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UMLを勉強しているのですが、次の図の描き方がわからないです。
どのような図を使えば書きやすいのかご教授願います。
以下の仕様をもとに出張の場合の日当と宿泊費の決定表を作成しなさい。
・片道100km未満の出張では、8時間未満の作業には日当を支給しない。
8時間以上の場合は1,000円の日当と10,000円の宿泊費を支給する。
・片道100km以上かつ300km未満の出張では、4時間未満の作業には日当を支給しない。
4時間以上8時間未満の作業には1,000円の日当を支給する。
8時間以上の場合は3,000円の日当と10,000円の宿泊費を支給する。
・片道300km以上の出張では、4時間未満の作業には日当を支給しない。
4時間以上6時間未満の作業には1,000円の日当を支給する。
6時間以上の作業には3,000円の日当と10,000円の宿泊費を支給する。
距離と作業時間を原因、日当1,000円、3,000円、
宿泊費10,000円支給の場合を結果として決定表を作成すること。
普通はあまりこういうものはUMLでは書かず、フローチャートか何かで書くものですから。
UML(形式)にこだわらず、何でもいいからとにかく自分でわかりやすい図にしてみることから始めてはいかがでしょうか。
公務員試験の問題なのですが、どうしても解けないので、力を貸してください。
問題
秋の夜→「11 24 55 81 93」
帰り道→「?」
?の中にはいる数字は?
という問題です。お願いします。
すみません。私も解けません。
お力になれず残念です。
以下のようなマトリクスを考えます。
/|1|2|3|4|5|6|7|8|9|
1|あ|こ|さ|と|な|ほ|ま|よ|ら|
2|い|け|し|て|に|へ|み| |り|
3|う|く|す|つ|ぬ|ふ|む|ゆ|る|
4|え|き|せ|ち|ね|ひ|め| |れ|
5|お|か|そ|た|の|は|も|や|ろ|
規則は、まあ見ていただければ分かるとは思いますが、
列番号の部分は「あかさたな・・・」に対応し、
行番号は、列番号が奇数のとき母音「あいうえお」、偶数のとき「おえういあ」に対応する、
となります。
これにしたがって「秋の夜」をコーディングすると「11 24 55 81 93」となり、
ゆえに「帰り道」は「25 14 92 72 44」となる。
・・・と考えたのですが、いかんせんサンプル数が少ないので断言できません。
どうでしょ?
コラム「技術の結晶」から得た印象で私のBlogに一つの記事が出来ました。
言葉遊びのようなものですが,よろしければご覧下さい(^^;
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アドレスはこちら。
http://kazahana.at.webry.info/200501/article_43.html
ゲームとリアリティのコラムを見させていただきました。
友人曰く、ゲームに関する考え方が良く似ているとのこと。
非常に楽しく拝見させていただきました。
また、「いきなり射撃の名手であるかのごとく遊べるのがゲームなんじゃないか」という前後の文から、バンダイのガンダムのゲームなんかはソレを追及した作品としてみると非常に良く出来たものなんじゃないだろうかと思ったりもしました。
続けて技術と魔法のコラムを読ませていただきましたが、読んでいて非常に混乱しました。一息置いて考えたときに
自分の頭の中で技術的と捕らえていたものが「魔法」として書かれ、魔法的と捕らえていたものが「技術」として書かれていたことでした。
私はパソコンの世代ですが、
技術は大系化され図式化された物で
魔法は世にある要素から新たに構築していくもの、というような認識をしていました。
ニュアンス的には同一の考えのようにおもって読んでいきましたが、最後まで読んで決定的な違いに気づきました。
僕はCGを描いたりしているのですが、
僕にとっては鉛筆とタブレットの構造の違いは問題ではなくソレがブラックボックスであっても道具には違いなく、
魔法で言うなら下位精霊を呼ぶか上位精霊を呼ぶか程度の差でしかないということ。
