当ですか?
法話として直接聞いたことはないかもしれませんが、いろいろな文章や会話によって、その人の考え方はじわりと伝わっていきます。だから、あなたの考えに誰か他の人の考えの影響がないとは言えないはずです。
もしあなたがずっと外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなかったのなら、あなたは仏教徒であるとはいえないでしょう。

仏教徒というのは、「仏教を完全に理解してそれを全面的に肯定する人」ではありません。この定義だと、修行中のお坊さんは仏教徒ではないことになってしまいます。理解できないから仏教徒ではないというのはおかしいのです。
それに、仏教という教えは全体で一つのまとまった考え方です。すべてが論理的につながっていますから、ある部分だけを否定してある部分を肯定することはできません。もしある部分だけがおかしいと思うなら、それは方便ととらえるべきです。
結局、仏教徒とは何かというと、仏教の教え(=「絶対は存在しない」という考え方)には深い真実があるのではないかと思う人のことです。

私が奇妙に感じたことを例え話で語ることをお許しください。人が音楽にのって踊っているのを見て、「それはダンスというもので、あなたのような人はダンサーと呼ばれます」と言ったのに対して、「私はダンスなど習ったこともないし、ダンサーでもない」と言われたようなものです。

「信仰という言葉の意味は人それぞれ」はその通りではあるんですが、それを言ってしまうと対話が成り立たなくなってしまいます。私はこういう意味で信仰という言葉を使いますと説明しました。あなたがどういう意味でこの言葉を使っているのかはわかりませんが、私の意見を誤解したままでいてほしくはないと思っています。

No.500) 返答ありがとうございます。 ほげげん(Wed Dec 8 11:42:37 2004)
返答ありがとうございます。

繰り返し書きますが「絶対を信じない」を誰かから教えられたり聞いたりして学んだ覚えがないというのは本当です。
前述したように
・TVのニュースで戦火に泣く人を見る
・現実の厳しさに直面した
・世の中理不尽な事ばかりと思う
が大きなところで、これに仏教と何の関わりがあるのでしょうか?

誤解されているようですが
「仏教徒というのは仏教を完全に理解してそれを全面的に肯定する人」
とは思ってないですよ。
私が言いたいのは仏教に局所的にしか賛成できておらず、しかもその賛成する動機(発端)のほとんどに仏教が見当たらない。それで仏教徒はおかしいと思うということです。

「仏教の教え」=「絶対は存在しない」
という解釈が私の疑問の核心ですね。
「仏教の教え」の中に「絶対は存在しない」が
あるわけでイコールではないですよね?
また「絶対は存在しない」という考えは仏教を通さずに学べますよね?

「信仰という言葉の意味は人それぞれ」っていうのは失言でしたね。ごめんなさい。

No.501) 失礼を承知で iwatam(Wed Dec 8 15:50:42 2004)
あなたがおっしゃる「絶対を信じない」理由は、仏教との関係はないどころか、それこそが仏教ともいえるものです。
釈迦も、現実の厳しさに直面し、理不尽なことばかりに直面し、戦乱の世の中を見て、そこから仏教という考え方に到達したのです。
つまり、あなたは(知らず知らずのうちに)釈迦の歩んだ道と同じ道を歩んでいます。「仏教」という言葉は、その道のことをさします。だから、あなたの歩んでいる道は仏教なのだと言いました。

専門用語で言えば、仏教の三大原理は諸行無常(=絶対は存在しない)、諸法無我(=だから絶対不変の自我も存在しない)、涅槃寂静(=だから、過去や未来をあれこれと思いわずらっても無駄だ)の3つです。諸行無常が最初にあり、後の2つは「だから」でつながっています。だから、諸行無常こそが仏教の根本理念であり、あとの2つはそこから論理展開によって導き出されたものです。
つまり、「仏教の教え」=「絶対は存在しない」です。
----
「仏教を通して学ぶ」というのは変な言い方です。仏教は何かを学ぶ方法ではなく、対象である「何か」だからです。
だから、「仏教を学ぶ」という言い方でないとおかしいのです。「お経を通して仏教を学ぶ」とか「お寺を通して仏教を学ぶ」のように。
もちろん、仏教を学ぶには、仏門に入る必要も坊さんの法話を聞く必要もお経を読む必要もありません。「何も通さず仏教を学ぶ」もあり得ます。ただ、これは仏教を学ぶ近道ではありませんが。
----
失礼を承知でお聞きします。あなたは、仏教とは何だと考えていらっしゃるのでしょう?

No.502) ほげげん(Wed Dec 8 15:17:03 2004)
それこそ、
外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなくても、「絶対は信じない」ならば、あなたは仏教徒である。
といっているようにしか思えないんですが?
----
私が
「絶対は存在しない」という考えは仏教を通さずに学べますよね?
と言ったのは、超常現象を論理で解き明かす科学番組とかを見ても、「絶対は存在しない」と思うこともある。ということです。
「仏教を通して学ぶ」
って変ですかね?
「お経を通して仏教を学ぶ」
「お寺を通して仏教を学ぶ」
も私には違和感ないんですけど・・・
----
「仏教」とは「仏陀が説いた教え」のことです。
「絶対を信じない」とは「絶対を信じない」のことです。
No.503) ほげげん(Wed Dec 8 15:28:25 2004)
あ!なんか読み違えた部分がありました。すいません。
以下の部分は飛ばしてください。
--
「お経を通して仏教を学ぶ」
「お寺を通して仏教を学ぶ」
も私には違和感ないんですけど・・・
--
No.504) 繰り返しになりますが iwatam(Wed Dec 8 16:08:22 2004)
繰り返しになりまして申し訳ありません。

「仏教=絶対は存在しないという考え方」なので、「絶対は存在しないという考え方は仏教を通さずに学べる」というのは「仏教は仏教を通さずに学べる」といっているのと同じことです。これは変です。
「仏教を通して学ぶ」といった場合、何を学ぶのですか?

