テーブルトークRPGとなりきり
前章で「なりきり」とは関係のない「テーブルトークRPG」を説明した。キャラの性格や口ぐせなんかは決まっていなくてもテーブルトークRPGはできるのだ(そんなバカなと思う人は、前章を飛ばさず見てほしい)。実際、海外テーブルトークRPGのキャラクターシートには性格や口癖を書く覧はない[1]。
ではこんなテーブルトークRPGがいつの間に「なりきり」になってしまったのだろう?この責任は日本の出版社にあると筆者は思っている。
ではテーブルトークRPGがなぜ「なりきり」になってしまったのかその理由を見てみよう。
リプレイ
グループSNEが世に出した「ソードワールド」は、初心者にとっつき易い実に良いテーブルトークRPGだった。その頃日本で作られたほぼ唯一と言ってもいいRPGで、しかも文庫本の形態だったので破格に安かった。正常な市場原理によってそれはバカ売れした。
しかし一つ困った問題が起きた。本を買ってもどうやって遊んでいいのかわからないのである。昔からのゲーマーは、ウォーゲーム、D&Dと段階を踏んでゆっくりとソードワールドに到達したから良かったのだ。それをせずにいきなりソードワールドを手にしても遊べるわけがない。
そこで出されたのが「ソードワールド・リプレイ」である。リプレイとはすなわち実際にプレイしている様子を逐一文章にしてそれを本にまとめたものだ。誰がどんなことを言ってサイコロを振ったらいくつが出て……ということがずらずら書いてあった。(テーブルトークRPGとはの項にあるあの会話がずーっと書いてあると思ってもらえばいい)
これを見れば「ああ、RPGってこうやってやるのか」とすぐわかるし、何よりも読んでいて「自分もやってみたい」と強く感じる素晴しい出来だった。で、ソードワールドのルールもリプレイも飛ぶように売れて、日本のRPGブームが始まった。
ここまではよかったのだ。
ゲームシステムの乱立
さて、とりあえずソードワールドが売れたので、ほうぼうの出版社は自分も出そうと考えた。ソードワールドは6面体ダイスを2個振って出た目の合計を見るシステムだった。よし、こっちはそれに加えてゾロ目だったら振り直せるようにしよう。魔法はいくつかの呪文要素(ワード)を組み合わせて自分独自の魔法を作れるようにしよう。うん、これは何だか面白そうだ。売れるに違いないぞ。
で思惑通りこれらのゲームも売れた。出版社は儲かってホクホク顔だった。しかし、日本の出版社はまた違う面白いゲームシステムを考案しようと努めてしまった。これが問題の種だった。
前章で述べたように、RPGには「ゲームシステム」の他に「世界設定」「シナリオ」「キャンペーン設定」が必要なのだ。しかし前者は簡単に考えられるのに対して後者にはセンスが求められる。本当は詳細な世界設定やシナリオをたくさん作ってゲームを末長く遊べるようにすべきだったのだ。しかし当時の日本にはそうしようという人がいなかった。
ゲームシステムに直結した世界設定はわりとたくさん造られた。人を魅きつける変わったゲームシステムにはそれを生かせる変わった世界設定が必要だからである。しかしこうして乱造されたゲームシステムと世界設定のほとんどは中途半端だった。神話や地図や政治機構は記載されていたが街やそこに住む人々などの詳しい情報が記載されていなかったのである。ゲームを遊ぶのに必須のシナリオも申し訳程度に1、2個ついているだけだった。
ゲームシステム(とそれに付随する中途半端な世界設定)が乱造されたおかげで消費者が勘違いした事が一つある。それは「ゲームシステムと世界設定は乱造すべきものだ」という勘違いだ。消費者はゲームシステムや世界設定を作ることに魅力を感じ、ゲームマスターは自分で世界設定を作る事が当たり前になった。自作ゲームシステムを作ろうとした覚えのある人も多いだろう。
これは間違いだ。たくさん造られるべきなのは「シナリオ」であってゲームシステムや世界観ではないのだ。本来なら出版社は一つのルールと世界設定を使っていくつものシナリオ集を出すべきだったのである。そして普通のゲームマスターはそれをそのまま使ってゲームを遊び、それで飽き足らない一部の人がシナリオを自作する、という姿勢が正しかったのだ。なぜならRPGの面白さを左右するのはシナリオであって、ゲームシステムや世界設定なんてありさえすればどうでもいいからだ。
