ゲームとは何か

ゲームとは何か。そしてゲームはなぜ面白いのか。

ゲームバランス

さて、次にゲームバランスの話をしよう。ゲームの良し悪しを語る時に、「ゲームバランス」という言葉がよく使われる。ゲームバランスはあった方がいいと一般に思われている。しかし、ゲームバランスとはいったい何だろうか?

非対称ゲーム

ボードゲーム「スコットランドヤード」は泥棒役と刑事役に分かれて追いかけっこをするゲームだが、あまり勝率のバランスは取れていない[1]。普通にやると多くは刑事側の勝ちに終わる。しかし、それにも関わらずこのゲームは非常に面白い。つまりは、ゲームにおいて勝率が五分五分である必要はないのだ。

ゲームは「勝ちを目指すもの」である。だから相手の方が多少有利でも問題はない。いや、自分が不利な方がより望ましいともいえる。難しいゲームになって、より考える事が多くなるからだ。勝率が皆等しいという意味でのゲームバランスはなくてもよい。

しかし、多くの対戦ビデオゲームではそうなってはいない。それはプレイヤーが「勝ちを目指すこと」ではなく「勝つこと」に重きを置いているからであり、それはゲームのプレイヤーとしてはあまり良くない行動指針である。ゲームの結果ではなく過程を楽しまなくてはならない。ゲームの過程を楽しめる健全なプレイヤーであれば、ゲームバランスというのはあまり問題にならない。[2]

結論。それぞれのプレイヤーの勝率を等しくすることはあまり重要ではない。

ゲームバランスとは何か

とはいっても、対戦格闘ゲームで明らかに相性の悪い相手と戦って、手も足も出ずに終わるのはいかにもつまらない。普通、「ゲームバランスが悪い」というのはこういうことだ。ゲームバランスが悪いゲームは面白くない。しかしゲームバランスとは勝率の事ではない。ではゲームバランスとは何のことだろうか。

ゲームとは勝ちを目指すものである。だから、ゲームをする以上プレイヤーは等しく勝ちを目指せるものでなくてはならない。これがゲームバランスである。「等しく勝ちを目指せる」と「等しく勝てる」というのは同義ではない。結果ではなく過程が重要なのである。

対戦格闘ゲームの相性の問題では、「負ける」のが悪いのではなく「手も足も出ない」のが問題なのである。つまり、最初から勝ちを目指そうにもどうやっても勝てない状況にあることだ。あるいは最初からガードを固めて返し技を狙いにいくしかない状況だったり、相手のジャンプに反応して対空技を出すしかない状況だったりする。このように、勝つために取れる戦略が限られてしまう事が問題である。この場合、弱い側だけではなく強い側もゲームとしてはあまり面白くない。ワンパターンで勝ててしまい、考える楽しみがなくなってしまうからである。

ゲームバランスが悪い状態というのは、あるプレイヤーにとって必勝手順が見えてしまっていて、相手プレイヤーがどうしてもそれを破れないという状態のことだ。これは結果(勝敗)とは関係がない。必勝手順とは「この手が他のどの手よりも良い」という手順のことで、それは勝つための手かもしれないし、絶望的な戦いの中でのせめてもの抵抗かもしれない。もしあるプレイヤーにとって「ガードを固めて反撃を狙う」以外に勝てる気がしなかったとしたら、それはいかに確率が低いものであろうと「必勝手順」である。

ゲームは勝つために考えるものであるから、その手順がわかってしまったらもうゲームをやる意味はないわけだ。「ゲームバランスが悪い」というのはそういう状態のことだ。

キャラ性能

近年、プレイヤー同士が最初に同じ状況になっていないゲームが増えてきた。代表的なものが上で例に出した対戦格闘ゲームだ。それぞれ少しずつやれる事の違う「キャラクタ」を持って、最初から差のついた状態でゲームが始まるようなシステムである。普通は「差」といっても絶対的な差ではなく、プレイヤーごとに行動の有利不利に差ができるという程度だ。これはプレイヤーごとに違う戦術を取れるようにし、より奥の深いゲームにするためのシステムである。

しかし、これによってゲームは複雑化し、組み合わせによっては最初からゲームにならない場合も出てきてしまう。性能に差があるだけではゲームにならないことはないが、戦略の幅が狭まってしまうのは問題である。自分のキャラクタの有利さを完全にカバーしてしまうような能力を持ったキャラクタがいると、自分が不利に立たされるだけでなく、どうやっても勝てないという状況になってしまう。これが「ゲームバランスが崩れた」状態である。

