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No.371) 「神道における神」について きはら(Sun Feb 22 22:16:49 2004) |
No.372) ご意見ありがとうございます iwatam(Mon Feb 23 15:55:07 2004) |
No.253) 「科学万能主義」について miy(Sat Jan 24 18:30:40 2004) |
「何でもコラム」の「科学万能主義」について、途中から「科学」という言葉の使い方が混乱してきているように思われましたので、質問と意見を書き込みます。
第一段・第二段の「科学万能主義」における部分では、
「これらが科学万能主義の発想である。現在の状態を適切に観測し、それに科学法則を適用すればすべての結果が導き出せるというものだ。」
という文から、「万能」なのは「科学的手法によって得られた法則」であって、「科学万能主義」の「科学」は、上のような「法則」を指している語のはずです。
ところが、第三段の
「別の意味の科学万能主義があるからだ。「科学以外の方法で解明できるものは何もない」という主義である。」
という文では、明らかに「科学」という語は「科学的手法」という、方法を指し示す語として使われています。
以降の文での「科学」という語は全体的に意味がはっきりととれず、
「これは「科学」の力の問題ではなく、「解明」という言葉の定義の問題である。」
という文も、よく理解できません。
『理解できないものを理解できるようにすることは、「科学的手法」に基づいたものでなければならない』という主張は、「科学的手法万能主義」を受け入れた場合にのみ成り立つはずです。
「「科学的手法万能主義」は妥当な主義である。」としても、「科学的手法万能主義」を立場として受け入れる必然性があるということにはなりません。
第四段の、真偽不明の文の価値に関する文章は、全て「科学的手法万能主義」を受け入れた場合のみ成り立つ文ですが、すでにこれを受け入れていることが前提であるかのように書かれています。
このときの「真偽不明の文の価値はゼロだ。」という価値判断を行う主体は、科学者でしょうか、それとも人間の全てでしょうか。
第五段では、
「科学というのは「きちんと筋道を立てて説明 する」ということである。」
と定義されますが、ここではすでに第一段・第二段での「科学」の定義は、失われてしまっているようです。
「科学によって明らかにすることを解明というのだから、」
という文も、「これは「科学」の力の問題ではなく、「解明」という言葉の定義の問題である。」が理解できていないために、やはり理解できません。
途中から論理が言葉の定義とともにねじ曲がってしまっており、第三段以降の意味が良く分からなくなっているように思います。
No.257) 「科学」とは「科学的手法」の意味です iwatam(Thu Jan 22 23:09:52 2004) |
おっしゃるように、第三段以降はすべて「科学的手法万能主義を受け入れられるなら」という話です。なぜ科学的手法万能主義を受け入れなくてはならないかというと、「解明」というのが科学的手法万能主義の言葉だからです。「解明」という言葉を使った時点で科学的手法万能主義の立場でものを考えるということです。
逆に言った方がわかりやすいでしょうか。「解明をどうやってすればいいか」という問題に答えるものが「科学的手法」です。これは言葉の定義です。「解明する方法」=「科学的手法」という定義なので、科学的手法ではない「解明する方法」は定義上存在しません。
もし最初の言葉が「この世には科学では悟れないことがある」とか「この世には科学ではわからないことがある」いう言葉でしたらまったく異論はありません。
No.263) 科学的手法万能主義と解明とが必然的に結び付くことについて miy(Sat Jan 24 18:25:37 2004) |
しかし、「この世には科学では解明できないことがある」という文に検討を加える際に、「科学」なる言葉を「科学的手法」と、なぜ説明なしに置き換えが可能であったのかということには疑問が残ります。
私は、この一連の投稿に論理的な誤や曖昧さを指摘しようとする意図をもたせていますが、同時に閲覧者の一人として、サイトの文書がより分かりやすいものとされることを希望しています。
本題に入ります。
まず、「科学的手法万能主義」を受け入れる必然性がある理由として、iwatamさんは「解明」という言葉がそもそも「科学的手法万能主義」の言葉である、「解明」という語がそのような定義である、という事実を挙げていらっしゃいますが、しかし、その事実を私は認識していません。
自然言語には、定義というものは原理的に存在しません。逆に自然言語が指し示す意味の範囲が時に曖昧すぎるために、話者が話題に即して意味を限定する、即ち定義する、必要があるのです。
ここで私は、「解明」なる語が自然言語ではなく、限定的な出自をもつ語であるという事実を示される必要があります。
私がいくつかの辞典にあたってみた限りでは、そのような出自については確認できませんでした。
したがって、ここで、「この世には科学では解明できないことがある」というメッセージの発信者が、仮に私が行き当たった辞典と同じように「解明」という語を解釈し、使用していたとしても、私にとって不思議はありません。そしてこの場合には、「解明」という語が「科学的手法万能主義」に基づく言葉であるとして使う必要はありません。
私は、ここで「解明」の意味を、とりあえずは広辞苑の
「不明な点をはっきりさせること」を拠り所として捉えます。「はっきり」および、「はっきり」の説明に使われる「明らか」について同辞典によって展開すれば、
「不明な点を、明白で疑いをはさむ余地がないような状態にすること」
となります。
少なくとも、「科学」なる語と、論証なしに直接結び付く言葉ではありません。
解明とは科学的手法の言葉であるという文の逆としてiwatamさんが挙げられた、科学的手法は解明をどうやってするかという問題に答えるものである、ということには、反論はありません。
