ネット世代の心の闇を探る

現代社会の様々な特性が、若者の心をむしばんでいる。

ネット右翼とは何か

最近の若者が右傾化していると言われて久しい。しかし、「右傾化」とは何な のか、あるいは「右翼」とは何なのか、結構あいまいになってしまっているこ とも多い。ここでは、「右翼」とは何なのかについて話を進める。そうすると、 ネット右翼とは何かということも見えてくると思う。

なお、様々な人が様々な意味で「右翼」という言葉を使うが、ここで述べるの はその一部分だけであるということは了解しておいてほしい。(ある説明に対 して、それが説明のすべてだと思ってしまうのは、ネット世代の悪い癖である)

右翼とは何か

保守と革新

右翼と左翼の説明に対して一番シンプルなのが、「保守」と「革新」という区 別だ。もちろん、保守が右で、革新が左だ。

保守とは人が以前から持っている価値観ややり方を尊重することであり、革新 とは新しい価値観ややり方を尊重することである。つきつめて言うと、これは 性善説と性悪説に行き着く。

保守
人間の直感はおおむね正しく、妙な知識に振り回されるとかえって正しい答えを出せなくなってしまう。単純な考え方の方が結局は正しい。

革新
人間の直感は多くの場合間違っているので、知識を集め、よく考えて、正しい行動を選択しなくてはならない。単純な考え方ではダメだ。

たとえば、(古典的な)自由主義経済は保守の考え方である。「深く考えなくて も、放っておけばうまく行くよ」という考え方だ。それに対して計画経済は、 よく考えて事前に計画してから実行しないとうまく経済は回っていかないとい う考え方だ。

権威主義とリベラル

では、個人に対して同じように保守と革新の考え方を当てはめると、どのよう な考え方になるだろうか。「個人の自由」というキーワードで考えると、これ らが混乱しがちである。さて、「個人の自由を最大限尊重する」という考え方 はいったいどちらであるか。

これを「個人が直感的に考えることが大抵は正しいので、他人が変に干渉しな いようにしましょう」という意味にとると、これは保守的な考え方になる。そ れに対して、「他人まかせではうまく行かないので、何事も自分で情報を集め、 よく考えて行動しなくてはならない」という意味にとると、革新的な考え方に なる。

後者の考え方が、「リベラル」と一般的に呼ばれているものだ。自立した個人 が、自分でよく考えて行動することを前提とする。それに対して前者の考え方 は、権威主義と呼ばれる考え方だ。

なぜ「直感に従って他人の干渉を拒否すること」が権威主義になるのか、よく 分からないという人もいるかもしれない。しかし、ここに「直感は誰もが共通 で持っている」という前提を入れれば、直感とはすなわち権威であると言える。

権威主義とは、王様にひれ伏すという意味ではない。今まで我々が積み重ねて きた伝統とか文化といったものを正しいと認め、大事にしていこうという考え 方である。右翼の人は、こうした権威が普遍的なものであると考えている。こ うした権威はわざわざ人に言わなくてもすべての人が持っているものだと考え ている。必要なのは新しいことを覚えることではなく、忘れてしまったことを 取り戻すことだという考え方である。

知と情

リベラルの人は、「何事も自分で情報を集めてよく考えないといけない」と考 えている。だから、自治体や政府に「情報公開を」と叫ぶ。情報こそが、正し い判断の礎になるからだ。

マスコミ、特に報道が左翼系に偏りがちなのも、ある意味当たり前だ。右翼の 人は、新しい情報を追いかけることに必然性を感じない。だから、報道を重視 しない。本当に大事なものは過去の蓄積にあると思うから、故きを温ねること で新しきを知ろうとする。

つまり、左翼は「知」に訴え、右翼は「情」に訴える。左翼はインテリな知識 人のイメージで、右翼というと頭が悪そうな一般人のイメージだ。「そんなイ メージはない」なんて言ってはいけない。言葉の意味合いからしてそうなのだ。

先日たまたまテレビで放映していたので、「ロッキー4」を例に出す。左の代 表であるドラゴ(ソ連の選手)は、謎のメーターがたくさんついた機械を使って、 極端なまでに科学的なトレーニングをする。それに対して右の代表であるロッ キーは、大自然の中で仲間と共にトレーニングをする。冷戦のころのアメリカ 映画には、こんな感じのものが多かった。ソ連に対して持つ「科学を重んじる 国」というイメージは、ソ連崩壊後しか知らないネット世代の人々には馴染み がないかもしれないが、事実そうなのだ。