シナリオはゲームの面白さを決める最重要事項である。出版社はこれを「自分で作ろう」と消費者に投げ出してしまった。これはゲームをやった事のない人にゲームデザインをさせるのに等しい行いであり、はっきり言って不可能だ。出版社は自分達がこの難しい仕事をやりたくないものだからそれを消費者に押しつけた。何も知らない消費者はこういうものだと思ってしまったのである。
まとめよう。ゲームシステムが乱造されたせいで生まれたのがシナリオ軽視の姿勢である。シナリオは普通のゲームマスターなら誰でも作れなければいけないもので、その先を目指す人は独自の世界設定やさらにはゲームシステムを目指すものだという姿勢である。これは間違っている。作るのが一番難しくセンスを要求されるのがシナリオなのだ。それに比べればゲームシステムや世界設定なんてありさえすればどうでもいい。面白いシナリオさえ豊富にあれば同じシステムと世界設定を使って末長く遊べるものなのだ。
ゲームマスターの過大負荷
RPGが進化するにつれてゲームマスターの作業はより増えていった。そしてゲームマスターは敬遠される役割となってしまった。これはRPGが行われなくなってしまうという危機に直結している。
D&Dの時代は簡単だった。洞窟の絵を書いてキャラクターのレベルと同じレベルのモンスターをぽこぽこと置けばそれでできた。しかし今では一つのゲームをデザインするのと同じ労力が必要になってしまったのである。
ゲームマスターの仕事が困難になった一番の理由は戦闘以外のことをするようになったからだろう。戦闘のゲームバランスを取るのは簡単で、単に同じくらいのレベルの敵を用意すればいい。しかし様々な選択肢があると話が違ってくる。しょっぱなに誰かが王様の説得ロールで大成功を収めたらそこで話が終わってしまうかもしれないのだ。
戦闘以外がメインのRPGでよく陥る現象の一つに「プレイヤーが途方に暮れる」という現象がある。戦闘メインのRPGならとにかく洞窟の奥に進んで出てきた敵を切り殺せばいい。しかし戦闘以外がメインとなると「王様の説得に失敗した。はて、どうしよう。」とプレイヤーは考え込んでしまう。どうしたらいいかわからないという状況に陥ってしまうのだ。プレイヤーに自由に行動させつつしかもこういう状況に陥らないようにするにはゲームマスターにかなりの技術が要求される。このさじ加減は一朝一夕にできるものではない。
RPGの進化に伴ってゲームマスターには経験が必要になったのだ。ただルールブックを熟知するだけではダメで、何度かいいマスターの下で面白いプレイを経験してRPGのフィーリングを感じとってからでないといいマスターはできなくなった。単に同じくらいのレベルのモンスターを配置すればだれでも出来るようなものではなくなってしまったのだ。
これはRPGの普及にとっては大きな足枷である。なぜなら普通は知り合いが集まって「RPGというゲームが面白いって噂だから僕達もやってみよう」と始めるものだからだ。当然のことながらそういう場合は全員RPGは初めてであり、じゃんけんで誰かをゲームマスター役に仕立ててやってみることになる。本当はRPGが初めての人にゲームマスターなんて出来るはずがないのだ。これでうまく行くわけがない。
ただこれはRPG特有の問題ではない。ゲームというのは何でもそうだ。将棋でも囲碁でもうまい指導者についてきっちり教えてもらわないと面白さはわからない。問題は将棋や囲碁などとは違ってそういう指導者がいないことである。そしてそうした問題に目をつぶって「誰でも簡単に始められる」と謳ってサポートもせずに売りまくったメーカーの責任である。
ただこれについてRPG特有の問題も一つある。自分のプレイが良かったかどうかがわかりにくいという問題である。将棋なら単純だ。勝ったのなら良かったのであり、負けたのなら悪かったのだ。それを繰り返せばどういうのが良い手でどういうのが良くない手なのかがだんだんわかってくるし、良い手とはどんな手なのかを研究する気にもなる。しかしRPGではゲームの難易度はゲームマスターのさじ加減一つで何とでもなってしまうから、大抵はシナリオに書いてある目的は達成できてしまう。だとすると今のプレイは良かったのかどうかの判別がつかなくなってしまう。
