議論のしかた

ネットで議論をするにはルールがあります。いえ、ネット以外で議論する場合も同じですが。

感情論

感情論という言葉を聞くとどうしても「感情」が問題だと思いがちです。「感情論ではなく論理性を重視しろ」と言うと、無機質で暖かみがなく、つまらない机上の空論を思い浮かべがちです。そうではありません。感情があるのが問題なのではなく、論理性がないのが問題なのです。

多くの日本人は「論理では伝わらない」「心をこめた感情は伝わる」と思っています。これが間違いのもとです。いくら感情を込めても伝わらないものは伝わりません[1]。想いを確実に伝えるには言葉、もっと言えば論理によるしかありません。少なくとも議論の場はこういう前提にたっています。言葉の力をもっと信用して下さい。

感情論とは何か

感情論は議論の場では有害なものですが、しばしば遭遇します。参加者の多くは「感情論とは何か」がわかっていないからです。もちろん「感情にかられた主観的な議論」という字義は皆わかっています。しかし実際の発言を見てどれが感情論かを見分けることができないでいるのです。

まずは例を見て下さい。次の例のどっちが感情論でしょうか?

北朝鮮はテロ国家である。日本人拉致問題など数々の問題を起こし、条約を破棄して核開発を進めている。過去に言った事は何一つ守らない。こんな国家は放っておくとのさばるだけだ。このような国は先制攻撃で叩き潰すべきだ。

私はどんな事があっても戦争はいけないと思います。ましてや、北朝鮮の国民のほとんどは虐げられたかわいそうな人々です。私達がすべきことは破壊ではなく対話ではないでしょうか。

内容に問題があるのは前者かもしれませんが、感情論なのは後者です。なぜなら、「思います」「かわいそう」というような感情を表す言葉が使われているからです。だから客観的な論議ではないただの感情論なのです。ついでに言えば「〜である」と言い切らないで「〜ではないでしょうか」と疑問形にしているのも、発言をより主観的に見せています。

前者の発言の骨格だけを抜き出すと「○○である。なぜなら△△だからだ。だから□□になる。よって××すべきだ」と、きちんとした論理に従っています。それに対して、後者の発言は「○○だと思います。△△です。××ではないでしょうか」と、自分が思っている事柄だけを述べています。言っている事に論理のつながりがなく、単に自分の思っている事をいろいろ並べてみただけです。だから感情論だと言われるのです。

議論の場で「思う」「信じる」「好き/嫌い」というような主観的な言葉は使ってはいけません。代わりに「考える」や「である」を使って下さい。これらの言葉を使ってみると、「なぜなら〜」と理由を述べないと格好がつかない事がわかるでしょう。それに対して「思う」「信じる」には理由がいりません。だから客観的な議論には良くないのです。

繰り返しになりますが、「北朝鮮とは対話を重視すべきだ」という意見を書きたかったら、「北朝鮮とは対話を重視すべきだ」と書いて下さい。「私は対話を重視すべきだと思う」と書いてはいけません。後者は主観的な文であり、感情論です。

「である」を多用するとどうしても語調が激しくなり、それを「感情論だ」と批判する人が出てきます。しかし「語調が激しい=感情論」ではありません。事実はその逆です。感情論とは「自分の思った事だけを言い、理由を言わない議論」のことです。理由を言わないから他の人にわかってもらえないのです。そして他人が理解できない発言だから議論には有害なのです。

感情的な発言

Aさんの言い方は少しひどすぎやしないでしょうか?同じ事を言うにしても、もっと穏やかな言い方もあるでしょう。議論の場で感情的になるのはやめて下さい。

議論では発言の内容だけが問題です。言い方は問題ではありません。だから、発言の内容ではなく言い方に対して意見をつけるのはルール違反です。この場合、感情的になっているのは相手ではなくこの発言者の方です。なぜなら相手にはその気がないのに自分だけ感情を問題にしているのですから。感情論になっているのはたいてい「感情論だ!」と叫ぶ方なのです。

