信じる信じないではなくて、貴方の主張が真実であると証明できるかどうかの話をしているんですよ。
皆さんの言っている悪魔の証明とは下記のようなものです。
ここから引用↓
「あることの証明」は、特定の「ある」事実を一例でも提示すれば一瞬で完了する容易なことだが、その反面、「ないことの証明」は調査範囲が限定されたケースを除き立証は困難である。なぜならば、この世の全ての存在・可能性・森羅万象などを完全に調査しなければならないからである。
そのため、一般的には、公平の見地から証明責任は「ある」と主張する側が負うことになっており、存在を証明できなければ無いものと見なされその主張は排斥されるとするのが妥当である。
↑引用ここまで
引用元:wikipedia「悪魔の証明」
この場合はiwatamさんの「神はいる」という主張はiwatamさんが証明しなければなりません。
「私がいると言ったら居るんだ」なんて主張は子供が駄々をこねてるのと同レベルですよ。
正直、以前のコラムと同一人物の方が書いているものとはとても思えません。
どこぞの新興宗教の教主でももっとましな理論展開をしますよ?
今度のコラムは「信仰とは何か」についてですね。
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「神がいる」ということは確かに証明できないと思います。
ただ、「信仰」してる人にとっては、証明のあるなしにかかわらず、「神はいる」というのは大前提だと思います。
そういう意味合いにおいて、「信仰」にとって証明は必要ではないと思います。
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どこぞの新興宗教の教主がもっとましな(ように見える)理論展開をするのは、証明がないと信じないと考えるような人々にまで、その宗教を「信仰して欲しい」からじゃないですか?
「神はいる」って主張は,神を肯定してるよう見えやすいんですが,これは神を肯定している訳ではないってことですか?
もしそうであれば,否定は出来ないって主張だけになるから証明は必要ないですけども.
で,更に言うなら,前後の議論は
「神はいる」って意見を肯定することは出来ない
ってことを議論してそうなので,
永久に平行線になりそうですね.
それとも「神はいる」ことを否定出来ないって主張が「神はいる」ことの肯定になって,
その肯定を覆すには「神はいない」って主張を肯定するための証明が必要になるってことですか?
肯定、否定どちらの証明はできません。しかし、「証明ができないものは存在しない」というのもまた変な話です。
おっしゃるように、永久に平行線になりますが、「平行線になるから間違い」とは言えません。世の中には、永久に平行線になる問題もあるのです。
平行線になった場合、どちらが正しいか、それは自分で判断すべきことです。
存在と非存在を証明する場合、存在側が証明するのは他にも言っておられる人がいるようにある種の常識です。
非存在を証明しろというのは明らかに常識はずれであることは肝に銘じた方がよいかと。
自分で判断するべきことではあれど偏った意見を垂れ流し反論に対して自分で結論を出せとはあまりに乱暴で無責任な理屈です。
あと反論の際に論点のすり替えが多すぎるので避けたほうがよろしいかと。
私は「証明しろ」とは言っていませんよ。
「神はいる」っていってる貴方は証明しなくてはいけませんけどね。
つーか露骨な論点のすり替えだねこのレスw
>存在側が証明するのは他にも言っておられる人がいるようにある種の常識です。
はい、これに対して
>思い込みです。
という反論が来ました。
>「神はいる」っていってる貴方は証明しなくてはいけませんけどね。
これじゃあ会話が成立しませんね。
「常識です」を証明しないといけないんですよ。あなた。
>「常識です」を証明しないといけないんですよ。あなた。
hayawo氏がそれを証明しなければ「いけない」のは何故かな?
と言葉遊びに付き合ってみる。w
少なくとも「悪魔の証明」に関しては議論する上での「常識」と呼んでも差し支えないと思うけどね。
でなければ「常識とは何か」「議論とは何か」あたりから始めなきゃならなくなるがそんなのがお望みか?
そう、あなた達がやろうとしているのは「言葉遊び」なんです。
わかってるじゃないですか。ちゃんと私の言う事に突っ込みが入れられたということは。
つまり、あのコラムに対して「神がいるかどうか」を議論するのはどうか、ということです。
>つまり、あのコラムに対して「神がいるかどうか」を議論するのはどうか、ということです。
すまん、何を言っているのか良くわからん。
iwatam氏はコラムで次のように言っている。
>人が信じる信じないにかかわらず、神様はいるのだ。目には見えないし声も聞こえないけれど、それはいないという証拠にはならない。神様の存在が感じられないのは、人間の能力が完璧ではないからである。そして、自分には理解できないから信じないというのは、「なぜあんな鉄のかたまりが飛ぶのかわからない」という理由で飛行機に乗らない人と同様に、滑稽でかつ悲しいことなのである。
これに対して「神の存在を信じない者を馬鹿にしたような言い方をするのは、神の存在を証明してからにしろ」と言うのはどこが悪いのかね?
「神はいる。その存在を信じられない奴らは哀れだ。これに対する反論は許さん」
ということですかね?
