ロールプレイングゲームのなりたち
いきなり難しい話をした。もちろんそんなことを意識して毎日ゲームで遊んでいるわけではない。
で、RPGを最初に作った人も、おそらくそんなに難しく考えてこのゲームを作ったのではないだろう。ここでは特にテーブルトークRPGを知らない人向けにRPGの昔話をすることにした。
さてRPGの昔話といってドラクエから話をするわけではない。話はもっともっと前、家にコンピュータなどなかったころに遡るのだ。本当に昔のことを言えばチェスや碁の話から始めなくてはならないが、とりあえずここではウォーゲームから始めたい。
ロールプレイの本質とはあまり関係ない話が続く(しかも長い)ので、急いでいる人はこの章は飛ばしてもらって構わない。しかし「なぜウォーゲームから話が始まるの?」と疑問に思う人には読んでほしい。
ただ、実際にRPGの黎明期に製作の仕事に携わったわけではない(それどころか、今までに携わったことすらない)ため、多分に推測情報や不正確な情報が入っている。というより前後関係や理由付けはかなりいい加減で面白おかしく脚色してある。説明の都合上、世界初でないものを「初めて」と称したりしているが、そこのところは嘘なので信じないように。
ウォーゲーム
大昔の映画のタイトルではない。最近はコンピューターゲームでもよくある、六角形のマスがびっしり書いてあってそこに戦車とか戦艦のコマが置いてあるアレだ。もちろんコンピュータがなかった昔には(そして今でも)厚紙に書かれた地図の上に厚紙またはプラスチックのコマを置いて、弾が当たったかどうかの判定はサイコロで行うのだ。[1]
例えば「マジノラインに侵攻だ」と言って、プレイヤーはドイツ軍の指揮官となって麾下の戦車や歩兵の駒を進め、あるいはフランス軍となって要塞で必死に防戦する。サイコロを振り合って命中判定をし、戦車がやられたら盤から除く。これをおのおの設定された勝利条件[2]を満たすまで、あるいは設定された期限がくるまでやるのだ。
これがRPGとどんな関係にあるのか?と言われると、実はあまりない。しかし、こういうゲームを作っていた人達がRPGを生み出していき、こういうゲームをやっていた人が真っ先にRPGをやり始めたという事実をまず覚えておいてほしい。ファイナルファンタジーはルーツをたどると大戦略に近いのだ。
ドラゴンパス
こういう話をすると私が必ず挙げるボードゲームがある。アバロンヒル社の「ドラゴンパス」だ。ウォーゲームからRPGへという流れを説明する上でよい例だと思う。
ドラゴンパスはファンタジーウォーゲームだ。同じようにヘックスが書いてある地図があってその上に兵隊のコマを置いて進める。敵を攻撃したらダイスを振って命中判定をして……と、前述のウォーゲームそのままのゲームである。
ただし舞台がファンタジーなので戦車や歩兵の代わりに騎士団やワーウルフの群れ(本当にいたかどうか確証なし)であり、マシンガンの代わりに弓矢や刀、野砲の代わりに魔法で攻撃する。
そしてもう一つ大きいのが英雄の存在だ。「アーグラス」とか「赤の皇帝」とかの名前がついており、何百人もの軍隊を一人で吹き飛ばす恐しい存在だ。ゲームの舞台となる地図も架空のもので、架空の山脈や川、王国などが設定されている。そして「グローランサ年代記」という壮大なバックストーリーが設定されている。いかにも今のファンタジーRPGにそっくりだろう?プレイする側も「アーグラスの一撃! でやあ!」と言いながらサイコロを振ったものだ。
ただ、気をつけて欲しいのは、これらはすべて(例えば第二次大戦の)ウォーゲームの延長線上なのである。騎士団は歩兵や戦車の代わりだし、英雄は戦艦の代わりであり、グローランサ年代記は実際の戦史の代わりである。つまり「ドラゴンパス」は単に旧来のゲームの駒をファンタジー風にアレンジしただけなのだ。ただそれだけでぐっと現代のRPGの雰囲気に近くなるのだ。RPGとウォーゲームが血縁関係にある証拠である。