プレイヤーごとに異なる特徴を持たせるのはゲームをより奥深いものにするが、組み合わせによってはプレイヤーの戦略が狭まってしまうこともある。なぜなら、あるプレイヤーが「○○に強い」ということは、別のプレイヤーにしてみれば「○○で争うのは得策ではない」ということであり、それはすなわち戦略の幅を狭めることだからだ。キャラクタごとに有利不利を持たせる場合は、それがあまり大きなものであってはならない。「○○で争うことは多少不利ではあるが、それでもやってみる価値はある」という程度でないといけない。

キャラクタごとに差をつけるのであれば、有利不利をつけるより別のルールを付け加えた方が戦略の幅が広がる。TCGの多くがこの方法で独特の面白さを出しているし、対戦格闘ゲームにも一人か二人くらいは通常ルールを無視したムチャクチャなキャラがいる。しかしこの方法を取ると、組み合わせによってはまったくゲームにならない可能性も出てくるので注意が必要である。

収束系のゲーム

ゲームが進むに従って取れる戦略が多くなるゲームと少なくなるゲームがある。前者を拡大系、後者を収束系と呼ぼう。例えば「カタンの開拓」はゲームが進むに従ってたくさんの資源が取れるようになって、一ターンにいろいろの事ができるようになる。これが拡大系である。逆にチェスでは駒の取り合いになってだんだん少なくなり、最後には片方がキングだけになってどうしようもなくなってしまう。これが収束系である。

収束系の場合は一つのミスが致命的になりやすい。だんだん取れる手が少なくなってしまうからである。どこかで一度差が開いてしまうと、取れる手が少なくなってしまっているせいで挽回することができない。このようなゲームは1プレイが短いか、もしくは投了することによってゲームを終われるようでなくてはならない。あるいは一度均衡が破れたらそのまま一気に勝てるようなスタイルにする。勝つ見込みがないままだらだらとゲームを続けさせられるのはまさに生き地獄だ。

収束系のゲームは古くからのゲームに多い。チェスは例に挙げたとおりだが、ハーツなどのトリックテイキングゲームもそうだ。最初は13枚の中から選択できるが、1枚ずつそれが少なくなり、最後のトリックは選択肢がなくなってしまう。この場合、1ゲームとは13トリックであり、ほんの数分で終了する。

収束系のゲームは面白いのだが、作るのが難しい。プレイ時間は短く、一回のミスが致命的な緊迫したゲームになる。この手のゲームがなかなかないのはここに原因がありそうだ。

拡大系のゲーム

多くのゲームは進むに従ってやれる事が多くなる。これを拡大系と呼ぼう。ゲームが進むに従ってパワーアップしたり、自由に動かせる資産が増えたりする。これが度を過ぎると、ゲームに勝つことより規模を拡大する事を目指す「育成系」のゲームになってしまう。

拡大系のゲームの特徴はとれる手の幅である。収束系のゲームの場合、手の幅を広くしようとすると、最初から幅広い手を用意しておかなくてはならない。しかし途方もない数の「手」が用意されても、普通の人はただ呆然とするだけだ。拡大系の場合は、最初は少ない選択肢を用意しておいて、それをだんだん増やしていくことができる。

拡大系のゲームではゲーム序盤は基礎固めである。将来を見据えてどこを強化しつつどう戦うかの計画を立てる。そして小競り合いを経て終盤へと突入する。今まで積み重ねてきた資産で総力戦をし、決着をつける。このように一つのゲームで様々な種類の楽しみが味わえるのが魅力である。

しかし、拡大系のゲームではいくつかの落し穴がある。その一つはゲーム時間が長くなることだ。ゲームで面白いのは方針を決める序盤と決着をつける終盤であり、ゲーム時間が長くなってしまうと比較的面白さに欠ける中盤が長くなってしまう。俗に「ゲームがだれる」と言われう現象である。中盤が長くなってそこでいろいろな事がありすぎると、序盤で方針を決める意味が薄くなってしまう。序盤でどんな方針をとっても中盤で簡単にひっくり返されてしまうのでは序盤を戦う意味がない。ゲームは将来を見据えて策略を練るものであるから、将来が遠くなりすぎると見据えることができなくなってしまう。ゲームのゴールは最初からそれに向かって走れるくらいには近くに設定すべきである。

拡大系のゲームはプレイ時間が長くなっていわゆる「育成系」になってしまいがちである。俗に「シムシティ系」と呼ばれるゲームでは、勝敗より自分の美しい街を作ることにこだわってしまう。これはゲームではない。ゲームでは強さこそが善であり、それ以外のものを評価すべきではない。

こうなってしまう原因は相手との関わり合いが少ないからである。序盤でこういう街を建てようと思ったとおりに街が建てられてしまうからこういう事が起きる。しょっちゅう相手の介入があり、相手の戦略に応じて街を変えていかなくてはならないゲームではこんな事は起こらないはずだ。相手がいてもいなくても変わらないものはゲームではない。

