コミュニティの崩壊を拝見させていただきました。いくつか気になることがあったので書き込みさせていただきます。
「例えば、嫌韓・嫌中がわかりやすい。ネット右翼は、韓国や中国が日本を批判することを批判する。中国の軍事的脅威とか体制とかいったものを批判しているわけではないし、相手がなぜ日本を批判するのかも、何をすれば批判が止まるだろうかとも考えない。」と仰ってますが、こういったことを書いているサイトが多いとは私は思いません。むしろ、「何を行えば批判が止まるだろうかあるいは原因は何か」といった建設的な考えをし、そして韓国や中国(またはそれによる批判)が悪い(あるいは譲歩すべきなど)と書いてあるサイトが増えいてるのだと思います。これはけっして、貴殿が仰る「ネット右翼」とは異なるものだと思います。つまり、啓蒙であると私は言いたいです。
また「生まれ育っていく過程で作られる。周囲がみないい人ばかりだったら左翼的な考え方になるだろうし、いい人と悪い人がいたら右翼的な考え方になるだろう。」とも仰っていますがこれも断言できることではないと思います。個人の考え方は(家庭、学校を問わず)教育によって形成されるのではないでしょうか?私はこれを実際に体験したと思っています。
また、あくまで個人的な意見ですが「ネット左翼」(本来の左翼とは外れた集団と仮定します。)のほうが増えているのでは、と思いますが証拠があるわけでも無いので省略します。
最後に、僭越ながら、貴殿のサイトに書かれてあることのなかで、断言するにいたる「証拠」が示されていないものが多いので、これを示すことができればよりよいサイトになるのではないかと思います。
いずれにせよ考える良い機会となったので興味を持って拝見させていただきました。ありがとうございました。
まず、「何を行えば批判がとまるだろうか、あるいはその原因は何か」といった建設的なサイトは「ネット右翼」ではないし、「嫌韓・嫌中」でもありません。なぜなら、単に嫌っているだけではないからです。そして、おっしゃるようなサイトも多いですが、単に嫌っているだけのサイトも多いです。
また、「生まれ育っていく過程」に教育は大きな役割を果たします。だから、教育によって形成されることも含んでいます。
「ネット右翼」と「ネット左翼」(どちらも本来の意味とは外れた集団)の区別は一見して難しいです。ネット右翼は時として団結しているようにも見えます。しかし、その団結が仲間意識なのか、それとも仲間外れになりたくない恐怖なのかを見極めなくてはなりません。ネット左翼(私もこう呼びましたが、本当は極左と呼ぶべきでしょう)にある、仲間同士の強い連帯感はネットでよく見かけるこうした人々には当てはまらないように思います。
最後に、こうした思想の話に「証拠」などありません。そもそも、証拠の出しようがありません。あなたは(例えば)このコラムに対して、どんな証拠を出せばいいと思いますか?そして、そのような証拠を出せますか?そして、それは本当に「証拠」ですか?
私は、私の考え方を書きます。そこから何かを感じ取っていただければ幸いです。何も感じ取れなかったら、放置すればいいだけです。私は、証拠を出して証明して済むような「単純な問題」は話題にしていないつもりですし、するつもりもありません。
>「何を行えば批判がとまるだろうか、あるいはその原因は何か」といった建設的なサイトは「ネット右翼」ではないし、「嫌韓・嫌中」でもありません。
???
「ネットで右翼的な発言をする人」がネット右翼だという定義だと思ったけど違うのか……。
建設的なことを言っている「ネットで右翼的な発言をする人」はネット右翼ではないのですね。
あのコラムの書き方だとみんな勘違いしますよ、と老婆心ながらご忠告。
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>あなたは(例えば)このコラムに対して、どんな証拠を出せばいいと思いますか?