そしてここで良く言われるのが「楽しかったのならそれは良いプレイだったのだ」という評価基準である。「ゲームは楽しむためにするものだから」というのがその理屈である。しかしこれは間違っている。問題の次元が違うのだ。将棋でたとえ大きなミスをして負けたとしても、楽しかったらそれは良い手なのか?「楽しい」と「プレイの善し悪し」は別次元の問題なのである。「楽しかったから良いプレイ」なのではなく、「良いプレイになるように考えることが楽しい」のである。両者を混同してはいけない。
RPGメーカーの大罪の一つがここにある。「楽しければそれいい」という風潮である。これはRPGを「簡単なもの」にしたくさん売ろうというメーカーの策略である。そして、その策略に乗せられてプレイヤーは考えることをしなくなったのだ。
リプレイ小説
間違いなく「ソードワールド」は日本でのRPGの普及に最も貢献したと言えるだろう。そしてもう一つそう言えるものがある。それは小説「ロードス島戦記」である。
もともと小説「ロードス島戦記」はコンプティーク誌に掲載された「D&D」のリプレイだった。その時は他のリプレイと同じようにRPGの様子が逐一書かれたものだった。あの物語は誰かがRPGをやった結果なのであり、それを面白いというので小説化したものである。こうして誰かがRPGをやった結果を小説にしたものは「リプレイ小説」と呼ばれる。
「ロードス島戦記」はたまたま面白かったのでバカ売れし、我も我もと後に続く人々が現われた。世にあまたあるリプレイ小説の全てが本当に実際のプレイを基にしているかどうか私は知らない(そして疑っている)が、少なくとも「○○RPGリプレイ小説」と称して同じような場所にさも関係あるかのように売られていた。
リプレイと小説とでは読んでどちらが面白いか、というと当然のことながら小説の方に軍配が上がる。なぜならリプレイは「ゲームをどうやってやるのか?」という問いに答えるものであり、小説は「読者を楽しませる」ものだからだ。リプレイは参考書であるのに対して小説は娯楽なのである。結果として、ゲームそのものやリプレイより小説の方がよく売れた。
それに気付いた出版社はリプレイの方も編集方針を変えた。ゲームの解説よりプレイヤー間の軽妙な会話をメインにおくようにして、漫才を見ているような面白おかしいリプレイに仕上げるようにしたのである。ゲームについては何も知らなくても読んでいて楽しい、そんな本が「リプレイ」として世に出回るようになってしまった。だんだんゲームの参考書としての機能が薄れてきて、普通の読み物として楽しめるようになってきてしまった。RPGをやる人ではなく小説を読む人をターゲットにした出版社としては狙い通りである。
リプレイがゲームの参考書にならなくなって困ったのは新米ゲームマスターである。RPGをやるのに参考にすべき本がなくなってしまったのだから。実際には無い方がまだ良かったのかもしれない。リプレイのまがいものが「ゲームの参考書」のふりをして売られていたからだ。新しくRPGを始める人は小説とリプレイ(どちらも今やたいして変わりがない)を読んでこれらと同じようなゲームを始めた。ここからだんだんと方針がゆがんでいってしまったのだ。
リプレイ小説はRPGを世に紹介する上では非常に役に立った。もちろんRPGを伝えるというのは重要な役割である。そしてこの作戦はRPGの間口を広げRPGブームに大いに役にたった。しかし問題は面白さが伝わった後の「その次」の本を用意できなかったことだ。間口だけ広げておいてその後の道筋をつけられなかったのである。
ドラクエ
さて、ファミコンで社会現象にもなったあの「ドラクエ」が発売され、コンピュータゲームとして「ロールプレイングゲーム」が一般に認知されるようになったのもこの頃である。「ソードワールド」が発売された89年当時、ドラクエはIIIまで発売されている。ドラクエの黄金期と言ってもいい頃合だろう。ここではこのゲームのテーブルトークRPGへの影響について述べる。
