旧ゲストブック

旧ゲストブックは閉鎖しました。投稿には新ゲスト ブックをお使い下さい。ここは閲覧専用です。

編集や削除のご要望がありましたら個別にやります。遠慮なくおっしゃって下さい。


No.1811) アニメは刺激物でしょう 山吹次郎丸(Mon Jul 11 22:53:31 2005)
そ・・・そーかなー・・・・?
むしろ評価すべきは腐ったアニメ、超・オタクアニメの方ですよ。
なんでかというと、「芸術は腐ってないと価値が無いから」。
もはやグローバルな言葉となった世界に誇る日本語『HENTAI』です『HENTAI』。『変』を超えた、超・変。腐敗臭すらただよう食中毒を起こしそうな『変』。それが『HENTAI』。一度HENTAIの味を覚えれば、朝日に輝くような健全な作品なんぞ、具の入っていないお好み焼きも同然。食えたものじゃありません。
娯楽ってのは、刺激物なんですよ。刺激物になれると、健全な作品なんて耐えがたいです。
熱い作品は、「健全だから」受けるのではなくて、「刺激が強いから」受けるのです。

その点では、「甘々な作品」も同じ理由で受けるのです。いくらなんでも、女の子とイチャイチャするだけの作品は誰にも受けません。「事件」が起こってくれないと刺激がないからです。刺激が無い作品は、受けない。ガンダムが受けたのだって、そんなに健全な理由からじゃないですよ。
『文部省推薦』より『有害図書指定。18歳未満お断り』の方が良いのです。
最早異性との恋愛すら拒絶し、同性愛に走ったり、婦女子が「キャーッ」てな胸毛ナッシングな殺し屋が受ける時代なんですよ。「この作品はヤベェぞぉ!」というような狂作が海の向こうで「ブラボージャパン!」の喝采を浴びるわけですよ。
はっきり言って、頭のイカれていない主人公やヒロインなんぞノーサンキューというのが私でして、その点、オタクアニメはまだまだ健全すぎです。
ドラゴンボールなんて、主人公の危険思想(オラもっと強い奴と戦いてえ!)がなければあそこまで受けなかったと思います。999やヤマトだって、有人惑星ひとつがぶっ壊れるのを見ながら「当然の末路よ」ってな一種のアウトローぶりというか、頭のネジがぶっ飛んでるのがいい感じだと思うのですが・・・。累々たる屍山血河を築いて渡り、得られるのが『主人公の成長』って、あんたそりゃメチャ黒いですよ。
はっきり言って、999やヤマトなんぞ友達が死んでも来週には忘れている連中が主人公なのであって、だからこそ「熱」く「逞し」く「見てて爽快」わけなのです。ハイ。
999なんぞ、主人公さえ来なければ死なずに済んだ人達がたくさんいるわけなのですが、そんなもの全然気にしないのです。
ブラボーHENTAI!ブラボー日本アニメ!児ポ法断固反対!

No.1813) 刺激物だというのはその通りだと思いますが iwatam(Tue Jul 12 02:03:35 2005)
アニメは刺激物だというのはその通りだと思いますが、刺激しか感じ取れないというなら、動物並みの知能ですね。
No.1815) 山吹次郎丸(Tue Jul 12 06:38:36 2005)
そうかな?
何に刺激を感じるか、というのは非常に重要なところですよ?
子供だましの稚拙な刺激に飽き足らなくなるところに娯楽の進化と深化はあると思います。
飽き足らないからこそ自分で発信するという新たなステージに進む事になる。
プロットを練り、人物を造形し、「なぜあの作品をあれほど面白く感じたのか」という自問をつきつめ、感性と業を作品の形に統合する。
最初は動物並みでも、そのうち神の域に辿り着けます。
途中で満たされてしまうと、そこで止まってしまいますけどね。
No.1820) iwatam(Tue Jul 12 19:34:06 2005)
「刺激」に「知的な刺激」を加えるのなら、その通りだと思いますし、娯楽に限らず学問でも何でもそうだと思います。
ただ、「知的な刺激」には新しさが必要です。だから、ある作品が面白く感じたからといって、それの劣化コピーを作る意義はないでしょう。それに対して、動物的な刺激なら同じようなものを作り続けているだけで意義があります。
どうも、私とあなたで「健全さ」の定義が違うような気がします。私は、動物的な刺激のみを重視してそれ以外の要素を考えないことを「不健全」と言っています。
No.1824) 山吹次郎丸(Wed Jul 13 00:35:43 2005)
その通りですね。アニメには多様な評価基準があるでしょうが、「新しさ」は面白い作品であるためには必須だと思います。
私にとっての「健全さ」の定義は、ちと突き詰めて考察していないので断言しかねますが・・・まあ、「見習っちゃダメよ」という感じの主人公が出てくるヤツかな。そういうのが好きなんですが。
 昨今では、目の肥えたというか飽食した消費者にアピールするだけの動物的刺激を作るのも楽ではないでしょうね。だからこそ、怪作が生まれ、名作が生まれる。古来、流行に乗ろうとして転落する者後を絶ちません。
No.1826) iwatam(Wed Jul 13 01:20:29 2005)
私は、この件に関しては「目の肥えた消費者」という気がしないのです。「新しさ」ではなく「過激さ」を目指しているように思うのです。
「過激さ」とはつまり「程度が大きいこと」です。肥大する人間の動物的な欲望に合わせて量を増やしているだけに見えるのです。安易な作品が増えているように見えるのです。
中には、過激さが別次元の新しさを提供する場合もあります。しかし、しない場合もあります。そして、ほとんどは後者ではないかと思うのです。単に新しさを提供するのに失敗したのならまだいいのですが、はなから提供しようとしていないのではないか、と危惧しています。
No.1794) マニアへのエール (no name)(Fri Jul 8 02:46:40 2005)
燃えより萌えが主流になったのは、燃えアニメ愛好者(今後このコラムにならってマニアと呼ぶことにする)が声を大きくして叫んでこなかったからだ。
萌えアニメ愛好者(このコラムにならってオタクと呼ぶことする)は同人誌を作り、ホームページやお絵かき掲示板に萌え絵を張り、最萌えコンテストを開き、一日に何百もの支援SSや支援CGを投下し、様々な場所でいかに萌えるか、なぜ萌えるかを熱く論じあい、布教活動を行ってきた。
だが漢の背中にについて熱く語り、漢ランキングを開き、何百もの燃え支援SSや燃え絵を投下し、布教活動にいそしんでいるマニアがどの程度いるのだ?
"燃え支援 アニメ"でgoogleを検索してHitした件数と、"萌え支援 アニメ"でgoogleを検索してHitした件数を比べてみろ。
このような寒い状況では燃えに重点を置いたアニメより萌えに重点を置いたアニメが主流になるのは仕方のないことだ。
つぎ込むエネルギーや声の大きさもマニアはオタクに負けている。
いつからマニアはヘタレになってしまったのだ?
マニアに告ぐ。お前らも漢なら、オタクが萌えについて熱く語るように燃えについて熱く語れ。
オタクが最萌えランキングの萌え支援で何百という萌えSSや、萌えCGを投下するように、
漢ランキングをおこない。燃え支援で何百という燃えSSや、燃えCGを投下しろ。
オタクが萌え同人誌でコミケを埋め尽くすように、燃え同人誌でコミケを埋め尽くしてみせろ。
隅っこに縮まってトンデモコラムで女々しく文句を言うのではなく、
オタクが萌えを布教するように、周囲の人物に燃えを語り布教しろ。
萌えが布教活動により地道に勢力を拡大して今に至るように、
布教活動をおこない、燃え文化を開花させろ。話はそれからだ。
No.1798) 何か勘違いしていませんか? iwatam(Fri Jul 8 23:29:01 2005)
別に、マニアは「主流になろう」とは思っていないのです。自分で自分の好きなようにやっていればそれでいいと思っているのです。
「燃え」は、わざわざ洗脳して布教する必要はないのです。なぜなら、普通の人が普通に考えれば普通に正しいと思うからです。そして、普通に正しいと思った人によって普通に時代の主流になっています。
あなたが、「燃えより萌えが主流になった」と思っているのは、世間を知らないからではありませんか?オタクたちの間で主流になっているだけですよ。
No.1801) (no name)(Sat Jul 9 17:16:57 2005)
いつの日か、iwatam氏が妄想する世界になればいいですね。
No.1804) 萌えの流行と燃えの危険性 蟲森 真(Sat Jul 9 19:52:37 2005)
ところが現在ではそのオタクの趣味を汎世界化しようと文化庁とか東京都知事とか現代思想家とか現代美術家とか売れっ子建築評論家とか経済関係の人々がやっきになっているのです。
最近はおたく内部に揺り戻しの動きもあるようですが、新聞では毎日のように萌えが報道されていますし、萌えが主流になっているという判断はあながち間違いではないと思います。
ただ、燃えでも萌えでも、どちらも相応の困難さや問題は抱えているものだと考えます。iwatamさんはちょっと燃えのバックボーンに対して無防備というか無批判すぎるのではないかという印象があります。
No.1807) iwatam(Sun Jul 10 23:42:46 2005)
これは、「主流派になっている」という意味ではありません。無視されていたところから、ようやく人々の意識にのぼるようになってきたという意味です。非主流派が形成されつつあるという状態だと認識しています。
経済関係の人やマスコミは、非主流派を「時代を先取り」とか何とかいってもてはやすのが仕事ですから、半分承知の上でやっているのでしょう。問題は、マスコミが言っていることを「主流派」だと思ってしまうことにもあるのではないかと思います。
No.1808) なるほど 蟲森 真(Mon Jul 11 01:05:13 2005)
とすれば僕もマスコミに踊らされていたのかもしれませんね。
つまり「主流派」になっているのではなく、「一部業界」が「必死になって主流派に持ち上げようとしている」と見たほうがいいということですね。
ただ、僕にはその「一部業界」がかなりの政治力を持った集団で、彼らの動きを野放しにしておくと、ほんとに無理やりにでも「主流派」になってしまうのではないか、というふうに思えるのですけれども、どうでしょうか。
そして、ほんとうに彼らが「半分承知で」「もてはや」しているだけならよいのですが、僕には逆に「半分本気で」やっているようにしか見えないのです。
「ジャパニメーションは世界に誇る日本の文化!」
とか、傍から見ているとイタくてしょうがないのですけれども、「こいつらまさか本気なのでは?」という警戒心は持っておいたほうがいいというのが僕の考えです。
No.1812) iwatam(Tue Jul 12 01:12:51 2005)
浮世絵が世界に誇る日本の文化なのと同じくらいには、ジャパニメーションも世界に誇る日本の文化だと思います。文化はしょせんその程度のものです。
その上で、マスコミなどに罪はないと私は思います。彼らはそれが仕事ですから。問題は、そういうのに踊らされることです。そういう意味で、警戒心は必要でしょう。これは、マスコミを叩くという意味ではなく、マスコミの言うことを理解した上で自分で考えるということです。
No.1814) すがりん(Tue Jul 12 03:08:23 2005)
「しょせんその程度の文化」よりも高尚な何かを貴方はやっているのですか?
No.1819) iwatam(Tue Jul 12 19:05:03 2005)
いいえ。
No.1809) マニア=オタクだった (no name)(Mon Jul 11 14:50:05 2005)
その通りです。マニアは自己主張することなく隅っこでじっとしていればよいのです。自分で自分の好きなようにやる。外の世界の事なんてボク知らないよ……あれ? でもこれって誰かさんが言うところのオタクだよな???
No.1810) 間違いなのは iwatam(Mon Jul 11 15:26:45 2005)
「自己主張をしない=隅っこでじっとしている」というところが間違いです。
わざわざ自己主張しなくても、隅っこだろうが真ん中だろうが好きなところへ行って好きなことをすればいいのです。
No.1799) (no name)(Tue Jul 12 15:55:39 2005)
セカイの中心で、普通を叫んでいるオタク。それがiwatamクオリティ
No.1777) 楓(Tue Jul 5 19:52:00 2005)
iwatamさん、初めまして。
端的にちょっとした反論をひとつ。