ご自分の見た「ネット右翼」のホームページ等をいくつか紹介していただければ良いこと。
さらにご自分の挙げたネット右翼の特徴に当てはまるか分析すればさらに良いですね。
わりと単純でした。
コラムに書いたように、ネット右翼とは「誰とも仲間意識を持てず、周囲はすべて敵だと思っていて、自分への批判をそらすために右翼的な立場で周囲への批判をする人」のことです。ちゃんと「真の右翼とはまた違う」と書いておきましたが、それでは足りなかったでしょうか。
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で、あなたの言うようにホームページを紹介しても、それは「そういう人がいる」という証明にしかなりません。そして、それは自明なことであり、証明の必要はないと考えております。自分で少し探せばいくらでも例は出てくるはずです。そして、それを読めば特徴もわかるはずです。
あなたが指摘したような方法を本当に私がしてしまうと、私のしていることが単なる個人サイト批判に終わってしまいます。それでは話がまったく変わってしまいます。
まとめます。あなたが挙げた方法では、「そういう人が存在する」という証明にしかならず、私が言うように「そういう人が目立つようになってきた」という証明にはなりません。本来ならウェブの全数検索をして、きちんと統計をとらなくてはなりませんが、そうした労力をかけてまで、「こういう人が目立つようになってきた」という、ちょっとネットを見てればすぐわかることを証明するつもりはありません。私にはそんな時間も能力もありません。
あなたのコラムを読むと
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「ネットで右翼的な発言をする人=ネット右翼」であり、彼らの特徴は「誰とも仲間意識を持てず(攻略)」「嫌韓嫌中」etcである。
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と、「ネットで右翼的な発言をする人」が全てその特徴を持っているかのように書いています。
Lushikickさんもそのように読んでいらっしゃるようです。
もう少し考えて文章を書くことをお勧めします。
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「そういう人がいる」と提示してみることと、まったく証明しようとしないのは天と地ほどの差があると思いますが。
私なんかは「そういう人が目立つようになってきた」なんて思ってませんし、同様の人も結構いるかもしれません。
いくつか提示してくれるだけで全く違いますよ。
まとめます。全く証明できない、しようとしないというのなら、それはあなたの妄想であり、全く意味のないものと言うしかありません。
もちろん、証明なんかしません、というなら、それでかまいません。あとはコラムと掲示板を読んだ人がどう思うかですから。
私の意図をあなたが汲み取れなかったのは、「私がそう書いたから」ではなく、「あなたがそう読んだから」です。全部読んでよく考えてみれば、あなたが読んだのが間違いであることに気づくはずです。
私は、誰にもわかる文章を書く気はありません。少しは読む人にも考えてほしいからです。私は、考える気のない人のために何かをしようという考えはまったくありません。
というわけで、証明なんかしません。あとはあなたがどう思うかです。
後出しじゃんけんがお好きなようですが、
議論の中心となる言葉の定義くらい最初にはっきりとしてはどうですか?
自分の伝える力の無さを他人の読解力にすりかえる事は建設的では無いと思いますが。
第一段落でIwatam氏は右翼とネット右翼の違いをこう表記してます。
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本物の右翼は、我々日本人が一致団結して、お互いを仲間とみなして行動しなくてはならないと説いている。
右翼が天皇崇拝をするのも、これが「日本人の魂」であり「日本人の証」だからだ。
現代風に言えば、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるからだ。つまり、天皇崇拝とは、それが象徴している日本という国を大事に思っているということであり、同様に日本という国を大事に思っている人の集団が日本という国である。
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ネット右翼を見ると、どうも本物の右翼のような主張はしていないような気がする。ネット右翼では仲間の範囲が「自分一人」になってしまっているのではないか
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この二つの文を見る限り、
本物の右翼=日本人はみんな仲間
ネット右翼=自分の意見と敵対する日本人を叩いているから本物の右翼とは別物
とIwatam氏は定義しているのだと思われます。
実際ネットを利用しない右翼でも、
叩くことに一生懸命の人達も多くいると思いますが、
文章を読む限りではこういう解釈になると思います。
好意的な解釈が出来る人だけがこのゲストブックに書き込めばいいと思うよ。
ぶっちゃけ、批判しても堂々巡りになって無駄なだけだし。
「好意的に思う」という書き込みはまったく意味ないと思いますよ。議論をするならば、自分と違う考えの人とした方が自分の得になります。ちなみに堂堂巡りになるのは質問が下手なだけ。
煽りにマジレスかこわるい。
というよりも、下らない書き込みにレスすんなよ。
つまり「俺はこういう風に取れる文章を書いてるんだ、そういう受け取り方をするそっちが間違ってる」と言いたいんでしょうか。
誰にもわかる文章を書く気がない場合、その人によって解釈の仕方が違うはずです。
はじめに何が言いたいのか言っておくべきじゃないですか?