----
その通り、外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなくても、「絶対は信じない」ならば、あなたは仏教徒です。
私が疑問を投げかけたのは、あなたが「他の影響を受けていない」と言っていたことに対してであって、受けていようがいまいがそれが仏教であることとは実際は関係がありません。
もし本当に独自に釈迦の境地にまで至ったのであれば、それは非常にすばらしいことです。
----
仏教は「仏陀の説いた教え」であるというのは、間違ってはいませんが定義が変です。これだと、仏陀が説いたことはすべて仏教になってしまいます。仏陀は仏教も仏教以外のこともいろいろ説いたでしょう。その中で、「絶対は存在しない」に連なる一連の教えを仏教と呼んでいるのです。
万有引力の法則を「ニュートンが発見した法則」と定義するのが変であるように、仏教を「仏陀の説いた教え」と定義するのは変なのです。

No.505) ほげげん(Wed Dec 8 16:38:46 2004)
なんか大仰しい言い方になるのですが
仏教を通して愛を学ぶ
仏教を通してモラルを学ぶ
他にもまだまだありますが、とりあえずこの辺で。
--
iwatamさんはNo499では(以下引用)
----
もしあなたがずっと外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなかったのなら、あなたは仏教徒であるとはいえないでしょう。
----
と発言しています。いきなり正反対のことを言われてちょっと驚きました。iwatamさんの真意がどうも読めません。
--
「仏陀の説いた教え」はちょっと漠然でしたね。
改めて、
仏教とは
紀元前5世紀頃、インドで「仏陀」を開祖とし旗揚げした宗教です。
No.508) こちらから質問です ほげげん(Thu Dec 9 17:41:56 2004)
iwatamさんは「絶対は信じないという思想」(またそれを含めた思想)と「仏教」を同一視してるのですね?
「絶対を信じないという思想は仏教の根本思想の一つ」
これの「絶対を信じないという思想」を「仏教」に置き換えると
「仏教は仏教の根本思想の一つ」
になってしまいます。
また「仏教」を「絶対を信じないという思想」に置き換えると
「絶対を信じないという思想は絶対を信じないという思想の根本思想の一つ」
となります。
そもそも「仏教の三大原理は諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」と言った
時点で「仏教」とは別の「事」ではないのですか?
No.509) すみません iwatam(Thu Dec 9 22:27:15 2004)
すみません。おっしゃるとおりです。
前言は間違いでした。
仏教とは考え方のことなので、その道筋はどうあれ、同じ考え方なら同じものです。
だから、No499は間違いです。

----
仏教の3大理念を書きましたが、これは3つが別々にあるのではなく、すべては一つのことなのです。一つのことを3つの違う言い方で言い表しただけなのです。
だから、これらを一つだけ抜き出して話をすることはできません。
「諸行無常」は「仏教」の説明文ですから、当然のことながら別のものではなくて同じものです。

----
あなたは「仏教とは何か」という問いに対して、中身に一切触れないで答えをしています。そんな答えには意味はありません。
仏教とは、紀元前5世紀頃、インドで「仏陀」を開祖として旗揚げした宗教であり、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3大原理からなるものであり、その中でも根本になるのが諸行無常、つまり「絶対は存在しない」という教えなのです。
あなたがそういう形で仏教をどう定義しようと、それは今回の話とは何の関係もありません。

No.510) ほげげん(Fri Dec 10 13:01:43 2004)
No499の訂正、了解しました。
iwatamさんの真意は
「仏教という認識がない(外国で生まれ日本的なものの考え方に接する機会がない等)。それでも絶対を信じなければ仏教徒である。」
ということですね。
--
どうやら先の質問の意味が理解できていないようですね。
この質問では仏教の原理がいくつあるというのは問題ではありません。(事実3つの原理だから言っただけ)
「なぜ仏教は3つの原理からなるのか?」とは問うていません。
「xの原理はy」と言ってしまえば、「x」と「y」は違う物にならないのか?と問うているのです。
改めてお答え頂きたいです。
--
私の答えに意味はなかったですか。
iwatamさんのおっしゃるよう「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3大原理からなるもの」という
認識はあります。(これも言えば良かったのですね。)
No.515) 「原理」という文の意味 iwatam(Sun Dec 12 13:40:19 2004)
「xの原理はy」というのは、ここでは「yであるものをxと呼ぶことにしましょう」ということです。
だから、xとyは同じものです。

yはものの名前ではなく、文章であることに気をつけてください。

No.517) なるほど ほげげん(Mon Dec 13 13:56:56 2004)
なるほど。
iwatamさんが何を言いたいのか、なんとなくわかったような気がします。

例え話になり申し訳ないのですが、、
「仏教は絶対を信じない思想」を「電球は電気を使った明かり」とします。
iwatamさんの見解では
「電球」は電気を使い照るから「電球」=「電気を使った明かり」である。
となり、私の見解では
「電気を使った明かり」は「電球」だけに限らない。
となり、ここで大きな食い違いがあるみたいですね。
「電気を使った明かり」は私にとっては、カテゴリととらえています。
iwatamさんにとっては、その物の説明ととらえているのでしょうか?
(勝手に憶測した事、ご容赦ください。違うようでしたら気軽に
 ご指摘頂けたらと思います。)

No.519) 例え話へのつっこみで申し訳ありませんが iwatam(Tue Dec 14 03:17:28 2004)
あなたの意見を見て、私が言いたいことはだいたい伝わっていると思いました。

