現実を追い越した虚構
ネット世代の人たちは、テレビは「我々の世界の今」を伝えていると思ってい る。しかし、そうなったのはごく最近のことでしかない。もともと、テレビは そんなものではなかったのだ。
もともと、TVは我々とは別の世界を映しているものだった。TVに出てくる人た ちは「芸能人」であって、我々とは違う世界の人々だ。ニュースにしろ教養番 組にしろ、自分が今生活している場所とは遠い場所の出来事を伝えてくれる。
そもそも、自分が今生活している場所の情報をもらっても仕方がなかった。そ んな場所の情報は、わざわざ教えてもらわなくても自分で知ることができるか らだ。自分では得ることのできない遠い世界の情報だからこそ、テレビで見る 必要があるのだ。
それが、今ではテレビこそが情報源に変わってしまった。さらに今では、その 「テレビ」が「ネット」に変わりつつある。しかし、情報源が何に変わろうと、 自分の足でかせいだ情報こそが一番確かな「現実」であるはずだ。この原則が、 今では崩れつつある。
素人参加番組
1970年代から80年代にかけて、素人参加のクイズ番組やゲーム番組が流行った。 この頃はまだ、テレビは「あちらの世界」だ。「テレビに出たんだって?す げー」「お前芸能人を生で見たのか?すげー」の世界だった。TVに映るという ことが、ある種ステータスになった時代である。
今では、素人参加番組はほんとに少なくなった。いくつか素人がテレビに出る 番組はあるが、今では素人に特徴が求められる点が昔とは違う。たとえば、ク イズミリオネアでは、賞金の使い道にある程度のドラマ性が求められる。なん でも鑑定団では、面白いエピソードがないといけない。今では、何の特徴も面 白みもないド素人がテレビに出られる番組はほとんどない。
以前は、参加者の動機は「家族でハワイ旅行へ行きたい」なんていう単純なも のでよかった。そして、そういう単純な動機しか持っていないからこそ、「一 般の人」なのである。
素人参加のオープン性
素人参加番組に必要なのは、この「選考のオープン性」である。言い替えると、 選考に番組製作者の意図が含まれないということだ。
実際はどうだったのかは知らないが、昔の番組はどれもこのオープン性が守ら れていると見ている人は思っていた。出場者は、応募した人の中からランダム で選ばれると思っていたし、実際そうであろうと思われる人が出場していた。 もし予選会をやったにしても、それは「普通」レベルに達していない人を落と すためのもので、優秀な人を選抜するためのものではなかった。
逆に、番組製作者はわざわざ苦労して出場者を選び出す必要はなかった。「応 募者の中の誰かが出ています」というだけで十分だった。よほどテレビに映す と問題のある人でなければ、誰でもよかったのである。
おそらく、今までで一番オープンな素人参加番組は「アメリカ横断ウルトラク イズ」であろう。この番組は、18歳以上でパスポートを持ってさえいれば、出 たいと思った人は全員テレビに出られる(といっても後楽園球場の何万人のう ちの一人としてだが)。そして、そこで出されるクイズに正解できれば、自分 の顔をちゃんとカメラに映してもらえるようになる。この、プロセスがオープ ンなところが魅力だった。
素人とドラマ性
皮肉なことに、この原則を破る原因となったのもまた、ウルトラクイズだ。ウ ルトラクイズでは、単なる一般人でしかない出場者のプライベートな側面を放 映し、出場者を一種のタレントのように扱った。
で、回を重ねるごとに、出場者が「クイズ番組のセミプロ」みたいな人ばかり になって、一般視聴者の興味が薄れていった。出場者を見て「私たちと同じよ うな人があそこに出ている」と思えなくなった。一般視聴者と言いつつ、別世 界の人間だと認識するようになってしまった。
「ドラマ性」の内容も、少しずつ変化していった。番組が始まった頃は、「普 通の人が旅行するドラマ」だった。「異国の地に降り立つ」とか「見知らぬ人 同士が一緒に旅をする」というところにドラマ性があった。これは、主人公が 誰であっても同じだ。しかし、出場者をタレント扱いするようになると、事情 は変わってくる。その人個人の事情がかかわってくると、「誰であっても同じ」 というわけにはいかない。