いろんな意味に取れるように書いておいて後から「これはこういう意味」っていうのは卑怯じゃないですかね。
>証明なんかしません。あとはあなたがどう思うかです。
これももう問題を放り投げてるようにしか見えませんよ。
どう思うも何も、これを読んで「ネット右翼とネット左翼は社会不適格者」なんて解釈されたらどうするんですか。
まぁそれも読解力のせいなんでしょうけどね。
どう解釈されても、私は別にどうもしませんが。
まさに読解力のせい。
iwatamさんが返信してることは、コラムの文章の内容を繰り返してるだけ。
>はじめに何が言いたいのか言っておくべきじゃないですか?
すでにコラムで言ってるのに、変に読む人がいるから堂々巡りになってるんです。
で、ここで質問した結果であるにせよコラムの内容がわかったならいいんじゃないですか?
このゲストブックから永久にお引き取り下さい。
あなたの言葉は管理人には絶対に届かないので書いても無駄です。
疲れるだけ損です。
「目立つ」と「増える」は意味が違うんじゃないかな?
「コミュニティの崩壊」のコラムは、そもそも出鱈目なので論じても意味がありません。
論としておかしい点をチェックしようとしましたが、多すぎて諦めました。
右翼左翼が日本においてどういう思想的経緯を持つものなのか、その正体は何かという部分を履き違えているのでこのコラムはまるで間違いなんです。
敗戦の思想的位置づけ、進歩的文化人とはなにか、学生運動とは何か、共産化と反共、ソ連崩壊の思想的位置づけ、これくらいは押さえておかないとたたき台すら作れません。
「ネット右翼」が増えている、と言ったところで「ネット右翼」を定義できなければ意味が無いんです。
個人ごとに定義が違っていたら話がかみ合いません。
iwatamさんの論が説得力を持たず読む人に詭弁的な匂いを感じさせるのはまさにこの点でして、常に逃げ道のある言を打ち質問に対し真摯に答えていないからです。
まず、あのコラムは、右翼/左翼を論じているものでは「ない」という点にご注意ください。コミュニティの話をしているのであり、そこから、「コミュニティに属していない」という点でもって「ネット右翼」を定義しようとしています。
私は、いわゆる「ネット右翼」は、あなたがおっしゃるような本質的な「右翼」とは関係がないと見ています。だから、本文にも「あまり関係はない」と何度か書いたはずです。本題とは関係ない話なので、右翼左翼の話はほとんどしていないのです。
説得力を持たないように感じるのは、私が本題だと思っていることとあなたが本題だと思っていることがずれているからではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
「右翼」「左翼」は旧来の概念で補完できても(私はそれすら確実でないと思います。むしろ「守旧派」「革新派」と呼ぶべきだと思います)、「ネット右翼」は新しい概念です。
となれば、まずは「ネット右翼」とは何かを定義せねばなりません。定義までいかなくとも、これこれこのような例があり私はこの例に適合するのを「ネット右翼」と仮定する、と示さねば読む側は混乱するばかりです。
詭弁の匂いとはまさにこれに起因するのですが、つまり読む側を置き去りにしてコラムを書き、それに対して読み手が疑問を提示しても、「どう解釈されても、私は別にどうもしませんが。」などと煙に巻く。
これじゃあゲストブックの意味が無いですな。
さて、私の考えでは「ネット右翼」とは虚構に過ぎず、実在の人格がネットに投影された虚像に過ぎないと思います。
だからこそコラムの内容が奇妙に思えて仕方が無いのです。
ネットの人格がその人の全てであるならばコラムの内容は正しいと言えるでしょう。
ですが果たしてそういう人はどれくらいいるものか。
結局あなたがネット右翼とはこれだと指し示せないのは、ネットからリアルへの跳躍において無理があるためではないですか?