上の例で言えば、「電球」と言うより「電灯」と言った方がより私の言いたいことに近いです。
「電灯は電気を使った明かり」です。「電気を使った明かりは電灯だけではない」というのはなんか変で、蛍光灯だろうがLEDだろうがそれは電灯だろ、と言いたくなるわけです。
「電気を使った明かり」はカテゴリ(=概念)であり、「電灯」というのはそのカテゴリを一言で表すための名前です。
同様に、「仏教」というのもカテゴリをあらわす名前です。

No.527) やっぱりちがうような・・・ ほげげん(Fri Dec 17 13:18:23 2004)
返事がおくれすみません。

やっぱりiwatamさんの言いたいことを理解できてないようです。

「絶対はない思想」の名前は「仏教」なのですか・・・質問しようかと思ったのですが、どうやら始めの質問に戻ってしまいます。

なんか他の方からも似たような質問がゲストブックに出されているようですね?
私とiwatamさんの議論はややつまり気味かな?と思いますので、私はとりあえずそちらの議論を観たいと思います。(不躾ながらそちらにコメントを出すかもしれません。)

ご親切にご返答・ご質問いただけたこと、とても感謝しています。

No.493) Administrator(Sat Nov 20 21:37:27 2004)
No.488) 日本の教育ビジョン ASAP(Fri Nov 5 00:59:33 2004)
初めて書込みさせて頂きます。
コラム、楽しく読ませて頂きました。(まだ、全部読んでいませんが・・・)
ゆとり教育と理系と文系のコラムについて思ったことがあったのでカキコしてみました。

これらのコラムはIQとEQの考え方も入れるとまた新しい見解が産まれるような気がします。乱暴な言い方になってしまいますが、IQは道具的能力、EQはIQを上手に使ったり成長させるための能力と考えてみると、
・ゆとり教育はEQを伸ばすための教育を目的としているように思います。如何せん、現状のゆとり教育は本質を見抜いていないために有効な手段を取り得ているとは思えませんが。(そもそも、国がどういう大人に育てたいのかビジョンが不明確!)
・文系と理系という分類法は、多様な人の能力を分類するにはちょっと苦しいかな、とも思います。(定義が難しい)
IQ・EQの考え方を踏まえて分類してみるとどうでしょう?

これらのコラムを考察しつつ、日本の教育のビジョンを議論したいのですが、どういったビジョンが良いと思いますか?私は世界でリーダーシップのとれる大人に育て上げるというのが良いと思うのですが、これは思いつきなので意見を少し聞ければと・・・。

以上、まとまりのない文章になってしまいましたが何かご意見が頂ければ幸いに思います。

No.489) 問題提起ありがとうございます iwatam(Sat Nov 6 01:26:50 2004)
 まず失礼ながら確認を。情緒指数と教育指数という2つの言葉が両方ともEQと略されます。私は以降、EQは情緒指数という意味だととって話を進めますが、教育指数という意味でしようされているのでしたら誠にすみません。
 文系と理系の話はずっと昔に書いたこともあり、今考えると未熟なところがたくさんあります。しかし私が言いたいのは、世間一般では理系を知性に、文系を感情や人付き合いなどにからめて考えるようだがそれはおかしいということです。本来、文系も理系も種類は違うが両方とも論理的な思考の結果です。
文系は「答えのないものについて答えを出す」というようなことが言えるのではないかなと思います。まだ漠然と考えているだけですので、いつかまたコラムにも書きければと思います。
 教育のビジョンについて私が何か言うのはおこがましい気もしますが、一言で言うなら「主体的に考えることのできる大人をつくる」というあたりがいいと思います。
 正確に言うなら「教育とは何か」という話になってしまいますが、情緒やリーダーシップを育てるということはもちろん大事なことです。私はこの必要性を否定するわけではまったくなく、「知性と教養を育てる」という狭い意味で考えての話をしています。
 私が書いたゆとり教育の話も文系と理系の話もここに行き着くのですが、知性と情緒は対立するものではなく、まったく別のものだというのが私の意見です。全然別のものなのに、両立できないという仮定を置くのが間違いだということです。
 以上、私もとりとめのない話になってしまいましてすみません。
No.490) ASAP(Sat Nov 6 10:08:23 2004)
返答ありがとうございます。
まず、EQの意味ですが情緒指数の意味で使っています。教育指数という意味は知りませんでした。勉強しておきます。
文系と理系の話、了解です。コラムの内容は私と同じことを考える人がいるんだ、と安心しました。私もどう分類されるかは考えてみようかな、と思います。
教育のビジョンに対しては「主体的に考えられる大人をつくる」というのも良いですね。私も主体的に考えているつもりでも、ちまたの情報に流されているだけで主体的でなかったということも多いので、本当の意味で主体的に考えるというのは結構難しいですよね。私の考えたビジョンより、より本質に近いものだと思います。私は少し時事的なことも考えてきっと20年後はさらにグローバル化していてそのときは日本人はどうなっているのが良いのかを考えて少し具体的に書いた次第です。
あと、私の書き方が悪く知性と情緒を完全分離できる、または対立するような感じになってしまいましたが、これはiwatamさんと同じで考えで両立を目指すものと考えています。ただ、学校のカリキュラムとして分けても良いのでは、と思います。今はIQ的要素はカリキュラムに入っているでしょうが、主体的に考える大事さとか情報の収集方法とかやる気の維持方法とかiwatamさんのホームページで書かれているようなことを教えることはカリキュラムにないと思うので、EQ的なカリキュラムを作ってしっかり教育してみたら?と思う次第です。(道徳の授業に哲学・心理学(EQの考え方)を織り込んでより具体的にして重要度を上げるイメージです。勿論実践の機会を与える必要もあると思います。)
ちまたのBBSを見ると少し心が痛みますが、iwatamさんのサイトは安心して書込みができます。本当に良いホームページですね。
No.491) 自己レスです ASSP(Mon Nov 8 02:02:22 2004)
すみません、自己レスです。
教育について論じる前に、現状を知らなければまずいと思い、文部科学省のページを調べてみました。
そうしたら、教育基本法に素晴らしいビジョンが書かれているのですね。でも、今はそのビジョンどおりになっていないので何年か前から改革が始まっていて、その改革のビジョンが生きる力を育む(特にEQ的要素の強化)ということになっていると認識しました。私の不勉強さに反省しきりです。
そうなると、なぜそこまで分かっていて対策が下記のようになるのだろうかと思ってしまいます。
・ゆとり教育
家庭・地域に恵まれずにEQが低い子供はよりEQが低下してしまうのでは?と思います。逆に家庭・地域に恵まれてEQが高い子供はゆとりを使って更にEQを高められるでしょうが・・・。
むしろ、教師にゆとりを与えるためのゆとり教育?(部活やっている教師には関係ないかもしれませんが)
・総合的な学習の時間
この考えは良いと思うのですが、カリキュラムがあまりに自由すぎで、教師の力量によって教育の質のバラツキが出すぎますし、負担も大きすぎると思います。これは教育の機会を平等に与えるというビジョンに反するのでは?と思います。IQ・EQ双方の向上のためにもより具体的なカリキュラムにした方が教師の負担も減りますし良いのではと思えます。(もしうまい教科書を作ったら商売できるのかな・・・。)
・絶対評価
絶対評価にした方がIQ・EQの評価を正確にできるのでしょうか?私はIQ的要素は相対評価で自分の力を知り、その上で今後どうすべきかを考えるべきだと思います。絶対評価にした理由も見てみましたがいまいち納得できません。