感情を問題にしてはいけないのは、それが理性的でなく反論の余地を与えないからです。「お前の意見で感情を害した」なんて言うのはちょっと肩を触っただけで難癖をつけるヤクザと一緒です。そんな人にははっきり言いましょう。「人の意見で勝手に感情を害するお前が悪い。そんなに人の意見を見るのが嫌なら議論に参加するな」と。上のような意見を言う人は議論の場から退場処分にしましょう。

決めつけ

「自衛隊は合憲だ」などと勝手に決めつけないでください。あなたが勝手にそう思っているだけです。

もちろんです。「自衛隊は合憲だ」という文は、「私は自衛隊は合憲だと思う」という文の省略形です。議論では発言の主語は「私」に決まっていますし、自分の思っていることしか言うことはできません。だから議論では当然のこととして省略するのです。

「勝手にそう思っているだけ」というのはその通りです。議論とは参加者が自分勝手に思っていることを言う場です。そんな当たり前のことをわざわざ言わなくてもよいでしょう。勝手な決めつけを意見として言うことができないとしたら代わりに何を言えばいいのでしょうか?私には見当がつきません。

人は「自分が勝手にそう思っていること」しか言うことができません。人は「正しいこと」を言うことはできず、「正しいと思っていること」しか言うことはできません。自分の発言が勝手な思い込みではなく普遍的に正しいなどと思うのは思い上がりです。

そんなうぬぼれ屋さんはそうそういませんから安心してください。皆、勝手にそう思っていることを「〜だ」と決めつけて言うのです。逆に「〜だと思う」とわざわざ言うということは、「この発言は自分の勝手な思い込みだけど他の発言はそうではない」と言っているのに等しいことです。こんな事を言う人の方がずっとうぬぼれ屋です。

コミュニケーション不全

あなたは人の意見をちっとも聞こうとしていません。むやみに自説を唱えるだけではなく、人の意見も聞かなくてはなりません。そんな態度では他の人とコミュニケーションをとることはできません。

この発言を議論の時に議論の当事者に言ってはいけません。それはそっくりそのまま自分に返ってきます。一般論ならいいのですが、「あなた」と名指しするからいけないのです。

コミュニケーションとは人と人との対話であり、どちらか一方に問題があればコミュニケーションは成り立ちません。コミュニケーションが成立しない原因はもしかしたら相手ではなく自分にあるのかもしれません。相手はきちんと人の話を聞いて自説を修正しているのに、自分の方が勝手な思い込みで「自説を唱えるだけ」だと決め付けているのかもしれません。自分の方が悪いのかもしれないと考えずに、相手が悪いと一方的に決めつけるのはよくありません。

問題の根本は「コミュニケーションはとれて当たり前で、とれないのは悪いことである」という考え方です。コミュニケーションとはそんなに簡単なものではありません。人の意見を聞くというのは、自分の意見との落差が大きいほど難しいことです。しかし落差の大きい意見ほど聞く価値があります。価値のあるコミュニケーションほど難しいのです。もしあなたが他の人と容易にコミュニケーションが取れているとしたら、それはあなたが容易にとれるような価値の低いコミュニケーションしかしてこなかったからです。

「人の意見を聞かなければならない」とその当事者に向かって言うのは、「俺の意見を聞け」という命令と同義です。議論の場では自分の意見を聞いてもらう必要はありません。意見など必要ないと思っている人に意見を押しつけるべきではありません。相手の意見を変えようなどと思うのはもってのほかです。あなたには人の意見を変える権利はありません。自分の意見を変えられるのは自分だけです。

自分の意見を相手に押し付けてはいけませんし、そんなことをする必要はどこにもありません。相手が望まなければ、相手が話し役であなたが聞き役の一方向でもいいのです。あなたは「自分ばかりいろいろと教えてもらってなんか申し訳ないなぁ」と思うかもしれませんが、相手がいいと言っていればそれでいいのです。

あなたがもしその人の意見を聞きたくないのなら聞かなければいいのです。もしあなたも相手も互いの意見を聞きたくないのであればそこで議論は終わりです。そして議論は終わりにしていいのです。無駄に議論を続ける必要はどこにもありません。

言葉のウラを読む

あなたの意見は、冒頭に「非難の意図はまったくない」と書いていながら、全体的に私の意見を非難しているようです。言葉の端々にそれが見受けられます。

議論では意見の字面だけが勝負です。「非難の意図はまったくない」と書いてあれば文字通り非難の意図はまったくないのです。そこに勝手に意図を読み取るのは単なる被害妄想です。