あなたがネット右翼と示した人格がリアルにおいてどういう人格か分からないために、当のネット右翼から「違うよ、何言ってるの?」と言われることを恐れるがゆえに具体例を示せないのではないですかね。
以上、これだけ書き込んでおきます。
まず、私は、「ネット右翼」なるものが読者の頭の中になんだかもやもやとした形で存在することを仮定しています。だから、それが存在しない人ははなから相手にしていません。そういう意味で一部の読者を置き去りにしています。
もし自分が置き去りにされたなら、単に無視しておけばいいのです。あなたにとって、このゲストブックに意味はありません。ここは、あなたではないだれか他の人のためにあるのです。
「ネット右翼」の存在を感じていない人にどんな例を挙げて定義しても、その後に言った何かに意味を持たせることはできません。「そういう定義をすればそうなるよなぁ」と思われるだけだからです。だから、私はそういう意味のないことはしません。
「自分も社会の一員だという意識」の前後、わたしには衝撃とともに大きな発見でした。この意識って、なんだか「信じること」と共通したものを感じます(いくつかのコラムが繋がって見えてきました)。
発見の機会と考える機会をありがとうございました。
まだ残ってたのか、ここ。
神を語ることに意味はなく、ただ何かを信じることに意味があるのだと投げかけてみるテスト。
何かを信じることで自分を支えようと思った時に、人は無意識の内に計算をしてより「崩れにくい」何かを信じようとするものです。失敗しても自分にショックとか、影響が出ないように、慎重に。
故に架空のもの、自分にしか見えない聞こえない(とする何か)を信じるのです。
他人から一切見えなければ、信じているモノの否定はされませんからね。
もしもその人自身が否定されても、それを信じていればやっていけるわけです。
そして時間が経つうち、信じていくうちに目的と手段が逆転して「まず神ありき」になるわけですな( ´ー`)y-~~~
周囲に理解はされずともソレを信じていれば、自分は崩れないわけですから鉄壁ですね。
まぁ、実際にはほとんどの宗教は「金になるから」続いているのでしょうけど、ネ。
以上、無神論者でも宗教屋でもない私の駄文でした。
宗教とは「自分なりの信条」「生き方についての考え」
「信仰」とは「宗教(自分なりの信条)を肯定的に認識すること」
これは(コピペで失礼)ただの哲学では?
自分なりの生き方や考え方は誰でも持っているものですし。
宗教や神を持ってこなくても問題ないと思いませんか。
宗教って、まずはじめに神ありき、だと思うんですよ。
神がいる、という前提の下に信仰が生まれ、宗教という形になった。
だからまず最初に、神とは何か、なぜ神がいるという結論が必要になったのか、を考えないといけないと思います。
…え〜。答えになってますかね?
「宗教」というものの捉え方についての問題かな,と思いましたが,どうでしょうか。
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>これは(コピペで失礼)ただの哲学では?
その通りです。
私は,信条や考え方(senriさんが言うところの「哲学」でしょうか)を「宗教」と言い換えているだけです。
そして信条や考え方を「持つこと」を信仰と呼んでいいのではないかと思っています。
つまり,人間誰しも「自分教」を「信仰」しているということになります。
そういうものを宗教と呼んでいます。
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例えば,「キリスト教」というものについて考えるとき,私は「キリスト教はその教義を通じて何を言おうとしているか」を考えます。
それはおそらく「(生きることについての)何らかの考え方」つまり「何らかの哲学」を言おうとしているのだと思います。
そしてその哲学こそが「キリスト教」と呼べるものなのかなと考えています。
その哲学に賛同し,その哲学に基づいて生きている人が「キリスト教を信仰している」と言えるのだと思うのです。
つまり自分の哲学が「キリスト教」や「仏教」の哲学と同じ(似ている)場合に,「自分はキリスト教(あるいは仏教)を信仰している」となります。
自分の哲学が既存の宗教団体で言っている哲学のどれにも当てはまらないような場合には,「既存の宗教団体が語る宗教」は信仰していません。しかし「自分の哲学」がある以上,「自分教」というようなものを信仰しているという表現ができます。
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つまり,まず「神ありき」ではないと思っている,ということになるのでしょうか。
まずあるのは「哲学」です。これを宗教と呼びます。
そして,自分は自分の哲学に基づいて生きていくことを肯定しています。これを信仰と呼びます。
そして自分の判断で勝手にこの哲学を肯定していいのか? という不安について「それでいい」と言ってくれる者を「神」と呼びます。
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これが,私なりの「宗教」「信仰」「神」についての考え方です。
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senriさんの意見は,まず「神」ありきで,「神が示した考え方」を「宗教」と捉え,その「神の考え」を信じて生きるのが「信仰」というようなことでしょうか。(私の誤読だったらすいません)
その考え方だと,「自分の考え方(哲学)」と「神が示した考え方(宗教)」とが異なる場合,「信仰はしていない」と表現できると思います。
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繰り返しになりますが,そういう意味合いで,「宗教」というものの捉え方の違いが現れているのかな,と思った次第です。
確認ですが、今やっているのはキリスト教もしくは一神教の宗教の話ですよね?