コンピュータRPGでも最近はウォーゲームとの融合が進んで「シミュレーションRPG」なるジャンルが確立している。「ファイヤーエムブレム」や「タクティクスオウガ」のようなゲームはRPGに対する「ドラゴンパス」のような位置にあると言えよう。
戦術級ウォーゲーム
前節からの続きで「ルーンクエスト」の話をするかと思いきや、なぜかここで戦術級ウォーゲームの話をする。
確かに話の順番としては前後する。戦術級ウォーゲームは決して戦略級ウォーゲームの後に出来たものではないからだ。しかしおそらく戦略級ウォーゲームほど戦術級ウォーゲームは一般にメジャーではないので、ここで違いと共に述べたい。
戦略級の駒は「隊」でありマップは戦争が行われている全土に及んでいる。プレイヤーは将軍となって、大統領府の一角の会議室で「ここは防備が手薄だからここに戦車を一個大隊追加しよう」とか「この都市を爆撃して20日までに占領しよう」というように話し合っているイメージである。それに対して戦術級の駒は「人」とか「戦車1台」であり、マップはその戦闘が行われる区画に限定される。プレイヤーは隊長となって、それぞれの駒に「お前はあっちの森に潜んでいて敵戦車が来たら砲撃しろ」とか「お前は俺とあの塹壕へ突進だ」と命令しているというイメージである。
戦略級ウォーゲームと戦術級ウォーゲームで違うこと、それは表現の精密さである。戦略級ではプレイヤーは会議室にいる将軍なので、部下からの報告は「プリンス・オブ・ウェールズを撃沈しました」とか「スモレンスクで敵の猛攻撃に合い、撤退を余儀なくされました」で済む。しかし、戦術級ではプレイヤーは隊長である。プレイヤーは部下からの「腕をやられました」とか「銃のマガジンがあと3つしかありません」とか「腹へった」といった報告を聞いて指示を出さなくてはならないのだ。
戦術級ウォーゲームでは現実を精密にシミュレートしなくてはならない。それは「戦車が泥沼に足をとられてスタックしている所を森に隠れていた歩兵隊で近接攻撃する」とか「陽動作戦で野砲が川向こうを向いているところを後ろから忍び寄って急襲する」という戦術をとりたいからである。こういう駆け引きや奇襲戦術を考えるのも醍醐味だからだ。こういう手が決まった時は気持ちいい。将棋で王手飛車や捨て駒がきれいに決まった時のように。
ただこれには問題点もある。これをやるとルールと扱う情報が肥大化するのだ。例えば前の例では「後ろから忍び寄った敵に気づく確率は……」と何百ページもあるルールブックからチャートを探し、「野砲を反対向きにするのにかかる時間は……」とまたルールブックを探さなくてはならないからである。また、記録しておかなくてはならない情報も増える。「弾が兵士の足に命中した」という判定になったら、以降、その兵士が歩く速度は通常の1/2になるとか、塹壕を飛び越えることはできないとか、そういった事をいちいち覚えておかなくてはならないのである。
そして、戦術級ウォーゲームはだんだん「面白いけど大変疲れる」ゲームに進化していった。
戦闘級ウォーゲーム
「より精密に」という戦術級ウォーゲームの進化を受けたのが「戦闘級」というジャンルである。「戦闘級」という名前はそんなに一般的なものではないが、その大きな理由はこのジャンルが売れなかったことにあるだろう。
戦術級ではコマが兵隊一人だったのに対して、戦闘級ではもっと細かいレベルのシミュレーションをする。例えば兵士一人が「腕のコマ」「胴体のコマ」「頭のコマ」などに分かれていて、兵士がどんな格好をしているのかまで表現できるようになっている。あるいは、飛行機のゲームだったら、飛行機の高度とかスピードといった状態をフィート単位で全部記録する
当然のことながらそんな兵士が何人もいたらそれこそやってられないので、普通は一人のプレイヤーは一人の兵士を操る。2人のプレイヤーだったら「一対一の決闘だ!」といって、一ターンごとに腕が上から30度ずつ振り降ろされていくのだ。
「現実の戦いをシミュレーションする」というシミュレーションゲームの目的からするとこれは究極のシミュレーションだ。そしてルールを見てみるといかにもゲーマー魂をくすぐる魅力的なものに仕上がっている。しかし実際やってみると面倒なだけであまり面白くない。
