ずっと日常会話としてしゃっべていました。しかも質問形で相手に問いかけて答えを求めていました。相手が「分からない」と言っても質問が分からないのかと問い詰めてしまったり……かなり周囲に迷惑をかけてしまいました。
人間の思考が変化することには私も賛成です。変化しないのは「本質」ではなく「個性」という方が適当かもしれません。簡単に言えば「何を望むか?」です。仏教的には「業」かしら?
何に対して価値を感じるかに思考パターンは影響されます。しかし価値観は変化しても、価値を感じる対象は変化しないと思います。
「優しい人が冷たくなる」は思考パターンの変化です。しかしその根底には「優しくされたい」という願望があり、そう感じることは生涯続くほど強い感情だと思います。
相手の希望が分からない時、自分がして欲しいことを相手にします。しかし相手も同じ希望を持っているとは限りません。違う場合は自分は一生懸命やっているのに、相手からは返してもらえません。して欲しいことは自分が詳しいことです。「他人に求めるのではなく提供出来ることなんだ」と最近は思うようになりました。自分について言えば、理解して欲しいから理解しようとするのだと思います。
例えば人から褒められることが好きな人が「不特定多数からの絶大な支持」に価値を持っていたのが、「特定の人物からの好意」にも価値を感じるようになったのは思考パターンの変化です。褒められたいのに認めてもらえないから「認めてくれない相手を否定する」ことも、どうせおれなんかと「自分を否定する」ことも思考パターンの変化と言えます。しかし4つの思考パターンの中心に変わらずあるのは「人に認めたれたい」という気持ちです。この共通部分を指して「個性」と言っています。
認められたいから人に優しくしていたのが、受け入れられなくて冷たい態度を取るようになっても、認められたいという気持ち自体はなくなりません。だから「本当は優しい人なのに」ではなく「本当は優しくできる人なのに」と言う方が適切かもしれません。
痴呆にかかると理性で抑えられていた欲望がストレートに出てくるそうです。子供など周囲のことを思って行動していたのが、理性が働かなくなり幼児の様な自己主張をし始める。しかし配慮が出来なくなっても、子供の頃に親にしてもらった思い出は変化しません。そして自分に主張がなければ良くも悪くも親と同じ態度を取ります。どうすればいいのか分からないけれど何かしなくてはいけない時、人は何かを模倣するからです。だから虐待も愛情も連鎖するのだと思います。そう考えると、この例の場合は「本質」ではなく「記憶」が適当だったかもしれません。
「誰でも人に認められたいと思う筈」と反論されるかもしれません。確かに否定されるより肯定されたいと思うでしょう。しかし重要度は人によって異なります。私はそういう気持ちが弱く、自分が思った通りに行動してしまいます。「認めてもらうこと」より「知りたい」という気持ちが強いです。それは分からないことに対する恐れや不安の形となって表れます。自分で考えることを覚えるまでは、他人を問い詰める悪い面が目立ちました。質問ではなく答えが分からないと言っていることに気付き、分からないと疑問に感じる自分が考えればいいのだと知りました。
個性によって出来ること・分かることはある程度決まります。個性は力の向きであり、働く場所です。力そのものに意志はありません。使う人間次第で良くも悪くもなります。自分を知って力をコントロール出来るようになれば意識してよい面を出せるようになります。そうなると違う個性の集まりでも似たような結論に落ち着きます。そしてその結論を実行する為に個性によって役割分担が自然と決まります。それが面白い群像劇を書く秘訣のような気がします。私にはまだ無理なんですが。
「固定した思考パターンとして人物を描くのか」「生涯続く強い感情に左右される個性を持った人間として描くのか」は、コラム「おたくの歴史」に出てくる「4.9キャラクターという概念の発明」と関連する話だと思います。
出世欲が強いなど、持っている個性は生涯変わりませんが、経験によって思考パターンは変化していきます。変化の過程を描いた場合、ストーリーと人物を切り離すことは出来ません。何が起ころうといつでもおんなじ反応を返すキャラクターの場合、経験による変化はありません。