以上の疑問も私の認識違いかもしれないので、もう少し調べてみようと思います。それでもどうしても分からない場合は文部科学省にでも質問を投げてみようと思います。
以上、iwatamさんのBBSに意味の無い投稿をしてしまったようで申し訳なく思います。もし、iwatamさんのBBSにふわわしくない内容でしたらお手数ですが削除して頂ければと思います。

No.492) 気兼ねなさらず書き込みはご自由にどうぞ iwatam(Tue Nov 9 02:10:57 2004)
何を書こうか考えていたらずいぶん遅れてしまいました。すみません。

絶対評価についてですが、相対評価だとクラスによってたまたま出来の悪い子が揃ってしまうと、自分の実力以上の評価がされてしまいます。ある事柄を自分が理解できたかどうかという評価をするのに、他人がその事柄を理解できたかどうかは関係ないでしょう。ただ、そうやって絶対評価をするのは難しいとは思います。

おっしゃるように、総合的な学習とかゆとり教育といったものは、教師が大変でしかも先生の力量によってばらつきがあることが問題だと思います。本当だったらそこで「お金をたくさん払っていい先生をたくさん揃えよう」になると思うのですが、先生の方にばかりしわ寄せが行ってしまっているのが現状のように思います。
(といっても現状をほとんど知らないのですが)
良い教育をするにはコストがかかりますので、それをどう負担するのかという話になると思います。

結局、何を目指しているかはわかっているけれどどうやってやればいいのかがわかっていない状態なのではないでしょうか。そして、その成果はテストの点のように簡単には見えてこないので、現場にも迷いがある状態のように感じます。

最後に余談:レンタルビデオで映画「スクール・オブ・ロック」を観ました。こじつけて言えば、この映画はゆとり教育の話です。堅苦しくないコメディ映画ですので、もし機会がありましたらどうぞ。

No.486) kuon[HOME](Mon Nov 1 04:18:03 2004)
コラム: ゲームとリアリティ を大変興味深く読ませて頂きました。
私も日々、ゲームのことに関して考えているのですが、
iwatamさんのビシッとまとまった文章を読んでみると、
いままでの迷いが一気に氷解するような思いになります。

ゲームは「道」だとおっしゃっていましたが、
私も極度のゲームファンですので、何か大変嬉しいです。

また、最近のゲームには学ぶところがないとのことですが、全く同感です。
私はCIVILIZATION3にはまっているのですが、
このゲームからは多くのことを学ぶことができました。
http://stack-style.org/SidGame/civ3_introduction.html
日本でもこのようなゲームが出ればいいのですが。

おたくの歴史、カネの時代の終わりなどのコラムも素晴らしいですね。
衝撃的な内容で、時代の先見を見通しているなと感じ入ってしまいます。

いつも痛快な文章の更新の方を楽しみにしています。
蔭ながら、iwatamさんの今後のご活躍を祈念しております。

No.487) コメントありがとうございます iwatam(Tue Nov 2 22:13:24 2004)
励ましのコメントありがとうございます。以前もコメントをいただいていましたよね。いつもいつもお世話になっております。
CIVILIZATIONもいい噂しか聞かないタイトルですね。残念ながらやったことはないのですが。やりたいけど時間が・・・
またぼちぼち更新していきますので、そのときはよろしくお願いします。
No.494) キット(Thu Nov 25 00:16:50 2004)
いつも楽しく読ませて頂いております。
このコラムでは、ゲーム界での略語や専門用語が説明なしで用いられていて、読み解くのが難しくないかしらと思いました。今は、これぐらいは常識なのかしら。わからない単語が出てきたら、面倒くさがらずに検索しましょう。って、私が言うのも変ですね。

「ヘックス」と「へクス」はどちらかに統一すべきでしょう。
そんなことを考えながら読んでいたので、気づきました。
実は伝えたかったことはこれだけなんです。すいません。

No.495) ご意見ありがとうございます iwatam(Thu Nov 25 03:52:07 2004)
専門用語の使用基準は難しいですね。本人はよく使う当たり前の言葉なものが、他人にはちんぷんかんぷんだったりします。それを自覚できないところが問題でして。

