同人
「同人」という言葉は、ずっと昔からあるにもかかわらず、最近になって意味 が変化している言葉だ。今では、オタクという言葉と半ば同義語のようになっ ている。
「同人」という言葉のもともとの意味は、そんなにずれてはいない。「同じ趣 味を持つ仲間」というような意味合いは、今でもたいして変わっていないよう に思える。しかし、「何の趣味を持つ仲間」かということをよく考えてみると、 なかなかに面白い。
「同人」という言葉は、本来、「文学同人」のように頭に分野の名前がつく。 「オタク」という言葉の方が分かりやすいだろうか。車オタク、鉄道オタクと いうように、何のオタクかということが頭につく。
それに対して、今の「同人」あるいは「オタク」という言葉には「何の」とい う限定がない。強いて言えば、「オタクっぽいこと」に関するオタクである。 今の「同人」は、自己言及的になっているのである。
同人とは
最近では、様々なものの頭に「同人」という単語をつけて、それが一つのジャ ンルであるかのような意味合いを持たせることがある。たとえば「同人音楽」 とか「同人マンガ」とか「同人小説」といったものである。
「同人」という言葉が「仲間」という意味だとすると、たとえば「同人音楽」 というのは「仲間音楽」となってしまい、どこか変だ。「音楽仲間」つまり 「音楽同人」なら、意味は通る。同様に、「小説同人(夏目漱石なんかがやっ ていたもの)」や「マンガ同人(トキワ荘みたいなところ)」と、「同人小説」 「同人マンガ」も、言葉を入れ換えただけで意味合いがかなり変わってくる。
特に、「同人音楽」という言葉は不思議な感じがする。「それって普通のアマ チュアバンドと何が違うの?」という疑問だ。これがもし「音楽同人」なら、 「それって、普通のアマチュアバンドのことだよね」で済む。「同人音楽がカ ラオケで配信された」なんて話題になったこともあったが、インディーズレー ベルが配信されることが全然珍しくないカラオケでなんで今さら話題になるの か、不思議である。
「同人音楽」は、普通のアマチュアバンドやストリートミュージシャンの音楽 とは何かが違う(らしい)。それは何なのだろうか。
目的と手段
「同人」の後に「音楽」や「小説」といった言葉をつけるのは、おそらく「同 人誌」からの類推だろう。では、「同人誌」の「誌」とは何だろうか。
本来、同人誌の「誌」はメディアを指す。昔はメディアといえば本しかなかっ たから、必然的に「同人誌」になった。同人とは「仲間」であり、仲間に読ん でもらうために作るのが「同人誌」である。だから、同人誌というのは本来、 「誌」のところに注目点があるのではない。同人で発行できるものが昔は「誌」 しかなかったというだけだ。
つまり、「同人音楽」というのは、仲間に聴いてもらうための音楽であるとい うことになる。そう考えると、「同人音楽」という言葉は実はそんなに間違っ てはいない。「いったい何の仲間なのか?」という大きな疑問を除けば。つま り、「同人音楽」というのは、「同人」が目的で、そのための手段が「音楽」 なのである。「音楽同人」の目的が「音楽」で、そのための「同人」であるの とは対照的だ。
このことは、仮に「アニメオタクの同人音楽」を考えてみるとよくわかる。ア ニメオタクが、同じアニメオタクの仲間に聴かせるために作った、いかにもア ニメオタクが好きそうな音楽が、アニメ同人音楽である。鉄道オタクが作った、 いかにも鉄道オタクが好きそうな音楽(それがどんなものなのかは鉄道オタク ではない私にはわからないけれども)がまた同人音楽であるのと同様である。
つまり、同人音楽はあくまで仲間内を対象としているのに対して、ストリート ミュージシャンはあくまで一般の人を対象としている。前者は「ウチ」である のに対して、後者は「ソト」の意識を持っている。ここが大きく違うところで ある。
興味が閉じているということ
では、他の人に聴かせるつもりはまったくなく、ただベンチャーズが好きで集 まって演奏しているだけのオッサンバンドはどうだろうか。「内にこもってい る」方に分類されるような気もするが、そう単純ではない。
「ベンチャーズ」自体が一般人の土俵で勝負しているならば、「ベンチャーズ」 は「ソト」に分類される。その「ソト」を集まって楽しんでいる「ウチ」の集 まりが、上記のオッサンバンドである。同人音楽は、もともと「ウチ」のもの を対象に、「ウチ」で集まって楽しむ。
