返信ありがとうございます。
私の解釈では、あやこさんの「私は無宗教というスタンスは大いにけっこうです。・・・私は無宗教ですが神様はいると思っています」という一文は、「無宗教」と言う言葉を使わずに言い換えれば、「選挙で思想統制を図り、政治を動かすような宗教団体に入らないスタンスは大いにけっこうで、私はそのような宗教団体に入ったり、特定の既存宗教を信じてはいませんが、神様はいると思っています。」と言うような感じの意味になると思います。こう書けばきっと反論はしないのではないでしょうか?(あやこさんの一文を勝手な推測で変えてごめんなさい。私なりの解釈です。真の意味はあやこさんのみが知っています。)
言いたかったのは、反論のところも、(お互いの言葉の定義などの)理解が進めば、じつは字面が違うだけで、同じ意見になるのではないか?また、そのために言葉の定義はしっかりしておいたほうがいいのでは?ということだけです。
私も相手の言う言葉を、自分の意味で解釈を進めて行って、相手の意図とはまったく逆の結論だったなんてことが、結構ありました。(特に抽象的な言葉の時は)
たとえば私が「緑」と言っても、私と同じ「緑」を思い浮かべる人は、まずいません。
どんなに言葉を費やしても「私の緑」を正確に伝えることは不可能でしょう。
「緑」ならまだ近くていいですが、「神」「宗教」「真理」「愛」などの抽象語は人によって、意味することはもっと違うでしょう。
言葉には意味の幅があるので、自分の本当の意図を伝えるのは難しいですね。
・・・本題とは違うところで、話が大きくなってしまいましたので、元に戻します。
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すみません。コラムのほうをあまり読んでいませんでした。
少し気になるところはありますが、「仏典も聖書も毛嫌いしないで読め」と言う意見には大筋で賛成できます。
おそらく日本人の宗教アレルギーはオームと統一教会が作ったものでしょう。(最近では白衣の集団:名前忘れました)
知りもしないことの勝手な決め付けは、食わず嫌いと同じで、価値あるものを見逃すことにつながります。ちょっともったいないと思います。
(逆に、どっぷり漬かっている人を見ると、逆に宗教から離れろと言いたくなります。・・・この話は別の機会にでも!!)
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「日本人は宗教=カルトとみなしている」としていますが、一般の人もカルトという定義があいまいで、「なにかよく分からない恐ろしい集団」ぐらいの認識です。
Iwatamさんが用いた、辞書上の「(多くは一緒に住んで)多くの人に極端や異常だと思われている宗教団体」という「カルト」の定義では、人や地域、時代性によって、その宗教がカルトであったり、なかったりして曖昧です。この定義ですと例えば、イスラム原理主義は日本人から見ればカルト(もちろんそうでない人もいます)ですが、アラブの国の人から見ればカルトではないということになります。十字軍は当時の人から見れば、カルトではないが、今では、カルトっぽいです(これも意見が分かれます)。
逆に仏教やキリスト教も、発生当時ではカルトで、今はカルトではないです(もちろんこれも意見が分かれます)。
Iwatamさんと私では、ある宗教のカルト判定が逆であったり、また、そのどちらが正しいかの検証として「(多くは一緒に住んで)多くの人に極端や異常だと思われている宗教団体」と言う定義だけでは、単なる多数決で決定と言うことになり、ちょっと漠然としすぎています。
ちょっと、明確なカルトの定義をしなおした方がいいかもしれません。
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私論ですが、私は以下のようなカルト判定法を用いています(私論ですので聞き流してください)
ある宗教の判定に、この宗教はカルト、カルトでないの2元論では少し乱暴すぎるので、「どれ位のカルト度合いか」で出しています。(←合格・不合格ではなく点数で出すと言う意味です)
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カルト集団には次の様な性質があると言います。
・会員の幸福に対して基本的な配慮が少ない。
・部外者からの建設的な意見を受け入れようとしない。
・信者と部外者が対話することをあまりすすめない。
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さらに、上記から派生する主な9つの特徴として
1.カルト集団の第一の関心は資金を集め、新会員の獲得をすることである。
2.カルト集団の会員は家族や友人との接触を立たれ、孤立し、外部世界から得られる事実の検証ができなくなる。
3.カルト集団の会員は財産、収入を寄進して全面的に組織に依存することとなる。
4.カルト集団は要求を通すためには脅迫、嫌がらせを辞せず、時には暴力に訴える。
5.カルト集団は自分たちだけが真理の所有者であり、部外者は皆救われないもの、真理に反するものとみなす。
6.カルト集団は自分たちの教義が法律より優っていると思い込んでいるので、嘘や盗み、詐欺を働いてもなんとも思わない。
7.カルト集団は終末論に陥りやすく、世界の終局を生き延びるのは会員だけと考える。
8.カルト集団は独裁的権力を握る教祖の教えをもとに形成され、不正な教祖を集団的拠り所とも日常的規範ともする
9.カルト集団は組織を存続させるため、社会の救済をスローガンとする。
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があると言います(もし意見や反論があれば言ってください。参考にしたいです)。
これに当てはまる物をカルトと定義すれば、分かりやすいのではないでしょうか?
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前述しました創価学会は5が満点近く。1、8、9が半分ほど引っかかりますので、90点満点中25点で、カルト度28%・「ややカルト」ぐらいでしょうか。
Iwatamさんは創価学会をカルト新興宗教に分類しているようですが、暴力性や違法性はほとんどないので、これぐらいの点数ではないでしょうか?
