ゲームでないもの
今の日本では、ゲーム機で再生するものはすべて「ゲーム」と呼ばれてしまっている[1]。だから「ゲームとは何か」と問われて明確に答えが返せないのだ。本来の「ゲーム」という言葉はもっと狭い意味の言葉である。
ここでは、一般にゲームと呼ばれているがここでいう狭い意味での「ゲーム」ではないものを挙げる。それによって「ゲーム」という概念をもっと明確にしよう。
パズル
「パズルゲーム」という言葉もあるが、厳密にはパズルとゲームは違うものだ。パズルには解があり、ゲームにはない。パズルの「解」は唯一絶対のものだが、ゲームにはそんな便利なものはない。絶対的な解がないからこそ面白いのだ。
ゲームもパズルも思考を楽しむものである。そして論理的な思考を要求される。しかしパズルは最初から最後まで論理的思考が要求される[2]が、それに対してゲームではどこかに論理では割り切れない部分がある。不確実な情報があるからだ。敵の位置が見えなかったり、相手の出方がわからなかったりする。そうした不確実な情報を適切に推測して一番いいと思われる行動を決定する。それは論理的に導かれる最適解とは限らないし、それでいい。
不確実性だけがゲームとパズルを分けるものではない。不確実な情報を推測できることが重要である。「サイコロを2個振って出る目の合計を予想せよ」というのはゲームではない。これを「サイコロを2個振って出る目の合計として一番確率が高いのはどれか?」と読み替えればこれはパズルである。そしてそれ以上に考えることはできない。しかし「敵はどこに隠れているだろうか」という問題は少し様子が違う。「自分が敵だったらどこに隠れるだろう?」と考える。これには確実な答えはないがいろいろと推測はできる。これがゲームの思考とパズルの思考の差である。
実際にはビデオゲームでいう「パズル」という言葉も本来の意味で使われてはいない。例えばテトリスはパズルではない。唯一絶対の解を探すものではないからだ。マインスイーパーはある意味パズルだが、絶対に解けるとは限らない点で「できそこないのパズル」だ。
宝探し
ゲームとパズルの違いとして、「不確実な情報を推測すること」と書いた。サイコロの目のような普通の不確実な情報は推測することはできない。しかし他人の考えは不確実だが推測することができる。だからゲームとは「相手の考えを推測すること」とも言える。相手の考えを推測するには、まず相手が何を目的に行動しようとしているのかがわかっていないといけない。
ビデオゲームの中には、「敵」=「ゲームプログラマー」であることも多い。結局のところ敵を動かすアルゴリズムを考えたのはプログラマーだから、敵の行動を推測するということは、プログラマーがどのように敵をプログラムしたかを推測することである。するとこう言える。敵の行動を推測するには、プログラマーが何を目的に敵をプログラムしたかがわかっていないといけない。
「敵」という言葉とは少しずれるが、この問題の典型例が「宝探し」である。RPGでタンスの中などに隠れているアイテムを探す行為である。宝探しの場合、宝を隠す側はできるだけ見つかりにくい場所に宝を探す。そして探す側は「相手は見つかりにくい場所に隠したに違いない」と思って探す。これは相手の行動を推測することだ。
しかしコンピュータのRPGでは少々様子が違う。プレイヤーに見つからない場所に簡単に宝を隠すことができるからである。広大なマップの中のどこかの微妙な1ドットをつつかないと宝が発見できないようにすればよい。コンピュータRPGでの宝探しでは隠す側が圧倒的に有利な状況にある。それは隠す側が自由にルールを決められるからである。
だから隠す側としても本気で見つかりにくい場所に隠すことはできない。手加減をして、見つかりにくそうで見つかりやすい場所に隠すしかない。すると今度は見つける側が困ってしまう。見つかりにくそうな場所を探せばいいのか見つかりやすそうな場所を探せばいいのかがわからないからだ。相手がどのくらい手加減をしたのか、つまりは相手の行動目的がわからないのである。だから推測のしようがない。それで片っ端から調べていくしかなく、ゲームではなくなってしまう。
相手の目的を推測することはできない。なぜならそれは多種多様であって、推測するもとになる情報がないからだ。人は自分の目的をどんなものでも自由に設定できる。それでは困る。ゲームでは相手の目的がはっきりしていて、それは「勝つ」ことだ。そして手加減は一切しない。だからこそ相手の行動を推測することができる。
