パズル、戦術、そして戦略

面白いゲームに含まれるもの、よく「ゲーム性」と言われるものの正体を探ります。

戦略性

次に戦略の話をしよう。戦術と戦略の違いは考える内容が短期的か長期的かの違いである。「次の一手は?」というのが戦術で、「これからどうしていこう?」というのが戦略だ。

戦術が推測と決断だとすると、戦略は「プランニング」である。このゲームを勝つためにどういうプランで進めていこうかを考えるのが戦略である。将棋だったら「四間飛車でいこう」とか「穴熊でいこう」というのがプランだし、「カタンの開拓」だったら「木材だけを大量に集めて港で貿易をして勝とう」とか「羊毛と鉄鉱石と麦でとにかくカードを引こう」と考えるのがプランだ。MtGだったら「大型クリーチャーデッキ」とか「マナバーンデッキ」というのが勝利のためのプランであり、すなわち戦略である。

戦略要素の高いゲームでは、ゲームの開始前あるいは初期段階にこうしたプランニングが求められる。自分が勝利するまでの道筋を各自で想像するわけだ。そうしてそのプランに沿うように「戦術」を考える。戦術だけのゲームの場合はすべての人はただ一つ「敵を負かす」とか「スコアを獲得する」という目的を目指して動いている。しかし戦略ゲームではそうではない。カタンの開拓ではある人は木材を、ある人は羊毛を確保しようと考える。つまり戦術を考える時の目標が戦略によって変わるのだ。

これを受けて戦略を定義すると、「勝利条件を達成するための長期的な計画を立て、それぞれの時点での小目的を設定すること」であろう。戦略とは「勝つためには○○の時点で△△になっていなければならない」とそれぞれの段階での小目標を設定することだ。そしてその小目標を実現するための手段を考えるのが戦術だ。

戦略の自由度

戦略を考える面白さはその自由度にある。真っ白な紙に自分なりにゴールを目指したストーリーを書いていく事が面白いのだ。戦術の場合は答えは「手」だからある限られた答えの中から選び出すという作業だった。しかし戦略は目標をたてる事だからいくらでも自由に考えることができる。それはいわば自分だけのストーリーだ。そしてそれを実行に移し、それで思惑通り勝利できたら自分の計画が良かったというわけだ。このように自分だけのオリジナルプランを考えてそれで勝負するのが面白さの源泉である。

戦術の場合は、他のプレイヤーでも同じ立場に立てばきっと同じように考えるだろう。そういう意味で戦術はどちらかというと「発見」するものである。それに対して戦略は「発明」するものだ。無から有を作るという魅力がそこには存在する。

まとめてみよう。戦略性のあるゲームでは、勝利条件は「勝利点を10点集める」とか「相手のヒットポイントを0にする」といった抽象的な目標である。それを達成するための手段は用意されているが、手段はあまりにも漠然としていてどうすればいいのかわからない。こんな中で自分なりの「勝つための方針」を考え、それに基づいて各段階での具体的な目標を決めていくのが「戦略」である。

戦略性のあるゲームというのはこのように目標が抽象的で、それを達成するための手段が漠然としていなくてはならない。もちろんルールとしてはきちんと決められている。例えば「家を建てたら1点」というようにだ。そして「家を建てるためには木材と煉瓦と麦と羊毛が必要」というルールもある。しかしこの時点ではたと気がつく。木材と煉瓦と麦と羊毛を取得する方法なんていくらでもあるのだ。それぞれの土地の周りに家を建てて直接取得してもいいし、他の人とトレードしてもいいし港で交換してもいい。そしてそもそも点をとるには家を建てるだけではなくイベントカードを引いたり道を長く延ばしたりと他にもいくらでも方法がある。

勝利条件が決まっていてそれを達成するための方法もわかっているが、あまりにも方法が多すぎてどうやっていいのだかわからない、というのが戦略性を持つための条件だ。勝利条件を直接目指すにはどうやってやったらいいかわからないから、自分なりにそこへ到達するための小目標をたてる。手段はいくらでも用意されているのだから、そこへ到達するための小目標もいろいろ考えられるはずだ。それを考えるのが戦略の楽しみなのである。

