議論の精神
個別論に入る前に全体についての話をしましょう。議論とはどういうものでどんな態度で望むのがいいのでしょうか。
議論とは何か
議論とは何かを簡潔に答えよと言われたら私は次の一文を挙げます。
議論とは人の意見を聞いて理解する場である。
実践するのはなかなか難しい事ではありますが、どういう議論が良いものかを考えるための出発点としては適切な言葉です。
議論の場では往々にして「人の意見を聞くこと」より「自分の意見を言うこと」を優先してしまいがちです。しかしよく考えてみて下さい。自分の意見を言うことによって何か得になることはあるでしょうか?それに対して、人の意見を聞くことは新しい知識が手に入るということから確実に自分の得になります。つまり、議論で何かを得ようと思ったらまず人の意見を聞くことです。
誰もが自分の意見を言わずに人の意見を聞こうとしているという状態が議論の場では一番自然な状態です。しかしそれでは議論は始まりません。そのため、まず誰かがきっかけを作るために自分が一番知りたいと思う質問を投げかけてみます。そしてそれに対して誰かがある意見を返します。すると皆が待ってましたと言わんばかりにその意見を理解しようとします。こうして議論が始まるのです。
もし返された意見が明瞭簡潔で皆が納得するものだったら、「なるほどその通りだ」で議論は終わりです。そしてこれが一番望ましい状態です。問いに対して素早く的確な答が得られたわけですから。答が得られた事に満足し、また誰かが次の問いを投げかければいいのです。
もし返された意見が納得できないものだったら遠慮はいりません。わからない所を質問すればいいのです。「なぜこんな結論になるのだろう」「どうしてこんな事が言えるのだろう」と。そうしたら誰か(回答者でもいいですし、別の人でもかまいません)がその疑問に答えてあげて下さい。このようにして、理想状態である「皆が納得する答を得た状態」に少しでも近づこうとするわけです。
もし一つの質問に対して複数の違う回答が提出されたら、両方について皆で考えていきます。どうして一つの質問に複数の回答が出るのだろう、と。この疑問は回答を理解するプロセスで自然と解消されます。回答間の矛盾や隠された前提条件などが理解の過程で明らかになってくるからです。そして最終的にはすべての回答が矛盾なく融合した「皆が納得する答」に到達します[1]。
議論とは皆で質問の答を考えていこうというプロセスです。それは参加者による共同作業であり、世間一般に思われている対立のイメージとは全く別のものです。そしてそれは「人の意見を聞いて理解する」という基本原理から来ているものです。
意見の客観性
議論でのすべての意見は人に理解してもらうために出すものです。それには自分の意見を筋道だてて論理的に話を進めていく必要があります。結論を出すだけではなく、なぜその結論に至ったかを説明しなくてはなりません。これが意見の客観性です。
客観性に乏しい意見は人に理解してもらえません。「あなたがそういう主張をしているということはわかった。しかしそれ以上のことはわからない」という状態にしかなりません。「あなたはなぜそういう主張をするのですか?」という質問がされた時、それに答えられないようではいけません。
人の主観というのは案外あてにならないものです。間違った事を勝手に思い込んでいたり、感情的に受け入れられない意見を無条件で拒否したりしてしまいます。あなたが出した意見に対して「なぜあなたはそう言うのですか?」と言われた時、筋道だててその理由が説明できるでしょうか?これが出来ないとしたら、あなたの意見はもしかしたら勝手な思い込みであり、間違っているのかもしれません。
あなたが意見を書いた時には、そこにきちんと理由が書かれているかどうかを確認しましょう。意見で主張しているすべての事柄について「なぜ?なぜ?」と自問自答してみて、その理由が意見のどこかに書かれているようにしましょう。これは自分の意見を自分で理解することでもあります。
正しい意見と納得できる意見
今までの話で、意見が「納得できる」とは書きましたが「正しい」とは書きませんでした。それは「正しい」という定義は難しいものだからです。「正しい」と「納得できる」は違います。
これは論理学でいう真理値と証明の問題です。「正しい」とは、そこに書いてある回答が正しい事を言います。それに対して「納得できる」とは、そこに書いてある論理の筋道がきちんと通っている事を言います。例えば、「石は水に沈む」というのは正しい意見です。そして「石は水より比重が重い。だから石を水に投げ込むとそれが押しのける水の重量より石の重量の方が大きい。だから石にかかる浮力より石にかかる重力の方が大きく、そのため石は水に沈む」というのは納得できる意見です。
