議論のしかた

ネットで議論をするにはルールがあります。いえ、ネット以外で議論する場合も同じですが。

「正しさ」の問題

議論は「何が正しいのか」を皆で考えていく場です。しかし、「正しさ」というのは案外あやふやなものです。「俺の意見が正しい。お前の意見は間違っている」と言う前に、「正しい」「間違っている」という事柄の性質について考えてみましょう。

まずはそもそも「正しさ」あるいは「正解」というのは存在するのかどうかという話をします。これには3つの主義があります。それを順に見ていきましょう。例として「神はいるのか」という難しい問題を考えてみます。

絶対主義

「どんな問題にも必ず正解は一つ存在する」という考え方が「絶対主義」です。「神はいるのか」という問題に「いる」と答える人は絶対主義です。同様に「いない」と答えるのも絶対主義です。つまり、必ず一つの結論が出せるという考えが絶対主義なのです。

結論が1つでなく2つであっても同様に絶対主義です。例えば「神はいる。しかし神無月にはいなくなる」というのは、「いる」という結論と「いない」という結論と両方書いていますが絶対主義です。どういう時にはどの結論になり、どういう時にはどの結論になるかがしっかり書いてあれば、それはそれで一つの答だからです。

虚無主義

「正解が存在しない問題もある」という考え方が「虚無主義」あるいは「ニヒリズム」と呼ばれるものです。例えば「神はいるのか」という問題に答える事はできないという立場です。虚無主義者は、「正解はないのだから、正解を考えるのは無駄だ」と主張します。

絶対主義者が「神はいる」「神はいない」と議論を繰り広げているのを、彼らは横目であざ笑いながら見ています。「何を無駄な議論をしているのだろう」と。正解のない問題をあれこれ議論しても得るものは何もないのです。

普通は虚無主義者は議論には参加しません。議論は無駄だと思っているからです。しかしまれに他の人が議論をしている間に割って入って「議論なんて無駄だ」と言い始める人がいます。虚無主義者ならば、「議論なんて無駄だ」と言うこともまた無駄な事である事を自覚しなくてはなりません。

結局のところ、虚無主義者は議論に参加してはいけません。議論そのものを否定しておきながら議論に入っていこうという態度はよくありません。虚無主義の立場をとるなら議論は無駄なことです。

相対主義

「正解は無限に存在する」という考え方が「相対主義」です。言い換えると「正解というのはその人の立場やその場の状況に応じて決まるものであり、絶対的に決まるものではない」という立場です。「神はいるのか」という問いに対しては「キリスト教にはキリスト教の神が、ヒンズー教にはヒンズー教の神が、神道には神道の神がいる」と答える人が相対主義です。そして暗に「仏教もゾロアスター教もマニ教も道教も無神論も、というように立場は無限にあるが、これらすべてについて答えを言いつくす事はできない」と言っています。

相対主義はよく虚無主義と間違われます。「絶対的に決まるものではない」というのを「正解は存在しない」と言っているものと勘違いされるからです。相対主義者は、「正解は相対的に決まるものだ」と言っているだけで、「正解は存在しない」とは言っていません。「相対的に決まる」というのはすなわち、「○○に対しては××」「△△に対しては□□」というように、前提とそれに対する結論のペアとして存在する、という主張です。そして前提は無限にあるから、それに対する結論も無限にあるというのが相対主義です。

3主義の比較

絶対主義と虚無主義は正反対の考え方であり、片方を受け入れてしまうともう一方は受け入れることはできません。しかし相対主義は絶対主義と虚無主義を両方とも半分ずつ否定しています。絶対主義に対しては「正解は一つではない」と言い、虚無主義に対しては「正解はある」と言っています。逆に、絶対主義を「正解はある」と肯定し、虚無主義を「正解を言いつくすことはできない」と肯定しています。

相対主義には、絶対主義にも虚無主義にもない「無限」の概念が入っています。これが問題をややこしくしています。人間は無限の扱いには慣れていないからです。言い表す事ができないものを「ある」と言ってしまっていいのでしょうか。前に「正しいかどうかではなく納得できるかどうかで判断すべきだ」と書きました。これに沿って言えば、相対主義は「正解を納得いくように説明することはできない、しかし正解はある」と言ってしまっています。これは問題です。

結局のところ「無限の時間をかければ説明することができる」というのを「説明できる」ととるのか「説明できない」ととるのかの問題です。そしてこの問題に対して「どちらとも言えない」というのが相対主義の立場です。

言葉と意味

さて、そもそも「意見が正しい」ということを考えるには、その意見が何を言っているのかを考えなければなりません。例えば、現在では我々はなにげなく「パソコンを使うとインターネットができる」と言います。しかし、これは本当に正しいでしょうか?