2.2. ゲームの相手

この内容ですが、ドラクエはまあ納得するとして、「スーパーマリオではカメ達と戦っているのだ。」はおかしいと思います。
完全に決められたルーチンで動く敵が「お互いが相手に勝とうと方針や策略を考えている敵」だといえるとはどうしても思えません。
STGでも同様のことが言えます。

これについてどうお考えになりますか?

No.1779) 私もそう思いますが iwatam(Tue Jul 5 22:15:43 2005)
私もそう思いますが、そうなると結論は「やっぱりスーパーマリオもSTGもゲームではない」ということになってしまいます。そして、その意見に私は半分くらいは賛成します。
ただ、あまり「ゲームでない」と言い続けるだけでは芸がないので、あらかじめ決まったとても単純なルーチンであっても、強引に「考えている」と言ってあげられないこともないかなと思っています。ゲームに不慣れな子供が単純なルーチンでしか考えられないのと同様にです。
なお、「完全に決められたルーチンで動く」からと言うだけでは、「考えていない」とするには条件が厳しすぎます。これを言い出すと、「思考とは何か」というこれまた深遠なテーマになってしまいますので、ここで詳しく言うのはやめておきます。
No.1784) 狭義の意味に捕われすぎかと。 楓(Wed Jul 6 08:12:46 2005)
基本的には「思考がなければゲームではない」のですね。

>ゲーム機で再生するものはすべて「ゲーム」と呼ばれてしまっている

私はむしろゲームの定義が広がっただけだと思います。
だから「対戦相手がいない、相手が考えないゲーム」があってもおかしくないと。
ゲームとはもはや「楽しむ、遊ぶ」を原点とした1種のエンターテイメントではないでしょうか?

>あらかじめ決まったとても単純なルーチンであっても、強引に「考えている」と

このように考えるよりよほど自然かと思われますが・・・。
語源である英語圏ですらこれらのゲームは"game"と訳されてますし。

No.1786) 相手がいないゲームもあります すがりん(Wed Jul 6 16:09:39 2005)
ソリティア(一人でするトランプ遊び)も伝統的なカードゲームの一種です。
技巧や思考によって課題達成や得点の向上を目指す遊びをgameと呼ぶのだと思います。スーパーマリオもこの条件に当てはまります。
対戦相手の存在はgameの条件ではないと考えます。
No.1787) 広義の意味にとらわれすぎかと iwatam(Wed Jul 6 23:19:48 2005)
あの文章が何を目的にしているのかを考えてみてください。
「何をゲームと呼ぶべきか」という話をしているのではありません。「いろんなゲームに共通している面白さは何だろうか」という話をしているのです。
だから、ゲームの定義を広げると、意味がぶちこわしになってしまうのです。「ゲームにはいろいろあり、それらが面白い理由は一概には言えません」という結論は無意味なのです。
ですから、あなたの意見に対してはあえて次の一文を書くことにします。
は?それが何か?
No.1788) でもタイトルは「ゲームとは何か」では? 楓(Thu Jul 7 00:53:55 2005)
主題が「ゲームとは何か」となっていますし、「ゲームではないもの」というタイトルのコンテンツもあるのですから、「何をゲームと呼ぶべきか」という話をしていないわけではないと思うのですが・・・。
そもそも「ゲームの定義を広げると、意味がぶちこわしになってしまうのです。」と書かれていますが、定義を広げただけでぶちこわしになってしまうコラムは無意味ではないでしょうか?定義の段階で再考の余地があるような気がします。
あと、『「完全に決められたルーチンで動く」からと言うだけでは、「考えていない」とするには条件が厳しすぎます。』こういうような例外はどうなのでしょう?対象が狭くなるように定義されたのはiwatamさんですし、再定義されるのはおかしいのではないでしょうか?
No.1791) iwatam(Thu Jul 7 01:46:02 2005)
それは「この文章の中では何をゲームと呼ぶべきか」であって、「一般の人が何をゲームと呼ぶべきか」ではありません。
あなたは自分の好きなようにゲームと呼べばいいでしょう。それだけのことです。
No.1793) 「ゲーム」と「ゲーム性」 風花[HOME](Thu Jul 7 14:11:32 2005)
横から失礼します。