時間制限

ゲームの時間について少し書いたが、時間制限というのはゲームを面白くする上では重要である。時間制限のないゲームは間延びしがちだ。特に拡大系のゲームでは顕著である。ゲームには時間制限をつけ、「引き分け」を用意すべきだ。ここで言っている「時間制限」とは実際のプレイ時間のことではなく、ターン数制限のことである。

拡大系のゲームでは一般的にいって戦力差は広がる。建物を建てて資源を採掘して兵を作るという普通のRTSを例にとってみると、序盤に資源をたくさん採掘して建物をたくさん建てた方ほど有利だ。建物をたくさん建てるとさらに資源を取れるようになり、さらに強い兵隊を作ってさらに建物を建てられるようになる。

このようなシステムだと、いったん相手よりほんの少しでも有利になったら守りに入ればよい。相手に何かする隙を与えないようにして、時間をどんどん延ばしていけば、それだけでだんだん差は広がっていく。「ジリ貧」といわれるものだ。こんなゲームではよくない。「守り」というのはすなわち、相手の選択肢を狭めることで相手の挽回のチャンスを減らすことだ。これはゲームのプレイとしては正当なものだが、相手を何もできない状態にしてしまってはゲームの楽しみがなくなってしまう。もちろん相手だけでなく自分もつまらない。[3]

かといって、その差がすぐひっくり返せるようでは、なんのために有利になるために懸命に策略を練ったのだかわからなくなってしまう。有利な行動をとったら有利にならないといけない。

こんな時には時間制限を設けるとよい。すると、プレイヤーは相手より少し有利になるだけではダメで、時間制限内に完全に負かせるほどの差をつけないといけなくなる。時間延ばしの守り戦術はとれないようになり、自分も相手も考える事が増える。

コンピュータRPGではよくこの問題が見られる。世界の危機だというのに時間制限が何も設けられていない。多大な危険を承知の上で急いで敵の城に向かっても、ちまちまとレベル上げをしながらのんびり向かっても相手の状況に変化がない。本来なら急いで敵の城に向かえば敵の準備が間に合わない所を攻めることができて楽に落城させられるはずなのに、ほとんどのゲームでは敵の量に時間要素が考慮されていない。だから少し怪我をしたらすぐ帰って宿屋で寝るといった、お気楽サラリーマン状態になってしまう。根気よくレベル上げをすれば誰でもクリアできるようになってしまっていてはもはやゲームになっていない。

結論。時間制限(ターン数制限)を設けないと、プレイヤーは守りに入ってしまってだらだらと時間だけが過ぎてしまう。そのプレイはゲームの原則からすると正しいだけに問題だ。守りに入るだけでは勝てないようにルールを設定せよ。それはゲームデザインの問題である。

マルチプレイ

ゲームバランスを取るてっとり早い方法に、複数人のゲームにするという方法がある。そして「トップの人を皆で引きずり降ろす」という約束にする。こうするとデザインがどうあろうとプレイヤーは自分たちで勝手に戦いあってバランスを取ってくれる。これがマルチプレイヤーゲームである。ゲームデザイナーからすると楽でいい。

典型的なマルチプレイヤーゲームでは、相手を積極的に邪魔することができ、それによって利益を得られるように設定される。しかし相手を邪魔できるということは相手にも邪魔されるということであり、そのバランスをどうとるかというのがプレイヤーの考えどころである。多く場合はあまり目立たずこっそりと漁夫の利を得るような戦法がうまくいく。このあたりは微妙であり、だから面白い。

マルチプレイヤーゲームのデザインで吟味しなければいけないのは他人への干渉のバランスである。他人に干渉できないとゲームとして面白くならないが、干渉できすぎると自分のプレイが相手まかせになってしまう。マルチプレイヤーゲームと称するゲームでは他人への干渉度が大きくなるように設計されがちだが、そうすると自分なりの作戦より相手の出方の予想とそれの対応を考える事に意味が出てくる。全員が作戦より相手の出方を考えた時点で、正確に言えば全員が「全員が作戦より相手の出方を考えているだろう」と考えた時点で、盤上の情報には意味がなくなってしまい、ゲームは単なるジャンケンになってしまう。相手に干渉するだけでなく、自分でコントロールできるものもなくてはならない。

もう一つ、序盤に誰か一人が標的になってしまうという問題もある。序盤では全員がほとんど同じスタートラインに立っているから、終盤のように「トップを引きずり降ろす」という方針を適用できない。その結果、偶然にだれかがターゲットになってしまい、その人は偶然のせいでひどく出遅れてしまう。その人がキャスティングボートを握ってうまく立ち回れるようならよいが、それほどの手腕のないプレイヤーだと何もできずに終わってしまう。

ただ、マルチプレイヤーゲームは逆にそんな状況でもうまく立ち回ることができる。上位陣がトップ潰しを続けている間にうまくキャスティングボートを握って追いつくことができる。こういう意味で、マルチプレイヤーゲームは人間的なゲームである。論理的な思考より交渉が重要視される。それだけ面白いのであるがそれだけ難しい。ある程度の経験と慣れが必要である。