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またちょっと、話が本題からそれまして申し訳ありませんが、用事があるので今日はこの辺で・・・(長々とすみませんでした。)
私はあやこさんの文に反論したわけでもありませんし、あやこさんの意見に反対なわけでも否定するわけでもありません。「違っているように見えるのは、言葉の使い方がお互い違っているせいですね」と言っているつもりです。そういうわけで、あなたとも同じ意見です。
おっしゃる通り、言葉の定義はしっかりとしておいたほうがいいと思います。しかし、今回のような問題はまさに「議論=言葉の定義をすること」です。このような問題は言葉の定義をすること自体が大きな課題なわけですから、言葉の定義をしてから議論を始めようと思うといつまでたっても議論を始められなくなってしまいます。
逆に、(このスレッドの方々は)大変すばらしい方々であって、基本的に間違ったことは言わないだろうと思っています。だから、言葉の定義がしっかりされて誤解の余地のないような意見であれば、議論するまでもなく正しいことだと思います。
そうですね。すべての言葉を定義して意見を述べるのは非常に苦しいので、議論する際はある程度、相手がどの意味で使っているのかを推測しながら、それに合わせてこちらも意見を述べます。
今回は、ちょっとずれを感じましたので、投稿させていただきました。しかし、そのことを双方がご理解されていたようですので、申し訳ありません。(私の読解力の無さが原因です)
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話は飛びますが、iwatamさんは「逆に、(このスレッドの方々は)大変すばらしい方々であって、基本的に間違ったことは言わないだろうと思っています。」とおっしゃってますが、私は間違ったことだらけです。(現に先の投稿で間違えたようですし。)
誰かが間違いを訂正してくれるんじゃないかと期待して、投稿しています。言いかえれば、他人の意見を聞くことによって、自分の考えを、より完璧(?)で、深く、すばらしいものに近づけたいのです。
ですから、「間違ってる」、「考えが変だ」、「議論の仕方がそもそもおかしい」と感じましたら、遠慮なく言ってほしいと思います。
私の感情など考える必要はありません。傷つくような意見・怒らせるような意見でもかまいません。批判、反論、大歓迎です。(マゾでしょうか)
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iwatamさんは理論的な方に思えましたので、間違いを指摘してくれるかなと、ちょっと期待して投稿してしまいました。(議論の仕方、読ませていただきました。面白かったです。)
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ご迷惑でなれば、また投稿させていただきます。それでは
すみません。先の投稿は暇がなくて簡単に書いただけだったのです。で、あらためてカルトについて。
なお、上に書いたカルトの定義はよくわからないのでとりあえず辞書を引っ張り出しただけなので忘れてください。
まず1つ確認したいのは、カルトの中に宗教詐欺や擬似宗教(つまり、宗教ではないもの)は入っていないかどうかです。「宗教とは何か」の話をせずにこう言うのは無茶なのですが・・・とりあえず以下は宗教カルトのみについて話をします。
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最初に気になったのは
>会員の幸福に対して基本的な配慮が少ない。
の定義項目です。
宗教とは「幸福」という言葉の再定義を含みます。外から見ると会員の幸福を配慮していないように見えますが、実際には配慮していないわけではなく幸福の定義が違っているだけのことがあります。世間一般の幸福だけでこの問題を考えると宗教の存在意義が危うくなってしまいます。
私は、カルトの定義については「思考停止」というキーワードを挙げたらどうかと思います。(キーワードだけですみません)
いろんなことがこんなキーワードでくくれるんじゃないかなぁと。
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それからもう1つ、出家を要求する宗教はあなたのあげた項目に照らし合わせるとだいぶカルト度が上がるように見えます。管さんが頭を丸めて霊場めぐりをしているようなもののことです。
カルトとして「日常生活に支障をきたす/普通の日常生活を送れなくなる」という条件を入れたくなるのはわかりますが、日常生活を捨てることによって見えてくるものもあると思います。個人的にはどっちとも判断つけかねております。どう思われますか?
「出家を要求する宗教はあなたのあげた項目に照らし合わせるとだいぶカルト度が上がるように見えます。」「日常生活を捨てることによって見えてくるものもあると思います。」との御指摘で、私もカルトの定義としては、厳格な修道教会や高野山・比叡山など坊さんの出家の厳しいところでは、すべて当てはまってしまい、ちょっと、行き過ぎかなと考えなおしました。2はちょっと定義としては不適当そうですね。
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でも、ちょっと話は違うかもしれませんが、ほとんどの宗教はある程度カルト性を含むと思っています。(ここでは前述のiwatamさんの「宗教」の定義ではなくキリスト教や仏教、イスラム教、新興宗教など既存宗教の意味です。以下その定義で用います)
私がそう思うのはそれは、ほとんどの宗教が持つ、ある考え方のせいです。
どんな宗教も、自分のところの教義が最も優れているとしている。
これは、ある意味当たり前で、一番が他にあると思っているのなら、自分とこの宗教をやめ、他の一番良いと思っている宗教にはいるはずだから。
自分以外を劣っているとみなしているから、他の宗教を中傷する。(もしくは劣っていると言う。)
言葉に出して中傷することは無くても、心の中では劣った宗教という思いは存在する。
そして相手が自分たちのことを同じように思っていることも知るようになる。
結果、双方に壁を築く−分かり合えない−争いの種になる。
自分とこが最善だから、改宗させねばという考えも出てくる。
また他を異端とし、軽蔑の対象となる。
かつて(今も)、宗教が原因で数多の争いが起きた。これからも起きるでしょう。
このように、「自分ところが最も優れている」とする危険な考えのため、宗教は多かれ少なかれ、カルト性(不和・争いの種)を含んでいると考えます。
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じゃあ、宗教の創始者は、争いの種を作った戦争犯罪人か?(←その意図は無くとも)
宗教なんて無いほうがよかった?
少なくとも利害で見たら、利益より害悪のが多い?
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どう思われますか?もし意見があれば、よろしくお願いします。(決して意見を強制している訳ではないです。意見が無かったり、関心が無ければ無視してください)
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「思考停止」は重要なキーワードだと思います。
「教義」を「絶対」とした時から「思考停止」は始まります。
「絶対」とするということは、個人の考えや判断は受けつけないということだから。
教義がまともだから、社会的に害悪を及ぼさずにすんだだけで、一般の宗教の方にも「思考停止」という状態の方はたくさんいます。
宗教にどっぷりはまっている人というのは、その宗教に心酔するあまり、教義を絶対とします。
No.401で前述した「どっぷり漬かっている人を見ると、逆に宗教から離れろと言いたくなります。」のひとつの理由はこの思考停止状態に陥りやすいからです。
「思考停止」になるとどうなるか?
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1.自分で物事を考えない・判断しない
2.他の考えを受け入れない。
3.自分の考えは、教義の内容を深く考えもせず無理やりその宗教の主張に適合させる。
4.その結果、自分たちの宗教の教義のみを「是」・「正しい」・「絶対」として他を「非」・「間違っている」「劣った教え」とする。
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それで、上記に書いたような、カルト性が出てくる。
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どうして、自分で決めようとしないのでしょうか?
誰かが決めてくれる、私たちはそれに従えばいい、ということなんでしょうか?
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変なところで終わりますが、もう、遅いので寝ます。
すいません。私が書きあぐねている間に話が進んでいますね。
「でも、ちょっと話は違うかもしれませんが、ほとんどの宗教はある程度カルト性を含むと思っています。(ここでは前述のiwatamさんの「宗教」の定義ではなくキリスト教や仏教、イスラム教、新興宗教など既存宗教の意味です。以下その定義で用います)」
取りあえず現代日本の新興宗教は横におき、一神教か多神教かという分け方があるかと思います。日本の場合、仏教(多神教…?ですよね?)や、八百万の神という言葉からも、複数の神様が存在するという認識があるようです。
ただここで注意しなくてはならないのはキリスト教やイスラム教は一神教であり、信仰する人には神様が1人しかいないという事実です。キリスト教ならカソリック、プロテスタント、イスラム教ならシーア派、スンニ派と、歴史の過程で教義は分化され、おのおの信者の認識もだいぶ違うのでしょうが、一神教において神様が1人しかいないという最初の決まり(教義)は変わらないのです。宗教は神様を信ずることからはじまるので自分が信じている神様以外は(信仰する人にとっては)存在しないので、異端者、邪教者になってしまいます。
また歴史の一時点を切り取って見たとき、現代ではメジャーになってしまった(既存の)仏教、キリスト教、イスラム教などが当時の民衆にカルト(新興宗教)ではないという認識があったのでしょうか?カルト(新興宗教)だったかと思います。長い時間で信者が増え一般的に「メジャー」だという認識をされて、一つの考え方として世の中に確立されていったのではないでしょうか?
「じゃあ、宗教の創始者は、争いの種を作った戦争犯罪人か?(←その意図は無くとも)
宗教なんて無いほうがよかった?」
私は「戦争犯罪人」という概念そのものが20世紀に入ってできたものかと思います。19世紀までは、限られた国をのぞき、市民というか一般大衆がいない国のほうが多かったのです(人工の80%以上が奴隷階級など。例えば朝鮮半島など)。それまでの戦争では戦争で勝った国が敗戦国の支配階層を虐殺するのは当たり前というか常識だったのでしょう。が、同じ権利を持つ人間(=市民)が人間を罰しようとするとき、戦争責任という大義名分があって、裁判という方法でなければ、民主主義の下で生命を裁くことはできないのです。だから、私はけーたさんの結論は早急すぎるかと思っています。
私が創価学会が危険と思うのは日本人の10人に1人が学会員であるという数の多さで、メジャーになりつつあるということ、同じ原理や動機(親戚付き合いで創価学会に入ったという人もいて、なんとなく公明党に投票という人もいるだろうし)で動く人が実際政治を動かしてしまっているという事実です。私は学会員ではないし、その神様は私には信じられないので存在しないからです。
また宗教は麻薬であるという考え方もあるようです。
そういえば現代のカルト宗教という問題に私は一切触れていませんね。まだ勉強不足なので書けないだけです。ただ宗教は麻薬である、私が信じていないという考え方の下にはオウムも仏教も創価学会も大して変わらないかと思います。
とある人が「誰かの中にあるものはあるんだ」という言い方をしていて、神秘体験だろうが超能力だろうが神様だろうがあるものは一種の人間にとってはあるのではないのかと思います。精神は肉体を支配する、そういうことなのではないでしょうか?
長々とすいません。しかもなんか話題違いのような気もします。
ではでは。
一般には宗教はお互いに対立するものだと思われていますが、偉大な宗教家の方々はみな他の宗教もよく勉強なさっています。
いろいろな宗教は一つの真理を様々な角度から言い表したものであるというふうに考えれば、ある宗教は他の宗教を否定することにはなりません。同じ概念をある人は神と呼びある人はアッラーと呼びある人は空と呼んでいるのだとしたら、お互いを否定する必要はどこにもないということです。
多神教と一神教も矛盾しません。キリスト教でも天使はたくさんいますし、たくさんの神はみな唯一神が姿を変えたものだという見方だってできます。
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宗教はよく紛争の種のように見られますが、実際のところは紛争の大義名分に使われるだけということが多いように思います。例えば十字軍の場合、どこかと戦争をして領土を広げたかったんだけど、そんなわがままな理由でヨーロッパの他の国を攻めると袋叩きに会います。で、(相手国以外)誰も怒りそうにない中東に攻めに行ったというわけです。隣へ強盗に入ればとっ捕まるのに中東で略奪をすれば英雄なのですから、みな喜んで行きますよね。
もちろん中には宗教的な動機で参加したバ…いや信心深い人もいたでしょうが、陰でベネチア商人が暗躍したりスルタンと外交交渉をしたりして、けっこう宗教とは無縁の政治ゲームだったりします。(特に後期は)
要するに、ブッシュがいくら神や正義がどうのこうのといっても、本当の狙いはみなわかってるよね、ってことです。戦争なんて昔からそんなもんです。
Iwatamさんが言う「いろいろな宗教は一つの真理を様々な角度から言い表したものである」その考え方はすばらしいもので、今の宗教には最も必要かと思います。
私が「宗教」に対し、一番言いたかったのはそれです。
「各宗教は一つの真理の様々な表現であり、その根底には同じ真理がある。」
「我々の宗教は唯一絶対ではなく、「道(真理)」のひとつに過ぎない。」
こんな考え方が、宗教間にある様々な争いを取り除くと思います。
こんな風に、宗教が他の宗教をリスペクトできたら、どんなにいいでしょう。
Iwatamさんが言うように、偉大な宗教家の方々はその考えがあると思います。
キリストと仏陀が出会っていたら、対立したでしょうか?
多分、お互いが深く分かり合えてたでしょう。
「どのような宗教を通っても、真理・神に到達できる」と言った人にラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダなどもいます。
Iwatamさんが言うように、「お互いを否定する必要はどこにもない」ということです。
彼らは分かっていたでしょうし、他の偉大な宗教家の人々も分かっていたでしょう。
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ただ一般の信者・宗教人に関しては違います。いったいどれだけの人がiwatamさんのような考えを持って、宗教に入っているのでしょうか?
わたしは宗教の本質は同じで、「お互いを否定する必要はどこにもない」ということで、iwatamさんとまったく同じ意見です。
しかし現実はそう甘くは無いようです。各宗教を構成する人々の99%はそんな考えを持ってはいません。
私は中学のころまで、創価学会員でした。自分の意思ではなく、親がやっていたので、もの心つく前から入らされていました。(今は違います。)
ある時、友人(創価学会員)のところに、キリスト教の伝道師の方がやってきたことがあります。
その子の母(創価学会員)はその伝道師の方に対し、「うちはそんな劣った宗教なんてやりませんっ!!」とえらい剣幕で言っていました。
私は思いました「いったい彼女は何を根拠にそんなことを言っているのか?」と。
彼女はどこまで自分の宗教を知っているのか?悟りでも開いて、完璧に理解しているとでも言うのか?
また、相手のキリスト教について、どれだけ知っていると言うのか?
聖書を最後まで読んだことすらないではないのか?
まだ、完全には分かっていない自分の宗教と、同様に何もわかっていない相手の宗教を比較している。そんなことができると思っている。それで相手を罵っている。
これが現実で「各宗教は一つの真理の様々な表現であり、その根底には同じ真理がある。」「お互いを否定する必要はどこにもない」などという考えはどこにも見当たりません。
まあ、排他性の強い創価学会を出して例が悪かったのかもしれませんが、他の宗教にも同様の光景は、少なからずあるのではないでしょうか?
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たとえば、カトリックが
・「各宗教は一つの真理の様々な表現であり、その根底には同じ真理がある。」
・「我々の宗教は唯一絶対ではなく、「道(真理)」のひとつに過ぎない。」
と宣言をしたらどうなりますか?きっと大問題になります。神学者たちは猛反発するでしょう。
いくらiwatamさんがそう思っても、(既存)宗教としてはそれを認めないということです。
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個人がする、宗教の「真理」の捉え方としては、対立するものではないという考えは存在するでしょう。しかし、宗教を「組織・構成する人々の集まり・制度」の面から見た時には、それを認めるはずも無く、宗教を対立するものではないとは言いにくいと感じます。
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また長くなりまして、申し訳ありません。
上の私の発言は確かに理想論で、実際にはあなたのおっしゃるように排他的な人が多いでしょう。「カルト=思考停止」という定義を使うなら、それらはカルトです。しかしこれは宗教に限らず、議論の場でよく見かける光景でもあります。(今ここはそうなっていないので大変幸せであります)
何が言いたいのかというと、ここで挙がっているような問題点ははたして「宗教」の問題点なのか、今の「宗教人」の問題点なのかということです。私は人の問題であるような気がするのです。
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ローマ法王ヨハネ=パウロ二世はわりと熱心に違う宗教との対話の機会を持とうとしているようです。「ヨハネパウロ」「宗教対話」あたりでぐぐるといろいろ出てきます。さすがにこれほど大きな宗教団体のトップは人ができています。
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カトリック(キリスト教)こそ、本当は対立してはいけないんですけどね。イエスは何度サマリア人をたとえに出したことか。
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最後に、ここは長文大歓迎ですのでお気になさらず。
宗教の問題か、人の問題か、難しいですね。
この問題は前述(No.405)した「宗教の創始者は、争いの種を作った戦争犯罪人か?(←その意図は無くとも)」という、問題にも当てはまって来ます。
すなわち宗教そのものを作った人が悪いのか?もしくは、信じている、または運用している人が悪いのか?