話題にされているゲームとは何かの文章について,
「1.2 本文書の目的と注意」の中で
>「ゲーム性」と呼ばれるものの本質をつきとめる
>他の要素をすべて取り除いて、ゲームが持っている面白さとは何だろうかと考える

ことが文書の目的であり,

>というわけで、この文書で使う「ゲーム」という言葉は世間一般のそれよりずっと狭い意味で使っている。

と書かれています。
つまり私はこの文書で言うところの「ゲーム」とは「ゲーム性のあるもの(大きいもの)」であり,
世間一般では「ゲーム性のないもの」までゲームという言葉が包含しているので,この文章での「ゲーム」は世間一般での「ゲーム」より狭い意味で使われている,と解しています。

その意味でこのコラムの主題は「ゲーム性とは何か」と言えると思います。
世間で言われている「ゲーム」とは何かを考えるなら定義を広げるべきでしょうけれども,
「ゲーム性」とは何かを考える上で「ゲーム性のあるもの」をゲームと呼んでいる以上,定義を広げて「ゲーム性のないもの」を含ませてしまうと支障があるということではないでしょうか。

#この文章を書いていて,「宗教」と「宗教性」の時と同じような印象を感じました(^^;

No.1805) そうですね。 楓(Sun Jul 10 03:09:42 2005)
>to 風化さん
私もiwatamさんのコラムで述べられている「ゲーム」は「ゲーム性のあるもの」
という狭い意味だというのは承知しています。それでも、「ゲーム性がないもの」に対戦相手や敵のいないゲームが全て含まれるとされているのはいささか乱暴だと思うのです。私は少なくとも対戦相手がいないゲームでも技術や思考を伴う遊戯・娯楽は「ゲーム性のあるもの」だと思っています。つまり、iwatamさんのゲーム性の定義そのものに疑問を感じているのです。最初の定義が異なれば「ゲームに共通する面白さとは何だろうか」という考えにも影響が出てきます。ですが私の上記の書き込みは誤解を招くような書き方をしてしまったかもしれませんね。もっと解釈に支障のない文章が書けるよう努力いたします。

>to iwatamさん
>あなたは自分の好きなようにゲームと呼べばいいでしょう。
確かにその意見は正しいと思います。自分の考えを人に押し付けることに意味はありませんし。そう言いわれれば反論の余地もありません。しかし、それは以下の一行にも言えると思います。
>まとめよう。以下の要件を満たすものがゲームである。
ゲームを定義するならば「以下の要件を満たすもの[を]ゲーム[とする]」とするべきではないでしょうか。それこそ、人が呼ぶ「ゲーム」とはさまざまなのですから。

No.1806) iwatam(Sun Jul 10 23:20:45 2005)
では、技術や思考を伴う遊戯・娯楽全般に共通する、あなたの言う「ゲーム性」は何だと思いますか?
No.1818) もう書き込みやめますね。 楓(Tue Jul 12 17:27:33 2005)
「練習し上達できること」だと思います。スポーツや対人ゲームならより上達できたかなどはわかりやすいでしょうね。

動物並みの知能だとか、それが何か?だとか(私の主観ですが)人を見下しているような返答が見られますので、もう書き込みやめます。今までのご返答ありがとうございました。

No.1821) 書き込みをやめるのはご自由にどうぞ iwatam(Tue Jul 12 19:36:21 2005)
ということは、書道もピアノもあなたにとっては「ゲーム」なわけですね。
やはりどこか変な定義だと思います。
No.1827) すがりん(Wed Jul 13 03:00:53 2005)
ゲーム性とは、即ち競技性のことでしょう。競技とみなされるためには評価基準が客観的でないといけません。サッカーやゴルフはゲームですが、書道もピアノも競技とは呼べないでしょう。スーパーマリオは客観的な評価基準がある(面クリアやスコア)のでゲームです。ソリティアもクリアできるかどうかという客観的基準があるのでゲームです。
No.1828) iwatam(Wed Jul 13 18:20:59 2005)
ゲームとみなされるためには客観性が必要ですが、客観性があったからといってゲームであるとは限りません。例えば、ジョギングは「全コースを走るのにかかった時間」という客観的な評価基準があります。貯金なら「貯めたお金」という評価基準があります。寝るのだって「寝た時間」という評価基準があります。しかし、これらはゲームでしょうか?おそらく、そうではないでしょう。
「何があればゲームと言えるのか?」を考えてみてください。
No.1829) すがりん(Thu Jul 14 05:21:26 2005)
ジョギングを、決まったコースを走るのに掛かった時間の短縮を目指すものだとするならば、あるいは、眠る時間の延長を目指す遊びがあるとするならば、ゲームではないと考える理由はありません。金額の増加を目標にしているなら、まさしくマネーゲームって言葉もありますね。繰り返しになりますが、「技巧や思考によって課題達成や得点の向上を目指す遊び」がゲームです。そして、その課題や得点は、客観的に定義される必要がある。
No.1830) ゲームとは 風花[HOME](Thu Jul 14 11:49:30 2005)
すがりんさんはNo.1827で
>ゲーム性とは,即ち競技性
だと,自分の考えを述べられてますよね。
私も,この考え方に近いです。
----
しかし競技というからにはやはり「競う相手」がいるのではないですか?
「課題や得点が客観的に評価される必要がある」のは,後で他のプレイヤーとその評価の度合いによって勝ち負けや順位を決められるようにするためなのでは?
客観的な基準に従って自分の得点が決まっても「同じルールでスコアを出してる,それを比べる相手」がいないと「ゲーム」にならないのでは,と思うのですが。
----
私はそのように考えますので,「ゲーム」にはやはり相手(敵)が必要なのではないかなと思います。
そしてそのルールの中で「いかにして勝つか」「どうすれば勝てるか」を考え,相手に勝とうとするのが「ゲーム」ではないかと思います。
----
「プレイヤーのうち,決まったコースを走るのに掛かった時間が短い者が勝利者」「プレイヤー同士で妨害行為をしてはいけない」というルールなら,「どうすれば勝てるか」は「速く走る」という答えしかありません。
これも「ゲーム」でしょうけれど,「どうすれば勝てるか」をほとんど(全く?)考えないので,単調なゲームだと言えると思います。
----
いかがでしょうか?
No.1833) すがりん(Fri Jul 15 06:38:27 2005)
たとえば、スーパーマリオで点数や面クリアを他人と競うことは出来ますよね。ジョギング等個人競技というのは、そういうものだと思うのですが。ゲーム上に他プレイヤーが組み込まれている必要はない。ノコノコやクリボーはプレイヤーではない。/早く走る、泳ぐ、高く跳ぶ、という答えはひとつでも、そのために積み重ねられた理論や技術は膨大なものです。
No.1835) どこまでが「ゲーム」か 風花[HOME](Fri Jul 15 11:44:34 2005)
>スーパーマリオで点数や面クリアを他人と競うことは出来ますよね。ジョギング等個人競技というのは、そういうものだと思う
という部分には,私は全面的に賛成です。
ただ,
>ゲーム上に他プレイヤーが組み込まれている必要はない
という部分には,若干否定的です。
----
私は「点数や面クリアを他人と競う」ところまで行って初めて「ゲーム」と呼べるのだと思います。
つまり,「同時に同じ場所でプレイするような他プレイヤー」ではなくても,「後で記録を競い合う他プレイヤー」のような,何らかの形で「他プレイヤー」は組み込まれているのではないかと。
その意味で「ゲーム」には「他プレイヤー」が「組み込まれている」と考えます。
----
たとえば,「速く走った者が勝ち」というルールにおいては,「同じように速く走ろうとしている他者に勝つため」に,相手と同じ場所で同じ時に並んで走るのでなく「ひとりで,できるだけ速く走ろうとする」のはゲームになると思います。
後で記録を比べますから。この「後で比べること」をもって「ゲーム上には他プレイヤーが組み込まれている」と考えています。
が,「相手はいない(勝ち負けはない)けど自分の走ったタイムを記録しましょう。そしてそのタイムを縮めましょう」というだけではゲームではないと思います。
と言えば違いが分かりやすいでしょうか。
----
つまりタイムを競うようなゲームで言うなら,
「(タイムを縮めることによって)相手に勝とうとする」のがゲームであり,
「タイムを縮めようとする」だけではゲームではないというのが私のゲーム観です。
No.1837) すがりん(Fri Jul 15 19:04:47 2005)
ゲームの内か外かはともかく、競技である以上他人とスコアを競う余地はあるわけで、そういう意味では納得です。/「自分との戦い」という言い回しがよくありますが、個人競技ではかつての自分と競っているという考え方は出来るかと。/で、話の大元に戻ると、そういう意味での「他プレイヤー」と、ノコノコ・クリボーは違うということですね。あれは障害物競走でいう障害物であって、競争相手ではない。
No.1839) iwatam(Fri Jul 15 21:29:40 2005)
「同じように速く走ろうとしている他者に勝つために、ひとりでできるだけ速く走ろうとする」というのと、「相手はいないけど自分の走ったタイムを縮めましょう」というのに、どういった違いがあるのでしょうか?
やること(考えること)は同じなのではないでしょうか?

