ライトノベルとは何か

ライトノベルは通常のフィクションとどこが違うのか。

キャラクター

ライトノベルは、トレンディドラマの延長線上にある。ストーリーではなく、キャラクターとシチュエーションを楽しむものだ。リアリティは重視されず、視聴者はそれが作り物であることを納得した上で楽しんでいる。

ただし、トレンディドラマでは観客が舞台に上がるのに対して、ライトノベルは舞台上のキャラクターを観客席に引きずり降ろす。キャラクターがいる架空の世界を観客席に引きずり降ろすための手段として、フィギュアやコスプレ、二次創作などが存在する。これらによって、舞台の向こう側にいるキャラクターが、自分の世界に移ってくる。

現実世界とフィクションとをつなぐ存在であるフィギュアを見るとよくわかる。スターウォーズオタクは、部屋中にスターウォーズのフィギュアやグッズを置く。それによって、自分の部屋がスターウォーズの世界になる。それに対して、美少女フィギュアオタクは、自分の部屋に美少女フィギュアを「招く」。自分の部屋は自分の部屋のままで変わらず、そこにフィクション世界のものであるフィギュアが入り込むのだ。

シチュエーションとキャラクター

ライトノベルは、キャラクターとシチュエーションを楽しむものだと述べた。ありていに言ってしまえば、パンチラとかお風呂のぞきなどだ。

読者は、別にパンツが見たいわけではない。パンツが見えるという「シチュエーション」を見たいのだ。男子生徒を追いかけて階段を下りる途中に転んで、あわててスカートを押さえて「こらー、見るなー!」と叫んでいる、というところまでが見たいのだ。

キャラクターによってシチュエーションが変わる。男子生徒を追いかけて転ぶのか、荷物を運ぶ途中に転ぶのか。反応も微妙に変わる。「こらー、見るなー!」なのか、「お願いです、見ないでください」なのか。書く側は、キャラクターによってこうしたシチュエーションに対する反応を書き分け、読む側はそれを集めてキャラクターを想像する。

こうした、キャラクターごとの「おいしいシチュエーション」とその反応を集めることで、委員長とか図書係とかツンデレといったキャラクターが出来上がる。あるいは、キャラクターによってこうしたシチュエーションが出来上がると言ってもよい。どっちが先でどっちが後という関係ではなく、キャラクター=シチュエーションの集合体なのである。

こういうこともあって、ライトノベルではストーリーが軽視され、ぶつ切りのシチュエーションをただ並べただけになる。前のエピソードで起きたことが次のエピソードに影響することはほとんどない。ストーリーマンガ全盛時代には意識の端にすらのぼらなかった四コママンガという形式が最近になってよく使われるようになったのは、このせいである。

神の視点

キャラクターは、シチュエーションに対する反応の集合である。作者は、その世界で神のような存在となって、主人公たちを望みのシチュエーションに置き、そこでの反応を描写する。読者は、作者と同じ位置に立って、シチュエーションに対する反応を眺めて楽しむ。バーチャルペットゲームを思い浮かべてみるといい。画面上のペットに、エサを与えたり、なでたり、おもちゃを投げ入れたりして、その反応を見て楽しむ。これと同じ感覚だ。

これは、第四の壁が一方向だけ破られている状態だ。観客席の方から、舞台の中の出来事を操作できる。しかし、舞台の中は、自分たちが操作されていることを認識できない。操作に抵抗することも、舞台の中から観客へ影響を及ぼすこともできない。

もちろん、舞台の中の出来事を操作するのは、作者にしかできないことだ。しかし、観客は舞台の中の主人公ではなく、作者と自分を重ね合わせて物語を見る。作者がバーチャルペットゲームをやっているのを横で見ている人の感覚になる。それがバーチャルペットゲームであることを認識しているという点で、作者と同じ立場にある。

このことは、普通の人には「ご都合主義」に見える。作者が自分に都合のいいようにシチュエーションを投げ入れているからだ。しかし、これはライトノベルの常識では「は?自分に都合のいいようにストーリー展開させるなんて当たり前じゃないか。ストーリーは全部作者が作るものなんだから」という答えが返ってくる。