私の意見は、だいたいそんな感じです。
「自分の考え方」を「神が示した考え方」にすることが信仰です。
哲学とは、あらゆることに疑問を持ち、自分で考え結論を出すことです。
例えば、神とは何か? 正義とは何か? 時間とは?
宗教とは、信じることです。
だから、疑問を持ったり疑ったりしてはいけないんです。
だから、哲学と宗教は両立しません。
では、神とは何か? 信仰する人にとっての神とは、絶対者です。
「私は貴方を信じます」つまり「貴方以外は信じません」というのがまずあって、それから、神が信者を「それなら貴方を守りましょう」という構図です。
自分の考えを肯定してくれるのが神、ではないのですよ。
神を肯定する考えを持つことが、信仰であり宗教です。
いかがでしょうか。
哲学と宗教の区別についてはその通りではあります。もし考えのずれがあるとすれば、神は外からやってくるものではないという所です。
つまり、誰かが神という概念を「これを信じなさい」と自分に押し付けるのではなく、自分の内に感じるものなのです。他人が語ることをそのまま受け入れるわけではなく、自分の内に感じるための手がかりにするのです。それによって、最初はよくわからない漠然としたものが、だんだんとしっかりしたものとして感じられるようになってきます。
これが感じられるようになってから、「この感じているものはいったい何なのだろうか」と哲学が始まります。
神というのは個人的なものです。漠然とした概念であって、同じく漠然とした「信条」というような言葉とも重なるものです。「自分なりの信条」や「生き方についての考え」は哲学ではありません。疑問を持ったり疑ったりしない類のものですから。私は、風花さんの考えはだいたいその通りだと思いますが、一点、それを「哲学」と呼ぶところだけが違っているのだと思います。
なるほど。「哲学」という言葉について,私はよくわからないまま深く考えずに「信条」の言い換えのつもりで使ってしまいました。
私の「宗教」に対する考えで行くなら,この言い換えはつまり「哲学」=「宗教」ということになりますが,これは「哲学」という言葉を私が理解しきれてなかったからでしょう。
信条を哲学と言い換えることが適切でないなら,確かに私が前に書いたことは間違いの部分を多分に含んでいます。反省。
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なので「哲学」はちょっと横に置いておいて,私なりに考える「一神教の神様」の話をします。
まず,宗教とは前から言うように,私にとっては「信条」です。
神様は「自分の信条(宗教)を肯定するもの」です。
また「宗教団体」とは「信条が同じ(似通っている)人たちの集団」です。
この視点から「既存の宗教団体」あるいはその信者というものを捉えると,例えばキリスト教信者というのは,キリスト教の考え方を自分の信条にしている人のことです。
その人にとっては,神様は「自分の信条(=キリスト教)」を肯定しています。
また同様に,イスラム教信者の人にとっては神様は「自分の信条(=イスラム教)」を肯定しています。
つまり,まず自分の信条があり,「その人の信条を肯定するもの」が「その人にとっての神」です。
似通った信条を持つ人が集まって「宗教団体」ができると,集団の人数分存在するはずの「その人にとっての神」はその集団内において「その人たちにとっての神」として一つに見られるようになります。
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一神教で言うところの,いわゆる「神は唯一である」「唯一神」というような言葉は,このような「その人たちにとっての神」は一つだ,という内容に捉えられがちですが,
私なりの「宗教」や「神」で言うような「(当人にとっての)唯一の神が,一人に一つずつ必ず存在する」というような内容としても捉えられるのではないか,と考えています。
つまりは「(ある宗教を共有する人たちにとって)みんなで共有の神がひとつだけ存在する」のか,「その人にとっての神が,みんなにひとつずつ存在する」のかということでしょうか。