プレイヤーの自由
ゲームにおいてプレイヤーの「自由」はあってはいけない。プレイヤーは勝つために行動しなくてはならず、敵はプレイヤーを負かすために行動しなくてはならない。これはゲームの定義である。それが嫌ならゲームをやってはいけない。
話の流れとしては、これは相手の行動の推測に関わる事である。何を目的にしているかわからない相手の行動を推測することはできないからである。しかしこの問題は冷静に考えると至極当たり前な話で、常識的に考えて自由があっていいわけはない。サッカーで相手のゴールでも自分のゴールでも好きな方に蹴り込んでいいわけがない。必ず相手のゴールにボールを蹴り込むからこそサッカーは成り立つのである。
「ゲームの目的」も含めて「ゲーム」なのである。ゲームから目的を取ったものはゲームではなく、ゲームの道具に過ぎない。例えて言えばトランプのようなものだ。トランプ自体はゲームではなく、「七並べ」や「ポーカー」がゲームである。何も知らない子供にトランプを渡して「これで自由に遊びなさい」と言ったら、おそらくトランプで家をつくったりきれいな模様に並べて遊ぶだろう。それはそれで楽しいだろうがゲームではない。ゲームで重要なのは目的とルールであって、道具ではない。
ゲームでは「自由」はあってはならないが、「自由度」はなくてはならない。「自由」というのは目的を選べることで、「自由度」というのは手段を選べることだ。両者を混同してはならない。そして自由があるものはゲームではない。
ついでに言うと、相手に手加減をするのもここでいう原則に違反する。指導対局などいろいろな事情があるかもしれないが、原則論で言えば相手に手加減するのはプレイヤー失格である。
競争
前にも書いたが、競争とゲームは違う。競争は相手がいなくてもできるが、ゲームは相手がいないとできない。カーレースでいうタイムトライアルとレースの違いである。
この違いは、相手への干渉があるかないかで決まる。ゲームの場合、自分のした行為は相手に影響を及ぼす。作戦を練るときは相手がどう動くかも考慮に入れないといけない。競争では相手がどうであろうと出せるスコアには影響がないから、自分のベストを尽くすことだけを考えればよい。
結論から言えば、競争はパズルである。与えられた条件からベストの解を引き出せばよい。もちろん不確実性があるから絶対唯一な解は見つからないかもしれないが、「これが一番確率が高い」という意味での解は見つかる。そしてそれを実行すればよい。
ゲームは競争と違って、「これが一番確率が高い」という解も見つからない。それは相手がいるからである。相手の行動のせいで状況は時々刻々と変わっていく。だから未来は見通せないし、絶対的な解もわからない。そんな中で、総合的に考慮して行動を決めないといけない。これがゲームの面白さである。
シミュレータ
ビデオゲームの一大ジャンルに「現実の○○をシミュレートする」というものがある。「シミュレータ」と呼ばれているものである。○○に電車や飛行機や車を当てはめてもらうとわかりやすいだろう。これと従来からある「シミュレーションゲーム」という言葉は混同されがちであるからここで注記しておく。両者は全くの別物である。
一言で言えば、シミュレータは「現実を模擬したもの」であり、シミュレーションゲームは「現実の戦いを模擬したもの」である。「戦い」はゲームであるのに対して「現実」はゲームであるとは限らない。「シミュレート」という部分にゲーム性は関係ない。
戦闘機のシミュレータはゲームであり、旅客機のシミュレータはゲームではない。自動車レースはゲームであり、好き勝手にドライブできるものはゲームではない。シミュレータがゲームであるかどうかを語るには、それがシミュレートしている対象を見なくてはならない。究極のシミュレータは対象を完璧にシミュレートしているものである。その対象となっているものが面白ければ面白いが、面白くもなんともないものをどれだけがんばって完璧にシミュレートしてもやはり面白くない。
本来、「シミュレーションゲーム」という言葉はゲームジャンルではない。何をシミュレートするかによってゲームは大きく違うため、到底ひとくくりにできないからだ。「ときめきメモリアル」と「大戦略」と「電車でGo!」はどれも「シミュレーション」と呼ばれるが、それらに似たところはほとんどない。これほどあいまいな言葉が使われるわけは歴史的経緯にある。