これを考えるには、まず「パソコンとは何か」を考えないといけません。ソニーのVaioやIBMのThinkPadなどはパソコンでしょう。ではNECのPC-9801シリーズはどうでしょう?もしそれがEやFやVMだったとしたら?FM-8やMZ-80Bはパソコンでしょうか?インターネットなんてもののなかった大昔のパソコンでは(当然のことながら)インターネットはできないのです。我々は「パソコン」という言葉から、ごく一般的なパソコンというものを想像します。しかし、各人が想像する「パソコンというもの」は微妙に違ったり、時には大きく違ったりします。

だったら、言葉と意味の対応表を作ればいいと思うかもしれません。「パソコンとは今現在売られている、Windowsが走るような一般的な機種のことです」と決めればいい、と誰しも思います。しかしこれにも限界があります。例えばネットワークインターフェースが壊れていたらインターネットはできません。パソコンという言葉の意味を定めても、その意味に対して重箱をつつくような相違を持ち出して「パソコンでインターネットすることはできない」を導くことができる反論を作ることができてしまいます。これは、言葉と意味の対応表は言葉でしか書けないからです。我々は頭の中にある概念をそのまま相手に伝達するようなテレパシー的伝達手段は持っていません。必ず言葉や図などの「表現」を介して伝えなくてはなりません。表現を介して伝える以上、本来の意味とはどうしてもずれが生じてしまいます。

公理

「パソコンを使うとインターネットができる」という意見において、「パソコン」という言葉の意味を変な反論のないように定める方法があります。それは「インターネットができないものはパソコンとは呼ばない」と決めてしまうことです。こうすれば異論は出ようはずがありません。

意味を決めるのに「パソコンとは何か」と問うからいけないのです。「パソコンはどういう性質を持っているか」と問えばいいのです。すると、パソコンという言葉の意味は、パソコンが持っている様々な性質を重ね合わせたものになります。パソコンに対して何か質問がされた時には、我々が持っているパソコンの性質データベースの中からその質問の答えを探せばいいのです。

これだけでは、我々は既に答えを知っている質問に答えることしかできなくなってしまいます。答えられる質問の幅を広げるのが「推論」です。「Windows XPが動くパソコンならばインターネットができる」という知識を使って、そのパソコンでインターネットができることを直接知らなくても、OSがWindows XPであることを知っていればインターネットができると結論を下すことができます。

言葉は単なる記号ですので、言葉の意味をあれこれ考えても無駄です。言葉を並べて文にして、その正しさを定義してはじめて意味が出てくるものです。言葉の意味は皆で決めるしかなく、その意味が正しいかどうかを議論するのは無駄です。つまり、パソコンについて何かを言うためにはパソコンに関する「皆が正しいと認める文」を集めるより他なく、それは言葉の定義に関するものであって単なる決め事だから、その真偽を議論することはできないのです。

言葉の意味について議論することはできません。「私はこういう意味で使います」「いや、私は違う意味で使います」と言った時は、どちらが正しいというわけではありません。ただ違っているだけです。同様に「インターネットができないものはパソコンとは呼ばない」と決めたら、反例を挙げてそれは違うと言うことはできません。これはパソコンという言葉の定義なので、いったん決めた以上反論はできないのです。

皆が正しいと認める文を「公理」と呼びます。公理は言葉の意味を定義するものであり、いったん「これを公理にする」と決めたら反論はできません。せいぜい「あっそう。そういう言葉の定義にするんだったら僕もそうだと思うよ。」としか言えません。

証明とは

意見の正しさを議論をするときには、まず意見の意味を把握しなければなりません。意見の意味とは、意見に出てくる単語の意味の定義と、その言葉のつながりによる論理展開のことです。単語の意味とは公理を決めることでした。そうしたら次にはその公理と今回の意見が矛盾しないかどうかを考えます。これが「証明」です。