議論の基本スタンスが「バカにされたから反論」であるということが、バカの証拠です。
そして、反論を許したり許されなかったりするものだと思っていることが、議論がわかっていない証拠です。
「人をバカにするのならそれだけの根拠を示せ」というのは「バカにされたから反論」なのかね?
それじゃ他人をバカにし放題だな。
その根拠を求められても「それがバカの証拠です」で済ませられるもん。w
それに反論は「許したり許されたり」するものだよ?
反論するのは自由。しかし反論される側がそれを受け付けなかったら、それは実質的に「反論が許されていない」状態だよ。
君は反論をことごとくスルーする態度も「議論」のうちだと思っていないかい?
「許したり許されたり」って変だな。
「許されたり許されなかったり」か「許したり許さなかったり」だ。
反論される側がそれを受け付けなかったからといって、なぜそれが「反論が許されていない」状態になるのですか?
反論を「ことごとく」スルーする態度は議論のうちではありませんが、まったく反論になっていないものをスルーする態度は議論のうちです。
最後に。バカは何でもないことを勝手に「バカにされた」と勘違いします。だから、「他人は基本的にバカにし放題」ということにしておかないと、何も言えなくなります。
>反論される側がそれを受け付けなかったからといって、なぜそれが「反論が許されていない」状態になるのですか?
「反論が許されていない」と「反論ができない」はイコールではない。
また「反論が許されていない」とは「倫理的または法的に許されない」という意味の「許されない」ではない。
「反論してもいいですか?」とお伺いを立てるとかいう話ではないのだよ。
>反論を「ことごとく」スルーする態度は議論のうちではありませんが、まったく反論になっていないものをスルーする態度は議論のうちです。
当然だね。
で、「反論になっていないものをスルーする」と「反論を許す/許さない」にいったいどういう関係があるんだい?
「反論になっていないもの」をどうしようとも「反論」に対する態度とは全く関係ないのだが。
>最後に。バカは何でもないことを勝手に「バカにされた」と勘違いします。だから、「他人は基本的にバカにし放題」ということにしておかないと、何も言えなくなります。
「バカにしたと誤解される恐れがあっても主張する」と「バカにする」は全く違うのだがね。
前者は誤解を解く努力をするし誤解が解ければ問題はなくなる。
対して後者は誤解ではないのだから問題は膨らむばかりだ。
iwatam氏がどちらかはともかく、あなたは明らかに後者であり人間性に問題ありと言わざるを得ないな。
世の中には、すべての誤解を解く努力が無駄になる「どうしようもないバカ」が存在します。
どうしようもないバカに対しては、誤解を解く努力は無駄なのでやりません。
もちろん、あなたが勝手に私を「人間性に問題あり」と思う分にはかまいませんが、私はそれを「どうしようもないバカが何か吠えてるなぁ」くらいにしか思ってない可能性があることも付け加えておきます。
まずお詫びを。
iwatam氏本人だったんだね。
基本的に発言者より発言内容を重視するんで、iwatam氏か名無しか、あるいは他の誰かかなんて気にしてないんだよね。
だから「iwatam氏がどちらかはともかく」と言ったんだが、不必要だったようだ。
お詫びすると共に「iwatam氏は人間性に問題あり」と訂正させていただく。申し訳ない。
>世の中には、すべての誤解を解く努力が無駄になる「どうしようもないバカ」が存在します。
>どうしようもないバカに対しては、誤解を解く努力は無駄なのでやりません。
「あなたに反論する者」と「どうしようもないバカ」の関係を教えてもらえるかな?
あなたに反論する者=どうしようもないバカなのか?
「反論を許す/許さない」と「反論になっていないものをスルーする」の関係にも答えてないよな。
そうやって論点を拡大してうやむやにするのがあなたの議論スタイルだってならやはりあなたは「議論」をわかっていない。
>もちろん、あなたが勝手に私を「人間性に問題あり」と思う分にはかまいませんが、私はそれを「どうしようもないバカが何か吠えてるなぁ」くらいにしか思ってない可能性があることも付け加えておきます。
どうぞご勝手に。
「どうしようもないバカ」にどう思われようとなんとも感じません。
むしろ「どうしようもないバカ」に肯定される方が迷惑です。
証明が必要なのは,「いる」派の人と「いない」派の人の間で,「いるかいないか」についてどちらかに統一された見解を持とうとする場合だと思います。
そういった場合は,「いる」と存在を主張する側が証明をし,証明できなければ「いない」とみなすという処理になると思います。
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今回の場合は,いると思ってる人はいると思ってて,いないと思ってる人はいないと思ってて,分からない人は分からないと思ってていい。つまり統一の見解を持つ必要はないのだから,証明などしなくても「神はいる」と言えると思いますよ。「いる」と言うためには証明が必要だと思う人は「証明されてないから,いない」と考えておけばいいだけの話で。
ということは、やはり「いる」と断言してしまってはいけないということですよね?
「いると思う」ならそれでいいのですが「いる」と断言してしまっている以上は、
証明が必要なのではないでしょうか?
でないと、「いないと思っている」人達はそう考えていても、決定的に否定されてる訳ですから証明して頂かないと納得出来ないと思います。
なぜ、「いる」と断言してしまってはいけないのですか?