ドラクエのゲーム自体は「D&D」に代表される昔の洞窟RPGそのままである。フィールドはあるがそれは単に洞窟が1次元なのに対して2次元になったにすぎず、モンスターを倒して経験値を稼ぐという基本システムはウィザードリーの時代から変わっていない。それからほうぼうに謎解きやお使いがあるのも同じだ。ここには目新しいことはない。
ドラクエで特筆すべきは、「主人公はあなたです」と宣伝したことだ。多くの人は、キャラを作るのに自分の名前を入れたに違いない。この方針は今も変わっていないらしい[2]。ここがウィザードリィとドラクエIIの大きく違うところだ。ウィザードリィでは6人のキャラクターすべてが同等だった。しかしドラクエIIではプレイヤーが最初に作成するキャラクターは一人だけであって、その他の2人は物語の進行に従って仲間になる。名前もステータスもプレイヤーは決められない。実際にはプレイヤーが全員を操作することになるのだが、あくまでプレイヤーの「分身」は一人だけなのだ。
今までのゲームの説明書にはたいてい「あなたは○○を操作して」と書いてあった。それが「あなたは○○になって」に変わったのだ。この傾向は回を重ねる毎に強くなった。プレイヤーはドラクエの主人公になって結婚相手を真剣に悩んだりすることになったのだ。これと「なりきり」を結びつけるのは容易だろう。
もう一つ決定的に違うのはキャラが死なないということだ。お金が半分になって復活する。ウィザードリィの頃ももちろん復活の呪文はあったがキャラが灰になったりロストしたりし、ロストしたキャラは二度と戻ってこない。死ぬというのは重大事故なのである。しかしドラクエにはそれがない。しかも大抵の人は死んでお金が半分になる前にリセットする[3]。死んだらおしまいではなく以前に復活の呪文をとった地点からやりなおしになるだけなのだ。
で、ドラクエはウケた。なぜならゲームをすれば必ずレベルが上がる(死なないから)し、一定時間ゲームをすれば軽快な音楽と共にレベルが上がって一段強くなっている。すると自分も何か強くなった気がする(なぜならこの主人公は自分なのだから)。これは快感だ。ドラクエは目的(レベルを上げる)とそれを簡単に達成できる手段(敵を倒す)を提供してくれた。時間さえかければ必ず達成感が得られるという安心感がウケたのだ。[4]
というわけで「コンピュータRPG」ドラクエは大ウケした。そしてテーブルトークRPG業界は「ドラクエの元祖である、紙と鉛筆でできるゲーム」としてテーブルトークRPGを紹介した。既にテーブルトークRPGはドラクエの始祖である「D&D」からさらに進化を遂げてきたのに、である。そして消費者は「自分が主人公になってファンタジー世界でモンスターを倒すゲーム」だと思ってテーブルトークRPGを手に取ったのである。確かに間違ってはいないが、それは現代のRPGではない。
ファイナルファンタジー
ドラクエと双璧をなすコンピュータRPGに「ファイナルファンタジー」シリーズがある。ドラクエと同じコンピュータRPGなので、死なないとか相変わらずモンスターを倒すしかすることがないという同じ特徴を持つ。しかしドラクエと違う路線を歩み出した。「ドラマチックRPG」路線である。
複数のキャラが織りなす人間模様をイベントとして提供したのである。時々「紙芝居」と揶揄されるように、これらのイベントはプレイヤーの意図とは関係なく勝手に進行する。「映画のようなドラマチックストーリー」が宣伝文句になった[5]。
そしてこれも一般層にウケた。一般層はゲームより映画の方が好きだったのだ。紙芝居が実写と見まごうばかりのCGアニメになった現在でもゲームの内容はいっこうに変化がない。ゲームの内容を進化させるようなアイデアは結局出なかったので簡単にできる紙芝居の進化に力を入れた。
ファイナルファンタジーファンもまたテーブルトークRPGに殺到した。そしてその時に「ゲームマスターという人間がコンピュータの代わりをして遊ぶ」という説明がなされた。まあ、全くの間違いというわけではないのだが完全に説明不足だ。これじゃ次のように解釈されても仕方がない。
「テーブルトークRPGはゲームマスターが感動的なストーリーを演出しそれをキャラを通じて楽しむゲームだ」
これも間違った解釈であることは言うまでもない。この解釈よりは、まだ前の「ドラクエ」の解釈の方がましだ。[6]