僕にとっては技術主体ではなく魔法主体なようです。
ああ・・・コレが魔法なわけか。
とイマイチわけのわからない納得をしてしまったんですが、なんだかジェネレーションギャップと言うにはすこし複雑な問題もな気もしました。
まさに技術と魔法は区別がつかないとはこういうことなんでしょうか(違う
バンダイは昔から何本もガンダムのゲームを出しているので確実に特定できないのですが、今ゲーセンでも稼動しているアレですか?私は1,2回しかやったことがないのですが、評判はよいようですね。
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技術と魔法の解釈は、それでニュアンスとしてあっていると思います。ただし、いくら「体系化され図式化されたもの」であっても、それをそのまま使うのではそれは「世にある要素」になってしまいます。どちらかというと、技術は「体系化し図式化すること」と言えるでしょう。
「技術の結晶」を読みましたが,少し腑に落ちない点があります。
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>魔法は、目的を持つものを寄せ集めて自分の目的に合うように仕立て直すという方法論である。
>ファイヤーボールの呪文を作ろうと思ったら、火のエッセンスを持つ硫黄の粉を用意する。竜巻を起こそうと思ったら、風の精霊であるシルフを召喚する。魔法理論ではそれぞれの要素は一つの目的を持ち、その目的を組み合わせることで複雑な自分の目的を果たす。硫黄は火に関係する呪文に使い、火に関係のない呪文には使わない。
という部分ですが。
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例えば,電線のために銅線は使えますがゴムひもは使えませんよね。
それは銅は電気を通しやすいという性質によるもので,別に銅が電気を通すという目的を持っているわけではありません。
人間が「電気を通そう」という目的で,銅線の性質を利用するわけです。
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例えば,ファイヤーボールの例だと「硫黄の粉」には火のエッセンスを持ってるという性質があり,そのため火の魔法に利用出来る。逆に,火のエッセンスがない物は火の魔法には利用出来ない。
というのは電線における銅線とゴムひもの理屈と同じように感じます。
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私は,ファイヤーボールが魔法たる所以は,硫黄の粉の火のエッセンス云々・・・ということではなく,火の玉が出るプロセス内に「ブラックボックス」があるかということだと考えます。
素材や材料の性質とその組み合わせ方で火の玉を生み出すプロセスを説明出来るなら,それは魔法ではないということです。
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おそらく,iwatamさんも言い方が違うだけで「目的を持つものを寄せ集めて自分の目的に合うように仕立て直す」というのは,このような説明が出来ずに「この素材を使えば理屈はわからないが火の玉が出る」というのが魔法だと言いたいのだと思うのですが,どうでしょうか。
そうであるなら,「硫黄の粉・・・」以降の部分がちょっと的はずれになってるかな?と感じたのですが。
銅は、電気を通しやすいという性質も持ってますし、熱を伝えやすいという性質も、比較的重いという性質も、やわらかいという性質も、いろんな性質を持っています。そして、その場に応じて性質を使い分けていろんな用途に銅を使うわけです。
それに対して、硫黄の粉は(魔法では)火の呪文にしか使いません。硫黄は火の象徴であり、火以外の要素は持っていないのです。
こういう意味での違いであり、「よくわからないものは魔法」という意味ではありません。
では,硫黄の粉について研究し,火の要素以外の性質が判明して他のことに使える,となればどうでしょうか。
その時点で「魔法」ではなくなるということですか?