客観的な目標がある場合(「タイムを○秒にまで縮めよう」)と、相手は自分のことを知らない場合(「○○さんのタイムを抜いてやろう」)をあわせて考えてみてください。

No.1843) 風花[HOME](Sat Jul 16 06:40:35 2005)
「一人で走って、タイムを記録してる」段階では、やってる事は同じです。
その後、「他者と比べて競い合う」までルールになっているものが「ゲーム」だと思う、ということです。
----
タイムやスコアを競うような陸上競技「大会」だと、「比べて競い合う」からゲームと言えると思います。
それに対し、一人で「客観的な目標」の達成を目指したり、「相手が自分のことを知らずに一方的にタイムを比べてるだけ」なのは、ゲームではないと思います。「競い合う」というルールが無かったり、相手とルールを共有してなかったりするからです。
ただ、「その目標タイムで走る人」を仮想的に「競い合ってる相手」と考え、それに勝つという捉え方をすれば、その人にとっては仮想相手とルールを共有し、そのルールで競い合ってると捉えることになるので、ゲームと呼べるのではないかと思います。
「相手が自分のことを知らない」のも、「仮想的な相手」と同じように「○○さんは私と競う相手だ」と仮定すれば「ゲーム」と捉えることになりますが、それは「自分の事を知らない○○さん」が相手なのではなく「○○さんと同じタイムを持ち、同じルールの下で自分と競い合ってる相手」という仮想的な存在が相手ということになると思います。
つまり、もともとのルールには「競う」部分が無いのでゲームではないけど、自分で「競う」部分のルールを仮想的に付加すれば、(その人にとっては)ゲームと言えるのではないか、ということです。
No.1845) iwatam(Sat Jul 16 11:50:54 2005)
単に、一人で走ってタイムを記録して、その結果を他者と比べて競い合うのでは、ゲームとは言えません。なぜなら、「結果を他者と比べて競い合う」という部分では実質何も行われないからです。
ゲームと呼ぶには、相手の結果が自分の行動に影響する必要があります。100m競争は同じ場所で一度に走るからゲームになるのであって、別々の場所で走ってタイムを比較するのでは、一人で走るときと何ら変わらないでしょう。「敵に勝つ」には「一人で走ったときのタイムを上げる」より他に方法がないわけですから。
No.1832) iwatam(Fri Jul 15 00:41:17 2005)
そう定義すると、たいていのものはゲームになってしまうと思うのですが。そもそも、「客観的」というのは定義が非常に難しいものです。だから、見ようによっては何でも「客観的」になってしまいます。
「マネーゲーム」という言葉は、単に金額の増加を目標としていることを意味しているわけではありません。売り手と買い手がいて、両者で駆け引きが行われていることを意味しています。
No.1834) すがりん(Fri Jul 15 06:46:38 2005)
>見ようによっては何でも「客観的」
完全な客観、完全な主観というのは確かにあまり存在しないでしょう。世の中の尺度は客観と主観の間にあります。しかし、そこには濃淡があります。全てを客観もしくは主観に帰着させるのは、例えば「時間/長さ」と「美しさ」の間に客観性における違いを認めない乱暴な論法かと思われます。そして、競技である以上はその評価は客観性を重んじなければならない。
確かにマネーゲームには相手プレイヤーがいますが、それは相手プレイヤーがいるからゲームと呼ばれるのだということの論拠にはなりません。
No.1838) iwatam(Fri Jul 15 20:44:09 2005)
「マネーゲームには相手がいる」ではありません。「相手がいるからマネーゲームと呼ばれる」と言っています。
マネーゲームという言葉がどういうものに対して言われるのか、考えてみてください。あなたの言うように「金銭の増加を目標にしている」という意味ではないでしょう。
No.1842) すがりん(Sat Jul 16 05:52:12 2005)
「相手がいる『から』マネーゲームと呼ばれる」と、「たまたま相手がいるものをマネーゲームと呼んでいる」とをどうやって区別しているのですか?
No.1844) 言葉の使い方 iwatam(Sat Jul 16 10:54:23 2005)
言葉は、そこに「意味」があるから使うんです。
株取引は、対象に「マネーゲーム性」を感じるから、マネーゲームと呼ぶのです。もしかして、「株取引=マネーゲーム」というように形式的に覚えてはいませんか?
「相手がいるからマネーゲームと呼ぶ」のと「たまたま相手がいるものをマネーゲームと呼ぶ」の区別は、呼んでいる自分にはわかるはずです。言葉に意味を込めるのは自分ですから。
No.1847) すがりん(Sun Jul 17 19:11:13 2005)
その貴方が込めた「意味」が正しいという根拠を求めているのですが。/少なくとも、ソリティアがカードゲームと呼ばれる、という意味で、「相手がいなくてもゲームである」という僕の主張には根拠があります。
No.1848) なぜそんなことにこだわるのですか? iwatam(Sun Jul 17 20:23:23 2005)
言葉には、いくつもの意味があります。だから、どれか一つの意味が正しくて、それ以外の意味は間違いだということはありません。
言葉は概念を伝えるための道具です。重要なのは「概念が伝わったかどうか」であり、「正しいかどうか」ではありません。
あなたの求めているものが本当は何なのか、考えてみてはいかがでしょうか。その上で、それが本当に私が提供できるものであるのなら、喜んで提供します。
No.1852) なぜ相手の動機を問題にするのですか? すがりん(Mon Jul 18 22:37:35 2005)
僕は厳密に話を進めたいだけなのですが。
No.1854) あなたの希望に沿いたいからです iwatam(Tue Jul 19 02:06:28 2005)
私は、あなたがしたい「話」が何なのかがわかっていないので、何の話をしたいのか?と聞いたのです。
No.1861) すがりん[HOME](Wed Jul 20 01:21:27 2005)
>対戦相手の存在はgameの条件ではないと考えます。
No.1862) iwatam(Wed Jul 20 02:07:42 2005)
gameという単語の広義の意味ではそうでしょうね。
No.1988) アホか(Sun Jul 31 17:49:44 2005)
プレイヤーがゲームだと思っていればそれはゲームなんだ。
太鼓の達人がゲームであってピアノがゲームでない理由は、当然他人と競い合えるからではない。ゲームセンターにあるかないか、即ちそいつがゲームだと思ってやっているかに尽きる。
つまりだな、iwatamのコラムは全く意味がない。つーかiwatamのコラムを全部ちゃんと読めば破錠してないコラムなど全くない。いい加減目覚めなさい(マヤ風)!
No.1766) はるゆき(Sun Jul 3 23:18:23 2005)
過去のやりとり(No.1709)を読み直してやっとわかったのですが、ひょっとして刑法38条の「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」というのを「本人が悪いと認識していない行為は罰しない」という意味と勘違いしてませんか?
38条は故意について定めたものです。ここでいう「罪」とは裁く側にとってのものであって、当人がどう思っていたかは関係ありません。
38条3項「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない」は、「悪いことをしている」と認識している時点で知らなかったという言い訳はできない、という意味ではなく、「法律を知らなかったとしても、故意がなかったとはいえない」という意味です。