しかし、逆が成り立つ場合のすべてが、同値であると証明されるわけではありません。
この場合には、「解明をどうやってするかという問題に答えるもの」が「科学的手法」を包含している可能性があり、その可能性を消し、同値であることを示すためには、「解明をどうやってするかという問題に答えるもの」の全ては「科学的手法」である、という文が真であることを示す必要があります。
「科学万能主義」のコラム中では、「科学的手法万能主義」自体が「解明を、科学的手法によってのみなされると定める」主義であると述べられています。つまり「科学的手法万能主義」を受け入れることは、上の文を論証無く真とみなすことと同じです。
しかし、「解明」という語を使うことが「科学的手法万能主義」を受け入れることに等しいとしたら、上の「解明を〜と定める」意味はありません。
この辺りの論理は異常であると私は考えます。
そして、「解明」という語を使うことが「科学的手法万能主義」を受け入れることに等しいと いう文に関しても、私はその事実を認識していないということは、先に述べた通りです。
No.264) コラム全体を見て miy(Sat Jan 24 18:26:41 2004) |
以下では、科学という語に対して「体系的であり、経験的に実証可能な知識」、科学的という語に対して「物事を実証的・論理的・体系的に考えるさま」
という意味に大まかに従い、なるべく「科学」「科学的」という語を使わないようにします。これらの語は、意味が曖昧なわりに強いイメージを持たせるために、ここでは障害にしかならないと判断するからです。
「解明」についても、仮に「不明な点を、明白で疑いをはさむ余地がないような状態にすること」を用います。
コラムの論理の流れとして、私は以下のように解釈しました。
-------
「この世には科学では解明できないこともある」を論じるために、対立する文である「この世の全てのことは科学で解明できる」を検討することにした。上が否定されれば、最初の文は真となり、上が肯定されれば偽となるはずである。
「この世の全てのことは科学で解明できる」という考えは、ラプラスらの発想と一致する。即ち、この世のことは全て、経験的に実証可能な範囲で得られる法則によって全て疑いの余地なく明白にでき、経験的に実証不可能な要因は完全に存在しないとする発想である。
このことは、実証的に考える方法によって全てのことを疑いの余地無くはっきりとさせうるという主張でもある。
しかし、これは否定された。そもそも、証明不可能な文である。
これが否定されるならば、最初の文は真であるということになる。
しかし、はっきりしないものごとを明白で疑いのない状態にするには実証的な方法に依るしかない、即ち、経験的に実証可能な知識のみが明白で疑いようのない状態であると呼べる、という主義が存在する。
これは真である。
ならば、最初の文は同義反復となり、意味がないことになる。
-------
仮に、この流れが正しいとしたとき、
私が理解できないのは、最後から二つ目の「これは真である」の部分です。この部分に関する論証がないままに最後の結論が導かれているために、私は最後の結論に賛成できません。
それに、最初の文に意味がないとすれば、その逆の文であるラプラスらの発想についての考察にも意味がないことになります。コラム前半部自体の存在意義を完全に否定しているのだから、少なくとも、なぜここで考察が終わるのかは釈然としません。
また、解釈すべき文に含まれる語に対し、文章の最後に定義を与えているところも、不可解です。文を読み取る際に、最初に考えるべき事柄だからです。
最初の文に対する私の解釈は、そのまま
「この世には、経験的に実証可能な知識からでは疑いの余地の無い状態にできないという、不明なことも存在する」
というものです。
はっきりしているか、明瞭か、疑いの余地がないか、ということは、認識の問題です。デカルトの仕事にまで踏み込むなら、考える自分以外はすべて疑えることになります。
経験的に実証可能な知識にも、それが成り立つには前提が存在しています。最初の文は、その前提を受け入れる限り決して理解し得ないものごとが存在していると主張する、つまるところ「科学の前提も疑われるべきものである」と主張する文であると、私は解釈します。曖昧な文ですが、特に問題があるようには思われません。
以下は、細かいところなのですが、
第三段の「超能力や霊といった超常現象が非科学的なのではない。それが目撃談や手品まがいの実演といった非科学的な方法でしか見られないから非科学的なのだ」
という文のつながり方は、論理的に異常です(先の文で否定したものを、そのまま後の文で肯定しているからです。)。最初の文が否定するものは、理由であるべきだと考えます。
また、第四段の「きちんと筋道を立てて説明したものだけに価値があり、そうでないものはすべてゴミだ」ですが、
実証主義全体としては、実証的方法で導かれないものに対して、考えに取り入れるべきであるという価値を与えませんが、反価値も与えません。「ゴミ」という比喩は、「ないほうが良いもの」という反価値としての意味を与えるために、適切ではないように思います。
「空気のようなものだ」あたりであれば、適切な比喩であると思います。
「この世には科学では解明できないこともある」という、件の文は、実証主義自体は否定しませんが、実証的方法で導かれない方法は全て廃棄する方が望ましいという、実証主義の一極支配主義とは反目します。
しかし、「廃棄する方が望ましい」「望ましくない」というのは、個人の価値判断の領域です。論理的に実証主義から導かれるものではありません。
実証主義のもとで研究を行ったニュートンなどの科学者が、往々にして同時に神を奉ずる宗教者であったということを、私はその根拠として挙げます。
No.273) 一つ気になったこと iwatam(Sun Jan 25 03:11:21 2004) |
No.274) 細かい話ですが「ゴミ」について iwatam(Sun Jan 25 03:35:25 2004) |
No.270) 言葉の定義について iwatam(Sun Jan 25 12:26:44 2004) |