それとも火の要素以外の性質があるかもしれないとして研究をするという態度が既に「魔法」とは呼ばれないのでしょうか。
火の要素以外の性質があるかもしれないとして研究をするという態度自体が魔法ではないということです。それを「技術」と呼んでいいのではないかと思います。
例えば,「硫黄の粉」以外に火の要素を持つ素材を探し,「硫黄の粉」ではなく他の素材でも火の玉を作り出せるようになった。
というような場合は,どうでしょうか。
硫黄の粉も,新たに見つかった素材も,火の魔法に使う(火の要素がある)だけで,他のことには使われない。
ただ,火の要素という性質を持っていれば,火の玉を作り出すことが出来るので,硫黄の粉だけでなく他の素材でも火の玉は作れる(代用が効く)し,未発見の「火の玉を作れる素材」が存在する可能性もある。
私の感覚ではこれも「技術」の範疇に入れているのですが。iwatamさんとしてはどう考えられますか。
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つまり簡単に書くなら。
A,B,Cという材料である物が出来ている時。
Aが他の何かにも使える(かもしれない)という観点でなく。
Aを他の何かに替えても同じ物が出来る(かもしれない)という方向性です。
どうでしょうか。
この話は、おそらく次の2つが一緒になってしまっていると思います。
1) 他の素材にも火の要素があることを発見すること
2) 発見された他の素材を使って何かをつくること
1)は技術ですが、2)は技術ではないと思います。
どうやら,何となく見えてきたような気がしますが,どうだろう・・・。
ある素材の性質を理解し,それを何かに利用出来ないかと考える,という態度を技術と呼ぶ。というような意味合いに捉えました。
つまり性質を理解しても,それを特定の用途専用のものだと思い,それ以外への応用を考えないような場合は魔法だ,ということでしょうか。いやむしろそれは「性質を理解した」と言わないのかな・・・。
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例えば鉱石ラジオを作ったとして。
「ラジオを作っているのはそれ専用の部品でなく,同じ性質を持ってさえいれば文字を書くために使っていた鉛筆などでも代用出来る」と考えられれば「技術」に結びつきますが。
鉱石ラジオと電器屋のラジオを結びつけられずに,「鉱石ラジオは電線と鉛筆と鉱石でできているけど,電器屋のラジオは分解して出てくるような部品でできている」「鉛筆は『文字を書く』ことと『鉱石ラジオの部品になる』ことができる」としか考えなければ「魔法」だということですよね。(多分)
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私は技術方面にあまり興味がなく,ラジオ少年でもマイコン少年でも電子工作少年でもなかったので,いわゆる「ラジオ少年」がどういうものかよく分かっておらず,コラムを読んで,後者も含めて「技術」と呼んでるような感じがしたのです。
掲示板のやりとりの後,再度読んだところ,どうやら誤読だと思い,この投稿の冒頭で書いたような解釈に考え直しました。どうでしょうか。
もしそうならば,私の言うところの「(理屈の)よく分からないのが魔法」というのと同じような意味になります。
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いつもながら,自分の読み方が浅いなあと反省。
あなたの言っていることと同じことだと思いますが、私の言葉でコメントさせてください。
「性質」と「用途」は別物であり、もの自体にくっついているのは性質であって用途ではないということです。用途は人間が自由に考え出すもので、それを「技術」と呼びました。
あるものの用途を理解してもそれは性質を理解したことにはならない、ということです。
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鉱石ラジオを作ったラジオ少年なら、たいてい「なんでこんなのでラジオが鳴るんだろう?」と思います。そこで、電気抵抗や整流作用といった「性質」を学びます。それをしないで、「こう組み合わせればラジオが鳴る」ということだけ覚えて満足するなら、それは技術ではないということです。
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と書くと、これは「理屈がわからないのが魔法」ということですね。おそらく同じことなんだと思います。
ただこう書くと、今度は「理屈とは何か」「性質とは何か」という話になってしまいます。「硫黄の粉は火の要素を持つ」は理屈じゃないのか?という問題が出てきてしまいますので、理屈とか原理という言葉を避けたわけです。そのせいでわかりにくくなっているとすればすみません。
