ネット世代の心の闇を探る

現代社会の様々な特性が、若者の心をむしばんでいる。

思考の記号化

ネット世代の思考パターンの特徴に、記号による思考が挙げられる。物事を考 えるとき、対象を記号として認識し、それを組み合せることで答えを出すとい うやり方だ。もちろん、こういうやり方をしなくてはならない問題もあるが、 ネット世代の人はどんな問題でもこのやり方で解決しようとする。

彼らにとって、「理解」とは、入力となる文が、自分の持っている事実や推論 規則と矛盾しないことを確かめるという行為である。入ってきた文を「○○な ら××」というルールに分解し、そこに自分が既に知っている既存のルールを 加える。そして、それらのルールが矛盾なく組み合わさるならば、「理解でき た」とする。

彼らにとって、言葉とはジグソーパズルのピースである。そして、文章とはパ ズルのピースの組み合わせである。そして、たくさんの文章を集めたとき、パ ズルのピースが相互に組み合わさって一枚の絵ができることを、彼らは「理解」 と呼ぶ。

ここでは、このような方法で「理解」をしている人の特徴について述べる。

解釈ができない

彼らは、「思考」とは記号の組み合わせだと思っている。しかし、入力となる 言葉は記号ではない。本来、理解する上で最も難しいのは言葉を解釈する過程 なのだが、彼らはその難しさを知らない。

言葉の解釈を一通りしか考えられない

彼らは、言葉にはいくつもの解釈ができることを知らない。それで、文章に対 して自分のした解釈のみを正しいと考え、それ以外の解釈を「間違っている」 と決めつける。

それで、相手の詳しい説明に対して、「いや、この文章は○○としか読み取れ ない」と言うことになる。「○○としか読み取れない」というのは自分がバカ だからそうであるだけなのだが、それが普遍的なことだと思ってしまっている。

言葉は意味を伝える道具にすぎず、文章は書き手が言いたかったことを不完全 に伝えているにすぎない。しかし、彼らは不完全性に対処するのが苦手で、立 場を考慮するのも苦手だ。書いてあることをそのまま単語と単語の結び付きと して受け取ってしまう。

辞書にない使い方を認めない

彼らは、言葉の意味を自分で考えることができないので、辞書に書いてある文 章を定義として受け入れる。辞書に書いてある文章をルールに分解して、もと もとの文章にあるそれぞれの言葉をそのルールで置き換えようとする。

もともと、辞書は「言葉の定義」として絶対視するような用途で作られている わけではない。文章を読んで、「ああ、あれのことか」と意味を連想できるよ うに作られている。言い替えると、概念としては知っているけれど言葉が出て こない人用に作られているのだ。

言葉の意味を知らない人は、辞書に書いてある数行の文だけを読んで分かった 気になってはいけない。しかし、彼らにとっては、「分かる」とは単語と定義 文を結びつけることであり、数行の文を読んで覚えることこそが「分かる」こ とだと思ってしまっている。だから、自分の知らない概念に関しても、説明文 を読んだだけで分かった気になってしまう。

こうなってしまうと、数行では書ききれないほど深い意味のある言葉を、単純 な意味の言葉だと勘違いしてしまう。そしてさらに問題なことに、自分こそが 正しいと思い込んでしまう。

一人相撲をとる

彼らは、言葉にはいろいろな解釈があると考えず、自分が読み取った意味ただ 一つしかないと考える。それで、相手が言ったことですら、「あなたの言った ことはそういう意味ではない」と言う。彼らは、相手の言ったことを自分が正 しく解釈できていないと考えることができない。なぜなら、彼らにとって「解 釈」は一つしかなく、それは自明のものだからだ。

だから、相手の言ったことを自分勝手に解釈して、それに対して反論するとい うスタイルになる。これが、相手にとっては一人相撲をとっているように見え る。相手にとっては、「自分が言ったことを自分に都合のよいように勝手に解 釈して、それに対して反論している」ように見える。

「自分に都合の良いように勝手に解釈」と考えてしまうと、相手がいかにも悪 意を持っているように思えてしまう。しかし、実際はそうではない。彼らは、 「自分の都合」など持ってはいない。単に、自分が理解しやすいように解釈し ているだけだ(それが「自分の都合」なのだと言えばそうなのだが)。