上記のように定義するといささか同語反復的になります。
「経験的に実証可能な範囲で得られる法則による」というのは、科学の一種ではありますが科学のすべてではありません。我々が今までそれ以外に方法を知らないからこれが科学だと呼ばれてしまうこともありますが。
なお、「理解」と「解明」は違うものであるということも付け加えておきます。「理解」は個人的なものですが、「解明」という言葉の定義には「だれもが」という言葉がついております。
少なくとも用語の用法にお互いのずれがあるようなのでここで明確にしておきたいと思います。
いろいろとご意見ありがとうございます。
No.297) 語の意味を解釈する際の規範について miy(Wed Jan 28 21:36:26 2004) |
個々の人間が言葉に対するイメージ・知識を得るに至る環境は、その言葉の属する言語が使われる環境全体に比べて、非常に狭いものです。
従って私は、他人にも参照可能であり、それなりに広範囲にわたる言語研究の結果であると考えられる規範として、仮にこの辞典を使うことにしました。
言葉は話し手と受け手の間で通じなければなりません。その際に互いが言葉に対してもつイメージを統一するためには、何か共通の規範が必要です。その規範として辞典を選ぶのは、とりあえず穏当な方法ではあるでしょう。
「科学万能主義」のコラムでは、話はまず「この世には科学では解明できない事もある」という、他人が発したメッセージの解釈から始まります。この文に含まれる言葉を定義できるのは、この文の作成者だけであるはずです。
この時、解釈する側は解釈する際にいくつかの前提を置くことが可能です。例えば「この語は○○に従えばこのような意味になる」というような前提です。
元の文に対しある前提を立てて考察を進めた結果、結論がおかしな事になった場合、可能性としては「元の文がおかしい」か、あるいは「前提がおかしい」か、という二つがあり得ます。
この時、この前提の由来を記しておけば、読み手は前提に対しても検討を加えることが可能です。
iwatamさんがコラム中の言葉に対して当てた定義の由来を私は知りませんが、他人の発した文に対しても前提として自身の定義を当て、結果として結論に同語反復が含まれたからといっても、そのまますぐに「この文は文として正しくない」と断ずることはできないと考えます。
もしもコラムの始まりが「超常現象を扱ったTV番組では、あるメッセージがよく流される。このメッセージとは大体〜〜という意味であるようだ。」というものであったならば、ここでの「〜〜」はiwatamさんの文です。宣言した上であれば自己流で定義した言葉を使うことも自由でしょうし、また、この文が同語反復をおかした場合の責もiwatamさんに還るものになります。
No.298) 個々の語について miy(Wed Jan 28 21:37:39 2004) |
「科学」と「解明」の意味についてですが、iwatamさんの定義に従う限りでは、特に申し上げることはありません。
一般の話であれば、私は事実として「科学とはscienceの訳語として作られた語であり、scienceの元になった言葉はもともと『知』というものを指す言葉であり、しかしscienceは次第に限定的な『知』についての意味を指すようになっていったらしい」ということを認識しています。
その「限定的な『知』」について、辞典の編纂者は「体系的・実証的」といった意味合いを含む知識である、と解釈しているのでしょう。
その理由については、私はよく知りません。
「解明」ですが、もともと「だれもが」といった意味合いはなかったのだろうと思っています。「だれもが」という意味の意識が日本語の使用者の間で強くなれば、辞典の記述も変わるのかも知れません。
No.301) 語義について iwatam(Thu Jan 29 03:50:11 2004) |
No.251) はるゆき(Wed Jan 21 15:33:42 2004) |
ただ、一点だけ納得のいかない部分がありました。「確信犯」についてです。これは文化庁の調査の内容で特に問題ないのではないでしょうか。
例えば、ある宗教の信者が人を殺したとします。「殺人は罪だ」と言った場合「「経典では許されている。法律のほうが間違っているのだ」などと考えるのが確信犯です。自分の正当性を文字通り「確信」しているのです。
だとすれば、確信犯を「分かっていながら悪いことをする」という意味で用いるのはやはり誤用だと思いますが、どうでしょうか。
No.252) それはつまり信念とは何かという話です iwatam(Wed Jan 21 20:32:29 2004) |
なお、私の結論はどっちが正当でどっちが誤用だと言うわけではありません。文化庁の調査で出ている項目は2つとも間違いであるというのが結論です。本当の答えはその2つを合わせたものなのですから、片方が「省略が入っているから」という理由で間違いとされるのなら、もう一方も省略が入っているので間違いです。
No.254) 祈月(Thu Jan 22 20:59:51 2004) |
No.255) まず論点をはっきりと iwatam(Thu Jan 22 22:25:34 2004) |
元コラムの主張は、「確信犯の意味は変わった」という主張ではありません。「文化庁が挙げた二つの文について一方的に正しいとか間違いという評価を下すのはよくない」という主張です。それはなぜかというとどちらもある意味間違っていて、ある意味正しいからです。
元コラムで問題としているのはあくまで文化庁であって、世間一般でどう誤用されているかというのは考慮の対象外であることをまずご承知いただきたいと思います。
No.256) 悪いととらえるのは誰か iwatam(Thu Jan 22 22:41:10 2004) |
なお、「確信犯」と「愉快犯」とが混同されているという話は初めて聞きました。なるほど、そういう話なのでしたら「おかしい!」と声を挙げるでしょう。
なお、愉快犯は確信犯そのものではないが確信犯の一部である、という見方はよろしいでしょうか?「世間を騒がすことが天国への道である」と説く騒乱救世教の信者であるということで。