「むささび・もま事件」でいうと、「むささびを捕獲してはいけない」という法律を知らなかったとしても、もま(=むささび)をもまと認識して本人の意思をもって捕獲した以上は、故意がなかったとは言えない、ということです。「もまを捕るのが悪いことだとは思っていたが、法律に書いてあるとまでは知らなかった」ということではありませんし、ましてや「本当は法律に書いてあることは知っていたが、知らないと嘘をついている」わけでもありません。
No.1767) iwatam(Sun Jul 3 23:44:04 2005)
私は、ちゃんと「たぬき・むじな事件」と比較して、と言いましたが、お分かりになりませんでしたか?
あなたの理屈では、「たぬき・むじな事件」が無罪になった理由が説明できないでしょう。
「故意」を判定するのに「当人がどう思っていたか関係ない」というのは、「故意」という言葉の意味からしておかしいでしょう。あなたは、「故意」とは何だと思っているのですか?
No.1774) はるゆき(Mon Jul 4 22:30:19 2005)
A氏が「ボールをキャッチャーに向けて投げてやろう。私が向こうに投げればボールはキャッチャーに向けて飛んでいくはずだ」と思ってボールを投げ、実際にキャッチャーに向けて飛んでいったとします。この場合、A氏は「故意」に行動したことになります。故意というのは、当人が自分の行為の結果についてどう認識していたかについていうものです。「善悪」や「罪になるかならないか」をどう考えていたかについていうものではありません。
ここで仮に、刑法に「ボールをキャッチャーに向けて投げてはいけない」と書かれていたとします。この場合A氏は有罪となり、裁く側からみて「故意があった=(刑法でいうところの)罪を犯す意思があった」と見なされます。しかも「そんな法律は知らなかった。知っていればそんなことはしなかった」と言っても「故意がなかった」とはいえないのです。これが刑法38条の3項に書かれていることです。
「たぬき・むじな事件」については学者間でも議論が絶えないと聞いていますので、ここで結論は出ないであろうことはお断りしておきますが・・・38条3項の「情状によって減刑できる」という部分にヒントがありそうです。「たぬき・むじな」については、社会通念上取り違えてもやむを得ないと判断された、ということなのでしょう。
No.1776) iwatam(Tue Jul 5 02:25:31 2005)
では、法の精神を考えてみてください。なぜ、やむを得ないと判断された場合は無罪になるのでしょう?(38条3項の規定があるから、ではなく、なぜ38条3項の規定があるのか、と考えてみてください。)
あなたの論理だと、法律を知っているかどうかに関わらず、文句なく有罪になるはずですよね?
あなたは、学者間の議論が絶えない難しい問題の半分側だけを見て、もう半分を見ずに結論を出しているように見えるのです。なぜ、学者間で議論が絶えないのかがわかりますか?
No.1778) はるゆき(Tue Jul 5 21:07:37 2005)
故意の定義については納得いただけたのでしょうか。私が述べたことは、私の理論ではなく本屋で市販されている刑法の入門書に普通に書かれていることですので、それを違うと言われても困るのですが・・・。
「法の精神」とか「難しい議論の半分側」とか、おっしゃる意味が少々わかりかねます。よかったら説明していただけませんか?
No.1780) iwatam(Tue Jul 5 22:54:14 2005)
法の精神とは、その法律がなぜ存在するのか、なぜそんなことを法律で定めたのか、ということです。ここでは、社会通念上取り違えてもやむを得ない場合だとなぜ無罪になるのか?という疑問です。
「法律を知らなかったとしても、故意がなかったとはいえない」とわざわざ書くのは、逆に言えば、厳密な意味でいうと法律を知らなかったら故意は成立しないからです。しかし、そんな厳密な意味のみを言っていると社会が成立しないから、第3項を設けてあるのです。
「たぬき・むじな事件」と「むささび・もま事件」の大きな違いは、前者の猟師は「たぬき」とは何かを知っていたのに対して、後者の猟師は、「むささび」とは何かを知らなかった点にあります。
法律を読んで、そこに「むささび」という知らない生き物の名前が書いてあったのですから、本来ならそこで「むささび」とは何であるかを調べなくてはならなかったのです。自分が法律をよくわかっていないことを知っていて、しかもその法律に触れる可能性のある行為をするということは、ある意味「それが法律に触れるかもしれないことを知っていてやった」ということになります。だから問題なのです。
----
他人のページですが、リンクを挙げておきます。以下の用語を押さえれば、この問題はわかると思います。
http://homepage2.nifty.com/and-/barexam/sekinin%5B1%5D.txt
No.1781) はるゆき(Wed Jul 6 00:36:04 2005)
では、「むささびを捕ってはいけない」という法律そのものをまったく知らずにむささびを捕獲した場合、有罪でしょうか、無罪でしょうか。あなたの論法によると無罪になりそうですが、それだと法を定める意味がなくなってしまうのではありませんか?
No.1782) iwatam(Wed Jul 6 00:52:15 2005)
猟師にとって(いや、一般人でも)、捕っていい動物と捕ってはいけない動物があるというのは常識です。ですから、どの動物は捕ってもよくてどの動物は捕ってはいけないかを知らないままに動物を捕るのは、「法律を破ることになってもいいや」と思って捕ることになります。そういうのは認められません。法律を破ることに対する意思があるからです。
捕ってはいけない動物が規則で定められていることを知らなくて、どんな動物でも勝手に捕っていいんだと思っていたなら、原則的には無罪になるでしょう。しかし、日本で普通に暮らしている限り、そんなことはあり得ないでしょう。だから、無罪になることはないと思います。
No.1822) はるゆき(Tue Jul 12 21:02:33 2005)
紹介してもらったリンクを読んでみたのですが、やはりあなたの主張していることは「厳格故意説」というひとつの説に過ぎないようですね。しかもその問題点として「確信犯を処罰できなくなる」とも書いてあるし・・・。
もはや主張されていることが支離滅裂で、「何が正しいか」ではなくて「どうすればiwatam説を正当化できるか」にシフトしているように感じます。
No.1825) iwatam(Wed Jul 13 01:46:09 2005)
制限故意説でも、「違法性の意識の可能性」は必要だとされています。
上記リンクを読んでいただいたということなので、その上の方に書いてある「責任主義」「道義的責任論」をまず考えてみてください。これが基本です。
そして、その次に「違法性の意識」の「意義」を読んでみてください。そして、その下にある、学説の状況を読んでみてください。
No.1850) はるゆき(Mon Jul 18 12:30:26 2005)
制限故意説は「違法性の意識がなくても罪を問うことはできるが、違法性の意識の可能性すらない場合は罪を問うことができない」という説ですが、それがどうしてiwatamさんが主張していることに矛盾しないと言えるのですか?
No.1853) iwatam(Tue Jul 19 02:02:25 2005)
「悪いとされていること」と「やってはいけないと法律に書いてあること」は等しくないからです。
前者は、常識を持った普通の人は誰でも判断できます(あるいは、そう期待されています)。それに比べて、後者は六法全書を読まないと確認できないことです。
No.1750) コミュニケーション能力の回復はフィギュア趣味をやめさせられるか? 蟲森 真(Sat Jul 2 19:32:53 2005)
タイトルのとおりなんですけれど、コミュニケーション能力が回復しても、フィギュア趣味の人がそれをやめるようになることはないのではないかと思うのです。
それはコミュニケーション能力のあるなしに関わらず男がエロ本を欲するのと同じ原理です。美少女とか何とか言っても、結局オタクのそういう趣味は下半身的な欲望に根っこがあり、役割としては生身の女のエロ本とアニメ絵のエロはそう違わないのではないか、と考えています。まあオタクのほうが「これは現実の女の子じゃないもん」という風に、自らの下半身的な欲望を隠蔽していることに無自覚な分だけ始末が悪いかもしれません。
アニメ絵か生身の写真か、という違いにはそれ相応の来歴があるのでしょうが、一概にコミュニケーション能力不足のせいだとは言えないように思います。秋葉にも「生身の」風俗関連店が続々流入していると聞きますし、本当に問題なのはエロゲーをやる人間の感性よりも、そういう感性の作り出される背景と、くだらないサブカルチャーに過ぎないオタクを世間が称揚してジャパニメーションとかなんとか、文化ナショナリズム的に持ち上げようとしていることの方なんじゃないかと思います。
No.1753) iwatam(Sat Jul 2 23:01:25 2005)
私も、「男がエロ本を欲するのと同じ原理」であれば、それは普通のことだと思います。エロ本を好んで読む人も、エロ本を「趣味」とは呼ばないでしょう。フィギュアをエロ本と同等に見られるようになった時点で、フィギュア「趣味」は卒業したと言っていいと思います。
あなたも書いているように、問題は、このことに無自覚なことなのです。「コミュニケーション」とは、自分が何を思っているのかを相手に伝え、相手が何を思っているのかを感じ取ることです。だから、自分が何を思っているのかが自分でわかっていない人は、それを相手に伝えることができません。だからこそ、「自分に対する無自覚」が問題なわけです。
こうしたものを文化ナショナリズム的に持ち上げようとしていることは、非常に問題だと思います。世間がむやみに称揚することで、オタク達が自分の本当の気持ちを見つめ直す機会を失ってしまうからです。