戦略の選択とメタゲーム

戦略はいくらでも考えられる。そしてそれを考えるのは最初の一手を指す前だ。なぜなら戦略が決まっていないとどうしたらいいかわからなくて最初の一手を指せないからだ[1]。だから戦略性のあるゲームでは「数ある戦略の中から今回はどれを実行するか?」という問題を「ゲームが始まる前に」考えなくてはならない。

最初の一手を指す前にある程度判断材料があればこの問題はとっつきやすい。例えばカタンの開拓ではパネルの初期状態とターンの順番から最初の一手を指す前にある程度戦略が制限されるので、プレイヤーは配置を基に「今回は木材と煉瓦が出やすいから道を延ばしていこう」とか「いろいろな産物がとれる場所はもう空いてないから今回は港で貿易に専念しよう」と戦略を練ることができる。MtGなら買ってきたパックにどんなカードが入っていたかでどんな戦略をとるべきかがある程度見えてくる。これは戦略の選択肢が減るという副作用もあるが、考える材料が提供されるという意味ではいいことである。

ゲームの初期状態で判断材料がまったく無い場合でも、そのゲームが有名でプレイ人口が多い場合には、比較的多く見受けられる戦略とそうでない戦略があってそれが判断材料になる。相手が大型クリーチャー主体の戦略であればマナバーンは有効だし、マナバーンには安価な小型クリーチャー主体の戦略が有効だ。相手の戦略を推測してそれに対する有効な戦略を編み出す。これは一般的に「メタゲーム」と呼ばれる。

また、戦略はゲーム開始時に決めてそれ一本で行くだけでなく途中で変えることもできる。始めから相手の出方を見て戦略を変えることを前提にした「様子見戦略」もあるかもしれない。こうして相手の戦略によって自分の戦略を変えることも含めて考えられるようになってくると俄然面白くなってくる。

戦略の決定サイクル

ただ、戦略性という面白さには一つだけ欠点がある。考えてから結果が出るまでのサイクルが長いことである。大抵の場合一つのゲームでは一つの戦略しか登場させられない。ある戦略がもし大失敗だったとしたら、ゲームの勝敗が決まるまで最下位を独走したまま他人が勝つのを指をくわえて見ていなくてはならないのだ。戦術を考えるチャンスは自分の番が回ってきた時に毎回あるのに対して、戦略を考えるチャンスはあまりない。

戦略をたてる回数を増やすにはどうすればいいか。そのためにはゲーム時間を短くすればいいのである。例えばハーツなどのトリックテイキングゲームでは、カードが配られた時に戦略をたてる。「ダイヤのスートをできるだけ速くなくしてハートの強いカードを切ろう」とか「ハートをたくさん持っているから低位のカードで逆トランプ狩りをしよう」とか。そしてプレイは13トリックで終了し、次のディールではまた戦略を練ることができる。戦略を練る楽しさを短時間でディープに味わえる良いゲームだ。

ただし、人が同じ時間に考えられる物事の量は変わらないから、戦略をたくさん楽しめるということは逆に戦術やパズルの要素は少なくなるということだ。これはどちらが良いというわけではなく、ゲームの種類と楽しみ方が違うというだけのことだ。そして戦略の楽しみを増やそうとするなら、一回のゲームを短くして短い周期で仕切り直しにするとよい。

自由度と自由

戦略性には自由度が大きく影響すると述べた。勝つための筋道としていくつもの方法が考えられるのが「戦略の自由度」だ。しかし、「自由度」が「自由」になってしまっている例を良く見かける。

これは戦略性の大前提を考えればわかる。いろいろな方法は考えられるが、それらは「勝つための最良の道筋」でなくてはならないのだ。なぜならそれがゲームの大目的なのだから。例えばカタンの開拓で「今回は森林とその貿易港で勝負しよう」と決めた時には、プレイヤーはそれが最良の戦略であると思っていなくてはならない。「今回は勝つのはあきらめてひたすら道を延ばそう」と考えるのは最初からゲームを放棄していることである。