No.258) なるほど 祈月(Fri Jan 23 01:15:44 2004) |
>なお、愉快犯は確信犯そのものではないが確信犯の一部である、という見方はよろしいでしょうか?「世間を騒がすことが天国への道である」と説く騒乱救世教の信者であるということで。
さて、どうでしょう。この場合「騒乱救世教の信者」がその行動の意図を正しいと思っているので有れば、それは「一見愉快犯に見えるが実は確信犯」、と捉えるのが正しいのではないかと。良い悪いは確かに社会的な定義や道義的な定義などいろいろ有りますが、この確信犯、愉快犯のカテゴリーに限っては「確信犯=自身の行動が悪くないと思っている」「愉快犯=自身の行動が悪いと思っている」と考えるのが妥当では無いかと思います。別に宗教的、政治的、道義的行動を神聖視するつもりはありませんが、明らかに快楽目的のそれとはそもそもの動機が違うでしょうし、同一視するのもどうかと思います。
>自分で悪いと思っていることをやることは不可能なので…
ここで言う「悪い事」が根元的な人の禁則原理であると定義するならば確かにその通りでしょう。
が、少なくとも私は「自分が悪いと思っている」事は「社会的に悪い事とされている」からと言う場合が多く、また、そうであっても、それをしてしまう事があったりします(苦笑)。歩行時の信号無視だったり、スピード違反だったり。この時の私の心情は「悪いと思っているし、人から注意を受けたら反省するが、その方が楽だから思わず遣ってしまった」な訳です。これはiwatamさんの定義で言えば「自分では悪い事と思っていない事」に成ってしまう気がするのですが、ではこの私の心情はどう形容するべきでしょうか? 私なら普通に「自分が悪いと思って居るがやってしまった」と思いますが。
No.259) まずは問題の整理から iwatam(Fri Jan 23 13:58:02 2004) |
で、ここで少し疑問に思ったのが、「確信犯」がどのように誤用されているかという問題です。つまり、「確信犯」と誤用されているけれど本当の意味では確信犯ではないのはどれかという問題です。
上に出された例のうち、「その方が楽だから思わすやってしまった」というのは誤用の意味でも確信犯には入らないと思うのですが、どうでしょうか?「思わず」とか「うっかり」はだれも確信犯とは呼ばないと思うのです。同様に、何も考えずに快楽にまかせて衝動的に行う犯罪もだれも確信犯とは呼ばないと思います。という意味で「愉快犯は確信犯の一部」というのは少し行き過ぎた表現でした。
ただ、愉快犯は確信犯ではないかというとそうでもなく、深く考えた上で「法を破って快楽を追求してもいいんだ」という結論に至って法を破る場合は確信犯と言えるでしょう。
つまり、どんな要件が揃えば確信犯なのかです。要件は「深く考えること」であり、考えた結果出たことなら政治的とか宗教的とかいう言葉なしに確信犯であるといえます。
No.260) またまたわかりにくい表現で申し訳ございません。 祈月(Fri Jan 23 22:01:11 2004) |
さて、確かに愉快犯と確信犯はそれが違う言葉であるため、同時に適応される様な状況はあり得るでしょう(もっとも、愉快犯確信犯とか言う前に狂人呼ばわりされそうですが)。
その上で、確信犯とは「「深く考えること」であり、考えた結果出たこと」を“正しい”として行動する人を形容していると考えて良いかと思います。
と言う事は、それは本人が“正しい”と認識して居るわけで、少なくとも本人的には“悪い”事じゃ無いですよね。
さて、はるゆき様の意見は「分かっていながら悪いことをする」の悪い事は、本人が「悪い事」と認識した状態であり、尚かつ、にも関わらず遣ってしまう人の事を、確信犯と定義するのは誤用じゃないか、と言う事だと思うのですが如何でしょうか?
自分でもどう説明して良いか悩んでいますが、どうも「正しい」や「間違っている」が掛かっている部分がズレている気がします。
No.261) 誤用の定義は自己矛盾である iwatam(Sat Jan 24 01:03:30 2004) |
まず、「誤用」とは何かですが、
「考えた結果その行為は自分でもやってはいけない行為だと思うがそれをすること」
であるととりあえず定義してよろしいでしょうか。
すると次の質問は「そんなことは本当にできるでしょうか?」というものです。
つまり「するな!」と頭で考えたことを「する」ことです。
「思っていないことをやってしまう」ことはあるでしょうが、それは「思わず」「うっかり」なのでもともと確信犯から除外されています。
上の誤用の定義は
1) その行為は考えた結果である
2) その行為は考えた結果ではない
と互いに矛盾することを言っているわけです。
だから、上の誤用というのはそもそも成立しないのです。
なぜこんな矛盾が生じたのかというと、「悪いこと」を「自分でもやってはいけないこと」と定義したからです。そうではなく「社会的にやってはいけない行為」と定義すべきです。そして、そう定義すれば実は誤用ではないということになります。
No.262) はるゆき(Sat Jan 24 12:58:55 2004) |
「信念に基づいて行動する」と「信念に基づいて【正しいと信じて】行動する」は別の行為です。後者の場合のみ「確信」といえるのです。「万引きは悪いが、ばれなければ大丈夫」、これは信念ですが、万引きそのものを正しいと信じているわけではありません。心理学でいうところの「認知的不協和」を軽減するために心のバランスを保とうと言い訳を考えているに過ぎず、「確信」しているわけではないのです。
No.269) すみません。私の根本的な考え違いかもしれません iwatam(Sun Jan 25 02:22:10 2004) |
でも、そうすると、例えば一方通行の標識を見落として進入するのは「確信犯」ですか?(念のため。これは反語ではなく疑問です)
なお、これは「熟慮の上ではない」とは言えません。一方通行の標識がないのが普通です。熟慮を「その問題の答えを出すにふさわしいだけの考慮をすること」とすれば、問題自体が簡単でありそれにふさわしいだけの考慮をしたということですから。