映画の結論がどうであるかは別にどうでもいいのだが、とにかく、左翼は知的 であろうとし、右翼は単純バカであろうとする。これは、どちらが良い・悪い の問題ではない。強いて言えば、どちらの見方も必要である。

ネット世代と右翼

今までの話で、ネット世代の特徴と重なる話がいくつも出てきた。ネット世代 の考え方は、右翼と親和性が高い。どんな考え方が右翼に結びつくのかを順に 見ていくことにする。

なお、右翼=ネット世代というわけではないということに注意してほしい。本 当の右翼は、もっとまともな事を言う。右翼の考えからあることを抜くと、ネッ ト右翼になるのである。その「あること」とは何かということは、後で話すこ とにする。

自己が確立していない

左翼的思想には、その背景に「何でも自分で考える」という自立した人間像が ある。この人間像が、ネット世代には受け入れられない。彼らは自分の行動を 自分で決めることができないので、既存の権威に頼ろうとする。

ネット世代の人間は、自己肯定感に欠けていて、承認欲求が強い。そのため、 常に他人からの評価を必要とする。そんな人には、自由は重荷でしかない。自 分がすべきことを他人が考えてくれて、ただ言われた通りに暮らしていくとい う生活が一番楽だと考えている。

承認欲求が強い人は、「向上」という言葉が嫌いだ。向上するということはす なわち、今のままではダメだということだからだ。この「今のままではダメだ。 変わらなくてはならない」というメッセージが嫌いで、「君は今のままでいい んだよ」と言われたがっている。

考えることができない

ネット世代は、「考える」ことが基本的にできない。「物事にはすべて理由が ある」という考え方を受け入れていないからだ。そのため、「考える」代わり に「知る」ことで対処しようとする。社会が持っている考え方を、定義として 無批判に受け入れてしまう。

彼らは、本当の意味で善悪を判断することができない。彼らができるのは、法 律という明文化されたものと照らし合わせて、答えがそこに書いてあるかどう かを判断することだけだ。だから、左翼に「より良い社会へと変えていかなく てはならない」と主張されると、どうしていいか分からなくなってしまう。 「良い」という概念そのものが、「現在の社会で良いとされている」と等しく なってしまっているからだ。

ネット世代は、社会に対して不満を持っているのに、「だったら社会を変えよ う」という発想にならない。どう変えていいのか分からないし、本当に変えて いいのかどうかも分からない。だから、社会に対してなんとかして従順であろ うとする。

情報の真偽を判断できない

ネット世代は、情報を受け取ることしかできず、自分で考えることができない。 「理由」を考える力がないからだ。彼らは、自分の判断能力の外にある情報を 受け入れることに慣れてしまっている。テレビやネットは、自分が知らない世 界を見せてくれる反面、それが間違っていても判別がつかない。

そこで彼らは、情報の中身ではなく、権威を使って情報の真偽を判断しようと する。どういう人が言っているから正しい、あるいはどういう人が言っている から間違っていると判断する。こうした判断のやり方は、大きな問題を引き起 こす。「正しいことを言う人」の言葉は丸ごと受け入れ、「間違ったことを言 う人」の言葉は丸ごと拒否しようとする。

こういう意味で、ネット右翼は新興宗教のような様相を見せる。しかし、決定 的に違う点が一つある。

情報は不要

新興宗教にハマるような人は、どちらかというと「正しいことを言う」人を欲 していた。それは、情報が欠乏していたからだ。言い替えると、「情報が欲し い」と思っていた。しかし、ネット世代は、「情報はいらない」と考えている。 それで、受け入れることより、拒否することに重点を置くようになる。

新興宗教にハマるには前提が一つある。「今のままではダメだ、何とか救われ たい」という前提である。現状に不満があるから、現状を解決してくれる何か にハマる。それに対してネット右翼は、現状に不満がない。いや、より正確に 言えば、現状に不満があることを認めたがらない。不満があるということは、 ダメな証だからだ。不満があるということは、それを解消するために何かしな ければならないということだからだ。

彼らは、自分の置かれた状況を、変えられないものとしてそのまま受け入れよ うとする。この場合、視野が狭いほど、状況が見えていないほど受け入れやす くなる。井の中にいて「世界とはこういう場所なんだ」と思い込んでしまえば、 その状況を受け入れるのはたやすい。

ネット右翼は右翼とはどう違うか

ネット世代の問題点は右翼との親和性が高いのだが、これらの問題点は右翼そ のものの問題点ではない。ネット右翼と本物の右翼の違いを見ていくと、ネッ ト右翼はその本質部分が欠けているということがわかる。