そして「宗教」や「信仰」「神」というものの本質的なところは,後者のようなことではないだろうか,と私は思っています。
宗教って利他なんですよ。たぶん。
貴方は常に「私は」「自分は」と言っていますが、それをやめなさいといっているのです。
利他というのは利己ではないという意味で、他人の利益になることをやりなさいということではないのです。
自分の利益や不利益を考えてはいけないし、他人の利益や不利益を考えてもいけない。
つまり、損得を考えて行動するな、ということです。
「神は唯一絶対である」というのは、人間は唯一絶対ではないという意味です。
人間にはわからないことがあるし、間違うこともある。
人間は間違える生き物だ、不完全な生き物だ、ということです。
もっと言えば、人間は損得を考えて行動する生き物だ、ということです。
まず「私にとっての神」という考え方が間違いです。
「私」がどう考えようが、神はただひとりです。唯一、ですからね。
「私」は不完全で愚かな生き物なので、神はまず「私」に「愚かさを知りなさい」と教えます。
「私は愚か」なので「私が考えること」は「愚かなこと」です。
一神教の神は宇宙の創造者で、人間も創っているのです。
つまり、神が在って、私がいるのです。
神が上で、私が下です。つまり、きれいな上下関係なのですよ。
「唯一」というのは、ただ独りという意味(もあるのでしょうが)ではなくて、
「唯一神のみが正しい」つまり「私(人間たち)は愚か」ということです。
「その人にとっての神が、みんなにひとつずつ存在する」だと、人によって信じる神が違うことも可能になりますから、一神教ではないですね。多神教…かな。
神道は多神教ですし、仏教にはそもそも神なんていませんから、例えば神道の考えでキリスト教の神を理解する、なんてことはできませんので。はい。その辺りが、ごっちゃになっている気がします。気のせいだったら、ごめんなさい。
ふうむ。
わかってきたようなそうでないような。
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senriさんの考え方だと、例えばキリストの教えに触れたとして。
「キリストの教えは、私から見てとても納得できるものだ。この神様なら信じても間違いない。これは信じられる。」というのと、
「キリストの教えは、私にはどうも納得いかん。正直、間違ってんじゃないかなあと思う。でもそれは私(人間)が愚かだからで、神様が言ってるんだからキリストの教えの方が正しいらしい。だから信じよう。」というのはどちらも「信仰」ということでいいですか?
私は前者のあり方が「信仰」だと思うのですが。
キリスト教って、神を信仰しているのか、イエスを信仰しているのか、わからないところがありますよね。
それはさておき。
「正しいと思うから信じる」
「正しいと思わないけど、信じよう」
このどちらも信仰というのか、ですよね。
答えは、どちらも間違いです。
ここで「信じる者は救われる」ということについて、考えてみましょう。
この言葉は、同時に「信じないものは救われない」と言っています。
「私」が「信じる」と、救われる。
「私」が「信じない」と、救われない。
人間の考えで「救い」というものを決めてしまっています。これが間違いです。
「救い」を決められるのは、神だけです。
それなのに、人間の勝手で救われたり、救われなかったりするのは、おかしい。
そもそも神は全知全能ですから、人間の考えることなんてお見通しなんですよ。
…いえ、正確に言えば「すべては神が決めたこと」ということになります。
「私は信じる」という考えは、もうすでに神が決めたことです。
「私は信じない」という考えは、もうすでに神が決めたことです。
だから「私」というのは、ありえないんですね。
そして神は、信じる者を救い、信じない者は救わない。
ということで、結果論として「私」から見ると「信じる=救われる」
もっと言うと「信じる者は救われている」ですね。
ついでに「救い」についてですが。
「救い」は「しあわせ」ではありません。
幸せは人間の都合によって変わるものですから。
例えば、万馬券を当てて喜んでいるときに、隣に宝くじ一億円当てた人が来たら?
