はじめに
最近、日本のRPGはよくJRPGと略され、海外からの主に嘲笑の的になっている。そして、それに対する反発もよく聞かれる。しかし、どうも議論が的外れになってしまうことが多いように思う。ここでは、そもそもRPGとは何なのかということを考えつつ、なぜJRPGと一くくりにされるのかということを考えていきたい。
この問題を、キャラデザインの問題(なよなよした中性的なキャラクター)やグラフィックの問題(アニメ調あるいはマネキン人形)、ストーリーの問題(何のとりえもない若者が世界を救うストーリー)だと捉えてしまうのは、いかにも早計である。こうした要素は、よくよく考えてみると、海外のRPGもたいして変わらなかったりする。
問題は、もう少し根幹部分にある。RPGとはどういうゲームなのか、である。
理想と現実
まず、本文中には理想論を多く出す。これらを「そんなのは理想論だ」と言っても意味はないし、「海外のRPGだってそんなによく出来てはいない」と言うのもその通りだ。別に、JRPGを貶め、海外のRPGを美化するのが目的ではない。
問題は、「理想のRPGとは何か」である。海外のRPGとJRPGとでは、理想のRPG像が違うのである。そしてもっと言うと、JRPGは理想像を見失っているように見える。RPGがどんなゲームでなぜ面白いのかということを考えずに、今あるものにゴテゴテと何かを付け加えることだけを考えている。
JRPGが海外で失笑されるのは、それがRPGではないからである。その上、今では「ゲーム」ですらない何かに進化しつつある。気をつけなければいけないのは、「進化」という言葉は、「進歩」とは違って、価値判断が含まれていないことだ。退化も進化の一形態であるように、進化することは必ずしもいいこととは限らない。
注意
この文書では、注釈のない限り、RPGという言葉はコンピュータRPGを指すものとする。
少なくともこの文書では、JRPGという言葉を日本で作られたRPG全体を指す意味では使わず、ファイナルファンタジーなどに代表される、あんな感じのRPGを指す。アメリカのコーヒーは全部アメリカンコーヒーだというわけではないし、フランスのトーストが全部フレンチトーストというわけでもないのと同様だ。
また、ここで言う「海外のRPG」には、何十年も前のRPG黎明期の作品は含んでいない。いや、厳密に言うと含んではいるのだが、あまりにも性能の制約が大きすぎて、表面に出てきていないから、一見すると当てはまらないように見えてしまう。だから、昔のRPGを持ってきて、「海外のRPGもJRPGも変わらないじゃないか」と言うのは、的外れである。