議論のしかた

ネットで議論をするにはルールがあります。いえ、ネット以外で議論する場合も同じですが。

インチキ科学

議論からは少し外れますが、世の中には「インチキ科学」「似非科学」「擬似科学」と呼ばれる一分野が存在します。あるいは「トンデモ本」と言った方が通りがいいかもしれません。それらの多くはオカルトだったり宗教だったりマッドサイエンティストだったりしていかにもうさん臭いものですが、たまに反戦運動や環境保護運動などの一見まともな運動に入り込むたちの悪いものでもあります。

例を挙げればキリがありません。一般人に身近なところでは「UFO」だとか「霊」とか「超能力」などでしょう。「アインシュタインは間違っていた」とか「アポロは月へは行っていなかった」といったオカルトと関係ない説もあります。「○○健康法」「○○でガンが治る」「マイナスイオンは体にいい」のような医療に関するものもたくさんあります。

インチキ科学がインチキなのは、言っていることが間違っているからではありません。それも間違っているかもしれませんが、悪いのは結論ではなくそこに至る過程なのです。いくら正しいことを言っていてもその論拠がデタラメならばインチキなのです。

インチキ科学を見てみるといろいろと面白いことがわかります。彼らには一定の思考パターンがあります。話の「内容」ではなく、話の「組み立て方」にパターンがあるのです。すなわち、こんなパターンで考えを進めるとインチキ科学になってしまうという実例です。これからそれを少し見ていき、こういったパターンにはまらないように注意しましょう。

自説を証明する

単刀直入に根本原因から話をしましょう。インチキ科学の基本パターンが「自説を証明する」というパターンです。自分の説をまず述べ、なぜそれが正しいのかを述べていきます。もちろん、本の構成として間違ったやり方ではありません。問題は本の構成だけではなく本当にそういう思考の道筋をたどっていることです。

普通の科学では自説は研究によって出来るものです。それに対してインチキ科学の場合は自説は最初に完成していて、それを証明するために研究をします。この違いです。「あれっ?この現象は何だろうな?」とか「この問題は本当のところどうなんだろうか?」ではなく、「この問題の答えはノーに決まっている」というところから始まり「なぜノーなのだろうか」と研究します。本物の科学は疑問から始まります。結論からは始まりません。

どちらかというと、マッドサイエンティストはこの面で正直な人です。「神から啓示を受けた」あるいは「直観が私に教えている」と、出発点がどこかおかしいことを自分から認めているからです。もっと問題なケースは、出発点が神や直観ではなく「常識」から出ているケースです。これは述べている事自体はあまりインチキじみていませんから、何となく納得してしまいます。しかし「インチキ科学」というのは結論の問題ではなく論理の進め方の問題です。だから筋の通った論理がなければどんなに正しい事を言ってもインチキなのです。世の中を見回してみれば、こんな例があちこちに存在します。

ダメなものはダメ

これは「議論不適格」を象徴するような台詞です。自説に凝り固まって周囲が見えなくなった状態であり、相手の言うことを一切聞き入れない姿勢でもあります。政治的議論でよく見かけます[1]

インチキ科学者は自説に対して批判を受けると、できるだけ反論をしようと試みます。しかしもともと筋が通っていないのですからそのうち行き詰まってしまいます。そこで出るのが「ダメなものはダメ」という言葉です。これは一種の降参宣言です。なぜダメなのかが自分でもよくわからないという意味なのですから。

まともな科学者なら、自分のわからない事には「わからない」と答えるでしょう。自説の批判が的外れだと思えば反論するし、反論のしようがなければ正直に「私はその批判に対して反論できません。わかりません」と答えるでしょう。そして自説をもう一度よく検討してみます。しかしインチキ科学者はそんなことはしません。自説は必ず正しいと信じているからです。

なぜ彼らが「わかりません」と言わないのか、それには理由があります。なぜなら彼らにとって「わかる」ということは神の啓示や直観や常識によることだからです。筋の通らないことでも理由なく「わかって」しまうのです。だからいったん「わかった」事が途中で「わからなくなる」事はないのです。ここが問題です。