なぜこうしたゲームが面白くないか、そこに「ゲーム」の本質が隠れている。ゲームの面白さは「どういう作戦を立ててどう敵をやっつけようか」と考えることにある。状況を的確に判断してどこに戦力を向ければ効率がいいかを考える、あるいはおとりや陽動といった敵とのかけ引きが面白いのだ。
しかし、兵士二人が向き合っているという状況でそんなに考えることがあるわけではない。一人でできることなんてたかが知れてるからだ。だから、戦術より注意力と運がものを言うのである。負けた時に、「なるほど、この戦法は見事だなぁ」とはならず、「あの時ダイスで2が出なければ勝ってたのになぁ」とか「腕を振り切った時に踏ん張るために足を一歩横へ出すのを忘れてたのがすべての敗因だ」となってしまうのである。
ウォーゲームは「現実の戦闘を精密にシミュレート」という至上命題のもとにどんどん精密さを増してきた。しかしここに至って人々は気づき出した。「果たして自分たちはゲームがしたかったのだろうか?それともルールに沿ってコマを動かす作業がしたかったのだろうか?」
D&D
こうした中で登場したのがそれがD&D(ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ)である。このゲームは今までのウォーゲームの概念を根底から覆す特徴を一つ持っていた。それは「プレイヤーが全員味方」だということだ。戦闘級ウォーゲームの欠点は「味方が一人しかいないから面白くない」というものだった。多人数でやればこの問題は解決されるかもしれないが、それでは手間も時間もかかりすぎり。それを解決するために、「プレイヤーは全員味方」だとしたのだ。これで兵士一人一人をシミュレートするという精密さを持ちながら、作戦を練る楽しさも味わえる。
「プレイヤーが全員味方だったら敵はどうする?何と戦うんだ?」という疑問が当然出てくる。そのためにダンジョンマスター(普通のRPGで言うゲームマスター)という特別の役を作った。ダンジョンマスターは敵を一手に操作する。形式的にはプレイヤー全員対ダンジョンマスターという多対一の戦いになるわけだ。
もちろん、ダンジョンマスター側は一度に複数のコマを操るのであるから、精密にシミュレートなんてとてもやってられない。だから、敵側はルールも簡略化され簡単に操れるようにできている。つまり、味方側と敵側にばっさりと分け、違うルールに基づいて動くのだ。
ただ、ダンジョンマスターはプレイヤーの敵というよりは審判である[3]。プレイヤーはダンジョンマスターに戦いを挑むのではなく、ダンジョンマスターが用意したその状況に戦いを挑むのである。ダンジョンマスターはどのくらいの量の敵を出せばいいのかを決め、プレイヤーが担当する兵士が打ちかかってきたら受けて立つ。ダンジョンマスターの目的は「プレイヤー担当の兵士を打ち負かすこと」ではなく[4]、「プレイヤーが楽しめるような難易度の舞台を設定すること」である。
というわけで「洞窟に棲む魔物を退治する」という舞台が設定された。これはこのゲームにとって都合の良い設定だ。魔物というのはコウモリとか狼、せいぜいゴブリン程度だ。「なんであいつらは戦術も考えずに向かってくるんだ?」という問いに対しては「バカだから」で済む。それにモンスターがプレイヤー側の兵士ほど精密にシミュレートされていない言い訳にもなる。ダンジョンマスターの負担を軽くする意味で大いに役立つ設定なのである。
ダンジョンマスターは、好きな形に洞窟の絵を書いて、そこに適当な数のモンスターを配置する。そして一番奥に敵の本拠地を作りそこに強いモンスターを配置した[5]。そしてその洞窟を皆で攻略するするというRPGの基本スタイルが出来上がったのである。