どのあたりからが「読み解くのが難しい」と思われますか?よろしかったらご意見をお聞かせください。できるだけなんとかしようとは思います。
MMORPG FPS あたりは大丈夫かと思っていますが、TCGやTRPGあたりは少し危ないかなぁと思っています。ボードゲーム系の言葉や将棋のたとえなどはもはやほとんど通じないのかもと心配になってもいます。
長文を書くときにはできるだけ前に言葉の説明を載せるようにしていますが、コラムではそれは少々難しいです。どこかに用語集でも作っておく(か誰かが作った用語集へのリンクをはっておく)といいんでしょうか。

例としてあげてるものは確かにマニアックさ全開でわかりにくくなっているかもしれません。しかし一つ問題があって、皆がわかるような一般向けのゲームはほとんどやってないからよくわからないんです。うーん、困った。

No.476) 「確信犯」 ふにゅ(Thu Oct 14 17:19:50 2004)
面白い考察でした。以下の文章の定義を変更する事で故意と過失に差が出ると思います。

>正しい側面より悪い側面の方が上回っていると判断してなされる
>これは定義上あり得ない。判断は行動のベースになるものだからだ。
>「悪い行動」という言葉を「自分が避けるべき行動」と定義すれば、この矛盾がよくわかるだろう。

正しい側面より悪い側面の方が上回っていると判断したが悪い側面が無効になると信じてなされる。
俗に言う「許される、見逃される、見つからない」と思って行う行為で故意犯に当たる。

・確信犯
正しい側面の方が悪い側面を上回っていると判断してなされる犯罪
・故意犯
正しい側面より悪い側面の方が上回っていると判断したが悪い側面が無効になると信じてなされる。
・過失犯
正しい側面と悪い側面の比較ができないままなされる
正しい側面も悪い側面も考えないでなされる

としてみては如何でしょうか?

No.477) 故意犯とは iwatam(Thu Oct 14 19:18:28 2004)
おっしゃるとおり、確信犯と故意犯と過失犯は違うものです。私は故意犯を「正しい側面と悪い側面の比較ができないままなされた犯罪」と(文章には書いてませんが)定義しました。
「あいつを殺したい」と思って、それに悪い側面があることも認識したけれども、それに対して「いや、これは本当はいいことなのだ」と思うまでに至らずに「人殺しは本当は悪いことなんだけど……ええい、やってしまえ」とやってしまうのが故意犯です。自分の中で結論が出ていなくて、迷いがある状態です。
「悪い側面が無効になると判断した」というのはすなわち「悪くないと判断した」ということなのではないでしょうか?ここでは、「善悪は自分で勝手に決めるもの」言い換えれば「人殺しでも泥棒でも見つからなければ全然OKだと思う人にとっては、見つからない=悪くないという定義である」と仮定して話をしています。
No.478) ふにゅ(Fri Oct 15 09:53:24 2004)
見つからない=悪くないという定義とするならば確信犯と故意犯は同じ扱いになると思います。社会的(宗教的、政治的など)な考えによって正しいと思ってなされる行為が確信犯。個人的な考え(見つからないのでOKなど)によって正しいと思ってなされる行為が故意犯。という方が現実にあっているように思われますが如何でしょう?「正しい側面と悪い側面の比較ができないままなされた犯罪」も故意犯に含まれると思いますが、計画犯は「これで見つからない」と判断が行われた末に犯行が行われていると思えるからです。
No.479) 社会的な考えとは iwatam(Fri Oct 15 14:52:47 2004)
あなたの言うことはまさにその通り。問題は、社会的な考えかどうかによります。そして、問題の原因は、社会的な考えというものが存在しなくなっているからです。宗教(例えばオウム)は社会的か?とか、政治(例えば右翼街宣車)は社会的か?と考えると、「政治も宗教もまともな一般人のやることではない」「政治も宗教も社会的でない」という結論が出がちです。(例えが悪いのはその通り。ただ、一般の人が政治活動や宗教活動というと真っ先に思いつく例です。)
とすると、社会的な考えとは何なのか。端的に言えば、「社会などというものは存在しない」という考え方は社会的な考え方なのか?という質問になります。
上に書いた話では、確信犯と故意犯を分ける境は「見つからない=悪くない」という定義を自分自身でするかどうかにかかっています。そういう定義をしてしまった人は確信犯で、していない人が故意犯というわけです。
No.482) ふにゅ(Mon Oct 25 14:15:32 2004)
なるほど、社会的とは何かという所が問題の根幹だったのですね。考えが至りませんでした。しかし、その個人が社会的と思って行った行為が法律上の犯罪行為である場合を確信犯としたいです。(ここら辺に来ると客観的な意見ではないような気がしてきます)右翼やオウムに属している個人からするとそこが社会の全てである場合、犯罪行為でないという認識の元に法律上の犯罪行為が行われます。国という単位の大きな社会に反する集団という小さな社会で正当化された行為を行う事を確信犯とする。というのが私の考え方です。
集団心理による犯罪の分類に対応する言葉なのだろうか?
No.483) 原義はそうじゃないかと思います iwatam(Tue Oct 26 02:23:16 2004)
私も、大きな社会と小さな社会の対比の話は直感的にそんな感じがします。それが原義に一番近いのかなぁと思います。それが、社会がだんだん変わってしまったせいで、意味が変わってきたのではないかと思います。
まず、国(あるいは大きな社会)に自分が属しているという感覚が少なくなり、「国は正しい」という意識がなくなってしまったこと。国は正しいどころか間違っている存在であり、いつもいつもマスコミに批判されっぱなしです。
そして、小さな社会がどんどん細分化されて、しまいには自分ひとりになってしまったこと。大きな社会の力が強かった頃は、それに立ち向かうには団結しなければいけませんでした。今では多くの人は国が正しいなんて思っていないので、わざわざ徒党を組まなくても一人で「国は間違っている」と言うことができてしまいます。