トレーディングカードゲーム
こうしてRPGの世界にゲーム好き以外の人々がたくさん入ってくることになった。この事自体は別にRPGに限らず何のブームでも同じである。「ブームになっている」というだけのきっかけでその世界に入ってそこでその世界の奥の深さを知ってハマるというのはいいことである。そしてブームもないよりはあった方がずっといい。ただ問題はそれを受け入れる体制ができていなかったことだ。
この問題にとどめを刺したのが「トレーディングカードゲーム(TCG)」もっと言えば「マジック・ザ・ギャザリング(MtG)」である。ソードワールドが発売されたのが'88年、MtGが発売されたのが93年頃だからおよそ5年後になる。もちろんこのゲームにはRPGとはあまり関係がないが、MtGのおかげでRPG界は崩壊することとなる。[7]
「RPGは面白いんだけどなかなかやれない」と思っていたRPG好きはまっ先にこれに飛びついた。RPGみたいにいろんな展開が楽しめるし、プレイヤーが2人いればできる。ゲームマスターみたいな準備もいらずプレイ時間もずっと短い。MtGにはRPGにはない気軽さがあった。最初はRPGの合間にちょっとMtGをやっていた彼らだったがだんだんとMtGの割合が大きくなってきた。そして少しやってみるとわかるがMtGは実はデッキ構築に多大な時間が必要なゲームだったのである。MtGにのめり込んだ彼らはだんだんとRPGの準備時間が削られていきそのうちMtGべったりになってしまった。
RPGからMtGへと移動した人の多くはウォーゲームの昔からゲームをやってきたゲーム好きだった。「RPGは面白いゲームなんだけどシナリオを作るのが面倒」と思っていた人が、同じくらい面白くてしかも面倒でないゲームに流れるのは自然なことである。そしてRPGからは古くからのゲーマーがどんどん抜けていった。
RPG業界の特異なところは、ここでブームが終わりにならなかった事だ。RPGより手軽で面白いゲームが出来たのだから、本来ならRPGをやっていた人は全員MtGに流れていくはずだ。しかしRPGはそうはならなかった。なぜならゲームをしたくてRPGをやっているわけではない人々がたくさんいたからだ。彼らにすればMtGとRPGはまったく別物であって、なぜRPGのプレイヤーがこぞってMtGに群がるのかまったく理解できなかったのではないだろうか。RPGにゲームを求めていた人々が抜けたRPG界で、残った人々は自分達の求めるRPGを作り始めた。つまり参加者の軽妙なトークで物語をつくりあげ、小説を追体験するようなRPGを、である。
これはてっとり早く言えば「世代交代」というやつだ。世代交代にするに従って雰囲気が多少変化するのはよくあることだ。ただRPGの場合は根幹である「目的」が変化してしまった。そもそも目的が変化してしまっていて同じものだと言えるだろうか?こうして「ロールプレイングゲーム」の概念が「なりきり」に変化してしまった頃、前世代の人はRPGなんて既にどうでもよくなってしまっていたし、出版社は儲けるためにはゲームであるより小説である方が作るのが簡単で都合がよかった。ある意味誰も困らない幸せな移行だったのかもしれない。
小説のようなシナリオ
RPGを「ゲームだ」とやかましく言う人は全員トレーディングカードゲームに去り、代わりにリプレイ小説やコンピュータRPGからテーブルトークRPGに人がたくさんやってきた。彼らはゲーム[8]はあまりやった事はなく、どちらかというと小説を読んだりアニメを見たりする事が好きな人々だった。そしてそういうものを求めてRPGを始めた。
ゲームマスターは既存の小説を参考にしてストーリーを考えた。やっぱりストーリーの基本は恋愛だよね。そしてそこに恋のライバルが現れて……。で、最後はやっぱりお約束で魔王を倒すのがいいかな。よし、できた。さあ、やってみよう。
プレイヤーはゲームマスターの助言に従ってキャラクターを作り始めた。このシナリオにはかわいい女の子の巫女と、それとは恋仲のかっこいい戦士が必要だね。それとそれを横目で見ながら嫉妬心を燃やす男も。やっぱりそういうのはひねくれた魔法使いだね、きっと。じゃ、これをそれぞれのプレイヤーで分担してね。いい?じゃ、始めるよ?