こういう人は例え本人が「いや、そんなつもりは全くない」と何度言っても勝手な意図の読み取りをやめようとしません。向こうが勝手に読み取って文句をつけてくるのですからこちらとしても何ともできません。「被害妄想」というのはそんなものです。単なる妄想なのですから。こういう人には「勝手な妄想だ」ときっぱり言いましょう。そして「どこから非難の意図を読み取りましたか?」と聞いてみましょう。そしてあまりにも続くようでしたら相手にしないことです。

もちろん自分が妄想に取り憑かれないように注意することは言うまでもありません。相手の言った事を自分の都合のいいようにゆがめず、その通りに受け止めましょう。発言の真意を考えてはいけません。相手は真意なんて何もなく、単に自分の意見を理解してほしいだけなのです。そもそも議論は相手を負かすものではないので、相手を策略にはめて陥れる必要性なんて全くないのです。相手があなたに害を加える意図はまったくないのに勝手にそう思い込むことが「被害妄想」なのです。

曲解

私はそんな事は一言も言っていない。私の言ったことを勝手に曲解するな。

自分の発言の真意が相手に伝わっていないというのは非常に残念な出来事です。しかしそれは相手の責任ではありません。自分の発言が分かりにくかった事が原因です。だから責めるべきは相手ではありません。

「あなたの意見は理解不能」と言われたり、あなたの言うことを間違って解釈された時は、あなたの説明が足りなかったのです。もっと詳しく説明してあげて下さい。自分が簡単で当たり前だと思っていることほど説明するのが難しいものです。そして当たり前だと思い込んでいることほど実はそんなに当たり前ではなかったりもするのです。自分の考えを見直してみる良い機会です。

相手が曲解していると思ってはいけません。なぜなら曲解する理由がないからです。あなたの意見をわざとゆがめて解釈しても相手には何の得もありません。だからそんな事はするはずがないのです。あなたの意見を正しく理解しようと必死なのですから、ありがたいと思って説明しましょう。

説明が理解できないという場合、多くは理由が抜けています。答よりそこに至る過程の方がずっと重要なのです。いくらいい事を言っても「なんとなく」とか「直観で」という理由ならその価値はゼロです。それはすなわち、その答が自分でも理解できていないという事なのです。

謝罪要求

Aの「侵略戦争などなかった」という発言は、激しく事実誤認であり、韓国の人々の感情をないがしろにするものである。即刻謝罪を要求する。

議論の場では謝罪要求はしてはなりません。もし事実誤認があるなら、「どこがなぜ事実誤認なのか」をきちんと説明した上で、「訂正要求」をしましょう。それを受ける側はもしそれが正当なものだと認めたなら、感謝の気持ちを持って訂正に応じましょう。そして発言はなかったことになるのです。

たったそれだけのことに対して「謝罪」を要求するのは行き過ぎです。はたして間違うのは「罪」でしょうか?確かに間違いは良くない事ではありますが、罪とまでは言い切れないのではないでしょうか?せいぜい「過失」程度の話でしょう。だから「私の意見は間違っていました。訂正します」で済む話です。

もう一つ、上の意見を出した人は、自分が何に対して謝罪を要求をしているのかを考えるべきです。議論の本筋から言いますと、この場合の罪とは「事実誤認の発言をした事」であり、それで迷惑をこうむったのは「間違いを添削する羽目になった上の発言者」です。だから謝罪というのは「私の間違いのおかげであなたにわざわざ訂正していただく羽目になりました。申し訳ありません」という謝罪になるはずです。とすると、上の発言には違和感があります。韓国の人の感情なんて関係ないのではありませんか?悪いのは「事実誤認をした事」であり「感情をないがしろにした事」ではないのです。議論とは関係ない事を持ち出して相手の事をことさらに悪く言うのは良くありません。