大きな社会を批判して小さな社会を作り、その小さな社会も批判して結局個人になってしまったというのが、私の言う確信犯の解釈に納得のいく人たちなのではないかと思います。
大きな社会に反対して小さな社会を正当化するのは何か変じゃない?それって社会の大きさが変わっただけで結局同じ穴のムジナじゃん。どうせやるなら社会をすべて否定しないとダメだよ。というわけです。これが正しいかどうかは別として、こんな感じで確信犯=社会正義の否定になってしまったのではないかなぁと思います。

No.484) もともとの「確信犯」 miy(Tue Oct 26 20:30:07 2004)
「確信犯(確信犯人)」という概念は、もともとラートブルフ(Radbruch)という個人によって提唱された概念であったようです。もともとの「確信犯」という言葉の意味するところは、彼の文脈によってある程度限定されます。(確信犯という言葉は、どうやらUberzeugungstat/verbrechenの訳語であるようです。)
この場合の文化庁の調査は、単純に、「言葉の出自に関する知識をもっているか?」という意図のもとで行われたのではないかという気がします。

私は「文化庁の定義は言葉足らず」という主張に賛成しますし、コラムの本文にも反論はありません。
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もともとの「確信犯」意味に従うなら、文化庁の掲げる「確信犯の正しい意味」が示そうとした意味は、
「政治・宗教等に関係した、(この世はこうあるべきであるという価値観に由来する)信念に基づいてなされる、法規定の違反」あたりになるのではないかと思います。
文化庁の文における「政治的・宗教的など」という限定句は、政治・宗教が世界に対する見方を強く提供するものであるために添えられたものなのでしょう。(解釈する人によって、ここに「道徳的」「思想的」などの言葉を並べていることもあります。また、「信念」の部分を「信念にもとづく義務感」と表すものもあります。)

「(もともとの)確信犯」と「(法律用語としての)故意犯」の領域は、重なる部分もそうでない部分もあるようです。「確信犯」は、法規定に違反するという認識の有無について言及しません。
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文化庁の文の問題は、コラム本文でも述べられているように、「正しい」「悪い」に関係した情報を欠いている点だと思います。
間違いとされている文に関しては、直感的に、私は「『(法体系において)悪い』(=法律違反の)行為であると分かっていながらなされる犯罪行為」、つまり故意犯を指し示す文だと感じました。
一方、誤用する人の解釈として、コラム中では「『(自己の利益において)悪い』(=損な)部分がある行為であると分かっていながらなされる犯罪行為」というものが挙げられています。文化庁の文を見る限りはどちらともとれるのであって、「正解」「間違い」のラベル貼りをするには確かに曖昧すぎる文だと思います。
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上の話とはあまり関係がありませんが、
確信犯といって「右翼・カルト」が浮かぶという背景には、「既存の国(およびその法律)は正しい」という意識の方がむしろ生きているような気がします。

「政治・宗教等の側面から正しいと信じて、実定法に反する行為を行う」という文から、例えば、
・国の政策により、国内にいる、ある特定の身分の人間を捕らえて収容所に送る(あるいはこれに協力する)ことが国民に義務づけられる。その身分の人間をかくまった者は、法律により処罰される
・自分が属する宗教の側面から見て、このような状況は許されないと考え、あえて法律に反する行為をとる
という確信犯人の像が浮かびます。

ラートブルフが生きた時代はドイツの1800年代後半から1900年代前半であったそうですが、彼の持つ国家像は、今の日本のそれとは大きく異なっていたのではないかと思います。

No.485) 確信犯のもともとの意味 iwatam(Wed Oct 27 21:11:30 2004)
上の「大きな社会」「小さな社会」を原義だというのはおかしいということでしょうか。
一般の「確信犯」を誤用だと言う人の中に、こういう(=小さな社会という)ニュアンスでの定義をする人が少なくありません。ですので私はこちらが原義でその解釈が変化していったのかと思いましたが、もしこちらが誤用だとすると、人を「誤用だ」と言っている中のかなりの人は自分たちも誤用しているのかもしれません。
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もともと、「政治的・宗教的なもの」というのは「世界の見方」です。しかし、世間ではこれを「ある特別な規則を持つ社会集団」という意味で使うせいで、意味がずれてきているのではないでしょうか。
つまり、正しい文を「自分たちの集団が持つ規則を優先し、国の決めた規則に違反すること」と読んでしまうということです(これが前の小さな社会の話ですね)。そうすると、これは確信犯の本質である「信念」の概念を含まなくなってしまいます。(文に「信念」と書いてあるのに含んでいないというのはどういうことだと思われるかもしれませんが、「政治的・宗教的などの信念=特別な規則≠一般的な信念」と解釈してしまうということです)
それなりに普及していると思われる考え方に「正しい=規則を守る」という考え方があります。犯罪でなければ何をやってもよいという考え方です。この考え方に基づくと、正しさというのは規則(法律)がないと定義不可能だということになってしまいます。「信念」も「確信犯」も定義不能になってしまいます。そうなると、確信犯を定義するには上のように読む必要が出てきます。
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もう一つ、ドイツ語のuberzeugen は英語のconvince、日本語で言うと「説得する・納得する・確信する」という意味です。証拠を挙げて論理的に結論を出すという意味です。話を聞いて、なるほどその通りだと思った、という意味です。
日本語の「確信」あるいは「信念」は、アプリオリに正しいというニュアンスが含まれてしまうように思います。誰が何を言おうと俺が正しいと思っていることは変わらないんだ、という意味です。政治的・宗教的という補足のせいで余計にそう解釈できるように見えます。ここも間違いの原因かとも思いました。
「確信」という訳語はニュアンスを間違って伝えているので、直訳した文をそのまま「正しい」とするのは違和感があるのです。
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上の話とはあまり関係がなく「国は正しい」という意識の話をします。
昔は法律は変えられないものであり、それが間違っているとしたら法律を破るしかなかったわけです。今では(建前上は)間違った法律を変える合法的な手段がいくつもあります。とすると、昔の概念をそのまま持ってきても通用するはずがないという気がします。
「国は間違っている」と言えること自体が国の正しさの証です。アメリカを指してよく言われる話ですが。
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ご指摘のおかげで、私の中ではまた一つ何かがはっきりしたような気がしました。
ありがとうございます。
No.471) 問題の問題の問題 狩野宏樹(Thu Oct 7 12:52:19 2004)
作図して分度器で計ることを教えないのはなぜですか?
実用性を云々するなら一番確実な方法だと思うのですが。
No.472) 実は・・・ iwatam(Thu Oct 7 16:11:42 2004)
図形を作図して求めるのと解析的に求めるのは大きな違いが一つあります。
作図して分度器で計った場合、その答えが本当に30度なのか、それとも本当は29.8度なのかがわかりません。作図の場合は本質的に誤差が含まれてしまいます。
そういう意味では、「電卓をたたけば答えが出る」というのも厳密には誤りです。電卓をたたいて出た数字には誤差があるからです。しかしこれは作図と違い、桁数の多い電卓を持ってこればいくらでも誤差は小さくなります。
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本当のところを白状すると、式を三角関数の公式に従って単純化しただけできれいに答えが出るんじゃないかと思ったのですが、最終的には答えがでたもののそれが恣意的ではなかったかというとちょっと疑わしいところがありました。それであまり歯切れのよくない書き方になっています。
もう少し理詰めで考えて何とかなるような気はするのですが……
No.473) 「「問題」の問題」はやはり問題? あらきけいすけ[HOME](Tue Oct 12 13:59:23 2004)
大学で教育をする身から考えると、分度器を用いる方法を否定的に考える理由が分かりません。