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いつも、いろいろ書き足りていない点をご指摘いただきありがとうございます。
最初のコメントで書いた,
>「硫黄の粉・・・」以降の部分がちょっと的はずれになってるかな?と感じた
ことの理由が明確になりました。
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>「硫黄の粉は火の要素を持つ」は理屈じゃないのか?という問題が出てきてしまいます まさにこのように思っていました(^^;
この部分が誤読だったのですね・・・。
歴史の本を読むと「なぜ高度文明は滅びるのか?」に興味が湧きます。私たちが滅びると言いたいわけではありませんが、コラム「秘術の結晶」は答えのひとつなのかもしれません。
iwatamさんのコラムは理路整然と話が進んでいくので、いつも感心してしまいます。私の感想は連想なのであっちこっちに話が飛んでいますが、良かったら読んでください。
シナリオは「映像化の為の設計図」として書かれたものなので、小説より分かりにくいと言われますが、どちらも同じ通常言語をベースにしています。機械語もコンピューターの為の言葉なので、日本語よりも分りにくいですが、やはり通常言語をベースにしています。
通常言語というのは、私たちが「考える時に使う言葉」として使っています。物の名前や現象の名前など「世界を認識する言葉」です。
名前自体は何とつけてもよいのです。記号論は詳しくないのですが、確かそれを「恣意性」と言ったと思います。馬を表わす言葉が「うま」である必要はない。だから国によって呼び名が違う。「うま」でなくてもよいのなら、番号で表わしても構わない。番号を0と1の組み合わせ(2進数)で表わしてもいい。
文字番号のように「変更できない値」は共通仕様であることが多いです。「変数名は固定でも中の数字が違う」は「変数名『木』の数字が『材木』→『椅子』など状態が変化したところ」をイメージします。関数として「動き」を表わすものもあります。
「いろんな要素から成る複雑な現象に名前を与えた言葉」は、変数と関数を持つクラスに似ていると思います。
すべての元になっているのは「現実」です。しかしまだないものを作り出す時、元になるのは頭の中のイメージです。
辞書で読んだだけの知識なのですが、私が「イメージ」と書いたものがプラトンの言う「イデア」のような気がします。「現実」の方はアリストテレスの言う「質料因、動力因、形相因、目的因」が表わしてくれます。オブジェクト指向はこの4つの原因に要約される気がします。
「枝を積み上げて巣をつくるビーバー」や「草のつるで蟻釣りをするゴリラ」はいても、元の姿とは全く違う「鉱石ラジオ」をつくり出すのは人間だけです。それを可能にしたのが、言葉という仮構世界です。
日本語と英語の違いとして表れる「恣意性」を失ったプログラムソースは、母国語の違いを超えて共有できます。言葉という魔法を解くキーワードは「対応」のような気がします。
私の話は、どちらかというとイメージ=魔法のつもりです。で、ビーバーやゴリラと同じようなことをしている方が技術なのではないかと思います。もちろん、動物のやっていることと人間のやっていることは雲泥の差がありますけど。
上記URLでリンクしてある私のエントリ「理系とか文系とか」で、Iwatamさんの「コラム: 文系と理系 再び」について触れさせていただいています。
なにやら、通りすがりにチンピラが因縁をつけてきた、といった風情になってしまいましたが、ご覧いただければ幸いです。
「再び」の方の話では、理系と文系には入れ替えることのできない違いがあります。自然は客観的な対象で、人間は主観的な対象だからです。「自然を観察する」と「人間を観察する」には大きな違いがあるのです。
コラムの中ほどで触れましたが、自然の観察と違って、人間の観察は必ず自分と比較対照されます。そして、自分は観察しなくてもわかっているわけです。
例えば、人間を観察した場合には「どうしてこの人はこんなことをするのだろう?」と疑問に思います。そして「もし自分だったら?」と考えます。これが自然相手では成り立ちません。この違いです。
自分から話を振っておいて、ご返事が遅れたことをまずはお詫びします。おまけに、私のブログに来ていただいてコメントまで寄せてくださり、ありがとうございます。
さて、コメントを寄せてくださったエントリでも書いたことですが、上記のIwatamさんの指摘、その通りだと思います。ただ、そのことが残念ながら、恣意的な仮定や推論を許してしまうということもままあり、だから気をつけねばならない、ということは言えると思いますが、そのような「内省」を否定しているわけではありません。念のため。
Iwatamさんが私のブログでのコメントで触れられていた「トンデモ科学」については、あちらでのリプライ、とさせてください。
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