つまり、法に触れるとは知らないことを「熟慮」できるのかというのがまた問題です。問題があること自体を知らないのだから、それについて考えることはできないのではないかという疑問があります。
No.266) またまた本筋からはずれた話 祈月(Sun Jan 25 00:25:39 2004) |
No.271) 誤用の例を知りたかったのです iwatam(Sun Jan 25 02:36:58 2004) |
No.267) またまた本筋からはずれた話 祈月(Sun Jan 25 00:25:42 2004) |
No.268) さて、この設問の意味はなんでしょう 祈月(Sun Jan 25 00:38:50 2004) |
ポイントは確信という名の誤解です。
よろしければ答えてみていただけると幸いです。
尚、これに関する説明はちょっと時間をあけて月曜日の夜に書き込むつもりです。
No.272) 私の答えは iwatam(Sun Jan 25 03:04:46 2004) |
問題は2.ですが、これは「騙す事は社会的には悪いことであるが、本当は正しいことだ」と思っていることならば、「1+1=1か2か」とは別の意味での確信犯です。問題はそう思っていない時です。この時、私は次の順に質問をします。なお、最初は○○=「Bくんを騙すこと」とします。
Q1) 「なぜあなたは○○が正しくないと思っているのにそれをしたのですか?」
A1.1) 「理由なんてない」と答えた時には考慮が足りないので確信犯ではありません。
A1.2)「それは××だからだ」と答えた場合には次へ進みます。
Q2) 「では××ならば○○をすることは正しいことですか?」
A2.1) ここでもしイエスと答えれば、それは確信犯です。
A2.2) もしノーと答えれば、○○=「××ならば○○をすること」と代入し直してQ1に戻ります。
この質問は相手が「考慮が足りない」と言うか「それは確信犯だ」と言わない限り終わりません。だから、「考慮は足りているが確信犯ではない」という結論は得られないことになります。
というわけで、2.が確信犯であるか?という問いには
a) Aさんの考慮が足りないならそれは確信犯ではない
b) Aさんが「自分の行為は正しいものである」と思ったならそれは確信犯である。
c) それ以外の場合には確信犯であるかどうかは決定不能である。
というのが私の答えです。
No.275) 祈月さんの説明を待つ間に はるゆき(Sun Jan 25 12:21:49 2004) |
「本来の意味」の例です。ある宗教の信者が「我が教団に反対する奴は魂が穢れているのだ。このまま生かしておいても不幸になるだけだ。一度魂をリセットして、浄化せねばならない」こんなことを考えて人を殺しました。「来世で幸せに暮らすんだよ」なんて本気で信じて「いいことをした」と思い込んでいます。ここで重要なのは殺人自体を「いいこと」と認識している点です。「殺人は悪いが、教祖様には逆らえないから仕方が無い」では確信犯とは言えません。
また、こんな人物に法律云々言ったところで無駄ですよね(法律と教義との違いについてまったく考えていなかったとしても、「信念に基づいて正しいと信じている」ことには変わりありません)。
「誤用」の例です。これは「自分の行為が悪い結果をもたらすと分かっていながら、その行為を行う」と言い換えた方が近いかも知れません。
ネット上には「荒らしは無視する」というルールがあります(これの是非については論じません)。荒しに対して、初心者風の人物から注意する書き込みがあったとします。それがきっかけで掲示板はますます荒れてしまいました。
ここで掲示板の参加者が「こいつは初心者をよそおっているが、実は巧みに荒らしを挑発しようとわざとやってるんじゃないか?」と考え「おい、お前確信犯だろ?」と書き込んだとします。これが誤用です。
No.276) 日常生活から離れているかどうかの問題ではない iwatam(Sun Jan 25 12:54:42 2004) |
No.277) はるゆき(Sun Jan 25 15:40:34 2004) |
卑近な例でも確信犯というならば「スピード違反」は確信犯でいいと思います。「周囲の車と同等のスピードでなければ事故になる。この状況では制限速度は守らなくて正解」このように考えたのならばです。ただし必要も無いのにスピードを出して「ばれなきゃいいや」では確信犯とは言えません。
「荒らしに注意する」に関しては、荒らしに注意した人物が本当に初心者で、かえって荒れることを予見できず「説得すれば分かってくれるに違いない」と考えたなら確信犯でしょう。
自分の書き込みによって場が荒れることを予見していた場合は、いたずら目的で書き込んだなら確信犯ではありませんが、もし「こんな悪いサイトは荒らして閉鎖させたほうが世の為だ=荒らしはいいことだ」と考えていたなら確信犯と言えるでしょう。
No.280) 政治も宗教も思想も特別なものではない iwatam(Sun Jan 25 17:58:39 2004) |
No.281) 初心者の注意は確信犯ですか? iwatam(Sun Jan 25 18:05:32 2004) |
No.278) はるゆき(Sun Jan 25 16:37:41 2004) |
「スピード違反」も自分が正しいと思っている点では同じですが、その理由は一般的な感覚でも十分理解できるものです。中には同情する人もいるでしょう。ですから、この場合は確信犯とはあまり言わないのです。
No.282) 上記事の中に私との違いが一つあります iwatam(Sun Jan 25 18:11:36 2004) |
No.279) 「確信犯」の正しい定義 iwatam(Sun Jan 25 17:46:31 2004) |
「我々全員で構成されている社会の中にある集団があり、その中では我々の社会のルールに反したルールを決めている。そして、我々全体のルールよりその集団のルールを優先することを確信犯と呼ぶ」
いかがでしょうか?