最近の素人参加番組では、本当に何の特徴もない一般人ではなく、特殊な事情 をかかえた人でないと出られないようになっている。その点で、視聴者はそう した出場者を「自分と同じ」だと思えなくなっている。
タレントの素人化
最近、TVに出てくるタレントがバカばかりになっているとか、お笑い芸人がちっ とも面白くないとか言われている。これらは、TVタレントの質が低下したので はない。必然である。わざわざそういう人ばかりを集めているのだ。
素人参加番組のタレント化
最近では、従来なら素人が参加するような形式の番組が、タレント参加の番組 になっている。東京フレンドパークや、数々のクイズ番組など、別に参加者が タレントである必要はまったくないのに、タレントが解答者席に座っている。 クイズミリオネアやタイムショックのように、もともと素人が解答者だった番 組でも、最近ではタレントが解答者になってしまっている。
では、こうした番組に素人が参加するのとタレントが参加するのとでは、どち らが面白いだろうか?番組を作る側としては、テレビ慣れしたタレントの方が はるかにやりやすいし、合間合間に面白いリアクションもとりやすい。しかし、 素人参加番組に求められているのは、本当はリアクションの面白さではない。
なぜバカ芸能人がよくテレビに出てくるのか
もともと、クイズやゲーム番組は、「自分がやった気になる」というところが ポイントだ。素人参加のクイズ番組は、それを忘れて一般人には解けないよう な難しい問題ばかりを揃えたせいで、すたれてしまった。これは、東京フレン ドパークと筋肉番付の違いだ。前者は自分もやってみたいと思うが、後者は自 分にはできると思えない。同じ形式でも、中身の難易度が違えば、別の種類の 番組になってしまうのだ。
最近のクイズ番組は、それを踏まえて、普通の人にも分かる簡単な問題を出す ように変わってきている。クイズ番組の常識問題でとんでもない答えばかりを 出すバカタレントのことは、新聞の投書欄ではよく問題視されるが、これは 「自分がやった気になる」クイズ番組では大事なことだ。クイズ番組の製作者 は、視聴者が分かるような(あるいは、分かるのが普通だと思わせるような)問 題を用意して、しかもそれが出来て当たり前の問題ではないフリをしなくては ならない。その点、「IQサプリ」はいい狙い目だ。こうした問題なら、「こん な問題が解けるのは専門家だけで、一般人には分からないよ」とは思われない。
この線引きは、製作者にとってはとても難しい問題だ。あまりにも簡単な問題 を出すと、「お前ら俺をバカにしてるのか」と思われるし、ちょっと難しい問 題を出すと、「これは自分たちが出来るような問題ではない」と思われる。視 聴者の幅が広がってしまって、一部が「お前ら俺をバカにしてるのか」と思っ てしまうような問題でも、「難しい問題」だと思ってしまう人がいるようになっ てしまった。この解決法として考え出されたのが、誰もが「人をバカにしてる のか」というようなレベルの低い問題を出して、「そうです。人をバカにして いるのです」という態度を見せるやり方である。
このことは、今の時代に素人参加番組が成り立たなくなった理由も同時に教え てくれる。視聴者の幅が広がったせいで、「素人のちょっと上」レベルの人で さえ、雲の上の存在のように見えてしまうのだ。素人の下レベルの人はそうい う番組に出場応募したりはしないから、必然的にそこそこ腕に覚えのある人が 応募することになる。そういう人を、自分たちの同類として見ることができな くなってしまった。
若手お笑い芸人の役割
最近では、若手お笑い芸人がテレビによく出るようになった。そういうのを見 て「最近のお笑い芸人はちっとも面白くない」なんて言っている人もいるが、 それは当たり前だ。彼らの価値は「面白くない」ところにあるのだ。