「亡き妻」と「美少女アニメのキャラ」に対する気持ちが同じなのは、「誰かを愛し・愛されたい」という欲望が共通しているからだと思います。アニメキャラ同様、死んだ人はもう変化しません。しかし生きている間は変化した筈です。もしそのアニメキャラが文脈から切り離されたキャラクターであるなら、妻が変化した過程そのものを愛するのか、キャラクターが返す特定の思考パターンを愛するのかに違いがあると思います。
娘は褒められることが好きです。だから盛んに人を笑わせようとします。しかしいつも上手くいくとは限りません。私に拒絶されて怒ることもあります。強情なので嫌な理由に納得するまでどんなに嫌がってもやめません。理由を説明するのはめんどくさいけれど、判断できるようになる為には必要な過程なのだと思えるようになりました。子育ての醍醐味はそういった「思考パターンの変化を見れること」かもしれません。出来ないことが出来るようになるとか、分からないことが分るようになるとか、アイドルの追っかけも基本的に同じだと思います。成長していく様子がみたいのだと思います。
「本当の自分」や「ありのままの私」も「特定の思考パターンではなく個性」という意味なのかもしれません。「美しい容姿」や「同じことを面白いと感じる」といった特定の状況を求められ、愛されようとそれを維持するから人間関係が辛いのかもしれません。私自身はありのままにしか振舞えない性格なので想像です。何を求められているのか分からず困ることはあっても、期待に答え続けるのが辛いという経験はありません。
長くなってしまいました。多様性がもたらす豊かな世界を書く為に「自己実現」や「個性」について調べているところなので、私にとっては興味深い話題です。iwatamさんがよければもう少し会話を続けたいのですが、いかがでしょうか?
賛同いただけるなら、キャラクターと個性の関係について意見を聞かせていただけませんか?
※「業」ではなく「煩悩」の方が近いかもしれません。
私は哲学的な話は大好きなので喜んでのりますが、中には嫌いな人もいるかもしれません。
ここに関してはこういう話題は大歓迎ですのでご心配なく。
あなたのいう「個性」が生涯変わらないか、というところも私は疑問に思っています。おそらく変わるのではないかと。
「人に認められたい」という気持ちが、「人に認めてもらわなくても問題ない」に変わってもおかしくないと思うのです。
とすると、生涯変わらないものは何か。私は「ない」と結論づけます。
しかし、「変わらないもの」はないと結論づけますが、「ほとんど変わらないもの」はあると思います。「変わる」と「変わらない」に二分するのではなく、「やや変わる」「なかなか変わらない」という程度問題だということです。
だから、個性と思考パターンは完全に分離できるものではなく、すべては個性と思考パターンの中間にあるものと思われます。
と言っておいて何ですが、もしかしたら個性とは「思考パターンの変化のパターン」なのかもしれません。そうすると「思考パターンの変化のパターンの変化のパターン」ももしかしたらあるのかもしれません。
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という話をした後で突然小説の話ですが、私がなんだかなぁと思う小説には、この、変わるものと変わらないものの絶妙なバランスが足りないことが多いです。
たいていは「変わらない」ことが多いですが、ある出来事を境にがらりと別の個性に「変わって」しまったりします。これが唐突で違和感を感じてしまいます。
なるほど、今のキャラクター重視の小説が肌に合わないのはこういうわけだったんですね。私は人の「変化」を見たいのであって、人の思考パターンを見たいのではない、と。そのためには話が時間的に連続していなくてはならず、ストーリーが欠かせないというわけです。
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ただ、「思考パターンは変わるものだ」としてしまうと、そこに正当性がなくなってしまいます。