ゲームマスターはとうとうと自分の作った前振りを述べた後、さっそくゲームを開始した。プレイヤーは「でやっ! 失せろ! 雑魚ども!」と言ってサイコロを振った。(なぜなら、小説では主人公はそんなことを言いながら刀を振り降ろしていたからだ。) そしてもう一人のプレイヤーは「私の心の力であなたの傷を治してあげる」と言って治癒の呪文をかけた。この時、実際には野太い男の声だったにも関らず、その場の全員の脳裏に可憐な女の子の姿とその声がかすめた。全員が「これだっ!」と思った。「なりきり」の誕生である。
その後はとんとん拍子に進んだ。巫女と戦士は愛の台詞をささやき合い、魔法使いはその横で「ちぇっ、つまんねえの」とか何とか言いながら色々と冷やかしやちゃちゃを入れた。ゲームマスターは所々でモンスターを出し、苦難を乗り越えることでより深まる愛の絆を演出した。
そしてとうとう魔王を倒した。「僕達の愛さえあればこんな敵なんて」とか何とか言うプレイヤー達。そんな時、ゲームマスターはとっさに素晴しい贈り物を思いついた。そうだ、指輪だ。「魔王の部屋の宝箱の中には、なんと、指輪が!」。プレイヤーもその意味を素速く察した。「そうだ、これを僕達の婚約指輪にしよう」。そして、そこにいた全員が感動で身もだえした。いい! いい! 素晴しい!こんな感動を味わえる遊びが他にあっただろうか?
そしてすぐさま次回の日程を決めた。すぐにでもやりたい。来週またやることにしてその場は解散した。
なりきりごっこ
一週間、ゲームマスターもプレイヤーもたっぷりと考えた。ゲームマスターは好きなファンタジー小説を何回も読み返して、物語の構築手段とストーリー展開のさせ方を学んだ。一方、プレイヤーは自分のキャラクターのイメージをより確固たるものにすべく、いつも着ている服や趣味、性格などについて考えた。小説を読んで、清楚で可憐に聞こえる口調を研究した。キャラクターの絵を画用紙に書いた。
さて、一週間後、プレイヤーとゲームマスターは同じ場所に集まり、次のセッションを始めた。コツをつかんだ彼らは今回はしょっぱなからアクセル全開だ。そんな時一つの事件が起きた。
ソニア(例の巫女)が敵に捕まった。ハワード(例の戦士)とグース(例の魔法使い)が捜索を始め、やがて古の神殿の柱に後ろ手に縛られていた彼女を発見した。
ソニア: 「きゃー助けてぇー」
ハワード: 「よし待ってろ。今助けてやる」
そこに悪の首領が現われた。
悪の首領: 「ふっふっふ、お前らも一緒にここで邪神復活のいけにえになるのだ」
ハワード: 「なにおっ! 死ぬのはお前の方だ! 俺様の一撃をくらいやがれ!」
そしてサイコロを振った。出た目は「6」。割といい目だが、当たるかどうかは微妙なところだ。ゲームマスターは分厚いルールブックをぺらぺらとめくり始めた。
GM: 「えーと、あれとこれとこれの防御呪文をかけているから……そちらの攻撃ボーナスはいくつだっけ?」
A: 「剣の魔法が+10で幸運のお守りで+5、そして聖戦の呪文の効果があるから悪の魔物へのボーナスは+10だよ」
B: 「『恋人の救出』シチュエーションでのボーナス+5も忘れないで
ゲームマスターは軽い混乱を覚えながらも電卓片手に計算を始めた。ハワードは次第にいらいらしてきた。
