ネット世代

ネット世代の考え方の特徴を、他の世代と比較しながら見てみよう。

世代論とは

何とか世代というテーマで話を始めると、決まってそれに反発する人が出てくる。だから、まずはその誤解を解き、何について話しているのかを明確にするところから始めよう。

ここでは、日本においてだいたい25年間隔で形成される、人々の価値観と共通認識を指す。今をネット世代とすると、その前がバブル世代、その前が全共闘世代、その前が戦中派、その前が大正デモクラシーとなる。それぞれの世代において、特徴的な考え方を持つ。

こうした世代は、徐々に次の世代へ移行していくのではなく、その世代の考え方が最高潮に達した瞬間に崩壊して、その後に空白の時間がやってくる。ちょうど、オーケストラの終盤、一番盛り上がったところで終わって静寂がやってくるように。これが、前の世代におけるバブル崩壊、その前の世代における安田講堂事件、その前の世代における終戦である。

世代論とは何か

世代論というのは、その当時の大人が好きに若者にレッテル貼りをしているだけのものだと思ってしまっている人もいるが、それは違う。世代には周期性があって、その対象は若者だけではなく、当時の人々や社会全体に向けられたものだ。

そもそも、世代論はいつでも起きるものではない。世代の変わり目では、大人たちは変化に右往左往していて、とても「最近の若者は」などと言っている余裕がない。こういう時には、逆に「最近の若者はしっかりしている」と良い評価をする。今の世代の考え方がだいたい世間的に固まってきて、若者の傾向が目につくようになってくるから、「最近の若者は」と言い出すのだ。そして、こういう時に若者がターゲットとなるのも理由がある。若者は、前の世代を知らないからだ。純粋に今の世代の考え方しか持っていないから、彼らの考え方が「今どきの考え方」として目につくわけだ。

逆に言えば、彼らの考え方を知ることで、今の社会がわかるということだ。それによって、今の社会が新しく得たもの、失ったもの、あるいは前から変わらないものなどがわかる。そして、そのために重要なのは、「今の若者の特性」だけを抜き出すことだ。つまり、今の若者に見受けられる特性の中から、いつの時代でも変わらない「若者の特性」を抜いて考えるということである。たとえば、思慮が浅かったり、向こう見ずだったりといった特性は、若者だから仕方ないのであって、特に今の時代に限ったことではない。こういったことを除いて考えないと、今の社会は見えてこない。

一応言っておくが、これは若者の特性について若者にいろいろ言うべきではないという意味ではない。「近頃の若い者は」という話を始めると、「そんな話は古代ギリシャの時代から言われ続けている」というような反論がなされることがあるが、古代ギリシャの時代から言われ続けているからこそ、今でも言い続けなくてはならないことなのだ。ただそこに「近頃の」とつけるから問題なのであって、「いつの世も、若い者は」と言えばいい。そして、聞く方は、他と比較してはならない。昔がどうであれ、今悪いところがあれば直さなくてはならない。

とにかくここでは、若者に向けて何かを語るというスタンスはとらない。ここで興味があるのは今の社会であって、若者の特性ではない。だから、若者全般の特性はできるだけ除いて考えることとする。ただ、除いたからといって、それを問題視するべきではないという意味ではない。

世代の周期性

先に少し述べたが、世代は連続的に変化するものではない。ある瞬間に崩壊して断絶が起こり、そこから新しい考え方がだんだん育ってきて、社会に浸透し、誰もそれに疑問を持たなくなるとやがてまた崩壊する。崩壊の瞬間に、不連続点が生じる。この周期がだいたい25年なので、物心ついてから成人するまでのどの段階でこの崩壊を体験するかが、その人の考え方を形成する上で大きく関係する。特に、崩壊の頃に産まれた子供たちは、崩壊を実体験しないまま大人になってしまう。

崩壊を体験したことがない人は、現在の社会を確固たるものと考えてしまい、それが一夜にして変わるかもしれないということを考えない傾向にある。現状に迎合的になり、現状を無批判で受け入れるようになる。バランス感覚を持たず、極端な方向に行きやすい傾向になる。もっとも、こうした傾向は少なからず若者の特質として語られることであり、未熟さ、経験の少なさという理由で片づけることもできるものだ。崩壊を体験したことがないということはすなわち、そういう経験を積んでいないということなのだから。変化の少ない時代を生きた人より、激動の時代を生きた人の方が様々な面で鍛えられていてたくましい、とは言うことができる。

この周期性のせいで、いつの時代も変わらない若者の性質とは別に、世代後期の若者特有の性質というものが出てくる。1960年代生まれの「新人類」と呼ばれた人たちについて書かれた1980年代の本を見ると、「全共闘」を「バブル崩壊」に置き換えれば今でも通じるような内容が多い。

狭義には、「なんとか世代の人」というのは、その世代の崩壊直前の数年に社会の仲間入りをした人をいう。その幅はせいぜい数年だ。バブル世代(1965~1969年生まれ)も、団塊の世代(1947~1949年生まれ)も、よく名前が挙がるわりには定義の幅は広くない。じゃあその中間にあたる多くの人たちはどうなのかというと、こうした名前つき世代の人たちをさめた目で見ていることが多い。

では広義の定義ではどうなるのか。ここでは、「物心ついたときには前の崩壊過程が終わっていた人」をその世代と呼ぶ。バブル世代とは、物心ついたときには安田講堂事件が終わっていた人、つまり「物心つく」の定義によって前後はするがだいたい1965年生まれを筆頭に、そこからバブルを知らない1990年生まれの前までとなる。こう書くと、ちょっと年代がずれている感じがするかもしれない。しかし、基本的なものの考え方に関して言うなら、バブル時代に既に社会人だった人より、バブル時代で育った人の方が、バブル時代の考え方をより基本的なところに組み込んでいるわけだから、バブル世代と呼ぶべきなのである。