しかし、誰がむやみに称揚しているのでしょう?私は、オタクとビジネスマンが称揚して、何も知らない世間の人がそれに同調しているのではないかと見ています。ビジネスマンは儲かるものは何でも称揚しますし、それをやめさせるには儲からなくするより他にありません。だから、こういうことはオタクに問題提起しなくてはならないと思っています。
「こういう感性が作りだされる背景」についても、これまでいろいろ書いてきました。これは今という時代と密接に関連していて、誰かを犯人にして済む問題ではないと思っています。だからこそ、これは各人が自衛していかなくてはならない問題だと思っています。
No.1749) おたくからマニア、オタクへの分離 蟲森 真(Sat Jul 2 18:47:06 2005)
「漢の不在」を読ませていただきました。
大塚英志やササキバラ・ゴウの論文を読む限りでは、おたくがマニアとオタクに分離していったか、もしくはおたくが現在のオタクに転向したのではなかろうかと思います。
 実は当初のおたくはマニア的な性格もオタク的な性格も両方持っており、後からオタクが増加したことによって相対的にいままでのおたくはマニアとして分類されるようになってしまったのではないでしょうか?
 考えられる切り口はいくつかあります。
 一つは世代です。大塚氏の論文によれば、彼はおたく第一世代であり、団塊ジュニアがおたく第二世代であり、この頃からおたく→オタクという変化が出始めたということのようです。そして僕より少し上くらいまでが第三世代で、ここまでくるとマニアかオタクかはかなりはっきりしているような印象があります。そしてこれは僕独自の見解なのですが、僕から下の世代(僕は1984年生まれです)は第四世代なのではないか、と最近思っています。マニア的な感性もオタク的感性も希薄な存在、それは強いて言うならファンということになるのでしょうか。それはもうオタクじゃないよ、と思われるかもしれませんが、そもそもiwatamさんの論文におけるオタクの初期の意味の定義に疑問があります。そして初期の意味と言う割には「オタク」というカタカナ表記であることも気になります。なぜなら大塚氏によればおたくというのはもともとひらがなで表記されていたものであり、宮崎勤的なイメージを払拭したものとしてあるのがカタカナの「オタク」だとされているからです。
 世代以外の切り口としては時代があります。「正義」を持つのがマニアでそうでないのがオタクだ、というのがiwatamさんの主張ですが、しかしそうではなくて、もともとは「正義」を持っていたおたくが時代の変遷の中で社会から「正義」の基盤が失われたことにより、「正義」を持たない「オタク」へと転向していったとは考えられないでしょうか? 
ファーストガンダムより後のガンダムはガンダムではないというのは、ちょっと乱暴ではないかと思うのです。なぜなら監督はずっと富野さんだからです。時代の要請によって、否応なくZガンダム以降のガンダムが生まれたのではないかと僕は思います。真のマニアならば、そういった社会的なことも視野に入れた変化さえも分析するべきではないでしょうか、と、おそらくマニア寄りのおたくである僕は思います。多分いま劇場で閉塞した中で精神崩壊した少年が主人公のZガンダムがリメイクで違う方向性を示そうとしているのも、そういうことなんじゃないかな、と僕は思っています。
 大塚氏やササキバラ氏の論考との、齟齬や、そういった時代の影響についてはどのようにお考えになられますか?
No.1752) iwatam(Sat Jul 2 22:26:55 2005)
まず、私の「マニア」と書いたものは、「おたく第一世代」と重なり、「オタク」と書いたものが、「おたく第二世代」にほぼ重なるのだろうと思います。「おたく第二世代」が出揃った時点、つまり第三世代の時点で、マニアかオタクかがはっきりしてきます。これに関して、私の見解と、あなたの見解とはほぼ同じだと思います。
世代交代によって、「オタク」と呼ばれる人の中に第一世代も、その影響もほとんどなくなっています。だから、「現在使われる意味における」オタクという言葉に第一世代を含めることに抵抗があるのです。
ほとんどの人は、第一世代とか第二世代といったところに単純に押し込めることはできません。多かれ少なかれ、2つの世代にまたがっています。第一世代の後半に生まれた当初の「おたく」は、当初は第一世代の感性を持っていて、だんだん第二世代に染まっていったのであろうと思います。しかし、第一世代の感性を持っていて、第二世代になじめずに「卒業」してしまった人も少なからずいるわけで、そういう意味では、第二世代に染まったオタクは当初から第二世代に染まる要素があったのだろうと思います。
それから、「宮崎勤的イメージ」は、単に世間がそれをどう見ているかの問題で、オタク内部の問題を語るには関係がないものと私は思っています。あのコラムの冒頭で「狭義の」とつけたのも、このこと(世間の呼び方は関係ないということ)を指したつもりです。あのコラムの中では、「オタク」という言葉は一種類の意味でしか使っていません。だから、使い分ける必要もないのです。
ガンダムは、コラムでも「中間」と書いたように、両方の要素が入り混じった作品です。しかし、ガンダムの特に前半は、冷戦構造も意識してか、2つのイデオロギーの対立という構図が前面に描かれ、後半そしてZガンダムになると、個人的な物語が描かれるようになります。私は、「ファーストガンダム以降のガンダムはガンダムではない」とは言っていません。ファーストガンダム以降のガンダムは「マニアの物語」ではないと言っているだけです。本当のところをいうと、ガンダムはオタクの物語であり、ファーストガンダムだけが少々特殊なのです。
そういう意味で、「冷戦」という時代の変遷によるものだとも言えるでしょう。しかし、「冷戦」という時代は、それと同時にそこに生きた人々の意識にも影響し、それは後々にまで残ります。だから、時代と世代は不可分のものです。世代について語ることは、同時にその時代について語ることになるのです。
ただし、これには一つ注記があります。マニアは、自分達の考えを、社会とは関係のない人間として普遍的なものだと考えていることです。だから、この話に「社会」や「時代」という切り口を入れてはいけないのです。時代という切り口を入れると、「マニアがどう考えていたか」という話ではなく、「そう考えていたマニアはどういう人だったか」という話になってしまいます。私が問題にしているのは前者であり、後者ではありません。
No.1755) マニアは「正義」を語れるか? 蟲森 真(Sat Jul 2 23:57:23 2005)
なるほど、あくまでマニアによるマニアの視点から見た意見としてならかなり説得力があるように思います。
しかしそれでもまだ幾つか疑問があります。ここからはコラム「漢の不在」の論点、すなわち「マニアの主観」を少し離れてもう少し議論の俎上に乗せる領域を増やしましょう。
まず、第二世代になじめずに「卒業」してしまった人、とはどういうことでしょう。つまりアニメを見るのをやめてしまったということでしょうか? 
次に、
>「宮崎勤的イメージ」は、単に世間がそれをどう見ているかの問題で、オタク内部の問題を語るには関係がないものと私は思っています
という意見には賛同しかねます。やはりあの事件があった当時はかなりの「おたく」(いい年してアニメやまんがをみてる人)に対するバッシングがあったはずで(なにしろ当時の世間はマニアとオタクを一緒に見ていたのだから当然マニアへのバッシングも存在したはずです)、宮崎勤にどう対処するかはおたく内部の問題でもあったはずだと思うのですがそういうことはまったくなかったとお考えですか?
それから、最後にお聞きしたいのは「正義」についてです。
コラムのタイトルである「漢の不在」、また「男なら燃える漢のアニメを見ろ」というフレーズ、またコラムの中のことばの端々などから察するに、iwatamさんはオタクの物語よりもマニアの物語が称揚すべきものであるという風に思われているという印象を受けます。別にそう思っていなくてもいいのですが、「正義」のために戦うマニアのアニメがiwatamさんは好きなのですよね。しかし、オタクの物語が増えた背景には「正義」と「悪」のお互いにかっこいい対立をマニアが望んだとしても、そもそも「正義」と「悪」のそれぞれにいかなるものを背負わせるかということが困難になったという状況が存在するのではないでしょうか。例えば「平和のために」、「愛するもののために」戦うヒーローは一昔前にはたくさんいたと記憶していますが、いまはその「××のために」の××に入れられるようなものが不在ではないのか、という風に考えています。「マニアの主観」を離れて社会のことにまで目を向けると、実際に起こっていた現象は「漢の不在」というよりもむしろ「漢になれる条件の不在」であるように思うのですが、この事に関してはどのような見解をお持ちですか?
No.1757) iwatam(Sun Jul 3 02:56:18 2005)
まず、第二世代で「卒業」と書きましたが、本文中にも書いたように、ゲームに移った人が多いのではないかと思っています。
次に、宮崎勤問題の話ですが、この問題は、おたく内部とおたく外部との間の問題です。外敵に対して一致団結してしまったせいで、かえっておたく達は自分達の内部にある亀裂を忘れてしまった、と考えています。宮崎勤問題に関しては、既に「いい年してアニメやまんがを見ていてもいいんだ」ということで、とっくに解決していると思います。
3つめ、「正義」そして「戦い」の話ですが、これはとても広い概念です。ヒーローは、野球で戦っても、料理で戦ってもいいのです。そして、自分が信じるものなら何を背負っていてもいいのです。だから、正義の対象が不在だということはありません。
ただ、漢と漢が対決するためには、相手がいないといけません。相手が逃げ回っていたら、戦いになりません。「戦おうにも、戦う相手がいないじゃないか」というのは、その通りかもしれません。そういう意味も含めて、「漢の不在」と書きました。
No.1747) えーと 或るGガンダムファン(Sat Jul 2 00:51:39 2005)
あの、「漢の不在」というコラムに対してツッコミいれても宜しいでしょうか?
と言うか、詭弁が多いので言わせて貰います。