もともとの「シミュレーションゲーム」の定義は「現実の戦争を忠実に再現するゲーム」だった。コンピュータのなかった昔の話である。現実を忠実にシミュレートするというのは大変骨の折れる作業だった。だからその時代に「サッカーのシミュレーションゲーム」がなかった[3]のは当然である。そんな事をするより本当にサッカーをする方がずっと簡単で楽しかったからだ。シミュレートできたとしても紙の上であり、きれいな画面もアクションもなかった。現実には絶対にできないような事で、しかも非常に面白いことでないとわざわざシミュレートする気は起きなかった。
そんな時代に、現実にはできないけれど苦労してシミュレートする価値のある「ゲーム」が一つだけあった。戦争である。こればかりは個人で起こすことはできないから、個人で戦争を体験する唯一の手段としてのシミュレーションゲームが一大ジャンルとして発達した。そして何をシミュレートするかをは言わなくても「シミュレーションゲーム」と言うだけで戦争のことを指すようになった。
これがコンピュータの出現によって大きく変わった。シミュレートが簡単にできるようになったからだ。シミュレートの方が現実より容易にできるものから置き替えが始まった。普通の人にはまず運転できない飛行機に始まり、戦車や潜水艦のシミュレータが作られ、普通の人でもやろうと思えばできるスポーツや自動車の運転や果ては恋愛にまで広がった。
この過程でいつの間にか「ゲーム」の要素が抜けてしまった。それは机上とは違ってビデオゲームでは感覚に訴えることができるからである。「電車でGo!」は面白いが、これと同じものを全部ボード上でやることを考えてみてほしい。ひどくつまらないはずだ。きれいな景色が見られて音が出て電車に乗っている気分に浸れるから面白いのであって、そういった要素をすべて排除してしまって数字だけの存在にしてしまうと、電車の運転というのはたいして面白いものではない。
要するに、ビデオシミュレータはゲームでなくても面白いが、ボードシミュレーションはゲームでないとつまらなさすぎてやってられない。シミュレートして遊ぶ価値がある対象は戦争しかなかった。だから昔は「シミュレーションゲーム」という言葉がゲームジャンルを表すものとして通用した。今ではシミュレートして面白いものはいくらでもあるのだから、この言葉で一つのジャンルを表現することはできないし、シミュレートしているからといってゲームであるとも限らない。
「シミュレーションゲーム」という言葉は誤解を招きやすいので使わない方がいい。現実を模擬したものは「シミュレータ」と呼ぶべきだ。ここには「ゲーム」という言葉を入れてはいけないし、「シミュレータ」というのはゲームジャンルではないから「電車シミュレータ」のように何のシミュレータなのかを明確にしないといけない。そして戦争を模擬したゲームは「戦争シミュレーションゲーム」と呼ぶか、思い切って「ストラテジーゲーム」と呼ぶ方がいい。[4]
まとめ
まったく違った遊びを一緒くたに「ゲーム」と呼んで分析するのは無意味である。野球中継とバラエティ番組とドラマを一緒にして「TV番組に共通する面白さは何だろうか?」とは考えないように、「パワフルプロ野球」と「マリオパーティー」と「Enter the Matrix」を一緒にしてこれらの面白さについて考えてはいけない。これらは全くの別物であり、「同じゲーム機で遊べる」という以外に共通点はないのだ。
よく「対人対戦ゲームはルールがシンプルでもとても面白い」という発言を聞く。それこそが本来のゲームであり、それ以外のものは実はゲームではなかったのだ。ゲームというのはシンプルでも奥が深く、同じゲームで長く楽しめるものなのである。
実際のところ、ここで言うゲームの要件を備えたビデオゲームは非常に数が少ない。ゲームの要件を端的に言えば「敵がワンパターンではなく、プレイヤーを出し抜くほど賢いこと」である。そしてコンピュータに「賢さ」を与えるのは一種の人工知能を開発することであり、非常に難しいことだ。だからビデオゲームに本物の「ゲーム」はほとんどない。
PS2の出た頃、冗談で「一番売れたPS2のソフトはマトリックスだ」という話があったが、実はこれは核心をついていたのかもしれない。結局今出ているPS2のソフトはここで言うゲームとはほど遠いものばかりで、映画に近いものばかりだ。