その証拠に、ちゃんとした芸を持っていて「面白い」人達は、一時ポッと出て きても、すぐフェードアウトしてしまう。ただ、この「フェードアウト」とい うのは、芸をやめてしまうことを意味するのではない。寄席とかライブみたい にもっと芸が生かせるステージで、ちゃんと芸の面白さがわかる人を相手にす るということだ。彼らの本職は「芸」なのだから、芸が要求されない場所には 出てこないというだけのことである。
さて、なぜお笑い芸人が面白くては問題なのか。それは、面白い芸人は「特別 な能力を持った人」と神格化されてしまうからだ。今の芸人に必要なのは、特 別な能力を持っていることではなく、「特別な能力は何も持っていない」こと だ。
たとえば、番組でリポート中に、ちょっと高い崖から海へ飛び込むように指示 された場面を想像してほしい。ここで嫌がってキャーキャーとわめきつつ、無 理やり飛び込まされる人が必要なのである。もしこれがレイザーラモンHGだっ たら、「フォー」と叫んで自分から飛び込んでいく絵が浮かんでしまう。それ ではダメなのだ。あるいはダチョウ倶楽部の竜ちゃんみたいに、嫌がってわめ きつつ普通の人なら絶対に飛び込めないような高い崖から飛び込むのもダメだ。 視聴者ができないことをやってのけてしまってはダメなのだ。
若手お笑い芸人は、全身で「普通さ」をアピールする存在だ。美男美女であっ てはいけないし、たとえ百万以上の月収をもらっていても貧乏くさいイメージ を崩してはならない。「こいつデキるぞ」という才能の片鱗を視聴者に見つけ られてはいけない。才能が見つかってしまった時点で、「若手お笑い芸人」は 「お笑い芸人」に昇格する。そして残念なことに、お笑い芸人の方がずっと活 躍の場が狭いのである。
と考えると、若手芸人が使い捨てにされるのは極めて自然なことである。本当 はギャラの問題があるからなのだろうが、若手芸人は定義上、売れていてはい けないのだ。どれだけバカそうにしていても、「こいつテレビの前ではバカそ うにしているけれど、裏で相当稼いでいるんだろうな」と視聴者に思われてし まった時点で、若手芸人は価値を失ってしまうのだ。
なぜ他人を見下すようなバラエティ番組が多いのか
視聴者が思う「素人」の幅がとても狭くなってしまったせいで、そんじょそこ らの「素人」では間に合わなくなった。そのせいで、若手お笑い芸人という特 殊なポジションが必要になった。
たとえ素人が出場する番組であっても、視聴者は彼らを「素人」としては見て くれない。アタック25なんかに出る出場者を「すげー、やっぱりこういう番組 に応募する人たちは俺たちとは違うな」という目で見る。「俺たちとは違う」 と思われてしまった時点で、それは本来のアタック25ではない。誰でも賞金獲 得のチャンスがあるからこそのアタック25なのだから。
無名の人を「普通の人」と思うことができなくなってしまい、よく知らない人 がいろんなことをやっているのを「自分より才能がある別世界の人間」と考え るようになってしまった。そのため、何の才能もないという確証が持てる人が 必要になってきた。それが若手お笑い芸人と一部のバラエティ系テレビタレン トなのである。
そういうタレントは、繰り返しテレビに出演して「才能のなさ」を見せつける ことによって、「才能のない人」という確証を視聴者に植え付ける。「才能の なさを見せつける」とは、具体的に言うと、繰り返し他人からバカにされるこ とだ。これが、「他人を見下して笑いをとる」ように見える人もいる。
バカバカしい芸や下品な芸が多いのも、ここに原因がある。「才能があるから 笑いを取れる」のではダメで、「才能はないけど笑いを取れる」ように見せな いといけないのだ。視聴者に、「自分にはできない」ではなく、「こんなバカ バカしいことは金をもらってもやらない」と思われなくてはならない。