学園もの

こうしたやり方が一番しっくりくる舞台が、学園だ。学園ものの場合は、行事に強制的に参加させられ、拒否することができない。ほとんどの場合、学校に出ないとか学校を替わるという選択肢が出てこない。強制力のある閉じた世界だから、主人公たちを思いのままのシチュエーションに置くことができる。

学園ものの場合、役柄も定型的で、イベントもお決まりのパターンのものが用意されている。生徒は先生に言われたことを普通にこなしていけば無事卒業できるから、あまり自発性を求められることもない。だから、ありきたりのシチュエーションを投げ入れて、それに対する典型的な反応を描写すればいいだけだ。

キャラクターによっては、与えられたシチュエーションにうまく対処できない場合もある。たとえば、おとなしいキャラクターだったら、人前に立つと何もできなくなる。キャラクターの反応としてこれは正しいし、そう描写しなくてはならないのだが、それでは話が進まなかったり、話がそこで終わってしまったりする。アクション映画だったら、そういう人はすぐに殺されて終わりになってしまうから、チョイ役以外は比較的まともでいろんなことを乗り越えられる人でなくてはならない。しかし、学園ものでは、どんな結果になろうと「次はがんばろうね」で済んでしまう。何があってもその影響が後々まで尾を引かない場だから、学園という場はライトノベルにとって好都合なのだ。

特に注目すべきは、本来相反するはずの、ファンタジー学園ものが普通に存在することだ。前に述べたが、ファンタジーというのは学問の否定であり、秩序の否定であり、決められた枠組みの否定である。本来、ファンタジーというのは、学園を飛び出す物語なのだ。それなのに、学園の中に閉じ込められて何の疑問も持たない。ライトノベルでは、読者は閉じ込められている側(登場人物)ではなく、閉じ込めている側(作者)と同一視するように作られているからだ。

非日常の中の日常

ライトノベル以前は、学園というのは受け手の立ち位置である、平凡で特に見るべきもののない日常を示していた。そこに日常でない事件がやってくるからこそ、フィクションとして面白くなる。ライトノベルではそれが逆で、非日常的な舞台を設定して、その中で日常が繰り広げられる。

ドラえもんの場合、のび太がテストで0点をとったり、スネ夫がおじさんに買ってもらったおもちゃをジャイアンに取り上げられたりするのが「日常」である。そんな日常が、ドラえもんのひみつ道具によって一変して、テストでいい点を取れたり、ジャイアンをやっつけることができたりする。ドラえもんの場合は、受け手が見たいのは日常が崩れる場面だ。

ライトノベルでは、受け手が見たいのは日常である。のび太がテストでいい点をとってしまっては、キャラに合っていない。のび太はテストで0点を取るからこそのび太なのであって、そうでないのび太なんて見たくない。だから逆に、ひみつ道具を使っても結局失敗してもとの状態に戻ると、「いつもののび太が帰ってきた」と喜ぶ。つまり、非日常が日常の引き立て役になる。

ライトノベルでは、魔法が使える世界でも、吸血鬼や狼男がいる世界でも、現代と同じような家が建ってて同じような学校で同じような授業を受ける。それが論理的に間違っていると言いたいわけじゃない。普通の学校生活を描きたいなら、わざわざ変な設定をしなくてもいいじゃないかと言いたいのだ。日常を描きたいのなら、非日常など持ってくる必要はない。

しかし、わざわざ変な設定をすることには理由がある。普通の世界の普通の学校生活を描いてしまうと、ジブリの「耳をすませば」や「海がきこえる」のように、ライトノベルのターゲット層からは猛反発をくらってしまう。

異質なものがやってくる

ライトノベルは、「自分は座ったままで、向こうから何かがやってくる」という形式である。そして、そのためには、相手が自分のいる世界にとって「異質」なものでなくてはならない。ライトノベルで異性がテーマになることが多いのは、それが人間にとって最初に出会う「異質」だからだ。