ここが、冒頭で述べた「自己言及的」なところである。大雑把に言えば、次の ようなループになっている。
- ○○が作られる(=ソト)
- ○○好きが集まって内輪で楽しむ(=ウチ)
- ○○好きが集まって内輪で作った物が好きな人が集まって内輪で楽しむ
(=ウチを対象としたウチ) - ○○好きが集まって内輪で作った物が好きな人が集まって内輪で作った物が好きな人が集まって内輪で楽しむ
(=ウチを対象としたウチを対象としたウチ)
これが繰り返されるごとに、「ソト」の要素はどんどん薄れていく。つまり、 普通のアマチュアバンドと同人音楽の違いは、「ソト」を対象としていないこ となのである。
ウチとソト
この「ウチの自己言及化」は、以前は起きなかった。「ウチ」が特定個人で閉 じていて、外には出なかったからだ。「○○好きが集まって内輪で作ったもの」 が外部に流出することがなかったら、このループは起きない。情報の流通が活 発になり、「ウチ」が外部に流出するようになって、この「ウチ」と「ソト」 の違いが不明瞭になってきている。
「○○好きが集まって内輪で楽しんだもの」が、ソトに流出してしまうと、い わゆる「パクリ」として認識されてしまう。内輪で楽しんでいるだけなら、パ クリは何らとがめられることはない。ベンチャーズ好きのオッサンが集まって ベンチャーズを演奏したところで「パクリだ」なんて非難されることはない。 そして、そうやって集まって内輪で演奏しまくった集まりがもしメジャーデ ビューしたとしたら、そこにベンチャーズの強い影響があるのも当然だろう。
「文化なんてパクリの連続だ」なんて言う人もいる。これは一理あるが、話は そんなに単純ではない。
リスペクト
問題は、「○○好きが集まって内輪で作った物」が好きな人たちが、もとの 「○○」に興味を示さないことだ。これは、作り手にとってはとても悲しいこ とだ。
たとえば、ベンチャーズをこよなく愛する人(Aさんとする)が、毎日ベンチャー ズの曲ばかりを聴き、ベンチャーズそっくりの曲を作ったとしよう。そして、 Aさんの曲を聴いて気に入った人(Bさんとする)が、Aさんの曲ばかりを聴いて いるとしよう。
Aさんにしてみれば、BさんがAさんの曲ばかりを聴いているのはあまりうれし くない。「俺の曲ばかり聴くんじゃなくて、少しはベンチャーズの曲を聴け。 いや、俺の曲なんて聴かず、むしろベンチャーズの曲ばかり聴け!そっちの方 が数万倍スゴいぞ」とAさんは思う。それが、ベンチャーズをこよなく愛する 人の自然な思いだ。
一方、Aさんが他の人に「お前の曲はベンチャーズのパクリだ」なんて言われ ると、「いや、これはリスペクトだ」と言いたくなるだろう。詳しく言えばこ うだ。「わざわざパクリだと言わなくても、俺の曲がベンチャーズそっくりだ なんて誰が聴いてもわかるだろ。ベンチャーズが無ければ今の俺がないという くらい、俺はベンチャーズの影響をモロに受けているんだ。それくらい、ベン チャーズというのは偉大な存在なんだ」と。
パクリとリスペクトの違いは、作り手の意識がソトを向いているかどうかであ る。パクリは、意識がソトを向いている。つまり、「俺たちは新しい音楽を創 り出す」という意識だ。それに対して、リスペクトは意識がウチを向いている。 「俺が作ったものは、昔のものにはかなわない」という意識だ。
もちろん、意識がウチを向いているからダメだとか、ソトを向いていればいい という話ではない。「リスペクト」と言うということは、自分を視聴者の側に 置くということであり、「パクリ」は逆に自分が製作者側であることを強く意 識しているということだ、というだけだ。
もし、Aさんが自分のアイデアで勝負せず、ベンチャーズを借りてソトで勝負 しようと思ったなら、それは完全なるパクリである。しかし、もともと勝負す る気などなかったとしたら、ベンチャーズの思い出に浸って楽しく過ごすとい う思いしかなかったとしたら、それはウチ向きであり、リスペクトなのである。
劣化再生産
一方、Aさんという劣化再生産バージョンしか知らないBさんは、Aさん本人す ら「しょせんホンモノにはかないっこない」と思っているウチ向きものを、ソ ト向きのものとして認識してしまう。そして、「この程度のものなら自分にも できる」と思ってしまう。