なんだかなぁって思いません?
さっきまで喜んでいたのに、一億円の人と比べたら、喜べなくなってしまうんですよね。
自分は何も変わっていないのに、喜んだりがっかりしたりするのです。人間とは、そういうものです。
とにかく、宗教の救いっていうのは、アレですよ。突き詰めて言えば、
「人間は死んだら、どうなるのか」
この問いに対する答えですよ。
死んだらどうなるのかなんて、死んでみないとわかりませんね。
だから、宗教は答えます。
キリスト教は、天国と地獄があります、と答えます。
神は、神を信じる者は天国へ、信じない者は地獄へ行かせます。
救いとは、死んだら天国へ行ける、ってことですね。
え〜。ここで冒頭に戻ってみましょう。
まず「正しさ」は、人間には決められません。
いくら正しい、いや間違っている、と言っても、それはほんとうの正しさではないのです。正しさは神の元にあります。
信じることも同様で「私」が信じる、信じないを決めているのではないのです。
すべては神が決めているのです。
「信じる」ではなく「神に信じさせてもらっている」です。
例えばね「私は正しい」と言っている人間が二人いて、二人の正しさが相反するものだったらどうします?
ひとりの正しさを認めれば、もうひとりは間違っていることになります。
正しさをどうやって決めますか? どうやっても不正なくしては、決められないと思いませんか?
だから、正しさを神に渡すんですよ。
そうすることで、不正がなくなるのです。正しさもなくなりますけどね。あ、いや、正しさは神が持っているので、問題ないですね。
蛇足ですが、キリスト教はちょっと特異で、神はキリスト教徒以外も救うことになっているのです。だから、キリスト教徒から言うと「神は全ての人間を救うって言っているのに、なんで神を信じないんだ」ということになるようです。
…とりあえずここまで。
私の言っていることと違っていることが、最初の部分にあります。それは
> ここで「信じる者は救われる」ということについて、考えてみましょう。
> この言葉は、同時に「信じないものは救われない」と言っています。
の部分です。
論理で考えていただければわかるように、「AはBである」からといって、「AでないものはBではない」とは限りません。
私はコラムでも「すべての人間は救われている」と書きました。信じる者は救われるし、信じない者もまた救われるのです。
で、「救い」という言葉に2種類の意味があるからややこしくなります。ここで書いた意味での救いと、救われていることを自覚することの2つです。これを明確にすれば、言っていることがわかるでしょう。
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そして、また別の話になりますが、相反することについて「私は正しい」と言っている人間が二人いたとしても、本当に二人の正しさが相反するものではありません。その話の前提条件が違っていたり、言葉の定義が違っていたり、あるいは「正しい」の定義が違っていたりするからです。
だから、どちらかを「不正」と決め付けるのではなく、どんな前提が違っていて、言葉の定義がどう違うのかを調べる必要があります。
人間は、思っていることを正確に言葉で伝えることはできません。だから、たとえ言葉が相反するように見えても、思っていることも相反しているとは限りません。そして、重要なのは思っていることなのです。
貴方が言っていることは 詭弁 です。
貴方の論には、まったくと言っていいほど説得力がない。
貴方の論はそんなにおかしくないのに、何故でしょう? 誰も貴方を肯定しないのは。
理由はわかっているのでしょう?
「相反する」…互いに反対の関係にある。一致しない。対立している。 対立する。一致しない。相容れない。
正しさは人によって、また宗教によっても違います。
その正しさは同じものもあれば、違うものもあります。相反さない違いもあるでしょう。相反する違いもあるでしょう。
その中で、相反する違いを前提とした問題を出したわけです。
ついでに言うと、私は風花さんに尋ねたのであって、貴方は答えなくても結構です。
あなたの答えは、よくわかっていますからね。わざわざ尋ねるまでもありません。
いやいや,Iwatamさんの意見も(というか,様々な意見を)読みながらの方が,私は自分の意見をまとめやすくなりますから。
ありがたいです。
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senriさんの「神」「信仰」についての考え方をそのまま私の読み方で読むと,自己矛盾を含んでいるように見えてしまいます。
どこかで読み間違ってるのかな・・・。
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まず自分は愚かなので,自分の考えは正しいか間違っているか分からないが,「神は正しい」ので神を信じますよね。
じゃあ,「神はその教えで何を言おうとしてるか」は人間が愚かであっても分かるのでしょうか?