きちんと作図をし「ほぼ30°」というあたりをつけてから、必要な精度に応じて電卓、そして理論計算に移行していくというのが、貴方の考えるベストの教育像に近いのではないですか?

あなたの趣旨では中学の解き方がパズル的であることが問題だったのですが、高校数学を用いた解放も10、20、等の角度の三角関数の処理というパズル的要素を含んでしまうという点で「同じ穴の狢」になりかかってませんか?

あなたの主張の骨子は「問題解決の能力をつける教育とは」のはずです。作図はダメで電卓はOKという回答に基準の曖昧さ、思考の詰めの甘さを感じます。

No.474) 値を出すことは問題ではありません。 iwatam(Tue Oct 12 16:16:30 2004)
結局、あの問題が何を質問しているかによるでしょう。
もし本当に角度が知りたいのであれば、おっしゃるように作図して求めればいい話です。
「電卓で求めればいい」と書きましたが、「電卓で求めなさい」というのが真意ではありません。「式さえ導ければ、値をわざわざ計算する必要はない」というのが真意です。
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作図をする方法では実用上の精度が云々と言っているわけではありません。実際の問題解決では作図でほとんど用は足りるでしょう。しかし、これは実際の問題ではないのです。数学で「解ける」というのは、実用上十分な近似解が求まるということではなく、厳密な解が求まるということです。
作図による方法と電卓の方法では違いが一つあります。作図による方法では、一度も思考レベルに問題がブレークダウンしていないことです。「やってみたらそうなった」というだけで、一度も考えていません。それでは本当に「問題を理解して解いた」とはいえないでしょう。だから作図ではダメだと言っているのです。
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おっしゃるように、最後、きれいにtan30°を出す部分は恣意的な解法が入ってしまっていますので、書いたとおり、これでよしとは思っていません。(本当はもっときれいにまとまるかと思ったけれどまとまらなかったもので・・)
少なくとも、dy/dxまでは、何のパズル的要素も必要なく出るはずです。
そして、その式に変数が入っていなければ、それがどれだけ複雑でもそれで一つの「答え」です。重要なのは、「電卓を叩けば答えが出ること」ではなく、「人間が考えなければならない要素がもう残っていないこと」です。後者を「あとは機械的プロセスだけで答えが出ること」つまり「電卓で答えが出ること」と言い換えました。
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結局、あの問題で何を考えてほしいのかを考える必要があります。あの問題であそこの角度が30°になることはどうでもよく、もっと一般化して考えてほしいのです。「どんな図形でも適切に長さや角度が与えられていれば他の長さや角度が求められる」というのが重要なことです。そして、どういう場合には求まり、どういう場合には求まらないのかを考えるのが、真に「理解する」ということでしょう。
No.475) 貴方のページを拝見しました iwatam(Tue Oct 12 20:16:29 2004)
リンクされている貴方のページを拝見いたしました。それで、根本的な違いがよくわかりました。
貴方は「生きた知識」とは「優れた問題解決能力」だとおっしゃっています。私は、そうではないと主張しています。根本に食い違いがあることをまず認識していただきたいと思います。
そもそも、知識に生きるも死ぬもないというのが私の主張です。知識というのは問題解決の道具ではなく、それ自体が目的になるものです。人間は、ムダな知識を蓄えることに喜びを覚える唯一の動物です(とどこかで…)。教えるときにも、知識を得ることそれ自体の喜びを伝える必要があります。
(という話で行くと、私は「生きた知識」は定義しないという立場ですから、「私はその上に立って生きた知識をこう定義する」というならその通りです。そして、そう定義するなら、生きた知識しか教えないのは良くないという意見になるわけですが。)
「教わる」というのは、記号として与えられた知識を自分で内面化することです。多数の例や断片的な記述から、自分の中でその総体的なイメージを作り上げることです。知識を抽象化していくことだとも言えるでしょう。自分でも何を言っているのかよくわかりませんが、口では言い表せない何かであると解釈してください。「感激にうち震え」などと表現したのはこのことです。
これは、問題ができたことによる達成感や、テストの点が上がったことによる優越感とは別のものです。ここを勘違いされないためにも、あまり機械的操作の多すぎる問題や公式への慣れが必要な問題は避けるべきだと考えます。
機械的操作や公式の記憶が必要ないと主張するわけではありません。知識や思考とは何かということがまだ良くわかっていない人に対して、公式の暗記が知識であり思考であると間違って解釈されないようにしなければいけないということです。
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「そのコタエは自分で見つけるものだよ。 みんなそうやってオトナになっていくんだ。」とおっしゃっておられますね。その通りです。
ただ、この発言を「そんな質問をするな」という意味で使う人がいるので気になった次第です。「運動方程式とは何か」という質問は、生徒がするべき質問で、その答えも自分で考えるべき質問です。生徒が「運動方程式とは何か」と聞いてきたら、先生は喜んで「よくぞその質問をした。そのコタエは自分で見つけるものだよ」と言うべきだということです。
こういうことに対して答えを自分で見つけようとしないで、ただ公式を暗記して問題を解けるようになっただけで「コタエを見つけた」と思ってしまってはいけないということです。
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なお、あのコラムの主張は「こうやって解かせよ」ではなく、「解かせるな」という主張です。その上で、もしやるならせめてこんな風にすべきだと主張しています。どう解いても同じ穴の狢になるのはそのとおり。それは解法や考え方が悪いのではなく、問題が悪いからです。
No.480) がっかりしました あらきけいすけ(Fri Oct 15 20:08:46 2004)