論理学的に言えば、「石は水に沈む」という事を確認するには、納得できる説明をする以外にもう一つ方法があります。石を片っ端から水に投げ込んでみて、すべての石が水に沈むことを確認するという方法です。しかし現実にはすべての石をこのように確かめてみることはできません。「正しい答」をもらっても、それが本当に正しいかどうかわからないのです。
だから議論では「正しい答」より「納得できる答」に価値があります。納得できる答をもらえれば、そこに書いてある事柄をすべて点検して筋道がきちんと通っていればそれは正しいと判断できます。議論で大切なのは答そのものではなく、そこに至るまでの筋道なのです。
そして、答に至る過程を点検してすべて筋道がきちんと通っているということを確認することが「理解する」という事です。筋道が通っていない個所を見つけたらその理由を質問します。このように、納得できる意見にするために意見に対して質問するのが議論なのです。
公理
「納得できる意見」とはすべての事柄が筋道だっている事だ、と先に述べました。そして意見を導き出す出発点となるのが「公理」です。「公理」とは、証明なしに正しいと定義づける事柄のことです。
例えば、「殺人は悪いことだ。悪いことはしてはいけない。だから殺人はしてはいけない」という意見があったとしましょう。するときっと「なぜ殺人は悪いことなのか」「なぜ悪いことはしてはいけないのか」と疑問が出てくるでしょう。もちろんこうした疑問を解決するために議論することはいい事ですが、これが無限に繰り返されるとすべての問題は理解不能になってしまいます。
このため、疑問なしに正しいとする「公理」を設ける必要があります。「悪い事はしてはいけない」というのを公理にすると決めてしまったら、それ以降「なぜ悪い事はしてはいけないのか」と質問してはいけません。公理は理由なく正しいのです。
公理を設定する時には慎重でなくてはなりません。なぜなら、ある意見で前提となっている公理を正しいと認める事ができないと、その意見全体が無意味なものになってしまうからです。例えばこんな意見です。
人類はただちに争いをやめて協力して核兵器を廃絶しなくてはなりません。なぜなら、銀河系統一総指令部のレジオ・ハッカ司令官が、エリダヌス座イプシロン星から視察にやってくるからです。側近のコッツ参謀からのテレパシー連絡がありましたから間違いありません。もし視察団が核ミサイルの存在を発見したら、我々は銀河帝国に敵対する凶悪な原始人とみなされます。そうすれば人類抹殺プログラムが始動してしまうでしょう。人類滅亡の危機なのです。
論理として筋道は通っていますし、結論である「核兵器を廃絶せよ」というメッセージも妥当[2]なものです。ただ一つの問題は「銀河系統一司令部のレジオ・ハッカ司令官」を認める事ができるかどうかです。この情報の出所はテレパシー連絡ですから、正しいとも間違っているとも言えません。この意見を言った人はこのテレパシーによる情報を公理として認めていて、その上で論理を展開しています。テレパシー情報が正しいと思うならばこの意見は至極もっともな意見であり、正しいと思えないのならすべてが狂人のたわ言です。
ある公理に基づいてどんなに正しい論理展開のもとに結論を出したとしても、その公理自体が受け入れられない人にはそれは無意味です。これは納得できない意見とは根本的に違います。ある意見が納得できなければ質問と回答を繰り返せば最終的に納得できます。しかし公理が受け入れられない場合にはもうどうしようもありません。
もう一つ注意すべき事は、間違った公理は受け入れてはいけないという事です。相手の提示した公理を何が何でも受け入れてしまうのは良くありません。なぜなら好きなように公理を設定しさえすればどんな非現実的な結論でも導き出せてしまうからです。間違った公理から導き出された結論は単なる論理展開の遊びであり、意味のない机上の空論です。そんな事をしてないでもっと有意義な事をしましょう。
参加者全員が「それは疑問なく正しい」と言わない限りその事柄を公理にしてはいけません。しかし公理を設定しないと議論は進みません。つまり、公理は少ないと議論が進展せず、多いと机上の空論になってしまいます。公理を設定するにはバランス感覚が必要なのです。
参加者は公理に疑問がある時は遠慮なく意義を申し立て、反対に疑問なく正しいと思えるものについては疑問を投げかけてはいけません。積極的に公理をなくそうとするのも、反対に作ろうとするのも間違いです。結局のところ、公理とされているものの真偽に疑問を持ったらそう発言し、逆に正しいと思ったらその正当性を必要以上に追求しないことです。