何事も理由なく「わかって」はいけません。理由があって納得することを「わかる」というのです。「わからない」ことを隠さないでください。それは恥ずかしいことではありません[2]。大事なのは「自分は何がわかっていないか」です。それを教えてくれる人に感謝しましょう。

原因は一つ

世の中のいろんな悪いことの原因はただ一つだと主張すること、あるいは逆にある一つのことによってすべての問題が解決すると主張するのもまたインチキ科学の特徴です。健康食品でこれは顕著です。ガンも心臓病も水虫も、はては嫁姑間のトラブルまである食べ物で治ったりしてしまいます。あなたの家に不幸が続くのも子供の成績が悪いのも家のテレビが突然壊れたのもすべて悪霊のせいになってしまいます。こうした触れ込みはいかにもうさん臭いのでよく目立ちます。

しかし社会的なことになるとこうした考え方をうさん臭いと思わない人が多くなります。現在の日本の不況はすべてアメリカ追従政策のせいだとか、今の日本が平和なのはすべて憲法第9条のおかげだとか、今の若者がだらしないのはすべて携帯のせいだとか。多種多様な原因がからみ合った複雑な現象に対して一つの説明しかせず、それですべてを説明したと思ってしまうことが問題なのです。

ある現象に対して一つの説明しかしないのは問題ではありません。人間にはすべての説明をつくせるほどの能力はないからです。一つの説明「だけ」で十分だと主張するところに問題があるのです。他の説明を寄せつけないのが問題なのです。

なぜこうなってしまうのかというと、問題ではなく結論が先にあるからです。彼にとって問題を解くことはさして重要ではなく、結論だけが重要だからです。彼らにとっては、「今の日本が平和なのはなぜだろう?」という問いの答えなんかどうでもよく、「日本の平和を支えているのは憲法第9条である」という結論だけが重要なのです。彼らはある一つの結論以外のことは頭の中にないので、すべての問題がその結論に導かれてしまうのです。

世の中に知らしめる

インチキ科学者たちは使命感にあふれています。自分の見つけた真理を多くの人に伝えたいと思っています。これはインチキ科学者を見つけるよい指標です。「この真実を多くの人に伝えたい/広めたい」と書いてあったらその先は眉に唾をつけて読みましょう。

ただ、「多くの人から意見が欲しい」というはまた違います。一番いいのは自分の意見を広めなくても勝手に人から意見がもらえることですが、現実にはそうは行かないから仕方なく自分の意見を広める、という態度です。これは正当な欲求です。

つまり、「自分の意見を広める」というのは目的か手段か、という問題です。まともな人の場合は、意見を広めるのは手段で問題の答えを知るのが目的です。それに対してインチキ科学者は既に問題の答えは知っている(と信じて疑わない)ので、意見を広めるのが目的になっています。議論とは人の意見を聞くことですが、インチキ科学者は人の意見を必要としていないのです。彼にとって自説は完璧に正しいものですから。

反例を挙げよ

インチキ科学者は自分の説を批判されるとすぐ「私の説が間違っているというならその証拠を挙げてみろ」と言います。この主張をこう言い換えるともっとインチキ臭くなるでしょう。「間違っているという証拠が出ない限り私の説は正しい」。こういう人に限って、例え間違っている証拠が出たとしてもいろいろな理由をつけて「それは証拠ではない」と主張します。

これは過程ではなく結論を大事にしているから起こることです。ある説が「間違っている」というのは、その説の結論が正しくないということではありません。その説が結論に至る過程が正しくないということです。ですから、結論を肯定することも否定することもその説が正しいかどうかの検証にはなりません。

例えば、「最近の若者の態度が良くないのは皆携帯電話を使っているからだ」という理論があったとしましょう。これに対して「若者の態度は良くないわけではない」とか「皆が携帯電話を使っているわけではない」という反論は無意味です。これではインチキ科学者と同類で過程より結果を重視していることにあたります。本当の問題は二つの事実ではなく、理由なくそれを「〜だからだ」で結んでいるところにあります。「なぜ携帯電話を使うと態度が悪くなるのでしょうか?」と尋ねなくてはなりません。それがこの理論の骨子です。