そもそも信者をひっくるめて宗教と言えなくもないですが、iwatamさんは区別しているようですので、ここでは分けて考えてみます。
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問題を言い換えますと、すなわち、
「宗教は悪くないけど、解釈する人によっておかしな解釈するから、問題が起こる。」(要するに人が悪い)
また、「おかしな解釈ができるような表現、または、誤解されるような書き方をしている宗教(経典)のせいで問題が起こる。」(要するに宗教が悪い)
どっちでしょう?やっぱり、良く分かりません。
心証は8:2ぐらいで「人が悪い」です。
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この理由を「宗教の創始者は、争いの種を作った戦争犯罪人か?」という質問の私の見解もあわせて、すこし述べてみたいと思います
作った人(発明者)か、運用した人かという問題になりますと、例えば、平和利用が目的だったが、戦争にも用いられることとなったダイナマイトを作ったノーベルは大量殺人者でしょうか?
また、よく刺殺事件が起こりますが、ナイフを発明した人は殺人者でしょうか?人殺しを生んだ親も、その犯罪の協力者でしょうか?
交通事故がよく起こりますが、自動車の発明者は、人殺しでしょうか?
おそらく、これらを大量殺人者や人殺しとみなす人はほとんどいないでしょう。
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宗教によって争いが起こったことは事実です。でも苦しみや悩みから救われた人も大勢いる。
ダイナマイトだってナイフだって、使い方によっては善にも悪にもなる。
少なくとも、宗教もダイナマイトも形は違えど、人々を幸せにする目的で作られました。
ただ、宗教をどう解釈し、どう用いるかは個人にゆだねられている。それは、生み出した人には責任はありません。(ノーベルやナイフ・車の発明者に殺人の責任がないように!)
だから、宗教の創始者を戦争犯罪人とみなしたり、宗教そのものが悪いとするのは間違っている、と私は考えます。
では8:2の20%の宗教の問題は何かと言いますと、教義について、いろいろな解釈ができすぎることです。しかも、それぞれの解釈の正当性について解答(正・誤の判定)を出すことが難しいこと。
要するに、ダイナマイトもナイフも自動車も取扱説明書が不十分なら、発明者にも責任はあるのかな?と少し感じるからです。
「宗教の問題か」、「人の問題か」が、「解釈」ということに言及しましたので、ちょっとキリスト教を例に。
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一般にキリスト教を絶対とする人は、以下の文章に寄るようです。
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「私が道であり、真理であり、生命である。私によらなければだれも父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ十四章六節)
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自分は仏教徒でありキリスト教徒でもあると公言しているiwatamさんは上の言葉をどう解釈していますか?
キリスト教を絶対とするような人は、これを言葉どおりに解釈し、イエスによらなければ、すなわち、キリスト教で無ければ、神の国(天国?)に行けない。(他の宗教では地獄、または煉獄に落ちる)とする。
それで、「絶対」的になり、他は駄目だとする排他性、はたまたカルト性が出てくる。
では、解釈のおかしい「人の問題」でしょうか?
でも、彼らの解釈が間違っているとは言えません。(間違っているとする論理的な根拠を見出すのは非常に困難と思われます。)
これは正解なんかは無く、「その人はどう考えるか」でしかないのではないでしょうか?
宗教の問題か、人の問題か、・・・やはり難しいですね。(やっぱり8:2ぐらいかな・・・)
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ちなみに私の解釈は、この「私が道であり」と言った時の「私」、また「私によらなければ・・」と言った時の「私」は普遍の「真理」・「愛」としての「私」であり、イエスという固有名詞であるとは解釈しません。同じ真理としての仏陀、同じ真理としてのコーランまたはマホメット(ムハンマド)を区別していないと思います。
(私の解釈が合ってるか、どうかは分かりません。宣言されたイエス様のみがご存知です。もしくは聖書はのちの人がまとめ上げたものだから、本当は言ってないかもしれませんが。)
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また長くなりましたが、長文大歓迎ということですので、ちょっと安心してます。(書くの好きなんすよ!!!)
時間が無いので、ヨハネ・パウロ2世については、またの機会に。
もし宗教が真理を伝えているとしたら、それは善か悪かではなく、正しいか間違っているかで判断されるべき問題です。ニュートンの万有引力の法則が善か悪かなどと考えないように、諸行無常の法則もまた善か悪かという問いは無意味です。
もし宗教が価値の定義をするものだとしたら、これもまた善悪を超越した存在です。もし宗教が何が善で何が悪かを決めるものだとしたら、その宗教自体の善悪は言えないことになります。
もし宗教が幸せになるための方法を説いているとしたら、その方法によって実行される行為の善悪について言うことができます。しかし宗教の場合、すべては心の問題であって、物理的な行為を一切含みません。宗教がなんらかの行為を強制しない限り、そこに善悪は存在しません。
宗教ではたいてい「自分が正しいと思ったことをしなさい」と言っているだけで、具体的に何をしなさいとは言っていないのです。
もし宗教が具体的に何かをしなさいと指示していて、それが「豚肉を食べるな」という程度の他愛のないことではなく本当に悪いことであれば、それはその宗教が悪いと言ってもよいでしょう。しかし、そんな宗教は人々に支持されて現在まで残ってはいないでしょう。
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経典を絶対視するのはよくない考え方です。経典にはすべての事が書けるはずがないのです。経典はその当時の人々にわかりやすいように書かれたものですから、それをそのまま現代にもってきて一字一句通用するかというと、そんなことはありません。
経典も含めて、すべてのテキストは不完全です。解釈の余地が存在します。そしてそれを神学者や宗教家といわれる人たちがずっと研究して、より正確にそのテキストを把握できるように解釈を加えています。そうした人たちの努力を無視して経典の文句のことしか考えない人たちは「原理主義」と呼ばれます。
簡単に言えば、どう書いても変な解釈をするバカはいるので、どこかのバカが変な解釈をしたことをもってそのテキストは悪いとは言えないということです。
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イエスが「私が道であり」と言ったときの「私」は、「イエスが語った内容」と解釈しています。問題は誰が言ったかとかその言葉の一字一句ではなく語った内容なので、同じことを誰か別の人がその人の言葉(や言い回し)で語ったとしてもそれは同じものとみなします。問題は字義ではなく内容であり解釈です。
そして、宗教の言っていることのほとんどは当たり前のことであり、解釈を考えればみな同じことを言っているように思うのです。
イエスによらないと父のみもとにはいけないけど、別に父のみもとに行かなくても極楽浄土に行けばいいじゃん、という別の割り切り方もありますが。
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最後におまけ。この掲示板は返答をするとだんだん横幅が狭くなってしまいます。元記事の親記事に返答をすることにするとこの問題が解決します。
解釈の問題ですか・・・・
でも誰が正しい解釈で、誰が間違った解釈か、分からない訳ですよね?(現にiwatamさんと私の解釈は違いました。←意味は大体同じかと思いますが・・・)
誰かは変な解釈をするけど、間違っているとは論理的に言うことができません。
そもそも、「変」と言うのも自分の主観だけで、本当は「変」なのは私たちかもしれない。
「変」と言われた人たちも、自分は「変」とは思わず、お前たちが「変」だと言い返すでしょう。
お互いがお互いを変と言う。じゃあ、全部「変」か?
