JRPGとは何か

日本のRPGは海外のRPGとどこが違うか

JRPGの問題

RPGというジャンルは、コンピュータではとても実現が難しいジャンルだ。なぜなら、すべてを数値で処理するのではなく、言語や感覚に頼るゲームだからだ。

しかし、日本では、RPGという概念がきちんと理解される前にコンピュータRPGが入ってきた。当時のコンピュータRPGは、性能の限界があったため、RPGというゲームのほんの一部しか実現できなかった。この、「ほんの一部しか実現できなかった」ゲームをお手本として、ここになんとかゲームとして楽しめる部分を追加していこうとしているのが、今のJRPGだ。

JRPGは完成されたゲームである

面白いことに、JRPGファンはよく、「JRPGを進化させるにはどうしたらいいか」を議論する。こんなシステムを取り入れたら、あるいはこんな要素を取り入れたら面白くなるんじゃないかと考える。そうした議論の根本には、「JRPGというシステムは、今のままで完成されている」という認識がある。

海外RPGのファンにとって、今の(海外)RPGは、本来実現しなくてはいけない要素が2割くらいしか実現できていない、お粗末なものである。しかし、昔は1割も実現できなかったものがようやく2割ほど実現できるようになって、いい時代になったなぁと思っている。制作者もおそらく、ゲームに盛り込みたいことが山ほどあって、泣く泣く切り落としている状態だろう。

RPGに対して「何を付け加えようか」と考える時点で、どこかおかしい。「付け加える」ことを考える前に、まだ出来てない部分を完成させろ。これほど未完成なゲームジャンルにおいて、「まだ出来ていない部分」が見えていない時点で、根本的に見ているものが違うのではないかと疑う。

海外のRPGをやっていると、妙にゲーム挙動だったり、会話がすれ違ったり、こうしたいと思った行動が実際にはできなかったりして、途中で「なんだかなぁ」と思うことがよくある。しかし、この「なんだかなぁ」をなくすには大変な努力が必要だということもわかっているので、こうした違和感を笑い飛ばしつつ、ゲームを楽しむ。同時に、こうした違和感がないようなゲームが出来たらなぁ、とも思う。それこそが、RPGが進むべき道なのである。

JRPGでは、こうした違和感を感じるかもしれない要素を全部削ぎ落とすことで、違和感を感じさせないようにしている。いろんな方向から見られると破綻がバレるから、自由度をなくし、ある一つの方向からしか見ることができないようにしている。限定することで破綻をなくしたいか、多少破綻していてもいいから壮大な目標に向かっているものがいいか。前者は日本的で、後者はアメリカンな発想だといえば、納得がいくのではないか。

JRPGの問題

JRPGの問題は、JRPGのプレイヤーも、もしかしたら作り手の方も、JRPGしか眼中にないように見えるところだ。「どうやったらJRPGが面白くなるか」などという本末転倒なことを考える前に、「別にJRPGでなくてもいいじゃないか」と思うのが普通だ。JRPGという形式が先にあってそれをどのように料理するかではなく、思いついたアイデアを一番実現しやすい形式がたまたまRPGだったという順番であるべきだ。

JRPGには、本来のRPGに必要な「自分の好きなように未来を変えていく自由さ」と、「未知の世界を、自分の腕だけを頼りに探検する冒険心」に欠けている。昔は日本のRPGにもそれがあった。しかし、ムービーや複雑な戦闘システムやプレイヤーへのわかりやすさといった枝葉の要素を付け加えるときに、本来必要な要素を捨ててしまった。その結果、「なぜRPGなのか」という根源的な問いに答えられなくなってしまった。

RPGの中の、実現が難しい部分、どうやっても違和感が残ってしまう部分を簡単に切り捨てることで、完成したと思い込んでしまっているから、嘲笑されるのである。