Bさんが、Aさんの曲に出会った後、Aさんに影響を与えた本物(ここの例ではベ ンチャーズ)を聴いてくれれば、そしてその後に古今東西の様々なものを聴い てくれればいい。だが、Aさんの曲しか聴かないで、Aさんと同じようなことを しようとすると、劣化再生産になってしまう。
実際のところ、Aさんが本当に上手いかどうかはあまり問題ではない。Aさんが ベンチャーズに完璧に劣るところがあるとしたら、それは意識の差である。 「オリジナル曲で勝負する自分」という意識がなく、「ベンチャーズで楽しん でいる自分」という消費者の意識で作っていることだ。「オリジナルを作る」 ことと「他人を真似する」ことの差である。
以前は、情報を他人に流すことができるのは一部の人だけだった。そういう人 には「クリエイター」としての意識があった。しかし、今では情報を流すのが 簡単になり、消費者のままで様々な創作物を垂れ流すことができるようになっ ている。そのせいで、創作物に対する意識が低下している。以前はまだ「自分 にはクリエイターとしての意識がない」という自覚があったが、最近ではその 自覚すらなくなって、「クリエイター」という言葉も嘲笑の対象になってしまっ ている。
閉じこもり
勘違いしないでほしいのは、「生産者としての意識」とは、「消費者を楽しま せよう」という意識のことを言うのではないということだ。逆に、「消費者の ニーズをつかんで、彼らを楽しませよう」という意識はウチ向きの意識だ。ソ ト向きの意識とは、「この作品は仲間内だけでウケるものではなく、誰に出し ても恥ずかしくないものだ」という意識である。「特定の消費者にウケよう」 という意識はこれとはまったく逆で、ウチ向きなのである。
いわゆる「視聴者に媚びた作品」を、普通の人は嫌う。「お前らは結局自分に 都合のいい夢を見ていたいだけなんだろ?ほら、存分に見せてやるよ」と言わ れると、「俺をバカにすんな」と拒否したくなる。白雪姫の王妃だって、他の 人はお世辞ばかり言うから、真実を見せてくれる魔法の鏡を愛用したのだ。
普通の人は、せっかくお金を出すのなら、新しいものや珍しいものを見たいと 思う。「従来のものと変わらないワンパターンな作品」という評価を、悪いも のとしてとらえる。しかし、ウチに閉じこもってしまっている人は、この評価 を逆に良いものととらえる。
消える「ソト」
最近では、あらゆるものがカテゴライズされ、特定のターゲット、つまり「ウ チ」に向けて発信されるようになった。そして、それぞれの人が「ウチ」に閉 じこもって、自分の好きなものだけを消費していける時代になった。
特に、いわゆる大人向けの作品が、ウチ向きの懐古趣味的作品ばかりになって しまっている。いつまでもガンダムガンダムと騒いでいるオッサンや、いまだ に昭和30年代の日本を懐かしむジジイばかりになってしまっている。こうした、 ターゲットの定まったウチ向きの作品を見て、今の若者が面白いと思うはずが ない。そして、そういう若者向けには、若者に媚びた作品が作られる。そのせ いで若者は早くからそれに染まってしまい、抜け出せなくなってしまう。
「一般」というウチ
上では、ソト向きとは、広く一般を向いていると書いた。しかし今では、必ず しもそうではなくなっている。「一般け」という特定のカテゴリを勝手に想定 して、そこに向けて作られているウチ向きの作品が多くなっているからだ。
たとえば、映画というと、ヒーローが活躍し、あちこちで派手な爆発が起きて、 最後はハッピーエンドで終わるのが「一般向け」の作品だ。それに対して、 ちょっとヒネった作品は「マニア向け」と評される。不思議なことに、「一般 人」というと、何やら特定のイメージが喚起されてしまう。本来、特定のイメー ジが定まっていないことが「一般」であるはずなのに。
逆に、「マニア向け」というのは、一般を志向した結果である。映画ファンは、 特定の映画にこだわらずにどんな映画も見ようとする。型にはまった「一般人」 は見ないだろうけど、型にはまっていない映画ファンは見るという映画が「マ ニア向け」の映画である。マニア向けの映画は、純粋に内容で勝負するしかな い。これこそが、ソトに向けて勝負するということだ。
型にはまっていない独創的な作品は、一般向きではないが、ソト向きである。 一方、「一般人の観る作品はこうあるべき」というパターンに沿って作られた 作品は、一般向きではあるが、一般的ではないのである。
文化と多様性