一部の人は、こういう番組を見て、「視聴者は他人を見下して優越感を得てい る」と思ってしまう。それは間違いだ。視聴者は、見下されている人に対して 親近感を持つ。視聴者は、バカタレントを見下して「俺はアイツより上だ」と 思うのではなく、バカタレントが見下されるの見て「アイツは俺と同じだ」と 思うのである。
テレビとトレンディドラマ
さて、テレビの中と現実との距離感という話に戻そう。もともとテレビで放映 されるのは、自分からは遠い世界の出来事だった。その距離感が狂ってきたの が、バブル期に流行ったトレンディドラマである。これ以降、視聴者はテレビ との距離をつかめなくなってしまっている。
ドラマとの距離
少し前、「14歳の母」というドラマが放映された。このテーマは、昔金八先生 でやったのと同じテーマだ。しかし、テーマは同じでも、印象は大きく違う。
金八先生の頃は、中学生が出産するということは、とてもありそうにないこと だった。「ありそうにない」というのは、「物理的に不可能」という意味では なく、「少なくとも自分の身の回りでは起きない」という意味だ。金八先生の 時代では、まさかウチの子はそういうことを起こすとは思っていないし、そん な子に接する機会があるとも思っていない。だからこそ、安心してそのドラマ を見ていることができた。
しかし今の時代には、そんな安心感がない。「もしかしたらウチの子も」と思っ てしまう。「まさかウチの子に限って」と思っている親バカでも、「もしかし たらウチの子の友達の中には」と思ってしまう。
ドラマの世界は、自分とは遠い世界を舞台にしたものが主流だった。普通の人 が普通に暮らすのを見ていても、あまり面白くはないからだ。しかし、今では そうではなくなってきている。
トレンディドラマ
「普通でない世界を見せる」という原則を少し変えたのが、バブル期に流行っ たトレンディドラマだ。トレンディドラマは、形式としてはそれ以前と同じ 「遠い世界」を描いたものだ。美男美女がまるでドラマのような恋愛をする。 しかし、そこに「近い世界」の要素が加わっていた。馴染みのある東京が舞台 で、そこかしこに当時の流行が取り入れられていた。
トレンディドラマのコンセプトは、素人参加番組に似ている。見ている一般の 視聴者が、テレビの中の「遠い世界」に入るというコンセプトだ。トレンディ ドラマの舞台となった場所で、ドラマの主人公が持っていたのと同じブランド 物のバッグを持って、同じように夜景の見えるレストランで食事をすれば、ド ラマの中の世界に自分も入ることができる。
当時はバブルまっ盛りで、「近い世界」が「遠い世界」に近くなっていた。日 本人の多くが、ドラマみたいな夢の生活を送っていた。トレンディドラマは、 遠い世界を映しながら、「あなた達もこちらの世界に来ることができますよ」 と宣伝した。そして、その通りになった。
バブルが弾けて、ドラマの世界がまた現実とは遠くなった。その時、トレンディ ドラマはまた「遠い世界」に戻るのではなく、ドラマの世界のレベルを下げる ことで、「視聴者がそこに行くことができる程度の世界」を維持した。簡単に 言えば、より現実的な舞台設定をするようになった。
現実を追い越したテレビ
まとめると、昔はテレビは「自分とは関係の薄い世界を映す」ものだった。し かし、トレンディドラマはそれを「未来の自分たちの世界を映す」ものに変え た。
バブルの頃は、未来の世界と今の世界には大きな違いがあった。未来の自分達 は、テレビの向こうのような生活をしているかもしれないという希望があった。 しかし、バブルが弾けて社会が停滞すると、未来の世界と今の世界の違いが無 くなってきた。どうせ未来の自分も今とたいして変わらないと思うようになっ てしまった。それで、ドラマは「今の自分たちの世界を映す」ものに変わって きた。
テレビが「未来の世界を映す」ということは、今の世界を否定して、テレビの 中の世界を肯定するということだ。「あなたの今の世界はじきに無くなって、 この番組で提示している世界に変わります」というメッセージである。このメッ セージはそのままに、「未来の世界」が「今の世界」に変わったらどうなるだ ろう。