それぞれが、それぞれを自分は「正しい」とする。じゃあ、全部「正しい」か?
解釈の違いだけ、宗教は分裂し、様々な宗派ができた。
カトリックと東方教会はお互いを破門すると言う形で分裂した。プロテスタントを含め3者の融合は難しい。他にもいろいろなキリスト教系の宗派がある。
では、どの主張、どの解釈が正しいのでしょう。
「どう書いても変な解釈をするバカはいる」とiwatamさんは言います。
しかし、iwatamさんの解釈がバカではないという保障はあるのでしょうか?(←バカと言っている訳ではないので、誤解なさらずに!)
「原理主義」の解釈と他の「神学者・宗教家」の解釈はどちらが正しいのでしょう?
そもそも「正しい」とは何か?
何を基準に正しい・間違っているというのでしょうか?
論理学的な問いかけなら答えは存在するでしょう。(自己言及的な問題は置いといて)
法則なら検証すれば、正しいか・間違っているか、分かります。
しかし倫理的・道徳的・形而上学的な問題に正解はあるのでしょうか?
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ちょっと話題は変わりまして、「しかし宗教の場合、すべては心の問題であって、物理的な行為を一切含みません。」「宗教ではたいてい「自分が正しいと思ったことをしなさい」と言っているだけで、具体的に何をしなさいとは言っていない」とiwatamさんは言いますが、本当にそうでしょうか?
宗教には戒律・規律・しきたりがあり、この中には様々な命令が存在します。経典の中にもあります。出せばきりがありませんが、例として2つ(←特に恐ろしいと思われるものを)
コーラン9章29節には「アラーを信じない者、最後の日を信じない者、アラーとその使徒が命じた禁忌を守らない者、真実の宗教を認めない者と戦え・・・」
聖書には「睾丸のつぶれたる者、陰茎を切り取られたものは、主の集会に加わってはいけない」(申命記23章1節)
これらは、物理的な命令ですよね?
あげ足をとった様で申し訳ありません。
ちょっと気になったもので・・・
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たしかに幅が狭くなってきましたね。でもどこまで行くのかちょっと楽しみです。
最終的には、画面がこの黒棒で覆いつくされるのでしょうか?
「正しい」の問題は非常に難しいものです。あなたのおっしゃる矛盾は、「自分の立場は変か正しいかどちらかだ」という前提から生じるものです。
それぞれの主張は正しいところと変なところを同時に含んでいると解釈すればよいと思います。
これはたとえ法則でもです。ニュートンの運動方程式は正しいでしょうか?これは実験で検証されてもいますが、特殊な場合では成り立たないこともまた検証されています。
結局、正しさというものは常にその定義をしないと使えません。どういうことを正しいと呼ぶのかをその都度はっきりさせないといけないということです。正しさの基準は時と場合によって変わります。
なお、宗教では常に神と自分との一対一の関係です。ですから、自分が正しいと思ったことが正しいのです。偉い宗教学者や教祖が何と言おうとです。自分で勝手にイスラム教iwatam派とかキリスト教iwatam教会を作ればいいのです。
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宗教には、時空を超えた普遍的な教えと、その時その場所で民衆に語った時の局所的な教えの二種類が存在します。例えば、「豚を食べてはいけない」というのは豚を食べる習慣のない民族に言っても意味がないわけで、こういうものは普遍的な教えではなくある特定の人に語ったものと解釈すべきです。つまり、それはその時に言った相手に対する命令であって、一字一句今のすべての人々に通用するわけではないというわけです。その線引きはどこでするか?それは自分で考えるのです。
あるいは、解釈があいまいな言葉というのもあります。特にイスラム教ではよく勘違いされますが、端的に言えば「戦い」とは何でしょう?という質問です。別に剣で相手を殴るだけが戦いではありません。ここでこうやって議論するのもある意味戦いです。交渉するのも説得するのも戦いです。戦えと命じられてもどうやって戦うかは本人次第なわけです。
余談になりますが、地球以外の惑星にイスラム教徒が植民したら、どっちを向いてメッカにお祈りをするんでしょうね。地球との位置関係においては空にお祈りしたり地中に向かってお祈りする必要が出てくると思うのですが。そういえば、メッカのちょうど反対側にいたらどっちに向かってお祈りしてもいいんでしょうかね。
おっしゃるとおりですね。「正しい」ということは、非常に難しいですね。
でも、きっと誰しも、一生の間に一度は考えるようなテーマではないでしょうか?
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私の「正しさ」についての考えはiwatamさんと、ちょっと違うのですが、共通点は多くあると思います。
ある本に書かれていたのですが、
・「自分のモデルに照らし合わせれば、誰も間違ったことをしていない」
・「何かを「正しい」と考え、何かを「間違っている」と考えるのは一方的な決めつけである。物事は、あなたがそう言うから、正しいとか、間違っていることになるのであって、それ自体に正邪はない。」
・「この宇宙には「正しい」とか「間違っている」というような絶対的な基準は無く、生み出したいと思う結果・目的に照らして、役に立つかたたないか、それによって、正しいか、間違っているかが決まる」
「正しさ」ということについての理解は、これが一番当たってるかなと感じています。
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「正しさ」は時代性・地域性・民族性・文化によって異なり、また立場や状況でも変わるでしょう。
例えば魔女狩りのように、当時「正しい」と思われたことが、現在は「間違っている」とされる。
「売春」はある場所では違法行為だが、別のある地域では合法となる。
人殺しでさえ、戦争においては正当化される。
じゃあ「正しさ」には、絶対性は無いのか?
この問いの答えは「無い」というのがおそらく正解でしょう。
Iwatamさんが「その線引きはどこでするか?それは自分で考えるのです。」と言うように、正邪は人がそれぞれ作るものであって、絶対的な基準は無いと感じます。
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正しさも解釈も皆、それぞれ異なる。
問題は自分と違っていることを「間違っている」としてしまうこと。
これは組織宗教にありがちです。
違いを受け入れることができない。違いを祝福できない。類似点より相違点が重視され、不一致の解決に紛争や暴力を用いる。
そういえば、「世界でひとつだけの花」はなぜ、あんなにヒットしたのでしょうか?
「それは優劣ではなく、違い・個性だよ」という、違いというものを祝福するメッセージがあるからだと思います。
宗教もこの歌の「花」のようでいいのではないでしょうか?