公理と意見が矛盾する場合には、その意見は間違っています。矛盾しない場合には、次に意見の否定が公理と矛盾しないかどうかを考えてみます。意見の否定が矛盾するが意見そのものは矛盾しない場合には、その意見は(間違っていないので)正しい意見です。どちらも矛盾しない場合には、まだ公理が足りません。どちらかを否定するに足る公理を探して、それを付け加えることで意見か意見の否定のどちらかが既存の公理と矛盾するようにします。

例えば、「Windowsが走るものをパソコンと呼ぶ」と、「Windows上でウェブサイトを見ることをインターネットすると呼ぶ」と決めた場合、「パソコンでインターネットすることができる」は矛盾しませんが、「パソコンではインターネットできない」は矛盾します。だから、上の2つの文を公理だと決めたら、パソコンでインターネットするというのが正しい意見なわけです。

どちらも矛盾しない意見とは、例えば「パソコンで音楽が聞ける」という意見をいいます。まだ既存の公理からは音楽が聞けるかどうかはわかりません。ここに例えば「Windows Media Playerで音楽が聞ける」「Windows Media PlayerはWindowsに標準搭載されている」という公理を加えることで、パソコンで音楽が聞けるかどうかが判断できるようになります。

問題は意見も意見の否定もどちらも矛盾する時です。その場合には、今まで正しいとしてきた公理が互いに矛盾することを示しています。その時には、意見の正しさをチェックするより前に、自分たちが正しいと思っていることが本当にすべて正しいのかどうかをチェックすべきです。

止揚

意見の正しさとは、それが正しいと決めたこと(公理)との間に矛盾を生じさせるかどうかです。つまり、正解は絶対主義者のいうように一つだけ存在するものではなく、公理とのペアによってのみ存在できるものです。そして、十分な数の公理が集まれば意見は正しいか間違っているかのどちらかに決まります。

公理がはっきりしてそこからの論理展開が正しければ、誰もが同じ結論を導けるはずです。この作業はまったく客観的なもので、主観的なところは一つもありません。主観的なところがあるとすれば、どれを公理にするかを決めることです。

とすると、正反対の結論が導かれたということはそこに公理の相違があるか、あるいは公理そのものが間違っているかのどちらかということになります。公理そのものの間違いを探す方はわかりやすい作業なのでよいとして、公理の相違がある場合にはどうしたらいいのでしょうか。

ここで「公理が違うから仕方ないね」と言ってしまうとそこで議論は終わってしまいます。なぜ公理が違うのか、公理のどこが違うのかを探してみてください。きっと多くの共通点と少しの相違点があることでしょう。この場合、多くの共通点は公理として残しておいて、相違点がどこにあるかを探してみましょう。相違点はできるだけ少ない方が望ましいので、「全然違う」で終わらせずに、本当に違うところだけを抜き出します。

お互いの公理のどこが違うのかがはっきりしたら、お互いの意見を合わせてみましょう。「もし○○ならAさんの意見が正しく、××ならBさんの意見が正しい」というようにです。これが両者が正しいと思う結論です。

議論とは、お互いが公理だと思っていることのどこに相違があるかを探す行為です。同じ公理から出発したら、誰でも同じ結論にしか到達しません。公理が違うからこそ意見の相違が起き、意見の相違が起きるからこそなぜ違うかという議論ができるのです。そして最終的な結論は、どちらの意見が正解でどちらの意見が間違いというものではありません。どうして意見の相違が生まれるのかを考えることこそが結論なのです。

議論で正反対の意見がぶつかることはよくあります。Aという意見とBという意見が正反対のものとしてとらえられた場合、実はその2つの意見は似たもの同士です。その似たものというのは「対立軸」です。同じ観点に立って比較するからこそ「AとBは反対だ」という意見が出てくるのです。ですから、二つの意見が矛盾するということはその基礎となっている対立軸がそもそもおかしいということです。対立軸の中で考えていては結論は出ません。そこから離れることが必要です。

正しさの無意味さ

意見の対立は悪いものではありません。対立を生じさせることと、それらを別の視点からとらえ直してみることが大事です。これを受け入れると、「正しい」「いや間違っている」という争いがバカバカしくなってきます。こんな争いで得るものは何もありません。争いを一刻も早く止めて、なぜ争いになるのかその理由を探りましょう。それが対立軸です。対立軸というのは争いの現場から一歩退いた別の視点を持たないと見えてきません。