今の若者について考える際にも、彼らがこうした世代後期の性質を持つということを頭に入れておく必要がある。この性質は、若者全部が持つ性質ではないが、ある世代に特有の性質でもない。

世代はなぜ断絶するのか

ところで、なぜ世代はある瞬間に崩壊して断絶するのか。なぜ、ある特定の期間を体験したかどうかが、考え方の違いを生む決定的な要因となるのか。なぜ、太平洋戦争や全共闘、バブルの時代を体験したかどうかが大きな違いなのか。太平洋戦争というととても長く大きな出来事に思えるかもしれないが、真珠湾から終戦までは4年足らずだ。バブル景気だって、1986年から1991年までのたった5年間の出来事でしかない。

話を逆にすると、理由がわかる。バブルの時代を経験したからその考え方に染まったのではない。その考え方に皆が染まったからバブルが起きたのだ。つまり、出来事が原因でその結果として考え方が生まれるのではなく、考え方が原因でその結果として出来事が起きるのだ。

前の世代の考え方が時代や社会情勢とうまく合わなくなって、新しい考え方が生まれる。それがだんだんと浸透していくと、現代に合った考え方として受け入れられる。しかし、それはしばしば行き過ぎる。社会に合った考え方ではなく、考え方に合わせて社会を変えていこうとする。考えることより行動することが先に立ち、暴力的になって先鋭化し、その結果崩壊する。

つまり、なぜ世代が断絶するのかというと、世代の変わり目の一定期間(だいたい4,5年)、社会的な思考停止が起きるからだ。そして、思考停止期間の後、人々ははっと我に返って、何が悪かったかを考え始める。ここで前の世代の大人たちは、「やっぱり前の世代がよかった」と言って帰っていってしまう。しかし、帰るよりどころがない若者は、崩壊させたあげく帰っていってしまった大人たちを批判しつつ、新しい世代を作ろうとする。

一つ気をつけてほしいのは、ある時代を作るのは、その時代の名がついた若者たちではなく、そのもう一世代前の大人たちだということだ。若者たちは、作られた時代の中で右往左往したに過ぎない。例を挙げると、バブル世代と呼ばれている今40代の人たちがバブルを作ったのではなく、実際にバブルを作ったのはその一世代前の全共闘世代、あるいは団塊の世代と呼ばれた人たちだということだ。彼らはさんざんゴルフ会員権や土地転がしでバブルを煽ったあげく(当時20代のバブル世代にそんなことができるわけはない)、いざバブルがはじけるとそれをジュリアナのせいにして、バブルに踊ってた無知な若者がバカを見たことにしてしまう。その時代の名前で呼ばれている人たちは、実際には右も左もわからないまま踊らされて、後片付けだけさせられた人たちなのだ。そして、そういう人たちが、次の世代をつくってゆく。

世代間の関係

ここまでで少し混乱したかもしれない。「世代」という言葉は、人に対して使う場合と、時代あるいは社会に対して使う場合で、1世代分ずれるからだ。普通、なんとか世代というとその時代に若者だった人たちのことを言うが、本当のその時代の主役はむしろその1つ前の世代だということを頭に入れておくと、少しはわかりやすくなると思う。

ある世代の考え方は、表向きは前世代の否定から始まるが、実際には前世代で新しくつくられたものはそのまま引き継ぎ、前世代が無意識のうちにその前の世代から引き継いでしまったものが否定の対象となる。それはつまり、2世代前の全否定である。そして、3世代前については逆に肯定される。そんな遠い昔の世代については実感がわかず、「全否定されるべき2世代前が否定したもの」という位置づけだけが残るからだ。

今のネット世代に当てはめると、1つ前のバブル世代を当たり前のものとして受け継いでいる。バブル世代への批判は、実は彼らが全共闘世代から無批判に受け継いだものへの批判だ。そして全共闘世代は全否定され、3つ前の戦争世代は肯定される。この場合の全否定と肯定は、なんだかよくわからないままイメージだけで行われているということに注意が必要だ。

だから、ある世代について考えるには、その前の世代との関係についてもじっくり考えなくてはならない。具体的には、次のように分けて考える。

  • この世代で新しく生まれたもの
  • 前の世代で新しく生まれ、この世代でそのまま引き継いだもの
  • 前の世代がさらにその前の世代から引き継ぎ、この世代で否定の対象となったもの

まとめ

これからネット世代について考える上で、以下のことに注意してほしい。

まず、これから述べることは今の社会や価値観、考え方についてが主目的で、たとえ内容が若者についてのことであっても、若者への非難をしたいわけではない。今の社会の害について述べる上で、彼らは加害者ではなくむしろ被害者だ。しかし、被害者に対して「お前は被害を受けているんだぞ」という忠告はする。

純粋にネット世代と呼ばれる人は、実はそんなに幅が広くない。人に対してネット世代という言葉を使ってしまうと、「ネット世代の考え方しか知らない人」という定義になってしまうからだ。しかし、逆にネット世代というのを「ネット世代の考え方を少しは持っている人」と定義すると、ほとんどの人はネット世代だということになってしまう。ここでは、ネット世代というのは考え方であり、人について言っているのではないということに注意が必要だ。人について言う場合は、ネット世代しか知らない仮想的な人のことを言っているのだと考えればいい。なお、これは理解を助けるための単なる例に過ぎないのだから、そんな人が実際にいるのかどうかの議論は無意味だ。

ネット世代について考える際には、それがネット世代になって新しく出てきた考え方なのか、バブル世代に生まれた考え方を引き継いでいるのかに注意する。そして、ネット世代が否定しているものについては、どこにルーツがあるのかということも合わせて考えなくてはならない。