例えばキャラクター小説では、下手に書くと「こいつの性格ではこんなことはしないだろ」と言われます。しかし本物の小説では、性格は変わるものなのでそれもアリになってしまうわけです。しかし、下手に書くと読者に違和感を感じさせます。
キャラクター小説の場合、「性格は変わらない」という一つのルールであって、その通りに書けばOKなわけです。しかし、本物の小説では、ルールはないはずなのに下手に書くと違和感が生じます。そこが難しいのだと思います。
理由もないのになぜ違和感を感じるのか、そこは非常に難しいところです。
話を続けることが出来て嬉しいです。ありがとう。
あのあと少し調べたところ、「人に認められたい」という気持ちが「煩悩」で「人に認めてもらわなくても問題ない」が「悟性」のような気がします。
自分を例に上げれば誰も傷つけませんから、自分に関して話しますね。
私は自分の意見を人に理解してもらいたかった。皆と同じように「そうだね」と言って欲しかった。でも言ってもらえない。だから「どうして?」と問い詰めてしまう。
でも同意されなくても困らないのです。「面白い」と言わせたくて仕方ない人には私が何を悩んでいたのか分からないと思います。他人と違う意見を持つというのは「オリジナリティがある」ということなのでしょう。それはシナリオライターを目指す上で利点です。しかしいつも「違う」と言われることはとても寂しいことです。でもiwatamさんも私とこうして話を続けてくれるのですから、同じでなくても気にしなくてもよかったのです。
「ではあなたは悟りを得たの?」と聞かれると困るのですが、確かにそれが分かってから私は以前のようにイライラしなくなりました。
私を育ててくれた人が「理解を求めず説明しなさい」と繰り返し教えてくれていたのだけど、私には何を説明すればいいのか分かりませんでした。何故違う意見になるのか「思考過程を言えばいいのだ」と気づくまで、質問を繰り返すことしかしていませんでした。
次に「個性は変わるか?」という問題ですが、私の意見は「変わらない」です。私が思いついたことは生涯同意されないと思います。けれど、学習することは出来ます。この学習が「リリィ」のもう一つのテーマです。最初の「サイバーパンク」に話題が戻りますが、「他人の神経細胞の興奮パターン」を覚え、「あの人ならこういうだろう」と考えることで自分ひとりとは違う結論を出すことです。
「カイの中のリリィ」というのは、リリィが死んでもカイが「リリィならどうするだろう?」と思い出すという意味です。
カイはハムレット型思考の持ち主で、「やるべきか・やらざるべきか」で悩みます。リリィは「やりたい!」と思った通りに行動するので「やる・やらない」で悩みません。「どうやるか?」しか考えません。けれど「やる・やらない」の中には実行した場合のリスクが含まれています。それを考えないリリィには「実行する際の注意点」が分かりません。リリィは生涯馬鹿なままで学習しませんから、そこをカイが補い旅をしていきます。カイはリリィの「リスクを恐れず自分の望む方を選ぶこと」を学習していきます。
以上から「面白いドラマでは個性の吸収が起きている」が私の結論です。
私が「何故?」と思わなくなることはありませんが、聞かずに人の真似をして考えることは出来ます。知っている人間(個性)が増えるほど、様々な点を考慮して結論を導き出せるようになると思います。しかし集団のなかで私に求められる役割は「する」の主張で、結論を出すことではありません。「する・しない」で迷う人と比べれば劣った答えしか出せないからです。
判断がつかない私にとって、「する・しない」で迷う人に不可能なことなどないのではないかと思えます。しかし迷わない私には簡単な「自分の気持ちに忠実に行動すること」が難しいのだと知りました。つまり「出来ない理由」を言われて反論できないからと黙ってしまっては役割を果たせない。そういう意味でカイに主張を譲らないリリィは役割を果たしているのだと思います。でもカイの方は個性が描けてませんから、そこを何とかしたいのです。
そんな訳で「自己実現」や「個性」について研究中なのです。
もしカイが「悩んだ上で結論を出す」のではなく、リリィのように「何も考えずに行動する」に変われば「おかしい」と感じる筈です。iwatamさんの言う「違和感」は、「カイがリリィになってしまうこと」だと思うのですがどうでしょう?