議論の場
参加者から出された質問や回答(これを総称して「意見」と呼びます)はすべて議論の「場」に出されます。そこで意見は自分の手を離れて皆の共有物になります。場に出された意見には誰もが自由に質問や回答をすることができます。
場に出された意見に質問がつかない場合、その意見は全員が納得した意見であり、「正しい意見」として扱われます。逆に、ある意見についた質問に対して回答がない場合、元の意見は全員が納得したわけではない意見であり、「正しいかどうかわからない意見」として扱われます。
この「正しい/正しいかどうかわからない」という状態は固定されるものではありません。「正しい意見」は質問がついた瞬間に「正しいかどうかわからない」に変化しますし、長い間「正しいかどうかわからない」だったものも誰かが納得のいく回答をすれば「正しい意見」に変化します。それにまた質問がついたらその時に「正しいかどうかわからない」意見に変化します。つまり、「正しい」というのはある時点(例えば、皆が正しいと言った時点)で決定するものではないのです。
意見が最初に出された時、それは無条件に「正しい意見」の場所に置かれます。そしてそれに誰かが質問をしてはじめて「正しいかどうかわからない意見」に移動します。そしてその質問は「正しい意見」に置かれます。もしその質問に対して納得のいく回答が得られたら、質問は解決したので「解決済み」とされ、最初の意見と質問の回答が「正しい意見」になります。もし質問に質問がついたら、はじめの質問が「正しいかどうかわからない意見」になって、そこについた質問は「正しい意見」になります。以下同様です。
少し複雑なのでまとめます。
「意見」とは「質問」と「回答」の総称である。
質問には「有効」「無効」「解決済み」の3つの状態がある。
回答には「納得できる」「納得できない」の2つの状態がある。
「有効な質問」とは、その質問に有効な質問も納得できる回答もついていないものをいう。
「解決済みの質問」とは、その質問に有効な質問がなく、納得できる回答がついているものをいう。
「無効な質問」とは、その質問に有効な質問がついていることをいう。
「納得できる回答」とは、その回答に有効な質問がついていないものをいう。
「納得できない回答」とは、その回答に有効な質問がついているものをいう。
回答は、出された直後は質問がついていないので「納得できる回答」です。それに誰かが質問した時点でそれは「納得できない回答」になります。それを再び「納得できる回答」にするには、つけられた質問を「解決済み」もしくは「無効」にします。
質問を「解決済み」にするには、その質問に回答をすることです。そしてすべての質問を解決済みにできれば、もとの回答も「納得できる回答」になります。また、質問が「無効」になるのは、質問の意味がよくわからない場合です。この場合、質問の内容に対して質問がされます。その質問に対して納得のできる回答がされるまで、その質問は無効になります。
このルールは、相手の意見を納得できないものにして自分の回答を納得できるものにするためのルールではありません。すべての参加者が、議論の場に出ているすべての意見を納得できるものにするために努力すべきです。このルールでは相手の意見を「納得できない」ものにするのは簡単です。単に質問をすればいいのですから。しかしそれでは本来の「議論」から外れてしまいます。相手の意見を「納得できる」ものにするために努力しましょう。それが議論です。
まとめ
議論とは出された意見を理解する場です。そして理解できない個所はどんどん質問をします。そして最終的に出された意見を皆が理解しようとします。質問と回答の繰り返しこそが議論の本質です。
出された回答には次の3つの評価軸があります。
正しいか間違っているか
納得できるかできないか
公理(前提)が認められるかどうか
価値があるのは「正しい回答」なわけですが、回答が正しいかどうかは直接判断することはできません。ですから、認められる公理から納得できる理由によって導かれた回答を「正しい回答」と判断します。
公理はすべての議論の土台になるものですが、実はあまりしっかりしていない土台でもあります。無理に強固な土台を作ろうする努力は徒労に終わります。議論に必要なだけの土台をつくるようにしましょう。
議論の場の原則は「納得できない意見には質問をする」であり、裏を返すと「質問のない意見は全員が納得したとみなす」ということでもあります。これは後述しますが議論を義務にしないために重要なものです。