No.283) はるゆき(Sun Jan 25 20:54:47 2004) |
思想についてですが、私は自分が何故万引きをしないのかは深く考えたことがないので分かりません。実を言えば「何故人を殺してはいけないのか」も分かりません。「人命は尊いものだから」という人もいれば「『俺も殺さないから、お前も殺さないでくれ』という相互契約の思想に基づいているから」という人もいます。知識としてこのような考えがあることは知っていますが、どれが正しいかは分かりませんし、どれかを支持しているということもありません。ですから「卑近な例には絶対に思想は入っていない」とは言いませんが、入っていない場合も多いんじゃないでしょうか。
「卑近な例でも思想が入っているなら確信犯といえる」これには異議はありません。しかし「言葉のニュアンスとして、普通は卑近な場合には用いない」ということとは別問題です。
「魂が穢れているから殺した」が納得できない件ですが、理屈は分からないでもないが人を殺す理由にはならないと思ったので「納得できない」と書きましたが、これは「賛同できない」「合意できない」でもいいです。何が言いたかったかというと「魂が穢れているから殺した」という考え方が社会通念からは大きくかけ離れているということです。
「確信犯の正しい定義」ですが、まず「集団か個人か」は無関係です。個人的に「障害者は殺せ!」と考えてそれを実行しても確信犯です。
「自分(または属している集団)のルールを優先するのが確信犯」ですが「優先」とは相対的な言葉なので、確信犯からすれば「我がルールが唯一絶対」「他のルールは無視」「そもそも他のルールなんて知らない」などのパターンもあろうかと思います。何にせよ、自分(または属している集団)のルールに基づいて行動するということです。
ここで「政治的・宗教的などの信念に基づいて正しいと信じてなされる犯罪」という文化庁の定義に戻りますが…私にはどこに問題があるのかやっぱり分かりません。
No.284) 信念とは何ですか? iwatam(Mon Jan 26 00:51:10 2004) |
No.285) 文化庁の定義が問題なのではありません iwatam(Mon Jan 26 01:10:07 2004) |
No.286) うっかりミスは確信犯か iwatam(Mon Jan 26 01:49:00 2004) |
No.287) はるゆき(Mon Jan 26 22:38:17 2004) |
人間誰しも、自らの行動の基礎となる思想がある…これには同意します。イスラム教徒や共産主義者なら信仰や主義、そのような特別な名のついたものを持たない人にだって、自分なりの価値観や倫理観があるでしょう。ただし、これだけでは「信念」とは呼びません。信念と呼ぶには、これらの思想なり価値観なりを「正しいと信じて」いなければなりません。
自分の思想なり主義なりを「この考えはまったく本当だ。疑う余地などまるでない正しいことだ」(=「正しいと信じる」)と思っていたなら、これは信念でしょう。「熟慮したか」は関係ありません。考えがどんなに稚拙なものであっても、それは程度の差に過ぎません。
しかし「自分なりに考えた末の結論だが、絶対にそうかと問われれば自信がない」「本当はそう思い込もうとしているだけなのかも知れない」と答えたとすれば、信念とは呼べません。
No.289) 答え合わせと解説 祈月(Tue Jan 27 01:35:08 2004) |
No.290) 「善し悪し」とは何でしょう? iwatam(Tue Jan 27 12:49:58 2004) |
No.292) 祈月(Wed Jan 28 02:48:16 2004) |
No.293) 正義とは何でしょうか? iwata(Wed Jan 28 04:08:09 2004) |
No.294) はるゆき(Wed Jan 28 19:49:38 2004) |
No.295) 何も考えない犯罪は対象外でいいんですね? iwatam(Wed Jan 28 20:30:27 2004) |
No.296) あまり考えなかった場合には iwatam(Wed Jan 28 20:33:05 2004) |
No.299) はるゆき(Wed Jan 28 22:33:44 2004) |
No.300) あ〜、まさかそんなレベルですれ違っていたとは 祈月(Thu Jan 29 01:13:28 2004) |
No.302) いろいろ脱線しましてすみません。 iwatam(Thu Jan 29 21:25:49 2004) |
No.303) はるゆき(Thu Jan 29 22:20:59 2004) |
誤用でも辻褄が合うのでは、とのことですが、祈月さんもおっしゃられているように、例外を元に理論を構成するのはどうかと思います。
1)ですが、無意識を対象外とする以上、「えいやっ!」とするときには必ず意識的に正しいと考えている必要がありますが、そんなことはありえません。
2)は「1+1は1だろうか?それとも2だろうか?」と「考えた」結果「1」だという結論に達し、その自分の判断を「信じた」のなら何も相反することはありません。
No.304) そもそも 祈月(Fri Jan 30 00:39:03 2004) |
ないのではないかという話です」
ええと、小学生の頃、算数で先生から「答えだけが合っていても計算課程が間違っていたら丸には成らないからね
」とか言われませんでした?
そもそも世の中には「確信犯」と「そうでないもの」という定義しか無いわけではありません。だから、本来違う
ものをわざわざ「確信犯」の範疇に入れる必要はありません。寧ろ、それによって違う意味を加えてしまっては、し
かもそもそもの意味と逆の意味を加えてしまっては、言葉そのものの意味を失ってしまいます。
たとえば、「水」と「アルコール」を例にすると、どちらも「高温では気体、常温では液体、低温では固体の特性
を持つ」物体です。しかし、だからといって「水」と「アルコール」を同じものであると定義しては間違いとなりま
す。つじつまが有っているからと言って本質的に違うものをわざわざ同じカテゴリーで表現する必要は無いのです。
というか、そういうものを世間一般では「こじつけ」とか「詭弁」とか言います。
「人を殺すには、えいやっと決心する必要があります。その決心こそが「信念」なのです」
それを決心と呼ぶ事はやぶさかではありませんが、なんでそれが「信念」になるんですか? その決心を信念と定義した理由を提示してください。尚、全文を読む限りで言えば、計画的ではあるものの、動機はかなり衝動的だと思いますが如何なもので? また、殺人の様にある意味、その行為がほぼ一瞬で終わってしまうものは兎も角、詐欺の様に「罪悪感を持ってい
ながら現在進行形で騙している」なんて状況のあるものも有るのですけど、この場合はどう定義します?