(iwatamさんが「自分が正しいと思ったことが正しいのです。自分で勝手にイスラム教iwatam派とかキリスト教iwatam教会を作ればいいのです。」と言ったのと通じるでしょうか・・・)
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まぁ、「花」でもいいのですが、もうひとつの例えとして「宗教」は料理のようだと前々から感じてました。
料理にはフランス料理、イタリア料理、中国料理、タイ料理、日本料理・・・と様々な料理がある。
日本料理が一番好きと言う人もあれば、日本料理より中国料理が好きと言う人もいる。
でも、中国料理が日本料理より優れているわけでもないし、タイ料理がイタリア料理より劣っているわけでもない。それは好みの問題であり、どれがどれより優れているわけでもない。
中には、ちょっといただけないまずい料理、体によくない料理もあるだろう。
しかし、いろいろな料理があるけれど、すべての料理の目的は、その味・おいしさを楽しむと同時に、活力をあたえ、体をはぐくみ、成長させること。
宗教も全く同じ。対象が体から心や精神、魂になるだけ。そんなような気がしています。
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メッカのちょうど反対側の人は、地面に向かってお祈りでしょう。(メッカの方向は真下ですから)。
地球外は問題ですね。
きっと地球儀か、(地球の)地図を用意して、メッカの方にお祈りするんじゃないですかね?(偶像(?)崇拝になってしまいますが)
おそらくけーたさんはおわかりだとは思いますが、少し気になったのでコメントします。相対主義と虚無主義についてです。
議論のしかたでも書きましたが、
「正しさの基準はない」と言ってしまうと「だから何でも正しい」という虚無主義に陥ってしまいます。私が言いたいのは、正しさとは単純に言い切れないものだというだけで、正しさそのものがないというわけではありません。つまり、正しさの基準は存在するが、それは無限の奥行きを持っているので、我々にはすべてを把握することはできない、というわけです。
言い換えれば、正しさというのはあいまいなものであるということです。
あいまいだけど無いわけではありません。寛容さというのは、相手の言い分を認めることではなく、正しさにグレーゾーンがあることを認めるということです。
類似点より相違点を重視するのはよくありませんが、同様に相違点より類似点を重視するのもよくありません。類似も相違もどちらも重要なものです。
ちょっと誤解されているようですので、補足します。
私は「正しさ」が無いと言っているのではありません。
それは人が作るものであり、「正しさ」の基準は重要です。その選択が、自分がどのような人間であるのか、決定するのですから。
しかし、神様が決めたような「絶対的な正しさ」は無いと言っているのです。(もちろん、道徳的、倫理的な正しさのことですが)
正しさは人が作り出すもの。しかし、自分の正しさは自分だけのもの。
問題は、自分の正しさを絶対としてしまうこと。他人の正しさを尊重することができないこと。自分と違っていることを「間違っている」としてしまうこと。
自分の正しさを他人に強要するタイプの人間がいる。
タリバンは自分たちの正しさを仏教に強要し、バーミアンの石像を破壊してしまった。
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正邪、善悪も相対的な言葉で、なにか絶対的なものがあるわけではない。(何か宗教に固執してしまっている人は受け入れがたいとは思いますが・・・)
相対的というのは、絶対的の反対で、何か比較するものがあって、初めて決まります。
例えば、高さに絶対的に高い位置、絶対的に低い位置があるわけではない。そもそも、この宇宙には上も下も、高い・低いも無い。
地球の中心に向かう方向を「下」、中心から放射状に伸びる方向を「上」と決め、さらに、それだけでは、高い低いは決まらない。高い・低いを決めるには、基準や比較となるものが必要であり、他のものと比較して相対的に高い低いは決まる。地球に、ひとつの物質しかなかったら、それが高い位置にあるのか、低い位置にあるのか決めることはできない。何か別のものと比較して、はじめて、高い・低いが決まる。
「善悪」「高低」「正邪」これらはすべて相対的な言葉です。人はこれらを自分で決めることができる。ひとは「善」であるのがすばらしいのではなく、「悪」であるのがすばらしいのでもない。人はこれらを選択できるからすばらしい。善にも悪にもなれるからすばらしい。その自由が与えられていることがすばらしい。そうは思いませんか?
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もうひとつの誤解で、私は相違点・類似点、どちらを重要視しろと言っている訳ではありません。(そういう論点ではありません。)
違い(相違点)で争うのではなく、違い(相違点)を認め合い、受け入れなさい、違いというものを祝福しなさい、という主張です。
自分と「違っている」ことを「間違っている」としてしまうことや、他の人の「正しさ」を裁くことはやめなさい、という主張です。
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違い(相違点)と裁きについて出ましたので、すこし雑話を紹介します。
OSHOの本で読んだのですが、こんな話がありました。
『あるジャイナ教の人が和尚の所に来て言った。「なぜイエスや、マホメットやラーマクリシュナについて言及するのか?マハヴィーラ(ジャイナ教の祖)と同列に扱うべきじゃない。
キリストは肉を食べ、ワインをのみます。これ以上の罪があるでしょうか?マホメットは9人の女性と結婚し、肉食者でした。どうして、マホメットとマハヴィーラを並べましょう?」
和尚はキリスト教の伝道師に「彼の意見をどう思いますか?何か反対意見はおありですか?」と聞いた。
彼はいった。「ありますとも!どうしてイエスとマハヴィーラを一緒に語れましょう?イエスは人類のために生き、人類のために自らを犠牲にしたのです。
マハヴィーラが何をしました?実に利己的で、自分の救済のことのみを考え、他人には一切かまわなかったのです。盲人を癒さなかったし、死者を蘇らせませんでした。ただ、瞑想していただけです。これほど利己的なことがあるでしょうか?どうしてイエスとマハヴィーラを一緒に語れましょう?」
彼もまた正しいように思われる。さあ、どう決めたらいいのか?
仏陀は病人や、めくらや、つんぼや、おしを癒したことがなかった。ただ瞑想していただけだ。利己的に見えるではないか?せめて、医薬品を提供したり、洪水に見舞われた地域に行って、奉仕したりするべきだった。彼はそのようなことは一切していない。そんな宗教性があるのだろうか?キリスト教徒の立場からすれば、これは紛れもない利己主義だ。
さて、誰が正しいのか?そして誰がそれを決めればいいのか?
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このジャイナ僧は間違っているし、キリスト教の伝道師も間違っている。
どちらも裁いている ―― 裁くことが間違いだ。
イエスはイエスだ!彼自身のやりかたで生きた。仏陀は仏陀だ。彼も自分自身の生き方で生きた。彼らの個性は独自であり、彼らの神の表現も独自だ。
どちらも他人の複製ではないし、どちらも他人の複製になる必要がない。
この世に多様性があるのはすばらしいことだ。
イエスが一人だけであり、2度と繰り返されないのはすばらしいことだ。仏陀が一人であり2度と繰り返されないのは好ましいことだ。
・・・真に宗教的な人は、裁きのない取り組み方がある。道徳家は裁きを避けることができない彼は裁判官になってしまう。
・・・(中略)・・・
道徳家は常に裁こうとするが、真に宗教的な人は決して裁かない。彼は裁きなき意識を生きている・・・』
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以上です。
何か得るところはありますでしょうか?