なぜ、証明が必要なのですか?
なぜ、あなたが納得できないといけないのですか?私は別にあなたが納得できなくてもかまいませんけど。
私は,断定口調の語りには,それが語り手の考えを述べている場合と,証明された(証明できる)事実を述べている場合があると思います。
「証明された事実だけを断定口調で語るべきであって,個人的な考えは断定口調で語ってはいけない」というのがLatteさんの主張でしょうか。
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つまり私の読み方だと,
「神はいる」という発言を見て,「ああ,この人は『神はいる』と考えてるんだな」としか思いません。私がそれに納得するかどうか,自分では神はいると考えるかいないと考えるかはその発言には全く関わりません。
Latteさんは,
「神はいる」という発言を見て,「この人は『神はいる』ということを証明された(証明できる)事実として語っているんだな」と思い,「それならその証明を知りたい,証明を提示されない限りその意見には納得できない。」と考えるということですよね。
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証明は多分できないし,するつもりもありませんが,私は「自分の読み方が正しい」と(勝手に)考えています。
自分の読み方を誰かに納得して欲しいわけでもないですし,他の人が他の人なりに「自分の読み方が正しい」と考えていても差し支えありません。
「証明された事実だけを断定口調で語るべきであって,個人的な考えは断定口調で語ってはいけない」ということですが、そうは、言ってませんよ?出来る限りそうするべきだと私は思います。
たとえば、路地があり「そこに猫がいる」では路地(そこ)にいないと成立し得ない言葉ですよね?そこにいないのに「いる」と言われても「いない」としか思えませんよね?
しかし、そこに「猫がいると思う」ならばいなくても勘違いや思想の範疇で収まります。
{「神はいる」という発言を見て・・発言には全く関わりません。}も{証明は多分できないし・・差し支えありません。}
も、やはり自分は「そう思う」という結論で、貴方の意見に賛成だという人もいれば、また違う意見の人もいる訳です。万人が同じ答えや意見を持っているわけではありませんよね?
ならやはり、断定する限りはその理由や、何故そうなのかと思う意見があってもそれは不思議なことではありません。その意見に対して、「これは、こうだから断定できるのだ」という万人が及び大多数が納得出来る証明が無いと、万人には伝わりにくく、反論や異見が出るのではないでしょうか?
ということは、iwatamさんや風花さんの言う「納得してもらわなくても構わない」という意見は、「納得したい」と思う人にとっては、逃げにしか見えないのではないでしょうか?
そんな、人達を納得させてこその「断定」だと私は思います。
万人には伝わりにくいだろうし、反論や異見が出てもいいと言っているのですが。
なぜそれを「逃げ」だというのですか?どこから逃げているというのですか?
「そんな、人達を納得させてこその断定」というのはあなたが勝手に思っているだけです。
少し確認。
「人たちを納得させなくても断定口調で語っていい」というのもiwatamさんが(私もですが・・・)勝手に思っているだけで、
それはそれでどっちの立場もあっていいけど、
「納得させなくても断定口調で語っていい」と考える人たちに対し「納得させてこその断定」と考える人たちが「断定するなら(証明するなどして)納得させろ」と求めたところで、その求めに応じて納得させる(証明する)必要を感じないというようなことですよね?
もし違ってればご指摘下さい。
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あと、「逃げ」に関してですが。多分、iwatamさんも韜晦してるだけなんじゃないかな、とは思いますが(^^;
蛇足として。
「納得させてこその断定」と考える人たちにとっては、「納得させないのに断定」することは「納得させる」ことから逃げているように感じられるのだと思います。
だいたいそうです。
相手の求めに応じなければならない義務はありません。だから、「逃げ」という言葉も本当は当てはまらないはずなのです。
Iwatam氏はどうだか知らないけれど、
他の方々は議論をやっていると思っているのでしょう。
だから、「いるって断定するなら証明してみろよ」
「いるって言ったらいるんだーい。証明なんかしらねーよ」
って流れはIwatam氏に「議論から逃げている」という評価を与えるのは当然。
相手の求めに応じなければならない義務はないけれども、
それがIwatam氏(及び、氏の持論)への評価を変化させることはお忘れなく。
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まあIwatam氏はチラシの裏に書いてるが如きで、
そもそも議論をしてるつもりはさらさら無いのでしょう。
だから「逃げ」なんて評価はあてはまらんと言うのもわかるけれど、
それならそれで別の評価が与えられるでしょう。
Iwatam氏にとってはどんな評価が与えられようとどうでもよいでしょうが。
みなさんがツッコんでいるのは、
「いないとは言えない ≠ いる」
ってことでしょ。
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「いる」と主張するなら、明確な根拠を示せと。
「いないとは言えない」では根拠になっていないと。
あなたがそれを信じる必要はありません。信じられないのなら、信じなければいいのです。それだけのことです。
きっと、まだ時が来ていないのです。神様が「こいつに教えるにはまだ早すぎる」と判断しているのです。
最後に一つ。あなたの言ったことの正当化はいいですから、あなたが結局何を言ったのか、自分でよく考えてみることをおすすめします。