問題は、彼らが「勝手な解釈」という概念を持ち合わせていないところだ。だ から、「それはあなたの勝手な解釈だ」と言われても、理解できない。

言葉の定義とは

彼らは、「言葉の定義」という概念を理解するのが苦手だ。「言葉」と「意味」 の間にある複雑な関係を認識できず、双方が常に一対一で対応すると考えてし まうからである。「AはBである」という文は、事実を示す文であることもあれ ば、言葉の定義文であることもあるが、彼らはどちらも同じように受け取って しまう。

たとえば、「冬は寒い」という文について考えてみよう。これは事実なのだろ うか?これは、どんな状況なら「冬は寒い」ということをどうやったら否定で きるかを考えてみるとはっきりする。12月なのにまだ暖かかった場合、これは 「冬なのに暖かい」のか、それとも「今年はまだ冬が来ない」のか。もし後者 のように解釈するなら、12月に暖かかったとしても「冬は寒い」を否定する材 料にはならないことがわかる。暖かいうちは冬ではないのだ。

では、12月も1月も暖かかったらどうなるのか。そうすると「今年の冬は暖か かった」となる。これも、「冬は寒い」の否定にはならない。今年の範囲で 考えれば一番寒かったのだが、例年に比べれば暖かかったというだけだ。つま り、「冬は寒い」というのは、どうやっても否定できないのだ。それは、これ が言葉の定義だからである。

言葉とイメージ

普通の人は、言葉を概念として、極端に言えばイメージとして受け取っている。 「冬」というと、枯れ木に雪が降りつもり、子供が庭で雪だるまを作って遊ん でいるイメージだ。実際にはこんな光景を見ることはなくても、それが「冬」 のイメージなのである。

だから、「冬」という言葉の意味を聞かれると、こうしたイメージを説明しよ うとする。「冬というのはほら、枯れ木に雪が降り積って……」と言う。それ に対して、言葉をイメージでとらえられない人は、これを厳密な言葉の定義と 受け取ってしまう。それで、「雪が降らないと冬じゃないのか!?」と反論す る。

言葉をイメージで説明するのに失敗すると、話し手は次に「冬というのは、12 月や1月みたいな季節のことだよ」と例で説明しようとする。そしてこれも失 敗する。彼らは、「冬」=「12月と1月」だと受け取ってしまうからだ。

解釈ができないということ

解釈というのはつまり、言葉を自分の頭の中の概念と対応づけるということだ。 このためには、自分の頭の中に「概念」がなくてはならない。

本来、「言葉の定義」というのは、概念は共有しているが言葉が見つからない 人にとってのものだ。英語の"winter"という単語を知らない日本人が、日本語 の「冬」という単語を知らないアメリカ人に、日本語の「冬」を英語で何と言 うかを聞くようなものだ。この場合、イメージや例でなんとか「冬」という概 念を伝えようとする。それを聞いて、相手が「ああ、それはwinterのことだね」 と分かれば、目的達成である。

では、相手がもし常夏の島に住む人だったらどうなるか。年中裸で暮らし、雪 を見たこともない人に、「冬」がそちらの言葉では何かを聞いても、答えが返っ てくるわけはない。「冬」という概念そのものが存在しないのだ。

それでは、常夏の島に住む人が、英語を使っていて、しかも日本語の知識もあっ たらどうだろうか。「冬」="winter"というつながりさえ暗記していれば、 「冬」とは何なのかがさっぱり分かっていなくても、「冬?ああ、英語では winterだよ」と言える。

本来、「冬」という概念を知らない人は、まずは「冬」とは何かを知らなくて はならない。しかし、言葉と言葉の結び付きが「知る」ということだと思って しまっている人は、「冬とはwinterである」ということを知ると、何だか分かっ た気になってしまう。

意見の後付け

「○○とは何か」という問題について語るということは、すなわち言葉をイメー ジで語るということだ。「冬」とは何かを知らない人に、「冬」のイメージを 説明する。それには、相手が分かるまで、冬にまつわるいろんな話をするしか ない。

意味を「言葉の対応付け」としてとらえている人は、こうした「○○とは何か」 という話が苦手だ。彼らにとっては、「冬とは△△である」ときっぱり言える ことが「理解する」ということなのだ。本来、こんな風に言えるわけはないの だが。

彼らは、普通の人がやるように言葉に対して説明を加えていくと、かえって混 乱してしまう。「冬は雪が降る」「冬は道路が凍る」「冬は猫がこたつで丸く なる」などと言うと、そのたびごとに「冬=雪が降る」「冬=道路が凍る」な どという等式を頭に作る。だから、「さっきまで冬とは雪が降ることだと言っ ていたのに、いきなり猫がこたつで丸くなることに変わってしまった!」と混 乱する。

