トレンディドラマ
前の章では、「ライトノベル」と聞いて思い浮かべる人がいるかもしれないジュブナイルファンタジーという形式は、よく見てみるとライトノベルではないという話をした。
ライトノベルを、1980年代後半から1990年代前半に流行ったトレンディドラマと比べてみると、コンセプトが似通っていることがわかる。都会的で、恋愛をテーマにしている。時期もちょうどライトノベルの成立直前だ。
もし、ライトノベルとトレンディドラマがうまく結びつかないような気がするなら、高橋留美子の作品群が橋渡しをしていると考えれば、なんとなくわかるのではないかと思う。
トレンディドラマの特長
トレンディドラマとは、1980年代後半から90年代前半にかけて、主にテレビドラマで流行った形態である。主に若い女性をターゲットにしていて、少女マンガ的なところがある。以下のように特徴を箇条書きにすると、ほとんどライトノベルにもあてはまっているように思えるのではないだろうか。
- 登場人物は美男美女ばかり。
- 複数の男女の恋愛関係が複雑に絡み合う、恋愛ドタバタコメディ。
- 都心の高そうなワンルームマンションに一人で住んでいる。
- 登場人物は浮世離れした職業で、ストーリーもセリフもどこか現実離れしている。
- 男性は優しいのがとりえ。悪く言えば優柔不断。
- 女性は積極的な性格。がさつ、わがまま、おてんばとも言える。
- 都会的でおしゃれ。
- 誕生日やクリスマスイブなど、記念日を大切にする。
- 現実世界の固有名詞が頻繁に登場する。
念のためコメントしておくが、従来のフィクションの主流は、これと正反対だった。主人公の周りは美男美女だけではなく引き立て役の三枚目が必ず用意されていたし、恋愛がテーマの場合には1対1の純愛が主だった。男性が「黙って俺についてこい」と言い、女性がそれに従うという構図が多かった。
トレンディドラマの特長は、ストーリーではなくライフスタイルを見せるところにある。視聴者は、「この三角関係はいったいどうなってしまうのだろう」というようなストーリー上の興味より、「あんな風にホテルの最上階のレストランでウォーターフロントの夜景を見ながらシャンパンを飲みたい」というシチュエーションへの興味を主に持つ。
トレンディドラマと第四の壁
つまり、トレンディドラマでは、前に述べた「第四の壁」が崩されているのである。視聴者は、観客席に座ったまま舞台を見ているのではなく、自分がそのまま舞台に上がることを想像する。ドラマの内容ではなく、ドラマの舞台を見ている。
「現実の固有名詞が頻繁に登場する」という特徴が、このことをよく表している。トレンディドラマ以前のフィクションでは、日本人全員が知っているような有名なもの以外は固有名詞として登場しなかった。主人公が住む街は「どこかの街」であり、デートをするのは「どこかのレストラン」である。ドラマに登場する地名はわざと架空の地名に変えるし、ロケ地へ観光に行く場合もそこはあくまで「ロケに使われた地」であって、物語の舞台そのものではなかった。
しかし、トレンディドラマでは、あえて実在の場所をそのまま使った。実在のブランド服に身を包み、実在のレストランで、そこに本当にあるメニューで食事をした。視聴者も、同じ服を買って、同じレストランに行って同じメニューを頼めば、ドラマの主人公と同じになれるのである。このスタイルは、ある意味企業の広告塔でもあった。
そして、こうした消費行動のきっかけを作るのが、「記念日」である。毎日ドラマの主人公並みの生活をすることはできないので、ある特定の日に限ってこういうことをやってみようではないかと提案する。クリスマスイブが家でケーキを食べる日からホテルで過ごす日になったのも、この頃の宣伝効果が大きい。
役者のキャラクター化
トレンディドラマによって、役者と役柄が不可分のものになり、役柄より役者が優先されるようになってきた。
多くのドラマに同じ役者(W浅野や石田純一など)が出ていて、しかも視聴者はそれを役柄ではなく役者の名前で憶えている。男女七人夏物語の主役は「明石家さんまと大竹しのぶ」であって、「今井良介と神崎桃子」なんて名前はみんな憶えていない。以前のドラマでは、たとえ役者と役柄がほぼ一体となっていても、「寅さん」や「金八先生」のように、役名の方が役者の名前より前に出ていた。
同じ役者が複数のドラマに出演する場合、違うドラマでも役柄はほとんど同じになる。たとえば、石田純一はだいたい不倫する、というようにである。その延長線上で、役者本人も役柄と同じ性格だとみなされがちになる。本当に石田純一も不倫しがちなのか、それはバラエティ番組の上だけの作り話なのか、はたまた本物の石田純一が不倫ばかりしているからその役柄になったのか、私は知らないけれど、とにかく視聴者の頭の中には「石田純一=不倫」という等式がインプットされてしまっている。