そもそも、そんなころころと変わってしまうものを「確信」という定義に入れてしまう事自体、無理があります。
あと、「考える」と「信じる」は確かに同一対象に対して、同時に起こりえる心理状態ではありません。しかし、
はるゆき様も言われていますが、「考えた」結果を「信じた」ところで何の問題もありません。というかわざわざ、
「妄信(むやみに信ずること)」とか「盲信(わけもわからずに信じること)」という言葉が存在している事をお察
しください。
それと「考える」の定義に関しても「さまざまなことを材料として結論・判断・評価などを導き出そうとする」と
あるそうですが、この「さまざまなこと」の中に正解が無くては成らないなんて事はありません。だから結果が間違
っているからと言って、考えていないなんて事は当然ないのです(いや、それこそスパルタな先生は簡単な問題を間
違えると「本当に考えているのか?」と怒りますが(苦笑))。
「こういう意味で「考えない犯罪は確信犯ではない」というのは合っているでしょうか?」
これに関しては、微妙ですね。この「考えない」が「衝動的」という意味“のみ”で有ればその通りだと思います
。
が、私とiwatam様の「考える」の定義が微妙にずれている状態では、恐らくこの「考えない犯罪」も微妙にずれて
いると判断できるのですが如何なものでしょうか?
(追記、中程の文を一度修正しております)
No.306) 意味の食い違いについて iwatam(Fri Jan 30 03:22:57 2004) |
No.305) 新聞では iwatam(Fri Jan 30 02:56:32 2004) |
No.288) 補足 はるゆき(Tue Jan 27 00:01:50 2004) |
No.291) 信念は変化しないか iwatam(Tue Jan 27 12:53:03 2004) |
No.307) はるゆき(Sun Feb 1 22:16:20 2004) |
「初めに信念ありき」というのは、「信念に基づく犯罪」を「信念を動機とする犯罪」と読み替えてのことです。初めに動機が無ければ、犯罪を行うことは出来ません。
No.288の例は、あまり的確でなかったですね。「信念は絶対に変化しない」という意図はありません。
No.308) 動機のあるなしが問題ですか? iwatam(Mon Feb 2 02:06:12 2004) |
No.309) はるゆき(Mon Feb 2 21:23:33 2004) |
No.311) 信念とは iwatam(Tue Feb 3 12:40:50 2004) |
No.310) 「信念を動機とする犯罪」は変です iwatam(Tue Feb 3 12:34:33 2004) |
No.312) もう少し話を前に転がしませんか? はるゆき(Wed Feb 4 21:05:35 2004) |
No.313) 現時点ではノーです iwatam(Wed Feb 4 22:32:31 2004) |
No.314) はるゆき(Sat Feb 7 13:20:52 2004) |
No.315) 考えるのは要件に入るのですか? iwatam(Sat Feb 7 23:44:31 2004) |
No.317) はるゆき(Sun Feb 8 00:08:25 2004) |
No.319) これを言うと iwatam(Sun Feb 8 02:44:38 2004) |
No.321) はるゆき(Sun Feb 8 10:48:36 2004) |
No.323) ケチと決め付けるのは勝手ですが iwatam(Sun Feb 8 11:59:18 2004) |
No.325) はるゆき(Sun Feb 8 16:57:39 2004) |
No.330) これはつまり iwatam(Sun Feb 8 22:14:13 2004) |
No.335) はるゆき(Sun Feb 8 22:54:52 2004) |
No.340) 信じることそのものに問題意識はない iwatam(Mon Feb 9 22:30:33 2004) |
No.344) はるゆき(Tue Feb 10 23:23:16 2004) |
どうでしょうか?
No.347) 信じるとは何か iwatam(Wed Feb 11 02:03:02 2004) |
No.327) はるゆき(Sun Feb 8 17:11:35 2004) |
No.316) つまりこういうことですか? iwatam(Sun Feb 8 00:05:16 2004) |
No.318) はるゆき(Sun Feb 8 00:51:36 2004) |
No.320) 犯行を断念したケースは iwatam(Sun Feb 8 02:49:05 2004) |
No.322) はるゆき(Sun Feb 8 10:49:49 2004) |
No.324) それだけでは不十分です iwatam(Sun Feb 8 12:20:30 2004) |
No.326) はるゆき(Sun Feb 8 17:01:25 2004) |
No.332) 悪いと知ることはキーポイントである iwatam(Sun Feb 8 21:01:26 2004) |
No.334) はるゆき(Sun Feb 8 22:28:06 2004) |
No.339) あなたの言うとおりです iwatam(Mon Feb 9 22:20:22 2004) |
No.341) はるゆき(Mon Feb 9 23:02:53 2004) |
No.343) すみません。ひとつ訂正します iwatam(Mon Feb 9 23:50:53 2004) |
No.345) はるゆき(Tue Feb 10 23:25:40 2004) |
No.346) ポイントは可能性を知ること iwatam(Wed Feb 11 01:42:23 2004) |
No.348) はるゆき(Wed Feb 11 12:24:03 2004) |
No.349) その通りです iwatam(Wed Feb 11 17:14:18 2004) |
No.350) はるゆき(Wed Feb 11 17:39:47 2004) |
No.352) 善悪は主観 iwatam(Wed Feb 11 19:48:00 2004) |
No.353) はるゆき(Wed Feb 11 20:13:50 2004) |
それにNo348の例は「これはペンですか?」を「人を殺してもいいですか?」に入れ替えても内容は変わりません。
No.359) いいえ iwatam(Thu Feb 12 01:22:19 2004) |
No.363) はるゆき(Sat Feb 14 13:23:22 2004) |
ひとつ確認しますが、コラムの「社会的、あるいは法律的には悪いこと」というのは、「一般的に悪いとされていること」ということでいいでしょうか? それに「など」を加えて訂正するとのことでしたが、それは「一般的に悪いとされていること」に「個人的な主観で悪いと思っていること」を含めるということでしょうか。
No.370) 「悪い」とは誰が決めるか iwatam(Wed Feb 18 08:45:18 2004) |