たとえば、空から女の子が降ってきて、なぜか自分の部屋に同居することになる。これがもし、空から男の子が降ってきて、自分の部屋に同居することになったらどうだろうか。えっ、と思うかもしれないが、それはそれで楽しいような気もする。男のネコ型ロボットが突然降ってきて自分の部屋で同居することになったら、一緒にマンガを読んだりドラ焼きを食べたりして、仲良くやっていけるだろう。

実は問題は性別ではなく、「異質さ」なのだと考えると、この問題ははっきりする。男の子が降ってくる場合には、すぐに仲良くなって、一緒に遊んだりいろんなものを共有したりする。そのうち、「きみはじつにバカだな」みたいに、本音をずけずけと言ってくるようになる。ライトノベルの読者にとっては、それがイヤなのだ。

空から女の子が降ってくる場合には、女の子自身が「その世界にとって異質な存在」であり、なんとかしてその世界に溶け込もうと努力する。ハーレムものでは男が異世界に放り込まれるパターンもあるが、よくよく見ると、周囲がその男にいろいろと世話を焼いて合わせてくれている。

なぜ、空から女の子が降ってきて同居する話がいいのか。それは、女の子のほうに正当性がないから、「嫌なら出ていけ」と言えば従わざるを得なくなるからだ。逆に男の子が女の子の世界に引き寄せられる話もあるが、このときはその原因は女の子の方が作っていることがほとんどだ。だから、「嫌なら俺を元の世界に返せ」と言えば、従わざるを得なくなる。どちらのパターンでも、女の子の方に正当性がないから、なんとかして正当性、言い換えると「ここにいてもいい理由」を作ろうとする。この場合、男の子の方は何にもしていないが、正当性がある。いや、何もしていないからこそ正当性があると言ったほうがいいだろう。

ライトノベルはなぜ非現実的な設定なのか。それは、ライトノベルの主人公(何度も言うが、これは読者が自分を重ね合わせる対象のことでない)は異質な存在でなくてはならないからだ。そして、そういう異質な存在が、ごく普通の日常をなんとかして維持しようと努力する物語なのだ。

まとめ

1990年代の頭までに流行ったジュブナイルファンタジーとトレンディドラマが、ライトノベルでは反対の立場で描かれている。ジュブナイルファンタジーでは「未知の世界を旅する勇者の話」だったものが、ライトノベルでは「我々の世界に旅してきた別世界の勇者を迎える話」になる。トレンディドラマが「男をデートに誘ってアッシーメッシー貢ぐ君として利用する話」だったのが、ライトノベルでは「女の勝手な事情に振り回され利用される話」になる。(「ハーレムラブコメ」という名前からすると逆なような気もするが、内容をよく見てみるとこれで合っている)

つまり、話の構造や内容はそのままで、想定される受け手の立ち位置だけが違っているのだ。これは、従来の形式の物語も、読み方を変えるだけでライトノベル的になるということを意味している。キャプ翼や聖闘士星矢みたいな男の子向け作品が、そのままお姉さま方にウケたのと同じである。

自分が物語世界へと移動しなくてはならない通常のフィクションとは違って、ライトノベルでは、受け手は自分のいつもの位置に座ったままで、物語の方が自分のところにやってきてくれる。物語の世界からキャラクターが抜け出して、自分のいる現実へとやってくる。だから、受け手は世界やストーリーではなくキャラクターに興味を持つようになる。

ライトノベルの出始めの頃は、従来のフィクションと同様に、読者が自分と同一視できる対象を物語の中に置いていた。しかし、実はそんなものは必要ないということがわかってきて、男が一人だけしか出てこないハーレム状態から、男が一人も出てこない状態に変わってきた。読者は作者と同じ位置に立って、作者が作品世界にシチュエーションを投げ入れて、その反応を描写するところを一緒に見るようになった。

適度にイベントが起きるが安全で平和な日常の舞台として、学校が利用される。しかし登場人物たちは、その日常に飽き飽きして早く外へ出たいとは思っていない。むしろ逆で、自分をその場における異質な存在とみなし、なんとかして日常へ自分を合わせていこうと努力している。そんなけなげなキャラクターが自分の隣にやってきて、自分に合わせてくれることを、ライトノベルの読者は夢想するのである。