ネット世代の心の闇を探る

現代社会の様々な特性が、若者の心をむしばんでいる。

客観性

ネット世代の人間は、「客観性」という言葉の意味を間違えて使っている。本 来、「客観性」とは、「現実」について述べて いるということである。しかし、ネット世代の人は「現実」という概念を理解 できていないので、客観性という概念も同様に理解できず、間違った解釈をし てしまう。

現実と意見

現実の定義合戦

ネット世代の人は、他の人が皆、自分の都合が良い現実を相手に押し付けよう と「現実の定義合戦」をやっていると思っている。この定義合戦で勝てば、自 分の思い通りの現実を作ることができる、と思っている。声が大きい人が「こ れが現実だ」と言ったら、それが現実になってしまうのである。

だから彼らは、相手の言っていることを判断するのに、相手の意図をまず考え る。「相手は、自分を思い通りに操るために現実を書き換えようとしている」 と考えるからだ。これが、現実は誰にも書き換えることができないと思ってい る普通の人にとっては、とても奇妙に映る。

意見の押し付け

これがいわゆる「意見の押し付け」と彼らが呼ぶものである。本来、意見を 「押し付け」ることなど不可能である。しかし、彼らは自分に向かってきた意 見を、「自分を書き換えてしまうもの」だと受け取ってしまう。

「自分に向かってきた意見」とはつまり、その内容が自分自身にかかわる意見 である。彼らは、相手が自分のことについて言っているのを聞くと、本能的に 「自分はもしかしたら操られてしまうのではないか」と感じてしまう。だから、 それに対して抵抗しようとするのである。

たとえば、彼らは、「勉強しなさい」という相手の言葉を、「自分を操るとい う意図を持っている」と解釈する。これはある意味正しい。「勉強しなさい」 という言葉は、相手に勉強をさせようと思って言うのだから。相手に伝えよう として発した言葉には、必ず意図がこもっている。これを「押し付け」と呼ぶ のであれば、ほとんどの言葉は意見の押し付けになってしまう。

情報とソース

ネット世代の人たちは、情報の信頼性を情報元(ソース)で判断する。信頼でき ると考えた情報元からの情報は「正しい」として扱うことにしてしまう。

情報元の「意図」が、彼らにとっての評価基準となる。情報元に、ある内容を 信じ込ませようという意図が見え隠れする場合、それを彼らは「偏向報道」と 呼び、その内容をウソだと思ってしまう。特に、自分がその情報を信じ込むこ とで相手に利益が発生する場合には。

彼らは、あらゆる情報には「真意」が隠れていると思っている。そして、その 真意が自分に敵対するかどうかを考える。自分の「敵」は、自分をだまして利 益を上げようと思っていると考えてしまう。だから、敵が言っていることは信 じず、味方が言っていることだけを信じる。こう書くとまるで新興宗教だが、 教祖がいないだけで似たようなものである。

彼らは、情報の信頼性を判断するために、情報の内容ではなく、情報元を調べ る。そして、その人の言うことを丸ごと受け入れるか丸ごと否定するかを決め る。このような態度は、少なくとも情報を仕入れる態度としては好ましくない。

すべてのものは意見である

ネット世代の人は、自分に向かってくる様々な情報を、人の「意見」として受 け取る。そして、それを「同意」するかしないかを決める。本来、人の意見は 同意するものではなく、理解あるいは納得するものである。

彼らにとって、すべての情報は人の手を通っていて、その人の意図が大きく反 映されていると思っている。それはある意味間違いではない。彼らは、そうい う情報にしか接していない。そして、そういう誰かの意見の中から、正しいも のをより分けて取り入れようとする。

そういう態度でいる限り、客観的な視点を持つことはできない。

客観性と自主性

情報を自分で集める

本来、「偏向報道」であることは、内容がウソであるということとは別のこと である。偏向した情報をたくさん集めて、自分で判断をすればいいだけの話だ。

人が流す情報は、すべて何らかの形で「偏向」している。もし「いや、○○さ んは偏りのない情報を流している」と思うなら、それは自分自身が偏ってしまっ ていて、「偏り」の存在に気がつかないだけだ。まずは、「情報は偏っている のが普通である」ということを頭に入れておかなくてはならない。

逆に「偏向していない情報」とは何であるかを考えると、問題がはっきりする。 偏向していない情報とは、すべての要素が詰め込まれていて、それさえ読めば すべてオッケーな情報だ。そんな情報などあるわけがない。(ネット世代の人 は、現実の無限の複雑さを実感できないため、安易に完璧を求める傾向にある)

この世に完全な情報などあるわけがない。しかし、これは不完全な情報で満足 しなくてはならないということではない。重要なのは、「完全な情報を得られ る」ということではなく、「情報を望むだけ完全に近づけることができる」と いうことなのだ。自分で情報を集めることができれば、前者は不可能でも後者 は達成できる。

疑問を持つ

「自分で情報を集める」というと、情報を集める手段にばかり目が行ってしま うが、それよりずっと大事なことがある。何の情報を集めるかということを自 分で決めるということだ。

要するに、自分で「疑問を持つ」ということである。そして、自分で持った疑 問に対して自分で答えを見つけるようにする。そうすれば、それぞれの情報を 自分にプラスになるように集めることができる。

最近の情報は、「疑問」とセットになって提供されることが多くなっている。 「○○って不思議だと思いませんか?それは実は……」というように。こうし た提供のされ方をすると、一つの視点からの情報を得ただけで、疑問が解決し たような気になってしまう。