本来なら「感情をないがしろにする」というのは状態ではなく行為です。だから相手にその気がないなら、同じ事を言ってもそれは感情をないがしろにする行為ではないのです。「侵略戦争などなかった。あれは日本が東アジアの国々を解放したのだ」という発言ならこう非難されても仕方がないかもしれませんが、「侵略戦争?アタシその頃生まれてなかったからよく知らないけどー、そんなんなかったんじゃない?」という発言なら単なる無知であり、「感情をないがしろにした」とまでは言えません。

なぜこんな事を言うかというと、謝罪要求は発言の自由を奪うからです。「侵略戦争はなかった」という発言に対して、何も考えずに反射的に「謝罪を要求」していませんか?これは「『侵略戦争はなかった』と発言するのは罪である」と言っている事と同義です。これこそ言論統制です。

議論では「侵略戦争はなかった」と発言するのは事実誤認であり、「知らなかったんです。ごめんなさいね」ですむ話です。「一つ勉強になったね。よかったね」ですまされる話なのです。だからこそ、自分の発言が知らないうちに罪を犯しているんじゃないかという心配もなく、自分の思う所だけに従って自由に発言できるのです。

謝罪教唆

お前は納得してないのかもしれないけどさ、「ごめんなさい」と一言言えばいいんだよ。簡単なことだろ?それで相手は納得するんだからさ。それで丸く収まるんだから、皆のためにそうしてくれよ。

私はこの発言をこれまでで一番悪いものだと考えます。なぜなら「真実を語るな。嘘をつけ」と言っているのですから。もちろん納得したなら「ごめんなさい」と言えばいいのですが、納得していないなら「納得していない」と言うべきです。自分に嘘をついてはいけません。

「ごめんなさい」と一言言うのは簡単なことです。だから皆そこに逃げたがります。しかし議論というのは納得できない事柄をとことんまで聞き合うというのが基本原則ですから、納得していないのに納得したと発言するのは議論に対する背信行為なのです。そんな人に議論をする資格はありません。そして上の発言も同様に議論の精神を軽んずる発言です。この人も議論不適格者です。

だいたい、本心ではないうわべだけの「ごめんなさい」に意味があるのでしょうか?嘘の発言には何の価値もありません。そんな事で納得する人を見るとガラス玉の指輪をもらって喜んでいる無邪気な子供たちを連想します。無意味な言葉を要求する人も、それに答える人も、それをもらって喜んでいる人も同罪です。言葉の価値がわからない人です。

「価値ある言葉」とは難しい事ではありません。強制されたものではなく自分の本心から出た言葉、自分で考えた言葉、自分が納得のいく言葉、つまりは自分の言葉であれば何でも価値があるのです。逆に、人から無理やり強制された言葉では価値はゼロなのです[2]。無価値な発言を自分でしないのは当然として、それを他人にさせないようにしましょう。

上のような例では、「形式的に謝れ」というのではなく相手に謝る理由をきちんと説明して納得してもらわなくてはなりません。あなたはその人に謝る理由をちゃんと説明できますか?もしできないとしたら、あなたは無実の人に「謝れ!」と強制するという大罪を犯していることになるのです。

最後に。議論の場が「丸く収まっている」状態というのは、どこからも意見や質問や反論が出ない状態、すなわち死んだ状態です。議論の場を殺さないで下さい。

まとめ

感情ほど不確かなものはありません。超能力者でない限り自分の感情をそのまま相手に伝えることはできませんし、相手の感情を知ることもできません。知ることができないはずの感情を勝手に決めつけ、それを一番良く知っているはずの相手に向かって言うところからトラブルは始まります。そこまではまだ許されます。それに対して相手が否定しても無視するのがいけないのです。自分の心の内は自分が一番良く知っているはずです。相手の感情を相手より良く知っている思い込むのは単なる錯覚です。

言葉の力と相手の熱意をもっと信用してください。感情などというあやふやなものを持ち出さなくとも言葉だけで十分伝え合うことはできます。感情を言葉にしなくても伝わるという事ももしかしたらあるかもしれませんが、少なくとも確実ではありません。言葉だけを考える方がずっと確実です。


  1. 「感情を込めれば伝わる」というのは自分と相手が同じ感性を持っている時です。そしてそういう時には別に感情を込めなくても伝わるのです。 ↩︎

  2. あくまで人の意見の受け売りでも、自分で納得がいけばそれは「自分の言葉」です。 ↩︎