神の教えを実践するのが人間である以上,そこで「神は○○と言っている」というのを判断するのは人間だと思うのですが。
そして,その判断を正しいと思って実践するんだと思うのですが。
私は,「人間は愚かである」というと,こうした「実践」は神の言うことに沿っているのか,すら分からず,結局何も決断できず,何もできないようになってしまうと思うのです。これを自己矛盾ではないかと感じています。
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そこで,この自己矛盾を含まない考え方を考えると,「自分(人間)の判断で判断してよい」となり,神は「自分で判断しなさい」と言っているのではないかという結論になりました。
よって「自分で判断すること(私の言い方では「自分の信条に従うこと」)」が神の言うことに従っている,神を信じているということに繋がるのかなと。
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senriさんが仰るのは,この「自己矛盾であると感じる」ということが(既存の,特に一神教で言うところの)『信仰』をしてないということであり,『信仰』してればそこに自己矛盾を感じることはないということなのでしょうか。
もしそうであれば,私その定義によるところの『信仰』はしてないし,No.1671でsenriさんが書いたように,私も「くそくらえ」と思います。
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つまり,「既存の宗教団体で言っている『信仰』」と私の思っている『信仰』は別物であって,私は私の『信仰』は肯定するが,既存の宗教団体で言っている『信仰』は否定する,となります。
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「既存の宗教団体で言っている『信仰』」とは,本当にそういうものなのか,という視点は残りますが,これは平行線に終わりそうです。
そうですね。
結局、人間は「自我」を否定できないんですよ。
だから私は宗教を否定し、哲学と心理学を肯定します。…どちらも問題が多い学問ですけどね。
信仰を知りたいのなら、本物の宗教に触れてみるのが一番かと思います。
以上です。
その通りです。そして、自我は神様に由来する、と言っているのです。
私は、なぜここで宗教の否定になるのかがよくわからないのです。
その通り、神は唯一です。
そして、その神様が、みんなの心の中に一人ずつ現れるのです。みんなはそれを「私にとっての神」だと思っていますが、それは実は同じものです。
だから、「私にとっての神」という考え方は、「神は唯一」という考え方とは矛盾しません。
また、私は愚かではありますが、私の中にいる神は愚かではありません。心の中にいる神の声に従って行動しなさいと説いています。だから、「私は」「自分は」でいいんです。神様はそれぞれの人の心の内にいるものなのですから。
哲学で「神とは何か」を考えるには、まず、神とは何かを自分がなんとなく知っていなくてはなりません。
自分がまったく知らない事柄を考えることはできません。そもそも何を考えているのかわからなくなります。
信仰のない人には「神とは何か」を語ることはできません。自分の知らないことは語れませんから。
知らないことを堂々と語ってるあんたは何なんだと(;´Д`)
と言うか前回の信仰について、でずいぶん人が減った悪寒。
人が減れば反応も減るよねー。
元通りに戻っただけさ。
あの反応の多さが異常だった。
みんなそろそろ、iwatamとの言葉遊びにも飽きてきたところかな。
このゲストブック、好きなことを書かせてもらえるけど反応薄いしね。
というか、iwatamのレス自体が煽りと釣りで構成されてるし^^;。
マジレスする人にとってはつらそうな掲示板だよなぁ。
スルーつか、自己紹介じゃないのか、あれ。
iwatam氏自身のことを堂々とコラムに書かれてもねぇ。
まあ一部のサンプルを見て全体を語ってるんだろうなあ、で終了だろうし>ネット右翼
ほんと、Iwatam氏自身に当てはまるよなあ。
過去記事はこちらから: