JRPGとリアリティ
さて、前の章の最後で、RPGにおいて世界観が重要だという話をした。ルールがあいまいな形で提示されることが特色であるRPGというジャンルにおいて、世界観こそがルールなのだと。
その世界観がでたらめだと、「リアリティがない」と言われることになる。しかし、JRPGの作り手は、そもそもゲームにおいてリアリティを重視しない傾向にある。それは、最近のライトノベルやマンガなどにも言える。設定にリアリティがないとどういうことになってしまうのか、ここで詳しく述べることにする。
ゲームとリアリティ
ゲームにおいて、リアリティは、ルールをより分かりやすくし、状況を把握しやすくするはたらきをする。
たとえば、銃をバンバン撃つアクションゲームの多くは、頭を狙って撃つとダメージが大きくなる仕掛けがある。ゲームとして見れば、大きな的の中によりダメージが大きくなる小さな的があるということであり、それはどこであってもいい。別に頭ではなくても、手でも股間でも、面積が同じであればゲームとしては同じだ。しかし、同じであればこそ、股間を撃つと一撃で倒せるようにするのではなく、頭を撃つと一撃で倒せるようにすべきだ。そちらの方がわかりやすいからである。
特にシミュレーションゲームと呼ばれるジャンルは、リアリティが最重要課題である。カーシミュレーションでは、現実に存在するサーキットで、現実に存在する車を、現実にそうなるであろう走りで再現できなくてはならない。フライトシミュレーションでは、流体力学的な計算をして、現実の飛行機の挙動を再現する。ストラテジー系のゲームでは、現実と同じ兵器が登場し、現実と同じ強さでなくてはならない。プレイヤーは、単に何でもいいからゲームをしたいわけではない。ゲームを通じて、普段は触れることのできない現実を体験したいのだ。
ゲームがリアルであるということは、すなわち「面白い」ということを意味する。なぜなら、「現実」は「面白い」からだ。より正確に言えば、実際にやってみて面白い事柄を取り上げて、その面白い部分を損なわないようにゲーム化するのだから、当然面白くなるのである。
大局観
ゲームにおいて、リアリティは単にわかりやすさだけの問題ではない。ゲームによっては、存在理由にまでかかわってくる。
ストラテジー系では、たとえ現実を模擬するのが目的ではなくとも、抽象化されたリアリティは重要である。たとえば「大軍勢は小軍勢より強い」とか、「正面からぶつかったら攻めるより受けるほうが強い」といったことだ。
マクロとミクロの連続性と言うこともできよう。細かいことを無視して全体を俯瞰した状況が、もちろん細かい差異はあるにせよだいたい信用できる。そして、細かい部分を見れば見るほど、細かいことが分かってきて、その細かいことの積み重ねで大局が変化していく。このように、部分にとらわれず全体を見て、現在自分がどのような状況にあるのかを判断することを大局観という。
たとえば、将棋の場合、駒が相手より極端に少なかったり、王様が丸裸でそこに敵の駒が迫ってきていたりすると、素人目で見ても「ああ、こっちは負けてるな」とわかる。オセロでは、素人は盤面に自分の駒が多いほうが優勢だと見てしまうが、実際にはむしろ逆で、たいていの場面では駒の少ないほうが優勢である。そういうわけで、将棋は分かりやすく、オセロは分かりにくい。もっとも、オセロの特殊な形勢判断を知った上で盤面を見れば、それなりに分かりやすいのだが。
人間は、盤面をパッと見て、どこは注力すべきか、どこは気にしなくていいかを判断する。そして、注力すべき部分をしっかりと見て、何をすればいいかを決定する。そのあいまいなところが、人間性が出て面白いところだ。与えられるデータすべてを理解した上でないと答えが出せないようでは、面倒なばかりで面白くはない。(それはパズルだ、と言いたくなるかもしれないが、面白くて人気のあるパズルはどれも、パッと見てどこから解き始めればいいかを直感的に判断するという、大局観の要素が含まれている)
この、直感的な大局の判断という部分に、リアリティは大きく関わってくる。チェスや将棋のようなゲームでさえそうだ。駒を兵隊や武将に見立てて、現実の戦場に置き換えることで、全体の状況をなんとなく把握する。これは、理詰めではなく、イメージと感覚の領分である。だから、ゲームのルールからイメージが沸かない場合や、盤面から受ける印象が本当の形勢から大きく異なる場合には、大局観を持つことができず、面白くないゲームになってしまう。
リアリティのない戦闘システム
JRPGでは、戦闘システムを複雑にしようとするあまり、リアリティのないシステムになっているものが多く見受けられる。戦闘システムにリアリティがないと、直感的にゲームを把握することができないので、「何だか訳の分からないゲーム」ということになってしまう。
この感想は、直感的なものなので、いくら理屈に訴えてもダメだ。たとえゲームシステムを懇切丁寧に解説したところで、そしてそれが理解されたところで、「何をすればどうなるかは分かったけれど、なんでそんな訳の分からないシステムになってるんだ」と疑問に思われてしまう。
たとえば、JRPGに対して、「敵も味方も棒立ち」という批判がなされることがある。RPGの戦闘の場面を直感的に考えると、普通は敵と味方が一対一で組み合っている図を想像する。それが味方が全然別の方を向いて立ってたりするから、批判されるのだ。昔のRPGも棒立ちだったじゃないかと言われるかもしれないが、昔のRPGはちゃんと敵と向かい合っていたし、鎧を着て盾を持っていたので、たとえ立っているだけだったとしてもなんとなく防御をしているように見えた。そして、そういうものを持たない後衛に攻撃が行った場合には、直感的に「何か良くない事態に陥っている」と感じることができた。今のJRPGには、「戦っている」というイメージに欠けるものが多い。
リアリティのないゲーム内世界
なぜこうなってしまっているかというと、戦闘システムが先に決められてしまうからだ。「こういう世界のこういう状況を再現したい」という世界観がまずあって、それに対して「だったらこういう要素をシステムに取り入れよう」と考えるなら、戦闘システムもゲーム内世界の世界観に沿ったものになるはずだ。
ゲーム内世界という「リアル」と、戦闘システムとが食い違っている。これが「戦闘にリアリティがない」と言われる理由である。「リアリティがない」というのは、今我々が住んでいるこの世界の現実と食い違っているという意味ではない。
海外のRPGは、あまり世界観を自分で作ろうとはしない。中世や西部劇、SF、荒廃した近未来などなど、既にあるものをそのまま取ってくる。もちろん、現代もその中の一つだ。その中で出てくる地名や人名、物体の名前などは独自に作るわけだが、それらの名前や独自の機構に必然性はなく、どこかで見たようなものが設定される。だから、海外のRPGは、その舞台となる世界をジャンルの名前、もしくは似た映画や小説やドラマなどの名前で説明することができる。どうしてこういうありきたりな世界観にするかというと、世界観はルールであり、ルールはわかりやすい方がいいからだ。
それに対して、JRPGでは、特別な機構やアイテムを用意することが多く、それが世界観の大きな部分を占める。だから、JRPGの舞台となる世界を説明するには、「○○というものがある世界」という形式になる。そして、その○○がゲームシステムに大きく関係する。ゲームシステムをまず作って、それから舞台となる世界を作るから、このようになるのだ。
JRPGでは、まず戦闘システムをつくって、そこに世界観をこじつける。だから、リアリティのない世界になってしまう。これは、戦闘システムこそが面白さのカギだと思い込んでしまっているからだ。RPGの面白さの本当のカギは、シナリオだ。ゲームの面白さは、そこにどんな人物を配置して、どんなダンジョンを作り、どんなアイテムやモンスターを配置するかで決まる。たとえば、将棋やチェスのように、自分の駒を動かして相手の駒を取るゲームはたくさんあるが、その中には面白いゲームも駄作もある。「自分の駒を動かして相手の駒を取る」というところに面白さがあるわけではなく、どんな駒をどのように配置するかに面白さのカギがある。RPGも同じで、ゲームのルール自体が面白い必要はないのだ。
直感のためのリアリティ
RPGは、キャラクターを通じて、その世界の暮らしや冒険を疑似体験するゲームだ。自分が実際にその場にいてそういう行動をするということを、頭に思い浮かべる。そのためには、リアリティが欠かせない。
そして、プレイヤーが頭に思い浮かべたことをそのまま実行できるように、ゲームシステムを整備する。普通は、モンスターが現れたら「剣を振って倒そう」と思うから、コマンドを入力するとキャラクターが剣を振るようなシステムにする。
しかし、JRPGではまず画期的な新戦闘システムを作って、プレイヤーにそれを使いこなすことを要求する。プレイヤーは、そのシステムを理解し使えるようになると「俺って頭いい」と満足する。そして、与えられた局所的な課題を延々と実行する。だから、大局観も想像力も直感もいらない。
「システムを使って何かをする」のではなく、「与えられたシステムに適応する」ことに喜びを見出す。これは、JRPGだけではなくアニメやライトノベルなども含めた大きな傾向であるが、これについての詳しい話はまた別の機会にするとしよう。