ネット世代の心の闇を探る

現代社会の様々な特性が、若者の心をむしばんでいる。

ゲームやアニメなどで「現実と虚構の区別がつかなくなっている」というコメ ントがなされることがある。しかし、ゲームをやっている当の本人達は「とん でもない。現実と虚構の区別はちゃんとついている」と言う。「現実と虚構の 区別がつかない」という言葉を、まるで「現実世界での人殺しとゲーム内での 人殺しの区別がつかない」と言っているように受け取ってしまうと、この問題 を間違って解釈してしまう。

面白いことに、この問題の中身を知ると、「とんでもない。現実と虚構の区別 はちゃんとついている」と言うことそのものが、現実と虚構の区別がついてい ない証拠であることが分かる。

「現実」と「虚構」の構造

本当の意味で現実と虚構の区別がついている人と、そうでない人の、現実と虚 構の関係を図にしてみよう。この問題は、図を書いてみると一目瞭然である。

現実と虚構の区別がついている状態
図1: 現実と虚構の区別がついている状態

現実と虚構の区別がついていない状態
図2: 現実と虚構の区別がついていない状態

さて、どちらの方が「現実と虚構の区別がついていない」だろうか。前者の図 では、「虚構」が「現実」の中にどっぷりと漬かってしまっている点で「区別 がついていない」。それに対して、後者の図では、「現実」が「虚構」と同じ 形をして横に並んでいる点で「区別がついていない」。そして、「ゲームばか りやっていると現実と虚構の区別がつかなくなる」と主張する人にとっての 「区別がついていない」状態とは、後者のことである。

どちらが本当の「区別がついていない」状態なのかを議論しても仕方がない。 両者の言っていることが一致していれば良いのである。一方が「お前たちは図 2のように区別がつかなくなってしまっている」と主張し、それに対して「俺 は図2のように区別がついている」と反論する。よくよく考えてみると、意見 は一致している。

ここまでのことが理解できれば、「ゲームやアニメにどっぷり漬かると現実と 虚構の区別がつかなくなる」という問題については、異論がないことが分かる。 ゲームやアニメにどっぷり漬かっている本人たちが、自分から「俺たちは区別 がついていない」と言っているのをよく見かける。

なぜ残虐なゲームをすると現実と虚構の区別がつかなくなるのか

「現実と虚構の区別がつかない」として、アニメやゲームがよく問題視される。 それも特に残虐表現が問題となる。なぜ残虐なゲームは問題なのだろうか。

「残虐なゲームばかりやると、日常でも残虐行為を行いたくなる」から問題な のだと思っている人がいる。そんな人も中にはいるだろうが、そこが問題なの ではない。前に述べたように、問題は「ゲーム内のことが現実とつながってし まうこと」ではなく、逆に「ゲーム内のことが現実から切り離されてしまうこ と」なのである。

残虐なゲームばかりやることで、現実では残虐行為を行いたくなくなることこ そが問題なのである。これでは、自らの残虐性を反省する機会がない。残虐性 に歯止めがかからず、いくらでも膨んでしまう。だからこそ問題なのである。 これよりはむしろ、現実でも残虐行為をやって、こっぴどく叱られて深く反省 する方が、ずっと本人のためになる [1]

自分の心の中に残虐性が過剰に生み出されている人にとって、「虚構」はちょ うどよいゴミ捨て場だ。その他の様々な欲求は現実世界の中で普通に発散でき ても、残虐性はなかなか発散できない。だからその発散の場をゲームに求める。 しかし、ゲームというゴミ捨て場を見つけてしまうと、「残虐性が過剰に生み 出される」という根本的な問題が解決されないままになってしまう。

残虐なゲームと「現実と虚構の区別がつかなくなる」という問題は密接に関係 する。なぜなら、現実と虚構の区別がついている人にとっては、ゲームの「残 虐性」には何の価値もないのだから。

なぜゲームが特に問題視されるのか

同じくらい残虐なシーンが、映画やテレビなどの映像では良くても、ゲームで は問題視されることも多い。これをゲームに対する不当な圧力だと考えてしま う人もいるが、そうではない。もっとも、今「ゲーム」と呼ばれているものの 中には、単なる紙芝居やムービーゲーが多く含まれてしまっているので、ここ で書くほど単純な話にはならないが、基本的には、ゲームは映画やテレビとは 全く違うものなのだ。

ゲームが映画やテレビと違うのは、ゲームが「自分で動かすもの」だからだ。 ゲームでは、ゲーム内のキャラクターの行動は自分で決められる。これが、映 画やテレビとの大きな違いだ。

映画やテレビでは、どんなに残虐なシーンがあっても、「これは自分がやった ことではない」という言い訳が存在する。それに対して、ゲームでは、自分が 操作しているのだから、この言い訳が通用しない。たとえば、通行人を意味も なく殴り殺す残虐なシーンがあったとしよう。映画では、このシーンを見て 「なんて残虐な奴だ。けしからん」と他人事のように怒っていることができる。 しかし、自分で操作して通行人を殴り殺すゲームでは、けしからんのは自分自 身である。そこから逃れるために、「これはゲームであって現実ではない」と いう逃げの手を使うことになる。

つまり、ゲームでは他に逃げ場がないために、ゲーム内のことを丸ごと現実か ら切り離してしまいがちなのである。だから、ゲーム内の残虐表現は映画やテ レビなどより問題なのだ。

エロの問題

残虐ゲームと並んで問題視されるのが、どぎつい性的描写だ。エロシーンの一 部は残虐性を含んでいて、残虐ゲームと同様に考えることができる。ロリペド ものも同様だ。しかし、そうではない普通のエロシーンならば問題がないのだ ろうか。ここで、本当の問題はエロではないのだということを頭に入れると、 問題の所在が見えてくる。

普通の人の感覚では、ギャルゲーをやっている人よりはまだアダルトビデオを 見ている人の方が健全に思える。アダルトビデオにも相当な虚構が詰まっては いるが、それでもまだ現実っぽいからである。そして、「実写よりアニメの方 がいい」なんて言っている奴が問題なのも、アニメの方がより現実離れを起こ しているからだ。本当の問題は「現実離れ」にある。

エロゲーやギャルゲーの問題を論理的に分析するまでもなく、実態を見てみる と、これらはまさに「虚構を現実から切り離す」ということをやっている。本 当の問題はエロではなく、現実から切り離されてしまっていることである。だ から、考えるとしたら「なぜエロはいけないか」ではなく、むしろ「なぜエロ が入ると現実離れしてしまうのだろう」という問題だ。(ここではエロの話を 深く考えるつもりはないので、この問題は別の機会に譲るとする)

現実と虚構の区別がつかなくなるという問題

たまに勘違いしている人がいるが、「現実と虚構の区別がつかなくなる」という 問題は、そういう奴が社会に迷惑をかけるから問題なのではなく、このこと自 体が問題なのである。そして、それはその人の個人的な問題だ。


  1. 「本人のためになる」だけで、周りはいい迷惑だが。なお、こう書くと、 すぐ殺人の肯定かと勘違いする人がいるが、残虐行為=殺人になってしまって いるところが、現代の大きな問題点なのである。この意味が分からない人は、 君のおじいさんに、自分が昔やった残虐な行為について聞いてみよう。 ↩︎