理論というものは例で補強されるものではなく理屈で補強されるものです。例などはなくても考え方の筋道が通っていれば正しいのですし、逆にいくら例があっても筋道の通っていない考え方は間違いなのです。なお誤解のないように付け加えておきますが、「例を示す」というのは筋道の通った考え方の一つです。例を示さなくていいとか例を示してはいけないというわけではありません。例を示しさえすればいいというのが間違いなのです。

相関と因果関係

インチキ科学は相関と因果関係をよく混同します。「AのときBである」というのは相関関係、「AだからBである」というのが因果関係です。相関関係があっても因果関係がないことはよくあります。

例を挙げましょう。

  • 体重の重い小学生のほうが九九も漢字もよく覚えている傾向にある[3]

  • ドライバーが知らない道で事故を起こす回数より、自分がいつも通っている道で事故を起こす回数の方がずっと多い[4]

  • オリンピックのある年には日本の鉄鋼需要は平均で約0.3%増大する[5]

これらは「相関関係」という意味では正しい説です。しかしこれを「ならば」で結んで因果関係にしてしまうと間違った説になります。その結果を生む隠れた要因があることを無視しています。上のネタにも特徴が出ていますが、こうした論理を使えば同じ論法でほとんどのことが言えてしまいます。オリンピックのある年には鉄鋼需要も交通事故件数も、そして平均年間降雨量すら0.3%アップするのです。そしてそれらは実際のところオリンピックとはなんの関係がありません。

これらの事実が相関関係であるうちは、その説は少なくとも「世間に広める」までの価値はありません。それは答えではなくて疑問にすぎないのです。「なぜこんな相関関係があるのだろう?」という疑問に答えること、すなわちその間の因果関係が明らかになってはじめて意味がある説なのです。

こうしてみると、インチキ科学者の説は因果関係に欠けています。「こういうことがある」というだけで「それはなぜか?」が解明されていないからです。大抵の説では「そこまではまだ解明されていない。これからの課題だ」とごまかしています。因果関係が書いてないのではその説は仮説の域にすら達していません。

中には荒唐無稽な説によって因果関係が勝手に解明されているものもあります。そういう本の方のほうがいかにもインチキ臭いですし、眉に唾をつけて読んでいる限り面白いです。そういう本はよく「トンデモ本[6]」と呼ばれます。本物のトンデモ本は笑って読んでいられます。明らかにどこかがおかしいからです。「それはなぜか?」を無理にでっち上げるのは難題であり、正しいことを書くかムチャクチャなことを書くかしないと「それはなぜか?」に答えることはなかなかできません。

普通のインチキ科学本はそうではありません。彼らは「それはなぜか?」について述べません。「こういう因果関係がある」とだけ述べて、どうしてそんな因果関係があるかを言わないのです。まともな科学「理論」[7]ならなぜそういう現象が起きるのかまでちゃんと書いてあります。間違ったことが書いてあればすぐ気づきますが、何も書いていないことには気づきにくいものです。

ある説がなんか変だと思ったら、理由が書いてある場所を探しましょう。それがなければインチキ科学です。

実験で示す

インチキ科学者は実験が好きです。もちろん科学には実験がつきものですし、学説は実験で実証されなければなりません。しかし本物の科学者の多くは実験を「めんどくさいからできればやりたくない」と思っているのに対して、インチキ科学者は実験が大好きです。

これは、実験によってのみ自分の説が立証されると思っているからです。インチキ科学者はたいてい「俺はこんなかっこい実験装置を作ったぞ」と自信満々で写真を載せます[8]。そしてデータをこれでもかとたくさん載せます。それで自分の説の正当性が高まると勘違いしています。

彼らはなぜ実験をするのかがよくわかっていません。実験とは仮説を検証するためにするものです。そして仮説とは「どうしてそういう現象が起きるのか?」という問いに対して自分なりに答えを出してみたものです。だからまず仮説が立っていない時点で実験をするのが間違いです。そんな状態で実験をしても何も出てきません。念のため繰り返しますが、「どういうことが起きるか」が仮説ではなく「なぜ起きるのか」が仮説です。

仮説ができてもまだ実験はできません。仮説の次にするのは実験計画です。つまり何を実験すればその仮説が実証できるかを考えることです。しかし因果関係を実証するのは困難な作業です。何かを測定してもそれは相関関係にしかならないからです。「AだからBである」を実証するには、「Aの時Bだった」に加えて、「他の要因Cは入っていない」ということを言わなければいけません。そしてこれがなかなか難しいのです。