価値判断の内面性

右翼の場合、価値判断は人間の内面的なもので行う。正義とか、人情とか、あ るいは日本人の魂といったものだ。それに対してネット右翼は、そうしたもの の存在を認めていない。彼らは、彼らの認める「悪」の記号に結びつくかどう かで判断する。

たとえば、彼らは、人をけなすのに「朝鮮人」という言葉を使う。これが、 「朝鮮人=悪」という図式を持っていない他の人にとっては理解しがたい。彼 らにそう言うと、彼らはいかに朝鮮人が悪かということを述べてくる。

この現象が彼らの思考回路の違いであることに気がつけば、なるほどと思うに 違いない。彼らは、キーワード同士をイコールで結び付けることによって思考 を進めていく。彼らは言葉の意味を考える能力に欠けているので、単に言葉と 言葉が結び付きさえすれば、それが正しいと思ってしまうのだ。

内面的価値の普遍性

本物の右翼は、自分たちの持つ内面的な価値が普遍であるということを信じて いる。つまり、「人間として恥ずかしいと思わんのか!」などと言えば、自分 の言うことが正当化されると思っている。「人間としての恥ずかしさ」という 概念を、すべての人が持っていると思っている。ネット右翼は、こうした内面 的な価値を認めず、外面的な価値で判断をする。

本物の右翼もネット右翼も、「世間の人がどう考えているか」ということを大 事にする。しかし、本物の右翼の場合は、「世間の人」が普遍的な価値観を持っ ていると思っているからこう言うのに対して、ネット右翼は単に「世間の人」 が基準だからこう言う。

この違いは、ある狭いコミュニティで価値観の相違があった時に明らかになる。 本物の右翼は、常にそのコミュニティの範囲を越えた世界全体を想定する。だ からたとえば、アラブであろうとどこだろうと民主化を推し進めようとする。 これに対して左翼は、「世の中はそんなに単純なものじゃないから、それぞれ の事情に合わせて考えなければならない」と言う。そして、ネット右翼はどん なことに対しても「状況を変えるな。受け入れろ」と言う。

ネット右翼にとっては、正しさとは受け入れるしかないものである。それが、 「正しさ」を自分の内に持っている本物の右翼との違いだ。

「情」の重要性

本物の右翼は、「情」を重視する。それに対してネット右翼は「知」を重視し、 「情」を軽視する。彼らは、感情のままに動くのではなく、周囲をよく見て、 うまく行動することが大事だと思っている。これは基本的に左翼の考え方であ る。右翼ならば、「自分が正しいと思ったことは誰が何と言おうとやり抜く」 で済んでしまうものだ。

ネット右翼は、理論武装をして相手を論破しようとするところが、本物の右翼 とは違う。本物の右翼は、理論なんてたいして意味がないと思っている。「俺 はバカだから難しいことは良く分からないけど、そうやって口先だけの論理を 振り回している暇があったら、過疎の村にでも行ってお年寄りの話を聞いてみ なさいよ」と、顔の四角いどこかの党の政治家のようなことを言うのが、本物 の右翼である。

右翼には、理論武装は効かない。彼らはそんなものには意味がないと思ってい るからだ。ネット右翼にも、理論武装は効かない。彼らはそんなものに対して 聞く耳を持っていない。しかし、自分は聞く耳を持っていないのに、他人に対 しては理論武装するところが、ネット右翼なのである。

なぜそうなのかというと、ネット右翼は、本来「情」の分野に入るものを「知」 で処理してしまっているからだ。それが「情」の分野であることを分かってい てあえて「知」のメスを入れるのならいいのだが、彼らは自分たちが切り込ん でいるのが「情」の分野であることを知らず、場違いなのは自分たちであるこ とを理解できていない。

まとめ

右翼と左翼という話を今の日本ですると、どうしても混乱した話になってしま う。それは、左翼と呼ばれてきた人々の多くが、本当の意味での左翼ではない からだ。日本では、社会に対する根本的な考え方が西欧からの借り物でしかな く、基礎になる考え方が一人一人にまで浸透していない。

今までは、左翼的な考え方がほとんど無く、右翼的な考え方が日本では支配的 だったから、混乱はなかった。しかし、左翼的な考え方の根本にあるものが一 般には知られないまま、社会の仕組みは左翼によって変えられてきた。そのせ いで、左翼=旧体制という、ねじれた関係が出現した。

今まで、何も考えない人間はただ旧来の権威に従っていればよかったのだが、 今では旧来の権威が「権威に寄りかかるな」と言う。だから、どうしていいの か分からなくなってしまったのだ。彼らは、分かりやすくて、盲目的に従える 権威を欲している。従うのが簡単ならなお良い。その答えが、ネット右翼なの である。