ライトノベルとは何か

ライトノベルは通常のフィクションとどこが違うのか。

さいごに

ライトノベルとは何なのか。この問いに対して、最初に「現実をベースとしない虚構」であるという答えを示したが、もちろんこれは厳密な定義ではないし、一行程度の文で厳密に定義できるような対象でもない。だから、ライトノベルを通常のフィクションと比較して、どこがどう違うのかを見ていくことで、間接的にライトノベルとは何かを考えてきた。

「ライトノベルとは何か」という話はいつも混沌としてしまうが、ライトノベルとは書く側のスタイルではなく、読む側のスタイルのことだと考えると、すっきりとする。つまり、純粋な「ライトノベル」というものは存在しない。存在するのは「ライトノベル的読み方」だけだ。そして、世の中で言われている「ライトノベル」とは、「ライトノベル的読み方をしないとまったく面白くない読み物」である。こういう定義なのだから、ライトノベルが批判されるのは当然だ。ライトノベルだから批判されるのではなく、批判に値するものにライトノベルという名前をつけているのだ。

ここでは、ライトノベルの発生は1990年代後半であると述べた。それよりもっと前の作品もライトノベルに入れる人もいるだろうが、それは間違っていない。ライトノベル的読み方をする人や、ライトノベル的読み方ができる作品は、以前からあった。1990年代後半から出てきたのは、ライトノベル的読み方しかできない作品である。そんな作品は以前ならボツになって流通の対象にならなかったものが、この頃から商業ベースに乗るようになったのだ。

リアリティ

フィクションとは、「現実のようなもの」である。それに対して、「これは作り物」と割り切ったのがライトノベルだ。ライトノベルの読者は、この両者が相反するものだと思ってしまっている。通常のフィクションも作り物として読んでしまうから、ライトノベルになってしまう。

ライトノベルは、よく「リアリティがない」と批判されるが、ライトノベルしか読まない人にはその意味がわからない。「作り物なんだからリアルでないのは当然だろ」と思ってしまう。「現実」と「現実のような」の違いがわからないのだ。

「現実のような」というのは、よく考えてみると難しい概念だ。現実ではないのに「現実のようだ」と感じることもあるし、逆に、現実なのに「現実のようではない」と感じることもある。そんなとき、なぜ現実のようではないのかと聞かれても、具体的に答えることはできない。これは、頭で考えるものではなく、感じるものなのだ。

1980年代以降、この「現実のような」を見分ける感覚を養うのが難しくなった。現実そのものが、「現実のような」を追い越してしまったからだ。テレビやネットから、日々「現実のようではない現実」を見せられて育ってきた人は、「現実のような」という感じはまったくあてになるものではないという認識になってしまう。だから、「現実のような」を感じる感覚を磨くよりは、対象が本当に現実なのかどうかを調べる方が早くて正確だということになってしまう。

「現実のような」という感覚が意味のないものになってしまうと、フィクションの意味もなくなってしまう。彼らにとっては、「現実のような作り物」というのは、そもそも矛盾した概念なのである。

錯視図形を見て、「この線はまっすぐなのに曲がっている!」「渦巻きが動いて見える!」と言っている人の横で、「いや、まっすぐな線が曲がっているなんて矛盾してるし、絵が動くわけはないだろ。頭がおかしいんじゃないのか?」と言っているようなものだ。もしかしたら、彼らの身の回りには変な細かい線がいっぱい入った目が痛くなるような図形しかないから、常に定規をあてる癖を知らず知らずのうちに身につけてしまったのかもしれない。

ライトノベルの問題

ライトノベルは読み方の違いであり、それがわかっているならそれでいい、という見方はもちろんある。たまには、キャラクターを楽しむのもいい。ライトノベルが批判されるのは、ライトノベルを読むことではなく、ライトノベルしか読まないことだ。ライトノベルはフィクションとの違いがわかりにくいので、本人はこの問題に気づきにくい。

フィクションは、「リアリティというものが存在する」という仮定の上に成り立っている。あらかじめ作り物であることがわかっていながら、それがあたかも現実であるかのように思えるということがあるという仮定である。しかし、「現実であるかのように思う」というのを感覚ではなく知識で判断する人にとっては、作り物であることがわかっているなら、それを現実であるかのように思うことはあり得ないということになる。つまり、彼にとってフィクションというのは矛盾した概念なのだ。

たしかに、フィクションというのはある意味矛盾した概念である。しかし、こういう人は矛盾を楽しむことができず、矛盾が解消されるまで内容を切り捨てて単純化してしまう。そのプロセスによって、大事な内容もまた切り捨てられてしまっていることに気付かないのだ。

フィクションを読みこなす前にライトノベルに慣れてしまうと、普通のフィクションもライトノベル的な読み方をするようになってしまう。架空の作品世界に自分の身を置く感覚も、他人に感情移入する感覚もわからなくなってしまう。たとえ一般に名作と呼ばれているフィクションでも、読む人がライトノベル的な読み方をする限り、それはライトノベルである。本人はそのことに気づかず、立派なフィクションを読んでいると勘違いする。だから、「ライトノベルしか読まない」ことになってしまう。ここが、ライトノベルの大きな問題である。