A: 「そんな面倒な計算なんてしなくても、お話的にとてもいい所なんだから、当たったということでいいじゃん」
ハワードの言ったことを皆はよくよく考えてみた。自分達はなぜサイコロを振っているのだろう?サイコロなんて、都合の悪い時に都合の悪い目を出すやっかいな存在だ。それに、いちいち攻撃チャートで結果を探すのも面倒じゃないか。こんな物がなくたって、自分達は最高の物語を造っていける。
彼らは分厚いチャート集を脇にどけた。サイコロを振るのもやめた。そして彼らは一つ素晴しいことに気がついた。これでもう「サイコロを振ります」と言わなくて済む。今まで、かっこいい台詞の後にこんな現実的な発言をしなければならなかったのが興ざめだった。しかし、もう違う。かっこいい台詞に専念できる。
今回も最高に盛り上がり、彼らは虜になった。皆で協力して最高に盛り上がる物語を作る「ごっこ遊び」に。
そして別の遊びになった
かくしてRPGは「キャラクターの真似をして皆で物語をつくっていく」ゲームになった。これは自分たちで小説を作るのにも似た遊びである。もともと彼らは小説が好きだったから大満足である。そしてついに第三の波がやってきた。RPGの消費者が昔からのゲーマーでなくなっただけではなく、RPGの作り手も昔からのゲーマーではなくなってしまったのだ。これで「なりきり」としてのRPGは完成した。
ゲームのルールは現実世界を元にするのをやめてより面白い話が出来るように進化した。ルールはお話を作るためのきっかけにすぎない。プレイヤーが考えるのは「どうやったら依頼を達成できるか」ではなく「どうやったらお話が面白くなるか」である。そしてその評価は会が盛り上がったかどうかで決まる。これは本来のゲームとはまったく別物であることは言うまでもないだろう。
ここでやっと「ロールプレイ」と「なりきり」の話に戻った。前者が「ロールプレイ」で後者が「なりきり」だ。
もしかしてAD&DのAlignmentは「性格」と訳されているかもしれないがそれは訳の間違いだ。 ↩︎
なんせやってないので... ↩︎
余談となるが、筆者はドラクエIIを一切パスワードを取らないでやった。これをやってみると、「お金が半分になる」というのは意外ときついペナルティであることがわかる。最後の方では貧乏なせいで店に売っている武器が買えなかった。 ↩︎
真のゲーマーなら時間をかけるだけで達成できるようなクソゲーはしない。自分の知力の限りを尽して真剣勝負をしてやっと勝利をもぎとることができるようでないとやる気はしない。 ↩︎
この世で最高の娯楽であるゲームを映画みたいなつまらないものと一緒にしないでくれ! ↩︎
なぜなら、ドラクエの解釈は古い時代の概念だがまだロールプレイングゲームのことを述べているのに対し、ファイナルファンタジーの解釈は映画制作のことを述べているからだ。 ↩︎
ここではMtGの内容については触れない。カードの種類が非常にたくさんあるため多種多様の戦略が考えられ、売られ方も新鮮な「ハマりがいのある面白いゲーム」だったというだけで十分だろう。 ↩︎
念のため言っておくが、ほとんどのコンピュータRPGやアドベンチャーゲームはゲームではない。単なるインタラクティブ紙芝居だ。 ↩︎