こう考えると、「ソト向き」というのはとても難しい。「ソト」という特定の 場所がないからだ。わざと視点をどこかに向けようとすると、それは「ウチ」 向きになってしまう。結局、ソト向きであろうとすると、「誰が見ていようが 関係ない。俺は俺の音楽をやるだけだ」というようなことを言うしかないので ある。
しかし、これにもまた2通りあるということに気をつけなくてはならない。 「自分はまだ本当の意味での『俺の音楽』に到達していない」と思っている人 は、ソト向きの人である。それに対して、「自分はもう『俺の音楽』に到達し てしまっている」と思っている人が、ウチ向きの人である。
ソト向きというのはつまり、多様性であり変化の可能性である。ソトにはいろ んなものがあって、それらを貪欲に吸収しつつ、常に新しいものを求める。そ れがなく、一つのところにとどまることで満足してしまうのが、ウチ向きの姿 勢なのである。
ソトを向いている人は、時として他人にはウチ向きに見えることもある。小さ な世界にもまた多くの多様性があるからだ。一箇所にとどまっているように見 えても、実はそこで虫めがねで広い世界を観察しているのかもしれない。
消える「お茶の間」
ソト向きの商品が減って、あらゆる商品が狭いターゲットに向けて作られるよ うになってしまった。そのせいで、「万人に受け入れられる」という状態が減っ てきてしまっている。いや、問題はむしろ逆で、万人に受け入れられる商品は あるけれど、その「万人」に自分が入っていないと思ってしまう人が増えてい る。
たとえば、テレビではまだ「お茶の間の皆さん」をターゲットにして番組が作 られることがある。しかし、ネットにはまってテレビはあまり見ない層が増え てきている。そういう人は自分を「お茶の間の皆さん」の一員であるとは思っ ていない。作り手は、世の中のすべての人を指すつもりで「お茶の間の皆さん」 と言っているのだが、受け手は「お茶の間の皆さん」という特別な人(夜に家 族で集まってコタツに入ってミカンを食べながらテレビを見るような人)を指 しているのだと思ってしまっている。
すべてのものが、対象によって分類されてしまう。それは、すべてのものがど こかの「ウチ」に向けられるということであり、そのせいで「ソト」に向けら れるものがなくなってしまった。いや、本当は「ソト」向けのものはあるのだ が、それを受け手が認識しなくなってしまったのだ。
簡単に言えば、受け手が、自分をターゲットにしたもの以外に見向きもしなく なるということだ。自分の「ウチ」のみを見て、そこから外れたものはすべて 無視する。そのせいで、本当の「ソト」を見失ってしまう。
消費者の好みは多様化しているか?
よく、「最近は消費者の好みが多様化している」と言われる。しかし、ここま での話を総合すると、ここには2つの意味があることがわかる。
「消費者の好みが多様化している」というのは、裏を返せば、一人一人の好み が単一化してしまっているということだ。消費者がそれぞれ違った「自分の領 域」しか見なくなってしまっているから、全体として見ると、皆が別々のとこ ろを見ているように見える。これは、それぞれの人が様々なものに興味を持っ ているという意味ではないのだ。
見識を広げるという意味では、流行りものに手を出すということは重要なこと だ。いつもは見向きもしないものでも、流行っているという理由だけで見るよ うになる。普段やらないスポーツをやってみたり、慣れない本を読んでみたり、 何年かぶりに映画館に足を向けたりする。何かのきっかけがないと、こういう ことはとてもやりにくい。
すべてのものが、どこかの「ウチ」に分類されてしまっている今、様々な「ウ チ」を渡り歩くことこそが、「ソト」を向くということである。このことは、 自分の「ウチ」しか見ない人に、正当化の理由を与えてしまう。たとえば、 「たまにはアニメも見ること」を肯定してしまうと、アニメしか見ない人は 「アニメを見るのはいいことなんだ」と思ってしまう。問題は、それをするこ となのではなく、それしかしないことなのだが。
ウチのソト化とソトのウチ化
彼らは、「ソト」の世界も、自分たちの「ウチ」の世界と同じようなものだと 思っている。「一般人の常識」も、彼らに一般人という名前がついているから そう言われているだけで、「自分たちの常識」と質的には変わりないと思って いる。