それで、彼らは「あなたは自分の意見に都合のいいように言葉の定義をコロコ ロと変える」と言い出す。あるいは、「あなたは自分の都合のいいように架空 の概念を作り出しているだけだ」と言う。彼らは、「概念」という言葉の意味 を知らないのだ。

概念が増えない

一応言っておくが、ネット世代はまったく「概念」を持たないと言っているわ けではない。強いて言えば、「概念」という概念を持っていないということだ。 彼らは、自分が何をやっているのかを分かっていないのだ。

普通の人は、文章からイメージを想像し、そこから本質的な部分を抜き出して 概念を見つけ出すということができる。しかし、言葉を記号としてしか考えら れない人には、それができない。文章の中から「本質的な部分」を抜き出すこ とができず、どうでもいいことまで含めて全部暗記するか、全部無視するかの どちらかしかできない。

彼らは、言葉を暗記することと、概念を深く知ることの違いが分からない。だ から、言葉を暗記しただけで分かった気になって、それより深く調べようとし ない。そのせいで、新しい「概念」がなかなか増えない。「□□とは○○だ」 「○○とは××だ」「××とは△△だ」をいくら繰り返しても、言葉の置き換 えだけで、新しい概念を獲得することはできないのだ。

真偽を形式で判断する

概念を言葉の結び付きで考える人は、文章の真偽を判断するのに、文章の中身 ではなく形式を使う。「○○は××である」ということを言うのに、文章中で 「○○」から「××」まで言葉の結び付きの連鎖が続いていれば、「正しい」 と判断する。

そのせいで、いくつかの典型的な間違いをする。これらの間違いは、文章の内 容をよく読んで考える人には、あまりにも突拍子がなく、まるで異次元からやっ てきた人なのではないかと思えてしまう。

前提の消失

彼らは、文章に書かれている様々な前提や制限事項を無視して、結論だけを抜 き出して覚えてしまう。このことが、極端で恣意的な解釈をするように見えて しまう。

たとえば、「超高出力の電磁波を人体に浴びせると、人を殺すこともできる」 という事実を、「電磁波を浴びると人は死ぬ」に変えてしまう。彼らは、「○ ○は××である」以外の複雑な事柄を頭に置くことができないのだ。

こういう人に続けて「いや、携帯電話程度の電磁波では人を殺すことはできな いから」と言うと、「電磁波では人は死なない」とだけ理解してしまい、「さっ きと言っていることが違うじゃないか。矛盾している」と考えてしまう。

理由の軽視

文章に前提として書かれていると、比較的わかりやすい。しかし、多くの場合、 前提は「理由」という形式で書かれる。こうなると、「理由」の使い方が異な る彼らは、余計に混乱してしまう。

上の話を、「電磁波は人を殺せる。なぜなら、電磁波は人体に吸収されて熱に 変わるからだ。当然のことながら、多くの熱を持つと、人は焼け死んでしまう」 という言い方に変えると、「理由という形式で前提を書く」ことの意味がわか るだろう。この理由を読めば、普通の人なら「ああ、この人は相当高出力な電 磁波のことについてだけ言っているんだな」ということがわかる。

しかし、言葉の結び付きだけを重要視する人は、「理由」の存在を違う意味に 受け取る。彼らは、「理由」とは、提示された言葉の結び付きの正当性を示す ものだと考えている。彼らはまず「電磁波は人を殺せる」を読み、「これは本 当なのだろうか?自分の頭の中のデータベースにインプットしていいのだろう か?」と不安になる。そこで、その後ろに書いてある「理由」を読む。理由を 読んで「ああなるほど、確かにそうなる」と思ったら、最初の「電磁波は人を 殺せる」を頭の中にインプットする。「理由」はここで用済みとなって、忘れ られる。

このプロセスは文章を読む最中に行われ、文章を読み終わったらもう理由の部 分は忘れてしまっている。だから、こういう人は相手から「自分が書いたこと の最初の方しか読んでいない」とか「2,3日前に書いたことをもう忘れている」 という印象を持たれる。

文章の単語を勝手に入れ替える

文章を言葉の結び付きだけで理解している人は、文章の形式だけが大きな意味 を持つ。文章の真偽を判断するのに、文章の形式だけを頼りにする。

これがひどくなると、文章中の単語を勝手に入れ替えても、文章の真偽が変わ らないと考えてしまう。「AはBである。BはCである。だからAはCである」と書 かれていれば、「ああなるほど」と思ってしまう。「BはCである」が本当に成 り立つのだろうかと疑問に思わない。

