ネット世代の心の闇を探る

現代社会の様々な特性が、若者の心をむしばんでいる。

現実


「現実と虚構の区別とは何か」でも詳しく述べた が、ネット世代の人間には現実感が欠落している。ここで言う「現実感」とは、 何が現実かを見分ける能力のことではない。自分を取り巻くすべてが「現実」 であり、そこから逃れる術はないのだという認識のことである。

ネット世代には、「現実」というものが唯一で確固たるものであると考えるこ とができない。虚構を現実だと思い込んでしまっているからだ。彼らの前には 虚構ばかりが提示されるせいで、「現実」というものがそういうものとはまっ たく質の違うものだということが認識できていない。

「現実と虚構の区別とは何か」で挙げた、現実と虚構の関係図をもう一度見て みよう。

現実と虚構の区別がついている状態

図1: 現実と虚構の区別がついている状態

「現実と虚構の区別がついていない状態」は、この図から「現実」を消して、 虚構の一つを「現実」という名前に変えた状態だ。 虚構を現実だと思い込む

図2: 虚構を現実だと思い込む

この現象は単に虚構と現実がごっちゃになってしまっているのではない。彼ら は現実とは何であるかを知らないのである。虚構を現実だと思い込ん でしまっていて、その背後にある「本当の現実」に気がつかないのだ。

彼らは、「現実」とは何かを知らないのだから、彼らの「現実」という言葉の 使い方が奇妙に思えるのも無理はない。

現実は変化するか

ネット世代に欠けているのは、「現実は唯一であり、不変なものである」とい う認識だ。こう書くと、彼らは「現実なんてコロコロと変わるものだ」などと 反論するだろう。こう反論するのは、現実というものが分かっていない証拠で ある。

変化するものとしないもの

現実は唯一であり、不変なものである。ここには議論の余地はない。なぜなら、 これは概念の定義だからだ。だから、ここに異を唱えるということは、概念が 理解できていないということなのだ。

確かに現実は変化する。しかし、だからこそ現実は不変なのである。桜の木は、 春になれば花が満開になり、夏になれば葉が茂り、冬になると寒々とした姿に なる。様子は大きく変化するが、それが「桜の木」であることには変化はない。 同様に、現実の中身は様々に変化するが、変化の内容もすべて含めたものが 「現実」なのである。

こうしたことは、無時間性の概念とも大きく関連する。ネット世代には、「変 化」という概念をうまくとらえることができない。あるものが別のものに変化 するとき、変わる部分もあれば、変わらない部分もある。ネット世代の人間は、 変わる部分にばかり目がいって、変わらない部分があるということを忘れてし まう。

変化の概念を理解できないということは、一般化 の概念が理解できないということだ。詳しくは「一般化」の説明に譲るが、 たくさんの「違うもの」の中から「同じ部分」を拾い上げるのが一般化である。 「現実」という概念は「普遍」や「一般」という概念でもある。こうした概念 が理解できないところに、ネット世代の問題がある。

自己意識との関連

自己意識という概念も、ここでの話と大きく関 連する。「自己」とは、日々変化していく「自分」が持っている、変わらない 部分だからだ。自分が何になろうと、「自分が自分である」ということは変わ らない。こうした自己意識を、ネット世代の多くの人間は持つことができてい ない。

逆に、「自己」というものが正しく認識できるのであれば、「現実」も正しく 認識できるだろう。自分が何になろうと「自分が自分である」ということは変 わらないように、世の中がどう変わろうと「これが現実である」ということは 変わらないのである。

ネット世代の考える「現実」とは

現実と現実認識

ネット世代の人は、現実が変化する例として、「昨日まで正しいと思っていた ことが、短期間でコロッと変わる」というような例を挙げる。しかし、これは 「現実が変わる」ということではない。「現実認識が変わる」ということだ。 「現実だと思っていたものが現実ではなくなった」ということなのだ。単に、 自分の思い込みが現実とズレてしまっていただけなのだ。

彼らは、「現実認識」を「現実」だと思ってしまっている。だから、「現実は 変わる」と思っているのだし、「現実は一つではない」と思っている。彼らの 発言は、「現実」という単語をすべて「現実認識」という単語に置き換えれば、 そう間違ったことは言っていない。

だったら、言葉の定義が違うだけで別にいいじゃないかと思うかもしれない。 しかし、そうではない。「現実」を「認識」することが「現実認識」なのだか ら、本来、「現実」がなければ「現実認識」はあり得ないはずなのだ。

つまり、彼らにとっては「現実認識」という概念も、普通の人が持っているも のとは違うのである。普通の人は、確固たる「現実」というものがあって、そ れを我々が観察、分析して、「現実認識」なるものを作る。しかし、確固たる 「現実」を持たない彼らには、これができない。

自分で現実認識を作ることができない彼らは、他人の作った現実認識をもらっ てくるしかない。彼らにとって、現実とは「皆が現実だと呼んでいるもの」 という程度の認識しかない。じゃあ皆がそう呼んでいる「現実」とは何だと聞 くと、答えられない。「現実」という概念の定義が、宙に浮いてしまっている。

彼らも、こうした大きな矛盾に気がついていないわけではない。気がついてい るが、放置している。そして、「この世の中は矛盾だらけだ」と言う。「矛盾」 という言葉が持つイメージもまた違っているところが、面白いところだ。

狭い「現実」

確固たる「現実」の認識がある人にとっては、「現実」は人間の理解を常に越 えていると思っている。我々が知っているのは常に現実のごくわずかな一部で しかなく、自分の知らないところにも無限に「現実」は広がっていると考えて いる。

それに対して、ネット世代の人にとっては、「現実」とは人間の認識のことだ から、人間の理解を越えた「現実」は存在しない。彼らは、自分の認識を越え ているものの存在を認識することができないのだ。現象としては、セカイ系に詳しく記した。

このことは、しばしば「人の話を聞かない態度」として受け取られる。実際の とこは、人の話を聞かないのではない。人の話を理解できないのである。自分 の認識の外にあるもののことについて考え、認識を広げていくことができない からである。

まとめ

他の話との関連性

客観性という言葉もまた別のところで説明す るが、ここで述べたのと同じような話になる。「現実」イコール「客観的なも の」だからだ。なぜか、ネット世代の人々は、「現実」を失っているにもかか わらず、「客観的」という言葉が好きだ。本来、片方がなければもう片方は存 在し得ないはずなのに。

彼らの「客観的」という言葉の使い方は、少しおかしい。これについては、 「客観性」の項で詳しく書くことにする。