これはプレイヤーの姿勢だけではなくゲームの作りそのものにも言える。これが顕著なのが最近のRPGだ。「敵を倒すだけではなくアイテム集めも釣りもミニゲームも楽しめます」だと?じゃあこのゲームの目的は何だ?悪の大魔王を倒すことじゃないのか?そして悪の大魔王を倒すためには結局のところ洞窟を進んで敵を倒すしかないのだ。ゲームの目的と関係ないところでいくらやれる事を増やしたとしてもそれは戦略を練る楽しさには全く影響しない[2]。できる事が多いかどうかが問題なのではない。問題は勝つための道筋がどのくらいあるかということなのだ。勝つための最良の戦略というのが見つかってしまったらもうそれは戦略ゲームではない。

ではRPGにおける自由度とは何か?悪の大魔王に正面から立ち向かう事も、周辺諸国をまとめ上げて強大な軍隊を指し向けることも、あるいは塔に忍び込んで魔王の力の源泉であるクリスタルを奪うこともできるのが自由度だ。さらに言うとこれらが選択肢として提示されてここから選べるのが戦略の自由度なのではない。「魔王を倒す」という目的以外に何も提示されていないまっさらな状況の下で、プレイヤーが自分でこういった計画を立てることができるのが「戦略の自由度」なのだ。漠然とした状態から自分で道筋をつけるのが「戦略」なのだから。

「プレイヤーは何をしてもいい」というのが「自由」だ。そして「勝つために考えうるどんな手段を講じてもいい」というのが「自由度」だ。「自由」というのは結局「勝利を目指さなくてもいい」と言っているわけであり、それはゲームを放棄しているのに等しい。

まとめ

勝利条件を満たすにはあまりにも手段がありすぎてどこからどうやって手をつけたらいいのかわからない、そんな状態から自分で道筋を考え出すのが「戦略」である。戦略によって目的が具体化し、それを達成するための戦術を考えることができる。

「戦略性が高い」とは、たくさんの手段の中から自分なりのオリジナル戦略を作れるということである。つまりは「戦略の自由度が高い」ということだ。そして戦略は状況から論理的に導かれるものや数ある選択肢から選びとるものではなく、漠然としたところから産み出されるものでなくてはならない。戦略の楽しみとは言ってみれば「創造の楽しみ」なのだから。

コンピュータの戦略ゲーム

戦略ゲームでは、プレイヤーはゲーム開始時に盤を目の前にして「はてどうすればいいんだろう」とある意味途方にくれるものでなくてはならない。マニュアルも読まずにサクサク進められるようなものは本来は戦略ゲームとして失格なのである。まあ今時のゲームは「プレイヤーはマニュアルを読まない」という仮定のもとに最初はチュートリアルから始まるようになっているからそれはそれでいいのだが、それでもゲームのルールを理解した後は荒野に一人ぽいっと投げ出されなくてはならない。そこで「はてどうすればいいんだろう?」と考えるのが戦略なのだから。

囲碁はその典型である。ルールは簡単だ。でもルールを教えられて「ほら、最初は君の番だよ」と言われても、広い盤面のどこに1手目を打ったらいいのかさっぱり見当がつかない。自分の石で地を囲めばいいというルールは教えられていても、具体的にどうやればいいのだか見当がつかない。戦略ゲームとはそういうものなのだ。

そう考えると「戦略ゲーム」あるいは英語で「ストラテジー」と銘うったゲームにそんなゲームはあるだろうか?確かにいくつかある。そしてそれらは「不親切」と呼ばれ「マニア向け」と称され、「買ってはみたけれど何をしたらいいのかがまったく分からなくて投げ出しました。クソゲー。」とコメントされる。戦略ゲームとはもともとこういうものなのだ。買ってすぐどうすればいいかを教えてくれるようなゲームは戦略ゲームではない。それを自分で考えるのが楽しみなのだから。

と、ここまではちょっと言いすぎかもしれない。本当に良い戦略ゲームは数々のチュートリアルをこなすことで楽しみながらゲームが理解でき、ルールと基本戦術がわかってからやっと本題に入る。こういった丁寧な作りのゲームも数あるが、残念なことに多くの人はルールと基本戦術を理解する前に「面白くない」といってやめてしまう。面白くないのは当たり前だ。まだゲームの入口に入っていないのだから。


  1. 適当な手を指しておいてしばらく相手の出方を見るというのは立派な「戦略」だ。 ↩︎

  2. まあもともと最近のRPGに戦略の楽しさなんてないし、そもそもゲームですらないのだが。 ↩︎