>もともと、「オタク」というのは侮蔑語だった。
>オタクという言葉はもともとアニメファンの造った言葉だったが、これはアニメファン全体を指す言葉ではない。
>当時のアニメファンが、アニメ好きの中に自分たちとは本質的に異なる人々がいるのに気づいて、そういう人達を侮蔑的に呼んだ言葉だ。

確か「オタク」が侮蔑語になったのは、宮崎事件で各マスコミがこぞって「オタク」と言う名称を使ったからだと思いますが。

>(たかがアニメの話で)

その言葉、今アニメ製作で飯を食っている全ての人に言ってもらいたいものです。

>お互い「俺の方が正しい」と言って譲らなかった。
>そうやって疲れ果てるまで大論争をした後、仲良く肩を組んでアニソンを熱唱した。アニメファンとはそういうものだった。
>そうしたアニメファンの中に、いつの間にか、そうした交流を嫌う人々が現れた。これがオタクである。

そうなんですか、仲良くアニソンを歌うオタクっていなかったんですね。
じゃあよくカラオケでアニソンを歌う私はオタクでは無い、と。

>「オタク」という言葉の由来には諸説あるが、きっとそれは同時発生的だったのだろうし、だからどれが正しいかという話はどうでもいい。
>しかし、有力な説の一つに、「マクロスの主人公の口ぐせ」という説がある。
>これはかなり信憑性が高い。
>なぜなら、マクロスはここでいう「マニア」的ではなく、「オタク」的だからだ。

(中略)

>オタクアニメは、主人公はかっこ良く、敵は間抜けな存在に描かれている。
>「マクロス」が典型で、ゼントラーディは文化を知らないバカということになっている。

(中略)

>敵は悪い人間、卑劣な人間、劣った人間で、正常な人間は感情移入できないような曲った根性を持っている。

まずオタクの語源が全然違う、はてなダイアリーかウィキペディアで検索して欲しい。
次にマクロスが「オタク」的とは言いますが、マクロスが「オタク的」である理由が滅茶苦茶。
「ガンダム」でも間抜けな敵役と言う奴はいるし(赤鼻)、マクロスでもエゼキゼル辺りは良い奴だと思うんですが。
マクロス7では立派に補佐官として存在していた彼が、「悪い人間」「卑劣な人間」「劣った人間」「正常な人間は感情移入できないような曲がった根性」と思っているんですか?
そう思うのは勝手ですが、間違いなくマクロスファンの怒りを買うでしょうね。
それ以前にマクロスがオタク的である理由の説明が遠すぎ、普通はすぐに付け足すものでしょう。
これでは「正常な人間は感情移入できない曲がった根性」としか思われませんよ。

>ここで言う「マニア的」なアニメのストーリーと配役を見てみると、ある特徴が浮かび上がる。
>それは一言で言えば「若者が大人になるストーリー」である。

では「マクロス」で、一条輝君は「若者から大人」になっていないと。

>マニア向けのアニメでは、かっこいいのは主人公ではなく、その敵だった。敵に共感し、敵の方をよく覚えていた。

その手合いのアニメ、に関わらず、漫画やゲームでも、「カッコいい敵役」と言うのはたくさん出ていると思うんですが。

>これらのアニメのテーマは、どれも「正義」だ。
>主人公は、正義を信じて、正義のために行動する。途中どんなことがあっても、自分や仲間を信じて進め。これがこうした作品のメッセージだった。

作品のテーマと言うものは個人個人によって差異があると思いますが。
第一に「ガンダム」のテーマって「正義」だったのか?、ガンダムファンは口を揃えて「戦争」と言うと思うが。

>オタクアニメでは、視聴者は画面の外にいて、登場人物の誰にも感情移入しない。
>自分は主人公を脇から眺めている。
>主人公が次々と素晴しい能力を発揮しているのを「かっこいい」と羨望のまなざしで見る。
>対象が異性なら、これは「恋愛」のメカニズムである。
>主人公の魅力に魅かれるわけだ。
>こうしたアニメでもし主人公を自分(視聴者)と同一視してしまうと、これはナルシシズムになる。
>オタクアニメでは、主人公の強さを演出する。
>そして、強い敵を倒すことで強さをアピールする。
>そして、主人公の正しさと、相手の悪をアピールする。
>主人公は絶対に強くて正しくてかっこいい。
>こういうメッセージである。
>そして、視聴者はそういう主人公に対して「愛」を感じる。