そういう人は、上の例を、「怒りは人を殺せる。なぜなら、人は怒るとカーッ と体が熱くなるからだ。当然のことながら、多くの熱を持つと、人は焼け死ん でしまう」などと勝手に置き替える。このような文章をまともに信じてしまう とんでもないバカも中にはいるが、多くの人は反論に使う。「ほら、お前の文 章は『電磁波』を『怒り』に変えれば、『怒りは人を殺せる』になってしまう じゃないか」と。デタラメに改変しておいて、「デタラメじゃないか」と言っ てくるから始末に困る。

書いていない=間違っている

彼らは、文章に書いてないことを自分で補おうとしない。むしろ、自分で勝手 に補ってはいけないと考えている。それで、結論を導き出すのに必要な事項が 文章にすべて書かれていないと、「間違っている」という結論を出してしまう。

本当は、結論を導き出すのに必要な事項をすべて文章に書けるはずはない。誰 しも、様々なことを自分の知識で補いながら文章を読んでいる。しかし、彼ら にはその自覚がない。

相手にしてみれば、「なんでこの部分は書いてなくても勝手に補って読んだの に、この部分が書いてないと『必要なことがすべて書かれてない』と文句を言 うのだろう?」と不思議に思う。しかしこれは、「自分にとって必要なことが すべて書かれていない」という文句であると解釈すれば、意味は分かる。それ を人に向かって文句を言うのは精神年齢が低いなぁとは思うが。

彼らのことをコンピュータになぞらえて考えれば、彼らの行動は理解できる。 彼らは、与えられた文章が完璧でないと「エラー:理解できません」というメッ セージを出して止まってしまうのだ。

「客観性」の誤り

彼らは、文章を意味に変換せず、言葉のまま処理することを「客観性」だと勘 違いしている。それで、意味の理解を要求される文章はすべて「客観的でない」 と言ってしりぞける。

彼らは、どんな文章も数学の証明問題のように記号の組み合わせとして読み ([1])、自分の頭の中のデータベースにある公式と 組み合わせて結論を導くことができなければ「間違っている」と考えてしまう。 そして、「記号の組み合わせで解けるような問題ではない」と言われると、 「そんな文章には客観性がない」と言う。

彼らは、言葉から意味をはぎとって記号として処理することが「客観性」だと 思ってしまっている。だから、いつまで経っても本当の意味で「意味を理解す る」ことができないのだ。

中間がない

彼らの思考パターンには、中間の状態がなく、「完璧に正しい」か「全くの間 違い」のどちらかしかとらえることができない。これは、概念を記号に置き換 える過程で、「程度」の概念が落ちてしまうからだ。

否定を反対語ととらえてしまう

彼らは、「AはBである」を否定すると、Bの反対語を肯定したものと受け取っ てしまう。たとえば「この問題は簡単だ」を否定すると「この問題は難しい」 と言っているものととらえてしまう。

彼らは、文章を脳内にインプットする時に、すべて「○○は××である」とい うフォーマットに変換する。これ以外のフォーマット、例えば、「××という わけではない」とか「××ではないこともある」といった難しい言い回しは処 理できないのだ。否定文を肯定文のフォーマットに直そうとするから、意味が 変わってしまう。

面白いことに、相手の言っている「否定」はうまく扱えないが、自分は「否定」 を使う。だから、誰かが「この問題は簡単だ」と言ったのに対して別の人が 「この問題は簡単じゃないぞ」と言うと、「この問題は難しいわけじゃないぞ」 と言う。自分も相手と同じ論法を使っているのに、それに気がつかない。これ は、変換が脳内へのインプット時に行われるからである。

逆もまた真だと思ってしまう

彼らは、「AはBである」という命題と「BはAである」という命題の違いを判断 するのが苦手で、つい両者を同じものとしてとらえてしまう。「AはBである」 を、記号的に「A=B」ととらえてしまっているからだ。

彼らは、「AはBである」と言うと、「BなのはAだけじゃないぞ」と反論する。 「この問題は簡単だ」に対して「簡単なのはこの問題だけじゃないぞ」と反論 する。まったく反論になっていないのだが、そのことに彼らは気づかない。

反論をする

「まったく反論になっていないことに当人は気づかない」というのは、彼らに 一般的に見られる現象である。彼らは、文章を記号化する際に様々なものをそ ぎ落としてしまい、内容を単純化してしまう。そして、それに対して反論をす る。彼らは、相手の言ったことが自分の脳内にインプットされる時点で別のも のにすり替わってしまっているということに気がつかないのだ。