これの代表的なものが、みのもんたがフリップでやっている、紙をペロッとめ くっていく方法だ。フリップを見せられて観客は「この空白には何が入るんだ ろう」と思い、直後にそれが開けられて「なるほど、そうだったんだ」と分かっ た気になる。これを続けていくと、観客は分からなかったことが次々と分かっ た気になり、とてもためになったように感じる。しかし、こうして浮かんだ疑 問のそれぞれについて、詳しく調べることはしない。

もし、最初から「○○はなぜだろう」と思って調べ始めたのなら、最初から完 璧な答えが見つかることはないだろう。いくつもの手掛かりから始まって、そ れらをさらに詳しく調べていくことで、はじめて答えが見つかる。いくつもの 手掛かりを見つけた段階で、様々な視点による情報が入ってきている。まずは 全体像を大まかにつかみ、そこから順に細部を見ていくという方法である。そ ういう過程を経ずに、質問が与えられて、すぐ答えが与えられてしまう。そこ に「自分で調べる」というステップが存在しないところが問題なのだ。

客観性と自主性

いささか逆説的だが、客観性は観察する個人の意思があってはじめて確保され る。客観性というと、個人の意思とは相反するものと考えてしまう人もいるが、 本当はそうではない。

客観性とは、現実をあらゆる角度から見ることによってはじめて得られる。そ ういう意味では、人間は「完璧な客観性」を得ることはできない。まずは、完 璧に客観的な視点を持つことを放棄し、「客観的であること」ではなく「客観 的であろうとすること」を目指さなくてはならない。

「客観的であろうとする」とは、現実をあらゆる角度から見ようとするという ことだ。それには、自分で視点を自由に動かして、好きな向きでものを見るこ とが必要である。視点の決定に「自分の意思」が関与していないことを「客観 的である」ことと勘違いしている人がいるが、そうではない。それは客観的な のではなく、他人の主観に操られているだけだ。

また、これは「自分で視点を選択できる」というだけの意味でもない。既に与 えられたいくつかの視点を選択するというだけでは、「自由に視点を動かせる」 ということにはならない。状況によらずどんな視点もとれるということが、 「自由に視点を動かすことができる」ということなのである。

自由とその行使

もちろん、「自由に視点を動かすことができる」というだけでは、客観性は確 保されない。実際に、自分で視点を動かさなくてはならない。

普通の人は、「自由に視点を動かすことができる」と「自由に視点を動かす」 をあまり区別しない。なぜなら、自由に視点を動かすことができるなら、わざ わざ言われなくてもそうするだろうと思っているからだ。「人間誰しも、自由 に視点を動かして様々なものを見たいと思っている」と思っている。

ネット世代には、自由に対する信頼、もっと言えば人間に対する信頼に欠けて いる人が多い。そういう人は、たとえ自由に視点を動かすことができたとして も、そうするとは限らないと考える。自由に視点を動かして不快なものや危な いものを見てしまう危険を冒すよりは、快いことが分かっている一点だけを見 ていたいと考える。

だから、様々な視点からものを見るには、自分で自由に視点を決めるより、強 制的に視点を動かされる方がよいと考える。それでは、他人の視点でしかもの を眺められない。いくら他人の視点でものを見続けても、客観的にはなれない のだ。

客観性とは

人間は、完璧に客観的になることはできない。問題は、客観的であるかどうか ではなく、客観的であろうとしているかどうかなのだ。「客観的であろうとす る」というのはどういうことかというと、他人の主観に流されず、常に新しい 視点でものを見ようとすることだ。そのためには、自分で問いを見つけ、その 答えを自分で探すことが必要である。

「客観的」というのは情報の状態ではなく、人の態度である。だから、誰かが 客観的な態度で情報を得たとき、それとまったく同じ情報をなぞって受け入れ ても、「客観的な情報を得た」ことにはならない。

まとめ

ネット世代の人は、入ってくる情報はすべて主観的なものであって、自分だけ が主観的でない視点でその情報を取捨選択するのだと考えている。自分が主観 的であることに気づいていないのだ。

客観的であるためには、自分の意思をはたらかせないことが重要だと思ってし まっている。しかし、向こうからやってくる情報を受け取るばかりでは、客観 的な視点を持つことはできない。足りない情報を自ら探しに行くことで、はじ めて客観的な視点を持つことができるのである。足りない情報を自ら探しに行 くためには、何が足りないのかを自覚する必要がある。それが「疑問を持つ」 ということである。何が足りないのかを自分で見つけ出せてはじめて、それを 主体的に探し出すことができる。

ネット世代の人たちは、向こうの方から勝手に情報がやってくることに慣れて しまっているので、「知りたい」という欲求からスタートすることができない。 さらに、情報がないことに慣れていないので、「知らない」状態に対する不安 がある。そのため、「知らないから知りたい」という状態から早く逃れて、 「知っている」状態になろうとする。その結果、「知りたい」という状態でし ばらく様々な情報を集めるということができず、最初に見つかった情報に飛び ついて「知っている」ことにしてしまおうとする。

最初に見つかった情報に飛びついてしまうからこそ、その情報が正しいのかど うかが彼らにとって重要な問題なのだ。そして、情報の中身を検討することな く(なぜならそれは時間がかかるから)、情報の外見だけから素早く正しさを判 断しようとする。

彼らは、情報をただ受け入れることに慣れてしまって、情報を自分で作ること ができない。そこが一番の問題なのである。