私は、人と意見は違っていていいのだ、むしろ違っているほうがいいのだと肝に銘じて日々やっております。わざわざ肝に銘じるということはなかなかそう思えないということなんですけれど。
「カイの中のリリィ」の話をしますと、カイは「リリィならどうするだろう?」と考えます。普通はそこでおしまいではなく、「リリィだとこうするだろうから、勇気を出して僕もやってみよう」と思うでしょう。
すると、これは考えるパターンが変わったわけで、これを「個性の吸収」と呼ぶか「思考パターンの変化」と呼ぶか、はたまた「個性の変化」と呼ぶか、これは言葉の定義の問題なのであまり重要ではありません。とにかく、あなたの言うような何かが変わるということです。
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私の違和感をもう少し考えてみましたが、これは変わろうという意思を持っていないことに対するものです。「リリィは生涯バカなままで学習しません」と書いておられますが、そんな人は実際には存在しないでしょう。うまく行かなかったときには自分なりに考えるでしょうし、少しは他人を見習ってうまくやろうと考えるでしょう。
もちろん、問題だと思っていないことに対しては変わろうとも思いません。しかし、問題だと思ったことに対しては変わろうと思うはずです。それがないといかにも作り物っぽく感じるのです。
人間は常に「変わろう」と思っていて、例え行動は変わらなくても内面は徐々に変わっていきます。そして、その変化がある一定値を超えたところで初めて行動になって現れます。そうすると「突然逆ギレした」みたいに見られるわけです。
そういう微妙な内面を書くのは難しいことだと思いますが。
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「自分の気持ちに正直になる」というのは簡単なようで難しいことです。
何でもやりたいことだけをやっていれば簡単かもしれません。しかし、そこに「本当に自分がしたいのはそんなことなのか?」という疑問が出てくると、とたんに難しくなってきます。
毎日うまいものを食べて寝て起きてテレビでも見て、という生活は確かにしたいとは思いますが、きっとそれをずっと続けていたらそのうち「本当はこんなことがしたいんじゃない」と思えてくるでしょう。
やりたいことが一つしかなければそれをやればいいのですが、もしやりたいことが複数あってそれが両立できないとき、どうするかを悩むことになります。そんなときに「本当はどっちがやりたいんだ?」と考えることになります。
やるかやらないかで悩んでいるように見えますが、実は、それをやるか他のことをやるかで悩んでいるのだということです。
ごめんなさい、自分だけが知っている設定で話してしまいました。リリィが変わらないのは死ぬからです。カイについては指摘の通り成長します。主人公のカイに対して「リリィとの出会いと別れが与えた変化」なのでタイトルが「リリィ」なんです。
南国生まれのリリィは寒さに弱いです。でも、雪が見たいと主張を譲りません。ケンカしてやっと仲直りしたばかりなので、危険だと分っていたけれどカイは最後まで反対仕切れません。そして心配した通りに死んでしまいます。判断ミスでリリィを失ったことを乗り越えるのが物語のラストです。リリィなら「行きたいところへいけばいい」と答えるだろうと考え、まだ見ぬ場所へカイは再び旅立ちます。失敗を悔やむより、リリィが望むように思い通りに自分らしく生きることを選びます。
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もし笑わせようと思って笑ってくれたなら嬉しいでしょう。でも真面目に考えたことを笑われたら嫌ではありませんか? それが現実的ではなく馬鹿げた考えだから面白いと笑うのですよね?
「皆が言うだろう意見を分かった上で違う意見を言う」のと「それしか思いつけない」ことは違います。私には「皆が思うだろう意見」は学習しないと分からないのです。両方分かるようになるまでは利点ではなく欠点です。シナリオの為だけではなく、なんとかしないと生活する上で困るから真剣になるのです。
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やりたいことが一つしかなければ悩まない……そうかもしれません。一つのことで心が占められてしまえば悩む必要はありません。
いいとこどりをしようとしない。どちらかに決めてしまう。それって潔いように見えて最善策が出てこない愚かな行為なんです。どっちもかなえる方法を考えてみることが必要というのが最近学習したことです。
分かってもなかなか出来ない理由が分かりました。一つのことに心が占められて他が見えなくなるからだと思います。一つなら悩まないという指摘に納得してしまいました。冷静になる必要があるのでしょう。
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発見が目的なので結論は出なくてもよいのですが、もう少し原因を追究したいですね。しかし私も考えが上手くまとまりません。少し時間をおきましょうか?
―追加―
問題と思ったことは変わろうと思う筈……アンチから入って問題であると表現しないと納得いかない?……やはりまとまりません。性格描写と関係ある重要なことだと思うので、もう少しよく考えてみます。