と、ここまで来ると最初に掲げた「正しさとは何か」という問いがよくわからないものになってきます。「リンゴは何色か」という問題の答えは何でしょう。「赤」「緑」「黒」どれも正しい答えです。「熟していれば赤」「熟していなければ緑」「熟しすぎて腐ってしまえば黒」どの言い分ももっともです。そして「ペンキを塗れば何色にでもなる」とも言えてしまいます。だからこの質問に対してはどんな色を答えようが正しいのです。

「この問題は何色でも正解」こう言われては困るでしょうか?「正解は一つしかない」という固定観念を捨てれば何も困ることはありません。問題の答えというのは色の名前を言うだけではありません。その理由と対にして言わないと意味がないのです。理由というのはすなわち基礎となるものの見方です。そして互いに矛盾する答えとてんでばらばらの理由を集めてくると対立軸が見えてきます。「なるほど。どういうリンゴかを指定しないで色を質問したのが良くなかったのだ」と。

問題に正解はたくさんあります。正解というのは答えとその理由、つまりその答えに至った考え方です。しかし、問題に対してこうしたたくさんある正解を追求するのは無意味です。的外れな回答や重箱の隅をつつくような回答までたくさんあるからです。むやみに正解のみを追求するのではなく、それらを違った視点で眺めてみることが必要です。

メタ議論

というわけで、絶対主義と虚無主義という対立軸では「正しさ」は語れませんから、正しさに関しては相対主義をとらなくてはいけません。しかし、相対主義は「正解には無限にあって書き表せないものもある」という主義です。書き表せないものはどうやって議論すればいいでしょうか。

この種の問題を解決する手法が「メタ議論」です。メタ議論とは議論のやり方についての議論です。正解そのものは書き表せなくても正解の導き方を書き表すことによって正解を書き表した事と同じになるのではないか、という試みです。

例えば「神はいるのか」という問題に対して「いる」「いない」と議論するのではなく「神とは何か」を議論するのです。そして「『神がいる』というのはどういうことか」「どういう時に『神はいる』と言えるのか」を議論します。これがわかれば、どんな立場がやってきてもそれに対して「いる」「いない」を判断することができます。すべての立場に対して直接答えが書いていなくても、そこに書いてある方法を使って答えを導くことができれば同じことです。

無限なものを表現するのに、それ自体を列挙していっても全部を表現するのは不可能です。その代わりにその構造を表現するのです。乱暴に言えば、無限に大きい数を表記するには、数字を無限に書き連ねるのではなく「∞」と書けばいいのです。問題そのものを議論するのではなく、その問題の解き方について議論するのが「メタ議論」です。

まとめ

虚無主義では議論はできません。そして絶対主義では限界があります。自分が使っている言葉の意味と、相手が使っている言葉の意味が違えば、当然のことながら同じ結論にはなりません。そして、言葉の意味というものは厳密に定義することができないものです。意見の正しさは「この言葉をこういう意味にとるなら正しい」としか言えないのです。

相対主義というのは、「正解はあるが、それは言葉では言い表せない」という主張です。これは円周率を表現するようなものです。円周率は3と4の間のどこかにただ一つあるのですが、「ではいくつだ?」と聞かれても答えることはできません。「円周率は3.14159265358979……」と数字を並べている人に向かって「そんな事をいくらやっても真の円周率には到達できないんだから無駄だ」と言うことはできます。そしてそれに対して「そんな事はわかっている。しかし真の値にはたどり着けないけれどどんどん近づいていってるんだから無駄ではない」と言うのが相対主義です。

あるいは「π=4*(1 - 1/3 + 1/5 - 1/7 + 1/9 - 1/11 ……)」と円周率の計算式を示して「円周率の実際の値は知らないが、知りたいのならこの計算をすればいくらでも必要なだけ出すことができるよ」と言うこともできます。これがメタ議論です。答えを直接出す代わりに答えの出し方を答えるのです。

結局のところ、「円周率とはいくつか?」というのはあまり重要な問題ではありません。円周率を小数点以下何桁まで求めてもたいして役には立ちません。それより大事なのは、円周率とは何でどういう性質を持っているかを知ることです。それは数字を追いかけているだけではわかりません。