というわけで、まともな科学ならば実験結果の前に書いてあることがあります。その実験がどんな仮説を証明するためのもので、どのような条件を整えてそのデータを取ったかです。つまりは実験データを出した時に「なぜその実験データからその結果が読み取れるのか」を説明できるものです。インチキ科学にはそんなものはなく、ただ自説によるものと同じ結果が出たかどうかしか問題にしません。

明確な違いは、これらの研究を一般人にわかるような新書にする時に現れます。つまり、自分の研究を省略してエッセンスだけを抜き出さなければならないとしたらどこを抜き出すかです。まともな科学書なら実験結果は省略して理論とその理由付けだけを抜き出します。一般の人に実験結果を示して自分の説を検証してもらう必要はないからです。検証はもう済んでいますし、実験結果のグラフを一般の人に見せてもわからないだろうからです。なぜ結果のグラフがなくても信じてもらえるかというと、その代わりに筋の通った説明があるからです。

インチキ科学は実験を大きく載せてその実験の意味や理由を省略します。なぜそこまで実験に意味があるかというと、理論やその理由付けがないかあるいはいかにもヘンテコで、それだけ述べたのでは確実に否定されるからです。だからいかにも自分の説を肯定してくれそうな実験結果だけを見せるのです。

実験結果のグラフだけからは専門家ですら読み取るのが難しいものです。いや、専門家ほど「グラフだけからは何もわからない」と言うでしょう。どういう実験をして出たグラフなのかがわからないからです。そしてそれに対しては実験の様子をいくら描写されてもやはりダメです。問題はそこで描写されてないところにあるからです。実験を検証するには、「何をしたか」だけではなく「何をしていないか」も重要になります。それは言い尽くすことができません。つまり、実験データは基本的に信じるしかないのです。

一般向けの解説書では実験データをたくさん載せている本ほど信用できません。データそのものには何の意味もないということがわかっていないという証明にしかならないからです。聞き手が評価するのはデータそのものではなくその根底にある考え方です。事実だけをいくら述べても何の足しにもなりません。

反論してはいけない

正義感が強い人はインチキ科学によく反論します。しかしこれは非常に危険です。今までに述べた「インチキ科学」の論理がほとんどそのまま「インチキ科学批判」にも当てはまるからです。

まず出だしからしてよくありません。「この説はインチキであることを多くの人に広めたい」という正義感はインチキ科学と同類のものです。広めることを強制してはいけません。心配はいりません。説得力のある正しい説であれば自然に広まります。「見ろ!」と押しつけるより、ちょっと見てみる?嫌ならいいんだよ」と言った方が人は見たくなるものです。人をもっと信用しましょう。

インチキ学説が「間違いであることを証明する」という態度では落し穴にはまります。なぜなら、インチキ学説のほとんどは間違いではないからです。単に不完全なだけです。どうしようもなく不完全かもしれませんが、間違いではないのです。あなたはそれを否定するだけの材料を持っているでしょうか?ある説を否定することはそれを肯定することよりずっと難しいことです。

例えば、「マイナスイオンは体にいい」というインチキ学説があったとします。それに対して「マイナスイオンは体にいいわけではない」と反論するのはよくありません。あなたは本当にそれを実証するような証拠を持っているでしょうか?もしそういう証拠を持っていないのでしたら、正しくは「マイナスイオンは体にいいかどうかはまだわからない」と言うべきです。言い換えると「そのインチキ学説では、マイナスイオンは体にいいということを肯定する材料にはならない」という意味です。その学説の真偽を正すにはマイナスイオンが本当に体にいかどうかという事実はある意味どうでもいいのです。そうではなくその学説の思考回路の誤りを正す必要があります。ただやみくもに「マイナスイオンは体にいいわけではない」と主張するのでは、言っていることが反対なだけでインチキ科学者と同じ思考回路です。

「間違っているという証拠が出ない学説は正しい」というのがインチキであるのと同様に、「正しいという証拠が出ない学説は間違っている」というのもインチキです。学説の正しさは証拠があるなしで決まるものではありません。正しいという証拠がない学説は間違っているのではなく、正しいか間違っているかよくわからない無価値な説です。「間違っている」ではなく「無価値だ」と言わなくてはならないのです。