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人が悟るためには、最終的には、これらの相対性を超えなければいけないようです。(私は悟ってはいないので、良く分かりませんが・・)
言葉を2つだけ。
「邪悪な性質と善良な性質が消え去り、あらゆる属性を脱したとき、人は初めて平安を得る・・・だから、「私」「私のもの」という幻影を捨て、不動の平安を享受し、いつも心を穏やかにしていなさい」(あるインドの聖人の言葉より)
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「正誤の裁き、善悪のはからいを超えた心は、見守り、そしてさとる」(ダンマパダ(=法句教)より)
自分の正しさは自分だけのものではありません。微妙な相違はありますが、他の人と共通するところもたくさんあります。
相違点も類似点も、誰が何をしようと「ある」のであって、それに対して受け入れるも受け入れないもなければ善も悪も「すばらしい」も何もありません。ただ、「ある」だけです。
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私が言いたいのは、自分と違っていることを「間違っている」として
もよいということです。問題は、「間違っている」と言われた方がそれ
を受け入れないことです。堂々と「間違っている」と言ってよく、それ
を相手がどう受け取ってもいい。これが自由です。
悪いのは相手の言うことに耳をふさぐことであって、言う方は何も悪
いところはありません。もちろん、発言は双方向ですので、すぐに攻守
交代がやってきます。だから「間違っていると言うのは間違っている」
と言う意見にも耳を貸さなくてはなりません。
これは話し手の問題ではなく、聞き手の問題です。「違いを認め合い
受け入れなさい」とお書きになっているので、ここのところはわかって
いただけていると思います。
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裁きの例を出されましたが、私の意見は少し違います。
ジャイナ僧は間違っている。キリスト教の伝道師も間違っている。こ
れはその通りです。しかし、裁かないのもまた間違っている。人間のす
ることは常にどこか間違っているのであって、まったく間違いのない行
動をとることは不可能である、という見方です。
上の話、「裁き」という言葉があいまいな言葉なので、私が使った言
葉とあなたが使った言葉は意味がずれているんじゃないかとは思います。結局、裁くとは何なのでしょうか?争うことはよくないことなんでしょうか?
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もしかしたら、
コラム:性悪説が少し関係するかもしれないのでご参考までに挙げておきます。
「自分の正しさは自分だけのもの」ですが、「すべてに通用するわけではない」という意味で書いたのですが・・・誤解を生むような文章でごめんなさい。文章の流れが悪いのでしょうか?
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iwatamさんの言う「自分と違っていることを「間違っている」としてもよいということ」について、いろいろなパターンで検証しているのですが、iwatamさんの考えがおかしい時と、iwatamさんの言うように「間違っている」と言った方が適切なのではと思うこともあって、ちょっと自分の意見にも、良く分からないところがあります。間違っているというのは、何に対して間違っているのか?また受け入れるというのは、どういうことか?他人の正しさを尊重するとはどういうことか?
自分の中でもう一度はっきりするよう考えて見ます。(はっきりしましたら、また投稿します。)
いえいえ、おそらく誤解してはいないと思います。同じことを別の言い方で言っているだけのつもりです。
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おっしゃる通り、問題は「間違っているとは何か」です。
端的に言えば、「自分の正しさの基準で言えばそれは間違っている」と言うことは受け入れていないことなのか、他人の正しさを尊重していないことなのか、ということです。
上で私は「善も悪もなく、ただ「ある」だけです」と書きましたが、「自分の正しさの基準で言えばそれは間違っている」というのは事実をありのまま述べただけだということです。
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私もだんだん混乱してきました。何が問題とされているのか、一度整理した方がよいと思います。
だいぶ難しい話になってきたので、混乱しても当然です。
あなたが挙げている数々の質問がキーポイントになっていると思います。
混乱の原因を解決するために、確認したいのですが、
iwatamさんの言われる、「自分と違っていることを「間違っている」としてもよい」とは
「自分の間違っていると思うことは、「間違っている」としてもよい」
または、
「自分と違っていることのうち、間違っていると思うことは、「間違っている」と言ってもよい」ということですよね?
「自分と違っていることそのものを「間違っている」としてもよい」ということではありませんよね?
もし、「違い」=「間違い」なら、違いをまったく受け入れることができない人間ということになります。(例えば、肌の色や、人種でさえも、「違い」は「間違い」ということになります。
・・・でもこの世には、これら肌の色や、人種、もっと言えば性別の違いさえ「間違い」もしくは「劣る」と言う人が大勢いるから分からないですが・・・)
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また、以下これまでと同じように「正しい」「間違っている」については、宗教上の解釈や道徳、倫理についての「正しい・間違っている」に限定して述べます。
(法律上の「正しい」「間違っている」は国(人々)が決めたもので、それゆえ、正しい・間違いは、法律に照らし合わせて、論理的に間違い・正しいを言えることになります。
また、論理学や、それに基づく数学・物理学などは回答があるので、間違い・正しいが言えます。「法則」も、証明はできない場合でも、検証できるので、間違い・正しいが言えます。これらについてはここでは言及しません)
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さて、iwatamさんの「裁くとは何なのでしょうか?争うことはよくないことなんでしょうか?」の問いに、私なりの考えを述べてみます。
ここでの「裁く」とは断罪する・罪を宣告するというよりは、「あるものを劣っている・間違っていると言い、あるものは優れている・正しいと、価値判断をすること。」
または、「劣っている・間違っていると、批判や非難すること」と取れると思います。
要するに、No.423の第2段と第3段の「間違っているとする」「裁く」は、ほぼ同じ意味で解釈できると思います。
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次の「争うことはよくないか?」ですが・・・
前述したように「良い・悪い」「間違っている・正しい」は相対的な言葉です。
それ自体に絶対的な「良い・悪い」「間違っている・正しい」はありません。
良いか、悪いかはiwatamさんがどこへ行こうとしているのか?どうすることが目的なのか?この生み出したいと思う結果・目的に照らして、間違っている・正しいが決まります。
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それでは、なぜ非難するのだろう?何のために?
非難することの目的は何なのか?