「登場人物の誰にも感情移入しない」「視聴者はそういう主人公に対して「愛」を感じる」
視聴者がそういう主人公に対して「愛」を感じているのなら、登場人物に感情移入していると思いますが。
「主人公が次々と素晴らしい能力を発揮している」
ガンダムでも北斗の拳でも主人公は「素晴らしい能力を発揮」していたと思いますが。
「オタクアニメでは、主人公の強さを演出する。」「そして、強い敵を倒すことで強さをアピールする。」「そして、主人公の正しさと、相手の悪をアピールする。」
主人公の弱さを演出して自分の未熟さ、不甲斐なさ、そして敵の強大さを演出する手法は、今でも存分に使われています。
「主人公は絶対に強くて正しくてかっこいい」
じゃあ、主人公を強いとも正しいともカッコいいとも感じられない「君が望む永遠」あたりはオタクアニメではありませんね。
と言うかこれは個人の感性では?
個人個人で差異があるものを基準にするのは詭弁以外のなにものでもない。

>マニアアニメとオタクアニメの違いに、主人公の能動性が関係してくる。
>マニアアニメの主人公は自分から行動するが、オタクアニメの主人公は自分が望まないうちに戦いに巻き込まれていく。

それだと、「ガンダム」の大概はオタクアニメになりますね、ファーストガンダムは勿論、Gガンダムも。
ドモン・カッシュは、望んでガンダムファイターになった訳ではないし、望んで師匠と殺し合った訳ではないんですが。

>マニアアニメの主人公は、自分の信じるもののために生命をなげうって戦う。
>自分の信じるものを否定する敵に対して、「それはおかしい」とノーを突きつけるのが戦いだ。

それは先程オタクアニメの定義で言った「主人公は強くて正しくてカッコいい」と言う事そのものだと思いますが。

>ゲームというもう一つの文化ができ、マニアはすべてそちらに流れていってしまった。
>そしてアニメにはオタクだけが残り、オタク的なアニメばかりが作られるようになった。

「魔法少女リリカルなのは」だと、主人公のなのはは自分から戦う事を決意するのですが。
と言うか自分から戦いを決意するアニメなんて、今年に入ってからもたくさん作られているぞ。
そろそろいい加減、「マニアアニメ」と「オタクアニメ」の明確な定義をつけて欲しい。
・・・最近のアニメを少なくとも10本くらいは見て欲しいものです。

>オタクには、「大事なこと」の存在が理解できない。
>だから、漢と漢が大事なものを賭けて戦っていることを理解できず、「頭が空っぽのバカ共が殴り合っている」としか見ることができない。
>「なぜ戦っているのか」を考えることができないのである。

「大事なこと」の存在を理解しているアニメって、かなりありますが。
月詠とか。
「何故戦っているのか」を考えるアニメなんて、それこそ今年に入ってからもたくさん作られていますが。

>むしろ、理由があって相手を攻撃する方が無邪気で単純だ。
>「相手にも相手の理由がある」ということがわかってないのだ。

では。

>オタクは戦いを良くないもの、してはいけないものだと思っている。

と。

>マニアアニメの主人公は、戦いに赴くかどうかを自分で決める。

が完全に矛盾しますね。
「相手にも相手の理由がある」のなら、マニアアニメの主人公は戦いに赴くかどうか自分で決められるわけが無いと思うのですが。
例え敵でも相手のことを気遣うが故、簡単に戦いに持ち込めない、戦いに赴くかどうかで悩む。
逆に「相手にも相手の理由がある」と言う事が分かっていないのなら、オタクアニメの主人公は自分から戦いに赴くと思いますが。
敵でも平気で倒せるんだから、簡単に戦いに行ける。

>人に譲れないもの、戦ってでも守るべきものを何も持っていなくて、
>人生という戦いの場で「自分には何も来ませんように」と隅っこでうずくまっているのがオタクだ。

キラ・ヤマト「それでも、守りたい世界があるんだ!」
あれ?、ガンダムSEEDって、マニアアニメ?
だったら最近でもマニア的なアニメって作られたと言う事では・・・?

>マニアの物語では、主人公の気持ちや考えは語られない。
>それは、視聴者が自分で考えるべきものだからである。
>そういうことを考えることのできないオタクが、主人公の気持ちがあえて語られていないのを「主人公は何も考えていない」と勘違いする。

小説だと、マニアだろうがオタクだろうが主人公含め、登場人物の心象が説明されている作品はかなりありますが。
大体、アニメでも漫画でもゲームでも、主人公の気持ちや考えが語られない作品はかなりある。
オタクアニメのファンでも「その時その人は何を思っていたか」と言う事を考える人はたくさんいると思いますが?
事実私がそうですし。

>さて、最後に本当に言いたかったことを言おう。ファーストガンダムとそれ以降のガンダムはまったく違うんだ。
>わかったか。だが、Gガンダムは許す。あれは漢のアニメだ。

ファーストガンダムと以降のガンダムが全く違うのは当たり前、だって全く別の作品なんだから。
で、Gガンダムは確かに漢のアニメですが、許すって何よ。
第一ドモン・カッシュは物語当初、平気でルール違反をするような人物だったのだが・・・。
そんな人間が「相手にも相手の理由がある」と考えているわけではないと思うが。
更に言うと後半でもウルベにレインを返さなければ「死んでもらう」と向こうの都合そっちのけで言ってくれた勇者なのだが。
ちゃんと原作見てくれ。

>そして、男なら、熱い漢のアニメを見ろ。女も見ろ。

人の趣味嗜好に定まった形を与えるのはあなたのコラムで散々苦言を呈している「オタク」そのもの。

No.1748) iwatam(Sat Jul 2 01:30:26 2005)
まず、「オタク」という言葉は、発生当初は侮蔑語でした。これはだいたい1980年代の前半のことです。それが、だんだんアニメの中でオタクが一般化し、1989年頃には、アニメファンの中ではオタクが侮蔑語だと言う人はほとんどいなくなってしまいました。宮崎事件よりさらに10年近く前の話なのです。
それから、ガンダムは「真ん中」と書いたように、マニア世代とオタク世代の移行期にあるため、両方の要素を受け継いでいます。当然のことながら、どのアニメも、100%どちらか片方の要素しか持っていないということはありません。だから、マニアアニメにもオタク的要素はあるでしょうし、オタクアニメにもマニア的要素はあるでしょう。どちらが多いか、どちらが影響しているかで判断すべきであり、二分法を用いるべきではありません。
最後に。アムロが「自ら望まないうちに戦いに巻き込まれた」のだと勘違いしているのなら、一度ちゃんと本物を見ること。
No.1751) それでは 或るGガンダムファン(Sat Jul 2 20:49:58 2005)
まず、私の意見は練り込みが足りないため、無知や勘違いが多かった事と長ったらしい文章だと言う事は誤ります。
次に、どちらが多いか、どちらが影響しているかで判断すべきといいますが、あなたが言っている事は個人の感性で判断するもの、個人差があるわけですから、あなたがあるアニメを「オタク的」と出張しても、私には「マニア的」になる事があります。
その為、あなたの言う「オタク的なアニメしか作られなくなった」という主張は意味を成さなくなると言う事。
私は逆に「マニア的なアニメしか作られなくなった」と主張する事が可能なのですから。
そして、二分法を用いるべきではないといいますが、それだと「オタクアニメ」だろうが「マニアアニメ」だろうが同じものと言う事になります。
確かに二分法は危険な論理でありますから、私はそもそもアニメに対して「マニア的」「オタク的」と言う区分を設けるべきではないと思います。
何故なら「マニア的」「オタク的」と言う、一方、或いは両方に悪意を含む言い方をすると、片方、或いは両方に「向こうとは違う」と言う優越感を生み、不毛な論争を繰り広げる場合があるのです。
他者の異常性を証明する事で自分の異常性を無くした「つもり」になる、悪魔のメカニズムと同じわけですが、これは建設的ではありません。
それで結局誰が1番被害を被るかと言うと、「マニア的」だの「オタク的」だの、肩書きばかりが先行して中身に全く触れられなくなった作品なのですね。
もしあなたが、私の主張を二分法だと思われたのなら、それは私の言葉足らずでした、すみません。
私が言いたいのは、「アニメ」に(そもそも、娯楽そのものに)「マニア的」も「オタク的」も無い、面白い作品は面白いんだ、と言いたい訳です。
過去記事はこちらから: [0] [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54]