ダンジョンマスター対複数のプレイヤーの図式にしたことで、ウォーゲーマーの長年の夢が一つ解決した。それは「情報の隠蔽」の問題である。遠くの敵は隠れて見えない、この当たり前の原則がやっと表現できるようになったのだ。当たり前のことだが、複数人で盤を囲むと敵の位置が手にとるようにわかってしまう。駒を全部裏返しにしてダミーユニットを混ぜるとか、ついたてを置いてお互いを見えないようにするとか工夫はいろいろなされてきたが、この問題のいい解決法は結局見い出せなかった。しかるにRPGではプレイヤーは隠れている敵の位置を見ることができない。これは素晴しい! より現実に近づいた戦闘が楽しめるようになったのである。
この頃は、まだキャラクターには個性というものはなかった。クレリックが刃物を持てないのは、装甲車に大砲がついていないのと同様に単なる能力の違いでしかなかった。
ルーンクエスト
さて、さきにちらりと言及したルーンクエストがやっと登場だ。ルーンクエストはD&Dに比べてキャラクターシートの情報量がとても多いゲームだ。
D&Dでは、キャラクターは「Lv3の戦士」とか「Lv2の魔法使い」といったレベルと職業、それに筋力や体力などのステータスがあればほとんど説明がつく簡単なものだったが、ルーンクエストではそれに神話や背景を追加した。同じ戦士でも信じる神や出生地によって制限がついたり利点があったりと様々に変化する。これでどの戦士も違う特徴を持って違う性能を持ったユニットになったのだ。
ゲームシステムの面から言うと、これは全員を面白くする工夫と言えるだろう。ウォーゲームの例で言えば、ティーガー戦車でどかんどかんと敵をなぎ倒す役や急降下爆撃機のようにピンポイントで重要拠点を狙い撃ちする役は面白いが、地べたを匍匐前進してなぎ倒されるその他大勢の歩兵の役は面白くない。「何か人と違うことができる」というのが面白さの源泉であり、単に前の敵を殴りつけるだけのファイターは初めのうちはいいが慣れてくると敬遠されがちだった。しかもD&Dではダメージが大きいか小さいかだけでファイターに限らずだれでも武器で攻撃することができる。はっきり言ってファイターは殴ることしかできない脳なし扱いで面白くないのである。そこが神や出生地といった要素で大きく変わった。どのファイターも違う能力を身につけた。ここに至ってはじめて一人として同じ人はいないという意味での「キャラクター」の個の概念が確立したのだ。
もう一つルーンクエストが導入した大きなもの、それはスキル制である。これも「キャラクター」を唯一無二のものにするための仕掛けである。D&Dの時代では同レベルのファイターで筋力が同じなら同じ武器を持たせたら同じダメージを与えていた。それは攻撃に限らず防御や魔法などすべてそうだ。強さを現わすのに「レベル」という一つの数字しかなかったからだ。それがルーンクエストでは武器や行為(落し穴を発見するとかロープで壁を登るとか)ごとにスキルレベルが設定されていてそれを自由に組み合わせて特徴のあるキャラクターを作ることができるようになった。
この2つの仕掛けで「世界に二つとない自分だけのキャラ」が作れるようになった。この段階で現代RPGの基本スタイルが確立されたと言っていいだろう。
洞窟シナリオの終焉
さて、取り換えのきく兵隊としての「ユニット」から個人としての「キャラクター」に変化するに至って、プレイヤーが気がついた。それは「ただモンスター相手にサイコロを振ってるのもそろそろ飽きたなぁ」ということである。「敵が出た→サイコロを振る」の繰り返しである。気のきいたダンジョンマスターはたまに、触ると落し穴が開いてダメージを受ける仕掛けとか、「朝は4本足、昼間は2本足で夜は3本足、これなんだ?」となぞなぞを仕掛けてくる像なんかを置いてくれたりするが、それでも「ダンジョンマスターの仕掛けた謎を解く」という受身の姿勢になりがちだった。別にプレイヤーはダンジョンマスターの考えた下らないなぞなぞを解きたくてゲームをしているわけではない。
さて、そもそもなぜ戦闘に飽きてきてしまったのだったか?戦闘がすべての戦術級ウォーゲームからはるばるここまで進化してきたのに、この倦怠感はなんだったのだろうか?昔は戦闘しかなくてもなぜあんなに面白かったのだろう?