もしコンピュータを相手にしたマルチプレイヤーゲームを作ろうと考えているなら、それはやめた方がいい。思考ルーチンを作るのが非常に難しいからだ。そしてその思考ルーチンこそがゲームの面白さのすべてである。人工知能の研究をしたいのでなければそんな大それた事は考えない方がよい。

TCGとレアリティ

いきなり別の話で申し訳ないが、ゲームバランスに関係してTCGにおけるレアリティの役割について一言述べておきたい。

TCGにおいて「レアなカードは強い」という誤解がある。これは間違ったゲームデザインである。TCGにおいて、強いカードはコモンでなくてはならない。レアなカードは「強いカード」ではなく「変なカード」であるべきだ。レアカードがあれば誰でも優位に立てるようなTCGはゴミである。それはゲームではなく単なるカード集めだ。

そもそもなぜTCGがゲームとして機能するのだろうか。TCGではゲームの外の要素(つまりはプレイヤーの資金)がゲームの中に入ってきてしまっている。これは本当は良くない事だ。これを単なるゲーム会社の金儲けの手段だと言うのはたやすいが、このシステムはそれなりに理にかなったところがある。

以前、TCGはすべてのカードの種類と効果を覚えてからが本当のゲームだと言った。TCGは複雑さを楽しむゲームだが、そのせいで覚えるのがとても大変なゲームである。これではTCGのプレイ人口はなかなか増えないだろう。TCGという形態は、ゲームを覚えながら楽しめるシステムとして優れている。

TCGをこれから始めようという人には、あまり変なルールのついていない基本的なカードであるコモンカードを提供する。これはTCGの基本戦術である。これを使ってゲームの基本的なやり方と戦術を覚えてもらい、これがどういうゲームで何を考えればよいのかを会得してもらう。そしてゲームにハマってカードを買い足していくうちにだんだんと複雑なルールのカードが揃っていくというわけだ。膨大なルールと初歩戦術をゲームをしながら修得できるというわけだ。

だから、基本戦術で十分戦えるようなものでないといけない。どのカードも基本的に優劣はあってはいけない。カードの量は戦術の幅にしか影響せず、絶対的な強さには影響がないようにすべきだ。将棋で言えば、カードが少ない人は矢倉戦法一筋の人で、カードが多い人は居飛車も振り飛車も、あるいはまだ名前もついていないような突飛な戦法もできる人だ。後者の方が面白味は増すだろうが、一つの戦法をじっくり研究するのもまた面白い。そして一つの戦法を研究しつくす事でさえアマにはなかなか難しく、矢倉戦法一筋でもかなりの勝率を上げることができる。TCGもこうあるべきだ。

初心者向けの戦法というのは、変化が少なくあまり多くの要素を考えなくていい戦法である。言い替えれば「これなら戦術が明確で失敗することが少ない」という戦法だ。そして熟練者向けの戦法とは「この戦法は細心の注意が必要で、一つ間違うと大失敗につながる」という戦法である[4]。コモンカード主体の初心者デッキは前者、レア主体の熟練者デッキは後者であるべきだ。コモンカード主体でも、うまくやれば細心の注意を払いそこねたレア主体のデッキに勝てなくてはならない。

まとめ

ゲームバランスというのは勝率のバランスではなく、取れる戦法の数のバランスである。ゲームの楽しみは勝つことではなく勝つための戦法を考えることだからだ。どのプレイヤーもあれこれ戦法を考えることのできるゲームがゲームバランスの良いゲームであり、考えることがなくなってしまうのがゲームバランスの悪いゲームである。

ゲームとは相手の手を考えて対応することだから、相手に考えることがなくなると自分にも考えることがなくなってしまう。ゲームをデザインする時には、このような状態になったらなるべく早く勝負がつくようなルールを考えるべきだ。


  1. もしかしたら「いやそんな事はない」と主張する人もいるかもしれないが、ここではスコットランドヤードの勝率の話をしたいわけではないので少々ご勘弁願いたい。 ↩︎

  2. とはいっても、筆者も含めてなかなかそういう境地には至れないのであるが。 ↩︎

  3. この場合、悪いのは守りに入った相手ではないから、守りに入ることを非難してはいけない。相手はゲームの原則に忠実な良いプレイヤーである。悪いのは守りに入るだけで勝ててしまうゲームデザインだ。相手に文句を言う前に、そんなクソゲーはやめるべきだ。 ↩︎

  4. 囲碁で言えば前者がツケヒキ定石やツケノビ定石で、後者が大ナダレ定石である。基本定石だからといって弱いわけではなく、プロでもツケヒキやツケノビは打つ。 ↩︎