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相手を更生させるため?・・・多分違う。
間違いを明らかにして、世の中に知らしめるため?また、それによって、社会的制裁を加えるため?・・・多分違う。(そうである場合もありますが)
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真の目的は心の奥の妙な感情が潜んでいると思います。
それは相手の間違いを指摘することによって、または、馬鹿にしたり、非難することによって、優越感に浸りたいため。要するに、相手を下にすることによって、自分の優越性を皆に証明したいのだ。批判したり、馬鹿にすると気持ちいいのは、見下したことによって、自分が上に立っていると錯覚するからだ。
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他には、自分と同じ意見じゃないと、許せないから。なぜ許せないか?違っているということが、自分が否定されているものと錯覚するから。
自我はこう言う「私の意見は正しくなくてはいけない。なぜなら、私の意見だからだ。」
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まあ、上の意見は多くの場合そうであるというだけで、すべてがそうだとは言いません。
では仮に、「批判」「間違いを指摘すること」の目的を、相手を更生させるため。
間違いを明らかにして、世の中に知らしめるため。また、それによって、社会的制裁を加えるためだとしましょう。
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それらの目的に対し、多くの場合言えるのは
・批判というものが、目的に対しほとんど役に立たないこと
・批判というものが、逆に、争い、憎しみ、恨み、怒り、分裂を生み出すこと
がいえると思います。
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これらについて、ちょっと、カーネギーの「人生論」から部分的に抜粋してみます。
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『人間はたとえ自分がどんなに間違っていても決して自分が悪いとは思いたがらないものだということが、わかりかけてきた。およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。
他人のあら探しは、なんの役にも立たない。相手は、すぐさま防御体制をしいて、なんとか自分を正当化しようとするだろう。それに、自尊心を傷つけられた相手は、結局、反抗心をおこすことになり、まことに危険である。
他人の欠点を直してやろうという気持は、たしかに立派であり、賞讃に価する。だが、どうしてまず自分の欠点を改めにかからないのだろう?
なまじっか他人を矯正するよりも、自分を直すほうがよほど得であり、危険も少ない。
利己主義的な立場で考えれば、たしかにそうなるはずだ。
自分の家の玄関がよごれているのに、隣家の屋根の雪に難癖をつけるなと教えたのは、東洋の賢人孔子である。
人を批評したり、非難したり、小言をいったりすることは、どんな馬鹿者でもできる。そして、馬鹿者にかぎって、それをしたがるものだ。
理解と、寛容は、すぐれた品性と克己心をそなえた人にして初めて持ちうる徳である。
人を非難するかわりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、面白くもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、おのずと生まれ出てくる。
すべてを知れば、すべてを許すことになる。
英国の偉大な文学者ドクター・ジョンソンの言によると
「神様でさえ、人を裁くには、その人の死後までお待ちになる」
まして、われわれが、それまで待てないはずはない。』
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以上が抜粋です。
(本当は、例とかあって、もっと説得力があるのですが、長くなるので部分的な抜粋で申し訳ないです。)
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では、ここで最初に戻って「争うことはよくないか?」ですが、その目的が「争い、不和・憎しみ、恨み、怒り、分裂」を作りたいなら、それは良いこと。人から反感を買い、争いの火種を抱えたいなら、それは正しい。また、チープな自尊心を満足させ、くだらない優越感に浸りたいのなら、それはした方がよいと言えると思います。
また、調和、寛容、好意を引き寄せたいのなら、それは良くないこと。間違っていることだと言えると思います。
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・・・申し訳ありません。話に一貫性を持たせるため、ちょっと極論をしてしまいました。(気分を害されましたらすみませんでした。)
実際は批判が役に立つ場面はあると思います。
更正できる場合もあるだろうし、マスコミなんかが正義感で立ち上がり、結果的に良い方向に行くこともあるだろう。
しかし、それは非常にまれで、道徳、倫理上で相手の間違いを指摘して、相手が「はい、そうですね。私が間違いです」などと言うことは、ほとんどありえない。どんな悪人と思われる人でも、自分のモデルに照らし合わせれば、誰も間違ったことをしていないのだから。
結果的に憎しみ、恨みを買う場合がほとんどであると思います。
人と違った時、まず言うべきは「あなたは間違っている」ではなく、「どうしてそう思うのですか?」ではないでしょうか?
前者は断罪・非難・決め付けであり、後者は、理解をもたらします。
人は非難では変われず、理解と寛容が、結果的に人を変容させるのだとカーネギーは説いています。(「人生論」は名著です。Iwatamさんの言うように聖典もいいですが、これらも機会があればどうぞ!)
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iwatamさんは「裁かないのもまた間違っている。人間のすることは常にどこか間違っているのであって、まったく間違いのない行動をとることは不可能である」といいます。
どうなんでしょう?
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誰しも間違うから、裁いて正さなくてはいけないのか?
誰しも(=自分も)間違うのに、人を裁くのか?
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これは、聖書のパリサイ人との対決を思い出します。
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あるとき姦淫の罪で捕まった女をパリサイ人らがイエスの前に連れてきて,「この女は姦淫の現場で捕まった卑しい女です。モーセの律法によれば,このような者は石で打ち殺せと命じています.さあ,どうしたらいいとお考えですか」と尋ねる。
これに対しイエスは言った。
「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが,まずこの女に石を投げなさい。」(ヨハネ 8:7)
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・・・イエスは何を言いたかったのでしょう?
聖書が出てきたので、最後にもうひとつ「裁き」について。
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人はそれぞれ、自分の基準で他人を測り、判断を下すものである。
これについて、イエスはこう語っている。
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『裁かれたくないなら、人を裁くな。人を裁けば、それと同じように自分も裁かれ、人をはかれば、それと同じ秤で自分もはかられる。
なぜ、兄弟の目にあるわら屑を見て、自分の目にある梁に気をとめないのか。自分の目に梁があるのに、なぜ兄弟に向かって、君の目のわら屑を取らせてくれというのか。
偽善者よ。まず自分の目から梁を取り去れ。そうすればはっきり見えて、兄弟の目のわら屑も取ることができよう』(マタイ7:1-5)
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何か得るところがありますでしょうか。
私は、「間違っている」を「正しくない」という意味で使っています。もし「正しい」が絶対的なものでないなら、「間違っている」もまた絶対的なものではありません。しかし、「正しい」
があれば「間違っている」も同様に存在します。
「間違っている」という言葉は単に「正しくない」という意味に使っているだけで、そこに非難の意味は含んでいません。
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「争っている」も同様です。ラグビーは敵味方に分かれて争っていますが、ゲームが終わればノーサイドになります。そういう意味で、私が使っている「争う」という言葉には優越感も憎しみも怒りも含んでいません。「批判」も同様です。「裁く」も同じ意味で使いました。(さすがに「裁く」と「争う」や「批判」が同じ意味なのはちょっと変なので、なんか違うような気がすると上で書きました)
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批判の重要性については
議論のしかたで述べました。
批判をされることで自分の間違いがわかります。批判されたほうが感謝すべきことです。批判は相手のためにすることです。
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あなたの言うことが「残念ながら一般にはそうである」ことはよくわかります。しかしそれを克服するには「争わない」ではなく「憎しみや怒りを持たずに争う」ことではないかと思うのです。
そして、それは言う方の問題ではなく、聞く方の問題です。
もし「残念ながらこの世の中は困った人ばかりだから争わないほうがいい」という意見であれば処世術としてはごもっともですが、「自分さえよければ」であって思いやりがないと思うのです。
私はあなたの見解が悲観的すぎると思います。ほとんどの人はまともであり、批判されたら逆ギレせず素直に感謝すると思います。
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もう1つ気になることは、「正しい」は絶対的なものではないと言いながら、裁くことを正しくないと言っている点です。裁くことを正しくないと言うことは、それ自体が裁いていることにはなりませんか?「間違っている」と言えないのであれば、「間違っていると言うのは間違っている」ともまた言えないはずです。
残念ながら次ページになってしまいました。
ここではやりにくいので、もし続けるのであれば新しいトピックで始めてはいただけませんでしょうか。
よろしくお願いします。