答は既に出ている。飽きたのだ。昔はゲームのルールすらよくわからない状況だった。なんせ何百ページもあるのだから。コウモリが出た時に、剣で切りつけた方がいいのか、それともマジックミサイルを飛ばした方がいいのかを真剣に考える必要があった。「うーん、どっちだ?よし、剣だ! うわぁ、外れた! 次はコウモリの攻撃! 痛い! やっぱりマジックミサイルで一撃で倒した方がよかったか?」というようにいろいろ考えることがあって、ゲームをやる度にだんだんわかってきた。それが面白かったのだ。今やルールを熟知してどういう敵にどう対処すればよいかもわかってしまった。もう得るものがない。
ダンジョンマスターもこの雰囲気が分かってきた。そして奇抜なわなや見たこともない強力な敵を配置してなるべく面白く盛り上げようと努力した。こんな強力なモンスターはちょっとやそっとじゃ倒せないぞ! さあ、戦術を練って倒してみろ!
しかし実は敵が強くなればゲームが面白くなるというものでもない。なぜなら敵を倒すための最適解がもはや見つかってしまったのだから。どんなモンスターを前にしても同じように一番たくさんのダメージを与えるやり方をすればいいのだし、そのやり方で倒せなかったとすればどんなに考えたところでやはり勝てないのだ。本来なら敵を強くするのではなく別のルールのゲームにすべきなのである。しかし、RPGのルールブックは分厚い本一冊分のボリュームがあり、ひょいと別のものに移ることはなかなかできなかった。
そしてまた別の問題が出てきた。プレイヤーが負けると困るのである。キャラクターを作り直さなくてはならないからである。D&Dの頃はよかった。ダイスを何回か振ればすぐできたし、他のキャラクターがレベル5だったら、単に新しく作ったキャラクターの「レベル」の欄に「5」とと書けばよかった。しかし、最近はキャラクターを作るのには何時間もかかるのである。昔は「レベル」で強さがすべて表わされていたのが今は数々のスキルで表現されている。レベルが上がるたびにそれぞれのスキルが上がったかどうか判定をして、新しいスキルを追加して……という操作が必要なのだ。キャラクターがドラゴンに噛み殺されたからといって、他の人を何時間も待たせて次のキャラクターを作るわけにはいかない。
というわけで、キャラクターは瀕死だけど生きていたとかなんとか理由をつけて、街の寺院にお金を払うと復活できることにした。そしてプレイヤーが倒せないような強い敵は出さないようにした。これは大間違いだった。緊張感がなくなってしまったのだ。たとえヒットポイントが0になってもその時点で退却して寺院にお金を払えば復活してくれる。だったら何も考えずに単に殴っていればいいじゃないか。それにダンジョンマスターがちゃんと手加減してくれているから、戦えば必ず倒せるようにできている。倒せなかったとすればそれはプレイヤーが悪いのではなくそんな敵を出したマスターの責任だ。そして、プレイヤーは敵が出たらサイコロを振るサイコロ振りマシーンと化してしまった。
と、昔のRPGへの情熱の惰性からつまらないけどなんとなくRPGを続ける日々が続いた。そして……
シティアドベンチャー
モンスター相手に戦っているうちにキャラクターの経験値もたまってレベルも上がった。もうそろそろ同じ洞窟も飽きた[6]。
そこで、そろそろ別の洞窟に行くことに決めた。一行は馬車に乗ってトコトコと隣の王国へ……(「入ったきり出てきた者がない洞窟」なんて一つの国にそういくつもない)。
そこで一大事件が起きた! なんと、隣の王国の洞窟に入るには王様の許可がいるのである! そして、許可証発行には500ゴールドかかるらしい。
実はそんなに驚くことではない。昔から洞窟の扉は閉まっていて開けるには何らかの特殊な手段が必要なものと決まっていた。今までの洞窟もそうだった。今まで冒険した洞窟の扉も閉まっていて、そこには「唱えよ、友、そして入れ」[7]と書いてあった。ダンジョンマスターとしてはその延長線上として「500ゴールドの許可証」を出したにすぎない。
そこにすごいことを思いついたプレイヤーがいた。なんと250ゴールドにまけさせようとしたのである。そして交渉が始まった。そして気がついた。「これって面白いじゃん」
プレイヤーは戦闘以外の遊び方を知ったのだ。これは面白い。何が面白いかというと、考える必要ができたからである。今までは敵が出たら自動的にサイコロを振るだけだったが、今度はどう王様を言いくるめたらいいかを考えなくてはいけなくなったのだ。
よく考えたら今までの洞窟にはすべて脳みその足りないモンスターしかいなかった。洞窟になぜかぼーっと立っていてパーティーを見かけたら一目散に向かってきた。洞窟の一番奥にいる何百年も生きた賢い魔法使いだって、なぜか思考回路はそのへんのゴブリンと五十歩百歩だった。しかし今度の王様はそうじゃない。人間らしい反応をする。ウォーゲームにあってRPGでいつの間にか忘れ去られていた「人間相手の知恵比べ」が復活したのだ。ブラボー! ロールプレイングゲーム万歳!