彼らは、何か言われると、「補足」でも「詳細化」でもなく「反論」だと思っ てしまう。そして、自分も「補足」や「詳細化」ではなく「反論」をする。彼 らにとっては、「正しい」か「間違っている」のどちらかしかないのだ。

彼らの言う「正しい」とは、彼らの脳内で文章が矛盾なく収まっている状態で あり、「間違っている」とはそうでない状態のことだ。だから、彼らには「正 しい」か「間違っている」かしかなく、「ちょっと言い足りない」とか「正し いが論点がずれている」というような考え方ができない。

彼らが「間違っている」というのは、「エラー:プログラムが正しくコンパイ ルできません」というエラーメッセージだと考えると、(プログラマにとって は)分かりやすい。エラーメッセージの箇所を見ると、変数の二重定義だった り、セミコロンが抜けていたりする。こんなささいなミスくらい自分で直せよ と思うが、相手はコンピュータだから仕方がない。そして、修正を繰り返せば コンパイルは通るようになる。ただ、それが正しく動作するかどうかは別問題 だ。

完璧指向

概念を記号の結び付きで考える人は、完璧指向に見えることがある。記号には 中間がないから、どうしても思考が極端になってしまうのだ。

たとえば、「お金持ちになれ」と言われると、松濤に何十億の豪邸を立てて高 級外車を何台も乗り回すようになれと言われたものと解釈してしまう。「お金 持ち」という言葉が、「松濤の何十億の豪邸」や「外車」と結びついているか らだ。

彼らは逆に、「貧乏」というとホームレスやネットカフェ難民のことだと解釈 してしまう。彼らはものを考える時に「お金持ち」と「貧乏」しか考慮できな い。だから、どうしても極端な思考になってしまう。

さすがに、彼らも本当にこの世の中にはホームレスと松濤の豪邸の2種類しか ないと思っているわけではない。しかし、彼らは意味ではなく言葉でものを考 えるから、言葉になってないものについて考えることができない。そして、言 葉になった瞬間、その言葉が示す典型、つまり極端な事例のことしか頭に浮か ばなくなってしまうのだ。

「普通」がない

彼らは、対応する言葉がない概念について考えることができない。極端なこと に対しては言葉があるが、「普通」に対しては言葉がないことが多い。だから、 彼らは「普通」について考えることができない。

これはある意味、現代の社会構造のせいでもある。昔は、「普通」が言葉とし て存在した。「中流」とか「サラリーマン」とか「小市民」とか。こうした言 葉がある時代なら、彼らも「普通」について考えることができただろう。

しかし、現代では「普通」の概念が広くなり、一言で言い表せなくなった。彼 らは一言で言い表せない対象について考えることができないので、「普通」が 「存在しなくなった」と考えてしまう。

まとめ

ネット世代の人は、イメージではなく言葉で思考をする傾向にある。言葉を組 み合わせることで、答えを導き出す。これ自体は悪いことではないが、これし かできないのは良くない。

言葉で思考する限り、既に言葉になっているもののことしか考えることができ ない。一般化や類推、想像といった、枠を広げるような思考をすることもでき ない。結果として、自分が既に持っている語彙からはみ出すことができず、い つまで経っても得るものがない。

彼らは、一般化や類推、想像といったプロセスを使った思考を「客観的ではな い」と考えている。「客観的である」とは、自分の持っている言葉の枠だけを 使った思考のことだと考えている。そもそも「自分の持っている言葉の枠」と いうのが主観なのだから、それは主観的な思考なのだ。

彼らは、自分の考え方は主観的であるにもかかわらず、客観的であると思い込 んでしまっている。だから、主観的な考え方の良いところを生かせないし、ま た客観的な考え方もできない。

実際に言葉を交わすと(会って話すという意味ではなく、言葉だけのやりとり をするという意味)、彼らは尊大で、相手に対して悪意を持っているように見 えるかもしれない。しかしそれは、親の都合を考えず夜中に泣きわめく赤ん坊 に「尊大なやつだ。俺はお前の奴隷じゃないんだぞ」と言っているようなもの だ。

普通の人が無意識のうちに当たり前にやっていることが、彼らにはできないの だ。普通の人にとっては、それができないということすら想像できないので、 彼に対して間違った印象を持つのだ。



関連


  1. 念のため言っておくが、数学の証明問題を解くのは記号の組み合わせだけ でできる機械的な行為だと言っているのではない。誰かが解いた数学の証明問 題をなぞるのは機械的な行為だと言っているのである。 ↩︎