インチキ科学に反論するには、まず「こんなものは間違っているに決まっている」と思って否定材料を探しながら読むのではなく、「もしかしたらこれは正しいのかもしれない」と思って読まなくてはなりません。そうすればきっと正しい部分とおかしな部分の両方が混在することに気がつくでしょう。まず正しい部分を抽出しましょう。その後でおかしな部分を述べてそれを正してもらいましょう。頭から最後まで正しい部分が一つも見つからなかったとすれば、それはきっとあなたに見る目がないからです。

多くのインチキ学説は実はたいしたことを言っていません。「マイナスイオン」のように珍しい言葉を使うから何やらインチキ臭いだけで、よくよく検討してみると「乾燥状態より湿度があった方が快適だ」という程度の当たり前の事しか言っていないことがほとんどです。だから「間違いだ」と言うとハマるのです。彼らの言う事を良く聞き、それが何を言っているのかを理解して、それを自分の言葉で表現しましょう。そして「うんうん、あなたの言っていることは正しい」と言いましょう。

まとめます。インチキ科学を否定するのもまたインチキです。肯定だ否定だと論争しているのは結局同じ穴のムジナです。正しいかどうかという対立から一度離れて、「それは意味のあることか」を考えてみることが必要です。

インチキ科学者への対処

インチキ科学者とは議論になりません。なぜなら相手は議論をしようなどとは思っていないのですから。そして議論の場では人に何かを強制することはできませんから、相手に無理やり議論をさせることはできません。だとすればどうしたらいいのでしょうか。こんな問題に出くわしたら、まず「自分はこんなインチキ科学者と何をしたいのか?」を見つめる必要があります。そうすれば対処法が見えてきます。

もしかしたらあなたは「彼の間違った考え方を正したい」と思っているかもしれません。しかしそれはよくありません。自分の理論の方が正しく相手が間違っていると一方的に決めつけて相手の口に無理やりそれを押し込むのではあなたもインチキ科学者の仲間入りです。

「議論に加わっている他の人が彼のインチキ意見を信じてしまわないかどうか心配だ」というなら、あなたが相手にすべきはインチキ科学者ではありません。それを聞いている他の人を相手にすべきです。インチキ科学者と直接議論してはいけません。なぜなら議論にならないからです。

二人の論争がまったく議論になっていない場合には、戦いは相手に分があります。相手は議論のルールなどをはなから考えずルール無用のデスマッチを仕掛けてくるからです。どちらかが死ぬまで結論がつきません。そして相手はあなたの意見をまともに受けてもさっぱり効かないゾンビのような体なのです。なぜ効かないのかというとあなたの意見をまったく聞いていないからです。だからルール無用のデスマッチではあなたが負けるかあるいは戦いが果てしなく続くかのどちらかです。インチキ科学者側が負けることはあり得ません。そして観客は「あの科学者が勝った。彼の方が正しい」と思うか「どこかのバカが下らない議論をふっかけている。無益な議論に巻き込まれているあの科学者がかわいそうだ」と思うかのどちらかです。つまりあなたの目的は達成されるどころか逆に働きます。

もしあなたが本心からインチキ科学者と議論をしたいのであれば、彼の言うことをまずすべて聞いて受け入れなくてはなりません。あなたの主張ははさまず、相手の主張だけを検討してより正確に言い直していくことです。そうすればその理論は納得できる当たり前の事実の連なりに集約されるか、あるいは神の啓示に集約されます。後者になってしまった場合はもう放っておくしかありませんが、それと同時にそのバカさ加減も明らかになります。

ほとんどの場合、インチキ科学には理由が足りません。超能力を主張している人に「テレパシーなんてないんだ!」と頭から否定しては喧嘩になって終わりです。しかし、あなたが真剣に彼の意見を聞いていれば、頑なな態度は改まって「どういう原理で人と人との間にテレパシーが伝わるのかはまだよくわかっていない」と本心を打ち明けてくれるでしょう。そうしたら「それを発見してこそ偉大な理論になるのです。あなたの理論はまだ不完全で、発表するには機が熟していないのではないでしょうか」と言っておけばいいのです。そして彼が本当にその原理を発見したらそれは素晴らしいことですし、飽きて研究をやめるかあるいは志半ばにして倒れるかしてもまあそれはそれで害のないことです。

