ネット世代

ネット世代の考え方の特徴を、他の世代と比較しながら見てみよう。

思考方法の変遷

次は、それぞれの時代で特徴的な思考方法について語る番だ。端的に言えば、「考える」とは何をすることかという定義だ。その時代の価値観や力に合った方法が使われるわけだが、それは時代が変わるとかえって特有の悪癖となって残ってしまう。

ここでもまた、前と同じ時代の区切りを使って、前と同じような話が展開される。思考方法という軸で見た社会の移り変わりは、次のようになる。

戦中派
演繹
全共闘世代
分類
バブル世代
構造
ネット世代
直観

分類

様々な事柄を、論理展開によって「正しい」とされていることに結びつけるやり方、あるいはその逆に「正しい」とされていることから論理展開によって様々な事柄を導き出すというやり方が、演繹の考え方だ。この考え方は、国家の時代、精神力の時代に対応する。演繹の考え方は、「正しいとされているものを皆で共有している」という仮定のもとにしか成り立たない。国家も精神力も、皆が同じものを共有しているという仮定だから、この時代には演繹の考え方がマッチするのだ。

太平洋戦争が終わって文字通りの「国家の価値観」はなくなったが、それは会社の価値観や経済発展の価値観に変わって、より深いところに浸透していく。そして、仕事の時代、知識の時代に適合するように、分類という思考方法が主流となる。

今まで同じようなものとしてひとくくりにされていたものを、細かな差異によって分割して、それぞれに対して新しい名前をつける。あるいは、ばらばらだったものをある特徴によってひとまとめにして、それに新しい名前をつける。名前というのはすなわち新しい概念だ。このように、新しい概念を作り出して名前をつけることこそが考えることだという考え方が、分類の思考方法である。

名前を与えることがその時代の思考方法になるということは、言い換えると、名前がつきさえすれば皆が納得しそこで話が終わるということ、そしてその思考方法を持たない人にとってはそこで話が終わってしまうことに納得できないということだ。「お前が勝手に概念を作り出して言葉をあてはめただけじゃないか。それに何の意味があるんだ」と言ってくる人に対して、「いやいや、概念を作り出すことこそが意味なのだ」としか答えることができない。

たとえば、この文章は、「演繹」とか「分類」という言葉を出して、それらに対して説明をするという形式になっている。これが分類のやり方だ。そして、分類のやり方では、「これが何か」ということは語られても、「だから何?」という問いには答えないし、答えられない。

構造

分類の考え方が新しい概念(と言葉)を作っていくことであったのに対して、それらの間の関係性を考えるのが構造の考え方だ。消費の時代に虚構を作るのに適したこの考え方が、その時代の主流となる。

たとえば、今まで「価値観」「力」「思考方法」のそれぞれについて、時代ごとにどう変わっていくかを見てきた。そこから「時代に分けてカテゴリーごとに語る」というような構造を見出し、そこに意味を見出すのが構造の考え方だ。そして、「各時代はオーバーラップする」とか「主観と客観のように対立する観点が交互に来る」というような法則性を抽出する。

構造を認識すると、興味はそちらの方に移ってしまい、もともとの事例はどうでもよくなってしまう。そして、全然違うものに対しても同じように構造を適用しようとする。興味はもともとの事例ではなく構造にあるのだとすると、全然違うものに対しても同じ構造を適用できるということは、それだけその構造に普遍性があるということであり、その構造の価値が高まるということになる。

ネット上のよくある例が、なんとかジェネレータと呼ばれるものだ。あるネタが流行ると、その話題に関連したネタが次々と生まれるのではなく、構図だけを借りて全然違う話題にすり替えたネタが次々と生まれる。彼らにとって重要なのは構図なのであり、話題そのものではないのだ。

様々な概念の関係性を抜き出しただけで、なんとなく納得してしまう。しかし構造の考え方を持たない人にとっては、本来考えるべき問題がどこかに飛んでしまい、全然関係のないところを面白がって、単なるネタとして消費されて終わってしまうという納得のいかなさがある。

直観

分類や構造の考え方に対して、直観はストレートだ。自分がどう思ったかがすべてだという考え方が、直観の考え方だ。直観は感情と読み替えてもいい。

当然のことながら、これはつながりの価値観において共感を生み出すのに最も効率の良い考え方だ。元来、人間は感情を共有してつながるようにできている。楽しいときに一緒に笑い、怒るときには皆で怒って、それによって仲間意識を持つ。この図式の中には、ややこしい論理や思考などの入る隙間はないどころか、そういうものはかえって邪魔になる。

分類や構造と同様、直観の考え方では直観こそが話の終着点だ。「なるほど、この人は怒ってるんだな」で納得して話が終わる。そして、他の人にとってはそこで話が終わってしまうことに納得できないのも同様だ。こう書くといかにもバカっぽく感じてしまうかもしれないが、結局知りたいのは相手がどう感じているかなのだということを考えると、理解できるだろう。それは、目的が「つながること」なのだから当然だ。そもそも「バカっぽい」が侮蔑語になるという感覚が、別の世代の価値観に毒されているということなのだ。

しかし、直観は何も考えないこととイコールではない。いろいろ考えた末、最終的な判断を直観に頼るということだってあり得る。このように定義するなら、直観というのは妥当な態度であり、しかし実質は何も言っていないに等しいということになる。直観とは、すべてのことが含まれるが、それ故それ自体は何の意味も持たない考え方だ。

まとめ

「正しいこと」が存在した世代から、概念そのものが重要だった世代を過ぎ、中身より構図が重要視された世代を経て、判断材料が何もない世代へと突入した。判断材料を何も構築できなかった現世代は、従来の資産を食いつぶしながら、新しい何かを模索しなくてはならない。

今まで詳しく述べなかったが、思考方法もまた前世代がオーバーラップして進行している。つまり、全共闘世代は「演繹」をベースにした「分類」であり、バブル世代は「分類」をベースにした「構造」であり、ネット世代は「構造」をベースにした「直観」なのだ。

とにかく、ここで述べたかったことをまとめよう。

  • ネット世代では、「直観」によって「共感」を生み、「つながり」を実現していく。
  • 前のバブル世代と違って、「分類」に意味を感じなくなる。
  • 他の思考方法を基礎として持っていないと、直観は単なる思考の全否定となってしまう。
  • 思考そのものが「失われた技術」と化したとき、人々はようやく失ったものの大きさに気づき、新たな思考方法が模索される。