No.355) はるゆき(Wed Feb 11 20:29:03 2004) |
No.362) 同じことです iwatam(Thu Feb 12 01:26:48 2004) |
No.351) はるゆき(Wed Feb 11 19:12:31 2004) |
No.356) 答えの可能性 iwatam(Wed Feb 11 20:38:58 2004) |
No.357) はるゆき(Wed Feb 11 21:03:20 2004) |
「人を殺さない」という考え方があると知っていたとしても、「人を殺さないことが正しい」という考え方があると知っているとは限りません。「人を殺さないことが正しい」という考え方があることを知らなければ、「人を殺すことが悪い可能性」を認識することは出来ません。
No.360) 「正しい」の定義と思想の特殊性 iwatam(Thu Feb 12 01:14:37 2004) |
No.364) はるゆき(Sat Feb 14 16:55:32 2004) |
「存在」が「客体」であって、それに対してどう思うかが「主観」になります。その意味で「これはペンである」を正しいと思うか間違いと思うか、「殺人は悪である」を正しいと思うか間違いと思うかはまったく同じです。
No.365) そこまで問題にするならその通りです iwatam(Sat Feb 14 18:37:21 2004) |
No.358) はるゆき(Wed Feb 11 22:27:57 2004) |
No.361) 可能性という言葉は不適切でした iwatam(Thu Feb 12 01:18:41 2004) |
No.366) はるゆき(Mon Feb 16 21:07:02 2004) |
「これはペンですか?」と聞かれて「私は幻を見ているかも知れないから、ペンではない可能性も考えられる」など「ペンではない可能性」を想定することも出来るにもかかわらず、あたりまえだと思っていることに関しては普通はそんなことは考えない。ということは、「正しいですか?」と聞かれても、それを当然のことと思っていれば「正しくない(=悪い)可能性」を必ず想定するとは限らない。よって「悪いと分かっているかどうか」は確信犯の要件ではない。ということが、まず考えられます。
それでも、「正しいですか?」と聞いたなら必ず「悪いと分かっている」ということになるのだ、という主張をされるのであれば…。それが論理的に必ず導き出されることであれば、わざわざそれを断る必要はない。よって、「悪いと分かっている」という文言が省略されているから文化庁の定義は間違い、という主張と矛盾することになる、ということを指摘しておきます。
No.368) 質問a理解しないと答えられない iwatam(Tue Feb 17 04:02:20 2004) |
No.369) ひとつ主張を間違えないでいただきたいのは iwatam(Tue Feb 17 04:08:29 2004) |
No.329) はるゆき(Sun Feb 8 19:12:21 2004) |
No.328) sho(Sun Feb 8 17:50:45 2004) |
>間違い: 悪いことであるとわかっていながらなされる犯罪
「法律(社会で一般的な道徳)で悪であると知っている」かつ「犯罪者の倫理においても悪である」
しかし、やりたかった(楽しむ為など自分にはメリットが存在する)ので行った。
つまり、愉快犯のことを指している。という意図だったのではないかと思います。
設問文の場合、悪いと言う表記が単に法律のことであるのか、犯罪者の倫理も含んでいるのかがわからないのではないでしょうか?
法律でのみのことを指している場合、コラムで書いてあったように犯罪者が善だと思っている場合があると思い、この場合両方同じような意味にとれると思われます。
>正解: 政治的・宗教的などの信念に基づいて正しいと信じてなされる犯罪
「法律(社会で一般的な道徳)で悪であると知っている」かつ「犯罪者の倫理においては善である」
そして、その行為は善であるので行った。
これが確信犯である。
*善とは世界においてメリットである。悪とは世界においてデメリットである。という意味で使用しています。
No.331) ご意見ありがとうございます iwatam(Mon Feb 9 00:24:28 2004) |
No.333) sho(Sun Feb 8 22:22:31 2004) |
No.336) 本能と信念 iwatam(Mon Feb 9 20:10:47 2004) |
No.337) sho(Mon Feb 9 21:45:25 2004) |
というのは置いといてですが。
>利己主義とはあまりに根本的過ぎて本能ともいえます。
と書きましたが、利己主義とは本能であるという言い方はおかしかったですね。
「利己主義とは行動の大前提であるといえる」に訂正致します。
したい、したくない以前に自分の為でないとできないのですから本能では意味がおかしかったですね。
申し訳ございません。
ところで、質問ですが善悪とはそちらはどのように定義されていらっしゃるのでしょうか?
●こちらの確信犯について見解のまとめ
利己主義とは信念である場合:愉快犯は確信犯に含まれる。設問文二つは同じことを指す。
利己主義とは信念でない場合:愉快犯は確信犯とは別物である。設問文二つは別物。
No.342) 本能とは iwatam(Mon Feb 9 23:16:15 2004) |
No.338) 善悪とは何か iwatam(Mon Feb 9 22:48:50 2004) |
No.247) 更新情報についての要望 usami-k(Mon Jan 19 00:27:58 2004) |
No.248) ご要望ありがとうございます iwatam(Mon Jan 19 03:24:21 2004) |
(放置になっていた理由の一つは「どうせ誰も使っちゃいないだろう」という思いこみによるものですので、使っていただけるのであれば早急に対処したいと思います)
No.249) 気長に待ちます usami-k(Wed Jan 21 01:28:41 2004) |
No.250) 試験運用開始 iwatam(Wed Jan 21 02:25:53 2004) |
現在のスクリプトでもし不具合があったら...ごめんなさい。
No.240) はじめまして Toshi(Sun Jan 4 14:59:57 2004) |
No.242) ありがとうございます iwatam(Sun Jan 4 16:00:57 2004) |
No.234) はじめまして きはら(Wed Dec 31 14:12:19 2003) |
No.236) いらっしゃいませ iwatam(Thu Jan 1 16:51:53 2004) |
No.231) 役柄と役割 AWG-9(Tue Dec 30 08:54:05 2003) |
No.232) はい、妥当だと思います iwatam(Wed Dec 31 03:29:00 2003) |
No.233) お返事ありがとうございます AWG-9(Wed Dec 31 08:22:27 2003) |
No.235) 残念ながら iwatam(Thu Jan 1 01:54:42 2004) |