最後に、「相手にしない」という選択肢もあります。相手の態度にいら立ちを感じたらこの選択肢を考える時です。なぜあなたはわざわざ相手をしなくてはいけないのでしょう?特に理由がない限り放っておけばいいのです[9]

相手のインチキ科学をそのまま考えるのではなく、一段高い視点で見るのもためになります。つまり「なぜこの人の言うことはここまでうさん臭いのだろう?」と研究することです。それはつまり今ここでやっていることです。

まとめ

インチキ科学は慣れれば内容を検討しなくても見分けがつきます。彼らの主張が正しいか間違っているかの問題ではありません。論理に筋が通っているかどうかの問題です。相手の主張の裏付けや反証をわざわざ調べなくても、論理の流れを分析するだけでインチキ度はすぐわかります。

問題が先にあって研究した結果答えが出てくるのではなく、答えが先にあってそれが正しいことを実証するというのがインチキ科学の基本パターンです。こう書くとインチキ科学は珍しいものではありません。多くの議論で当てはまります。

しかし、インチキでなければ正しいというわけでもありません。どこかでデータの取り方や解釈に間違いがあるかもしれないからです。しかしインチキ科学でなければ一緒に議論をすることができます。まともな相手ならば理論の裏付けや反証をちゃんと検討してくれるでしょうから、その苦労もきっと報われます。

インチキ科学かどうかを見極めるのは、それが正しいかどうかではなく、それが正しいかどうかを考えてみる必要があるかどうかを見極めるためです。つまりスパムメールの中身を読まずにタイトルだけを見てゴミ箱に放り込むという行為に相当します。たまに間違えてまともなメールをゴミにしてしまうこともありますし、タイトルだけではわからず内容も見てみたらやっぱりゴミだったとわかることもあります。しかしタイトルだけでも高確率でゴミかどうかがわかりますから、処世術としてはこうした能力も必要でしょう。そしてあなたがメールを送る側に立ったとしたらスパム扱いされるようなタイトルのメールは送らないことです。自分も同じような事をしないよう気をつけましょう。

インチキ科学者と議論しようとしてはいけません。それはあなたの貴重な人生の無駄使いであるばかりでなく、自分もまた彼らと同レベルになるということだからです。彼らと同レベルに降りて内容の議論をするのではなく、彼らのものの考え方について研究しましょう。そうすればどんな事をするとインチキ科学になるのかがわかります。


  1. どこかの政治家もこれを言ったように。さらにその政治家はそれが「ダメの見本」であることすら気づかずに得意気に吹聴してまわりました。 ↩︎

  2. わからないことより、わからないことをバカにしたり非難したりする方がよっぽど恥ずかしいことです。 ↩︎

  3. 一応タネ明かしもしておきます。「小学生」には1年生も6年生も含まれているからです。 ↩︎

  4. 知らない道を通る回数よりいつも通っている道を通る回数の方がずっと多いからです。 ↩︎

  5. 一応これもタネ明かし。オリンピックのある年はうるう年なので1年が約0.3%長いからです。 ↩︎

  6. 今ではインチキ科学の代名詞のように使われていますが、もともとの意味は「その本の主旨以外の角度から見て面白い本」です。インチキ科学本のほとんどは面白くもなんともないただのインチキです。 ↩︎

  7. 「理論」でないのならこうした事も非科学的ではありません。学会ではよく「こういうことがあった」という相関関係や仮説だけが発表されますが、それがインチキでないのは「こういう因果関係がある」という断定的なことは言わないからです。 ↩︎

  8. もしかして自分のことかとショックを受けている方もおられるかもしれませんが、おそらく大丈夫です。特に工学系の人は。工学では実験装置を作ること自体が研究だからです。これ以降の話も「科学」の話であって「工学」の話ではありません。 ↩︎

  9. もし特別な理由、例えば上司がそうだとか自分のプロジェクトがそれでつぶれかかっているというようなことががあるとしたら……ご愁傷様ですとしか言いようがありません。 ↩︎