「あなたが今の世界だと思っているものは、実はとっくに無くなっているんで す。今の世界は、この番組で見せているような世界なんです」というメッセー ジを、今のテレビは発し続けている。そして、皆が「ふーん、そうなんだ」と 思って従うことで、それは現実となる。今の人は、「自分が知っていると思っ ている世界は、実は間違っているのかもしれない」と思いながら暮らしている。 そして、本当の世界を知りたいと思ってテレビを見る。
「14歳の母」では、「テレビに影響されて実際に14歳の子が母になろうとした らどうするんだ」とよく批判される。金八先生の頃は、いくら中学生とはいえ そんな風に思うバカはいないだろうという安心感があった。しかし、今ではそ の安心感がないし、実際そういうバカがいる。
距離感の消失
本当は、テレビの映している世界は、この世の真実でもなければ、嘘でもない。 単に「遠い」世界なのだ。「そんなこともあるのか。へぇー、世の中って広い んだなぁ」とのん気に構えていればよく、その中から少しでも自分の生活に生 かせるものを持ってこれれば儲け物という程度に考えていればいい。
しかし、今の人達は、自分の知っている今の自分の生活が、実は間違いなんじゃ ないかと思っている。いや、間違いというよりは、「本来あるべき生活ではな い」と言った方が正確だろう。テレビが発してくれている情報を知らないこと で、「本来あるべき生活」を知らないから、今の生活になってしまっていると 考える。だから、必死になって情報を集めて、「本来の生活」を取り戻そうと する。
こうなってしまうと、情報と適切に距離を置くことを忘れてしまい、「知らな い」ことに恐怖感を覚えるようになってしまう。情報を得て「儲かった」と思 うのではなく、情報を得るのが当たり前で、情報がないと「損した」と思って しまう。
まとめ
昔は、テレビなどマスコミは情報チャンネルの一つに過ぎなかった。身近な情 報はマスコミからは得られなかったし、また得る必要もなかった。だから、身 近な情報を口コミなどで得た上で、遠い世界の出来事としてテレビを見ること ができた。
そのうち、その遠い世界に「自分の知っている世界」が重なるようになった。 初めのうちは知ってる世界がテレビに映ると、何だかその世界がレベルアップ したような気になった。
バブル期になると、自分の身の回りの世界まで実際にレベルアップしてきた。 夢みたいな世界が本当に現実になった。バブル期には、「あっちの世界へ行く 方法」を知ってさえいれば、実際にそこへ行くことができた。土地や株に手を 出せば億万長者になれた。それで、「夢みたいな世界」が現実で、今まで自分 の身の回りの世界だと思っていたのは、単に無知だっただけなんじゃないかと 思い始めた。
バブルがはじけて、夢みたいな世界が現実になるということはなくなったけれ ど、テレビが「正しい世界を映す鏡」であるという認識は固定してしまった。 テレビの側がレベルを下げて、「こっちの世界」を映すことを重要視するよう になったからだ。
みんなが中流意識を持っていた頃なら、それも成り立った。サザエさん的世界 を映していればよかった。しかし、「こっちの世界」が多様化したので、何を 映しても視聴者全員が「こっちの世界」だと認識することができなくなった。 ある人にとっては「こっちの世界」なのが、ある人にとっては「よその世界」 になり得る。
昔は、テレビが「あっちの世界」を映すものだったから、単に「世の中は広い んだなぁ」と思って見ていればよかった。しかし、「こっちの世界です」と言っ て、視聴者の一部にとっては遠い世界を映すものだから、視聴者は混乱してし まう。自分の身の回りの世界が偽物で、テレビの言う世界が本物なのだと勘違 いしてしまう。テレビはテレビで、誰もが受け入れられる「こっちの世界」を わざわざ作り出そうとしてしまう。
今では、テレビが見せてくれる「こっちの世界」が作りものだと認識している 人も多い。しかし、作りものでない世界を知らないせいで、「すべてのものは 作りもの」だと思ってしまっている人もいる。