「「問題」の問題」の問題点についてはここでは議論しません。

わたくしの拙いページをご高覧いただきまことにありがとうございます。 自分のページがこんなに曲解され得るものかと思うと、 自分の筆力の無さに内心忸怩たるものがあります。

あなたはこうおっしゃいました。

「教わる」というのは、記号として与えられた知識を自分で内面化することです。多数の例や断片的な記述から、自分の中でその総体的なイメージを作り上げることです。

「多数の例や断片的な記憶」が私の述べる「データベース」に対応し、 「自分の中でその総体的なイメージを作り上げる」際に 私の述べる「状況を分析する能力」を用いて知識を「海馬から」読み出し、 読み出された知識の間の関係、関連を調べ、 体系付けるという内面的な行為を行っています。 あなたの述べた「内面化の行為」の基礎には、 私の述べた二つの要素がすべからく関わっています。
 わたくしは「生きた知識」を定義していません。 「生きた知識」すなわち「現実に活動している人間の認識、実践の能力」には、 「ソフトウェア」と「データベース」でモデル化できる側面があることが 見て取れるという観察事実を述べているだけです。 観察事実を述べているから、 あなたの「内面化の行為」を私が提示した言葉で説明できるのです。
 わたくしたちの間に「根本の食い違い」などどこにもありません。
 そこをわざと食い違っているかのように前提して議論を進められたので心外です。 あなたはわたくしが「問題解決能力」という語を用いたとき、 「問題」を「ペーパーテスト」の意味で解釈していませんか?
 わたくしの教師としての経験から言うと、 「わかりました」などと軽率に発言する学生ほど理解が浅いものです。

 わたくしはあなたの意見を尊重します。 しかし問題があると考えれば、批判をします。 わたくしはこの「反論」をあなたの意見を変えるつもりで発してはいません。 わたくしの意見を誤解されたので誤解を訂正していただくために申します。

[追伸] 「そのコタエは自分で見つけるものだよ」の真意は (なぜかここは誤解されていないのですが)「そんなクダラナイ質問はするな!」 という意味です。自然科学の教育では自然現象の理解が大切です。 「運動方程式とは何か」ではなく 「運動方程式の解が自然現象の理解をどう進めるか」を体得することが大切です。 そこのところであなたの自然科学のこれまでの勉学が うわすべりの浅薄なもので終わっていやしないかと推察しています。

No.481) 食い違いがないとわかってうれしいです iwatam(Fri Oct 15 22:11:13 2004)
あなたのおっしゃるように、私の読み取り違いでしたらよいのですが。
あなたのいう「問題解決能力」とは、「実際に動作する機器を作成する」こと、あるいは「正確なデータ出力の能力」であると私は解釈しました。それで、そうではないと申しあげた次第です。もしあなたの言う問題解決能力が「状況を分析して内面化すること」なのでしたら、その通りだと思います。
しかし、もし問題解決能力とは状況を分析して内面化することだとすると、作図して分度器で計るという行為はこれには当てはまらないでしょう。
一つわからないのは、あなたの上の意見を「反論」だと述べていることです。あなたは「わたしとの間に意見の食い違いはない」とおっしゃっています。つまりこれは「反論はありません」と言っていることではありませんか?
あなたが私と同意見なのであれば、私としてもうれしいところなのですが。
No.459) Administrator(Wed Sep 15 22:27:01 2004)
ハード寄りでありながら、CがJava, Perlよりも優先順位が低い理由を教えて下さい。
No.463) その理由は iwatam(Wed Sep 15 23:58:37 2004)
やはり、ハードをやるときはC以外にほぼ選択肢はありません。
なぜ優先度が低いかというと、一つは「趣味の話」であって、仕事の話はまた別だからです。仕事ではやっても、なかなか趣味でまでハードをやる余裕がないもので。もう一つは、趣味ではきちんとしたプログラムを作る気力がなかなか起きないからです。
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自己紹介のページはなんとなく書いたしょーもないページで、あまり深い理由はありません。こんな回答ですみません。
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