RPGのルールを作る人もこのへんはちゃんと分かっていて、キャラクターのスキルの中に「剣の扱い」とか「盾防御」なんかと並列に「説得」「脅迫」「演説」などのスキルを用意してくれた。これで許可証を250ゴールドにまけさせるのに複数の手立てができた。洞窟のモンスター退治の必要性をストレートに「説得」してもいいし、王様を「脅迫」してもいい。また街で「演説」して民衆の方に訴えてもいい。今までこんなに幅の広いゲームがあっただろうか?
ロールプレイングゲームの完成
「ロールプレイングゲームのなりたち」という章はこれで終わりだ。最後に至ってロールプレイングゲームは一応の完成を見たからだ。
ここで一つ言っておきたいことがある。戦術級ウォーゲームで「駆け引きや奇襲戦術を考えるのも醍醐味」と述べた。これが紆余曲折を経ながら最後には見事に達成できた。これは素晴しいことである。ロールプレイングゲームの人気が出るのもわかる。
本章で説明した最後の章が終了した時点で、時代としては「D&Dコンパニオンセット」や「指輪物語RPG(MERP)」「ルーンクエスト」、あるいは「ソードワールド」あたりに相当する。これらのゲームを日本でリアルタイムに遊べたのは(これらのゲームの日本語版が発売されたのは)1980年代半ばあたりのことである。この時代は、ちょうど日本のRPGブームのはじまりにあたる。
一応付け加えておくが、RPGブームの前にはちゃんとウォーゲームブームがあった。そして、「RPGマガジン」の前身もウォーゲームを扱う「タクティクス」誌である。この話はいくらかは根拠のある話なのである。
これでもまだピンと来ない人は……「大戦略」を挙げてもまだわからないだろうか?ちなみにあまりスパロボ大戦シリーズは想起してほしくない。あれはマスが六角形じゃないしね。 ↩︎
一般の人にはあまり知られていないかもしれないが、相手の駒をなくしたら勝ちとか敵を全部やっつけるまでやるとかいう単純なものではない ↩︎
ウォーゲームにはプレイヤーの他に審判役が必要なゲームがいくつかある。主に「相手の様子が見えない」という状況を再現するのに必要だからだ。しかし、そうしたゲームは流行らない。なぜなら、審判役は他人が楽しく遊んでいるのを指をくわえて見ていなければならないため、誰もやりたがらないのだ。ダンジョンマスターも同じような立場であり同じように敬遠される役である。しかし審判みたいにつまらないわけではない。これがこの仕組みがうまくいった理由だろう。 ↩︎
敵の量はダンジョンマスターが決めるのだから、打ち負かすのは簡単である ↩︎
敗北に直結する本陣は堅く守るのがウォーゲームの鉄則である。 ↩︎
このころはウィザードリィのように洞窟を何階もの階層構造にして同じ洞窟をだんだん下へ潜っていくというやりかたが多かった。 ↩︎
もちろんこれはパクリである。おお、最初の約束を破りそうになった。(……そういや新訳では「メルロン」だったっけ) ↩︎