楽屋オチと学生ノリ
この頃から、作り手と作られた舞台の境目があいまいになってきた。以前は、観客が見るのは作られた舞台であって、その舞台をどう作っているのかは見られなかった。それを見せてしまうと、舞台が作り物っぽくなってしまうからである。しかし、あえて舞台を作っているところを見せることで、作り手と受け手の区別をあいまいにするようになった。
このことは、同時代の番組である、とんねるずやオレたちひょうきん族などを見るとよくわかる。ADという役職があることを普通の人が知ったのは、おそらくこの頃だろう。テレビに、俳優だけでなく、ADや照明といった裏方の仕事をしている人までも映し出す。アドリブを多用し、NGやスベったギャグなどもカットせずにそのまま放映する。これらの番組は、コントを放映しているのではなく、コントを作っているところを丸ごと放映しているわけだ。綿密に台本を作ってリハーサルをし、舞台という形式にこだわった「8時だョ!全員集合」とは大きく違う。
これによって、視聴者は、自分たちが作り手と同等の立場にいるように錯覚する。自分が俳優の友人で、彼らが舞台稽古をしているところに「やぁ」と気軽に入っていくような感覚になる。そういう意味では、彼らが完璧なショーを作り上げていると、かえって彼らとの距離が遠くなってしまう。学園祭の延長のような稚拙な内容の方が、かえって親近感がわく。
トレンディドラマも同様で、「自分とは縁のない遠い世界の存在」から、「同じ学校の演劇部の友達」程度に俳優が距離が近くなっている。友達だから、劇の中の役名ではなく、演じている役者の名前を直接呼んでしまうのだ。
作り物の肯定
当時のキーワードであった「トレンディ」とは、簡単に言うと、「トレンド」という作り物を肯定するということだ。以前の「流行」と違って、トレンドはマスコミが仕掛けた作り物であるという前提が存在する。以前の流行も本当はそうだったかもしれないが、少なくともマスコミは「俺は他人が作ったものを広めただけだよ」という顔をしていた。それが、マスコミの方から「よし、今度はこれを流行らせよう。みんな乗ろうぜ」と言い始めたのがトレンドであり、それにあえて乗っかるのがトレンディなのである。
トレンド自体が劇のシナリオであるということを認識して、その上で自分が役者となって演じる。「クリスマスイブの夜にホテルの最上階でウォーターフロントの夜景を見ながらシャンパンを傾ける」といういかにもなシナリオを、自ら演じることで楽しむ。それが「トレンディ」なのである。
トレンディであるためには、そこに片足をのせつつ、しかし全体重はあずけないという絶妙のバランス感覚が必要となる。全部乗ってしまったらただのバカだ。「私だって時にはバカにもなれるんだよ」という立ち位置だから、あえて居酒屋だったりオヤジギャルだったり眉毛が太かったりと、ダサい要素を少し入れるのがまたトレンディなのだ。
みんなが作り物だとわかっててそれに乗っているときに、あえて「そんなの作り物だ」と言うのは、イケてないとされる。「これはハンドパワーです」と主張するマジシャンに、「お前のやってるのは単なるマジックだ」と文句を言う人みたいな感じになる。もちろん、本当に信じてしまっている人がいるかもしれないので、こういう人も必要ではある。ただ、イケてないというだけだ。
まとめ
トレンディドラマは、「トレンド」というマスコミが作った虚像に、虚像だということを理解した上で乗っかることを楽しむドラマである。それによって、自分は作ったものをただ受ける立場ではなく、自らが作る立場に立つことができる。劇をただ見るだけではなく、自分が同じ劇を演じることができる。
この頃から、視聴者参加番組が減り、バラエティ番組のゲームは芸能人自身が行うようになった。それはなぜかというと、ドラマの登場人物を役柄ではなく役者の名前で認識するようになって、芸能人が身近になったからだ。以前は、視聴者参加番組は自分がブラウン管の向こうの別世界に入り込むことができる数少ない機会だった。しかし、ブラウン管の向こうが別世界であるという認識がなくなって、どこかの名も知らぬ他人より芸能人の方に親近感を抱くようになったから、ゲームに視聴者を参加させる意味がなくなったのだ。
トレンディドラマは、ドラマを見る人がドラマの虚構性を認識しているという意味で、ライトノベルにとても近い。そして内容も非常に近い。ただ一つ興味深いのは、ドラマの構図は同じなのに観客が男女逆であることだ。つまり、トレンディドラマでは積極的な女性が優しいだけの男性を引っ張っていくという構図を女性が喜んで見ていたのに対して、ライトノベルでは同じ構図を男性が喜んで見ている。そして、ライトノベルの女性版では構図が逆転して、積極的な男性が優しい女性を引っ張っていくという構図になる。