ちょっと前は、逆に「ウチ」の世界も「ソト」の世界と同じようなものだと思っ ていた。ごく狭い世界だと思っていた「ウチ」の世界にも多様性があり、そこ を追求することが「ソト」を向くことだと思っていた。そして、逆に「ソト」 と呼ばれている世界が実は「一般向け」という作られた概念の世界であり、そ こには多様性も複雑さも面白さもないのだと思っていた。
この話から、「ウチ」=「ソト」という等式だけを受け入れてしまうと、「ソ ト」の概念がなくなってしまう。前にも少し書いたが、「ソト」というのは 「多様で複雑怪奇な何か」なのであり、ソトとしか言いようがないはずのもの だからである。この、言葉ではうまく言い表せない何かが、言葉で言い表せな いせいで、伝わらないのである。
そして、この「言葉でうまく言い表せない何か」を感じとれなかった人たちは、 「ソト」の存在を認識することができず、「ウチ」に閉じこもることになる。
まとめ
最近の同人は、対象に対する強烈な欲求があって、「これをするために是非と も仲間が欲しい」というわけではない。逆に、何でもいいから仲間が欲しいだ けで、そのきっかけとして何かをしたいと思っている。
本来は、「これをするため」という限定がつけばつくほど仲間を探すのが難し くなり、逆に誰でもいいから仲間が欲しいだけならとても簡単なはずだ。しか し、今の世の中は、普通のものより、特別なものや珍しいもの、限定がついた ものの方が情報が検索しやすく見つけやすい。そのため、自分にわざわざレッ テルを貼ることになり、それでさらに「普通さ」から遠ざかることになる。
ここにはもう一つ、商業主義の影響がある。もともと、音楽だって小説だって マンガだってゲームだって、個人で作ってもまったくおかしくないものである。 しかし、最近ではこうした文化の担い手が個人であるという意識がなくなって しまっている。ライブハウスなどで個人的にやっていたバンドがだんだん有名 になってメジャーになるのではなく、メジャーというのはどこかの企業が機械 的に作るものだと思われてしまっている。だから、自分たちのやっていること と、一般に「文化」と呼ばれているものの間に、線を引こうとしてしまう。
「一般」という言葉が、本当の意味での一般ではなくなって、「みんなに『一 般』だと思われているもの」という特定の何かを指す言葉になってしまってい る。そんな、かっこ付きの「一般」を当たり前のように考えてしまうところが、 大きな問題なのである。本当の一般を知っている人は、自分は「一般人」では ないかもしれないが、一般人だと思っている。しかし、かっこのない本当の一 般を知らない人は、自分が「一般人」の枠から外れていると思ってしまうと、 もはや自分がまったく別の何かだと思ってしまう。
最近では、かっこ付きの「一般」が時代遅れになっている。「みんなに『一般』 だと思われているもの」そのものが、10年あるいは20年前のイメージのままだ からだ。いまだに、トレンディドラマやドラえもんやサザエさんの世界が「一 般」だと思われてしまっている。そんな「一般」に自分があてはまらないのは 当然なのに、それを何か特別なことのように感じてしまう。
社会が多様化し、一般人の固定したイメージを表現しにくくなってきた。以前 なら、家族でコタツで囲む図を描けば、みんなが「これは自分たちだ」と思っ た。しかし、今はそうではない。もちろん、「みんな」という概念は常に存在 する。問題は、それを表すための具体的なイメージを作れないことである。抽 象的なことを正しく理解できない人に対して、具体的なイメージを持たせるこ ともできなくなったので、これを理解できない人が増えてきたのだ。
さて、「同人」とは何かという話をまとめよう。「同人」とは、自分は一般人 なのに、「一般人ではない」と思い込み、なおかつ一般人ではないことに耐え られない人の集まりだ([1])。「一般人ではない」 と思い込むところは「中二病」に似ているが、中 二病は「誰とも同じではないこと」を求めるのに対して、必死に「誰かと同じ であること」を求めるところが違う。そして、「同人」というレッテル、つま り「私は誰かと同じであることを求めています」というサインを貼って、同じ ものを貼っている人を見て安心する。
関連
現在、「同人」という言葉で呼ばれている人には、この定義にむしろあて はまらない人たちも多くいる。「同人」意識を利用しているだけの人や、昔な がらの同人の意識を今も受け継いでいる人は、ここで述べた「同人」の話と分 けて考えなくてはならない。 ↩︎