ライトノベルとは何か

ライトノベルは通常のフィクションとどこが違うのか。

ジュブナイルとファンタジー

ここでは、ライトノベルという言葉をかなり狭い意味で使っている。前にも少し述べたが、ライトノベルの成立は1990年代後半、いわゆる「エヴァンゲリオンの後」である。つまり、それより前の作品はここで言うライトノベルではないということになる。

ライトノベル以前は、特に男の子向けには、ジュブナイルものが主流だった。もともとは子供向けマンガからの派生だ。それが、最近ではジュブナイルという形式はごく限られた懐古趣味の一派しか使わないようになってしまっている。

ジュブナイルでは、ファンタジーという形式をとることも多い。若者が悪い魔法使いを倒しに出かける物語が典型だ。1980年代から90年代にかけて山ほど出たこの手の物語が、90年代後半から変質し、ファンタジーであることの意味を忘れてしまう。

ここでは、ジュブナイルとファンタジーについて話をする。どちらにも共通するのは、見知らぬ世界を旅することである。

ジュブナイル

「ジュブナイル」とは、「若者向け」というような意味だ。若者とはどこからどこまでかという問題になるが、だいたい思春期から成人まで、つまり小学校高学年から高校生までのティーンエイジャーだと解釈するのが適当である。ジュブナイルのターゲット層は、ライトノベルとかなり重なっている。

ジュブナイルと呼ばれる昔からの小説には、「十五少年漂流記」「宝島」「不思議の国のアリス」「オズの魔法使い」「ピーターパン」などが挙げられる。純粋にお子様向けとも言えないが、確かに子供っぽいところがある作品である。作者が「子供に向けて書いた」と述べているものも多い。

ライトノベルとジュブナイルの大きな違いは、ジュブナイルは大人が子供向けに書くものであるということだ。ジュブナイルの場合、書き手はジュブナイルを卒業していて、子供のためを思って書いている。それに対して、ライトノベルの場合は、書き手本人が自分と同等の人たちに向けて書いている。

大人への通過儀礼

ジュブナイル小説の多くは、冒険と成長の要素を含んでいる。子供が何事かを成し遂げて大人になる話というのが、基本的な話の枠組みだ。いわゆる「大人への通過儀礼」である。

冒険というのは、よく知っている安全な世界を飛び出して、まだ知らない危険な世界へ旅立つことである。そこで数々の経験をして、いろんなことを学び、成長する。そして、何か大きなことを成し遂げることで自分がひとかどの人物であることを証明し、自信をつけて帰ってくる。

目標を持って旅立つという形ではなく、何らかの事件に巻き込まれて帰れなくなってしまうというパターンもある。この場合、家を目指して旅することになるが、その途中で未知の世界で様々な経験をするという形式は同じである。こちらのパターンでは主人公の自発性は薄いが、読者は自分と主人公を重ね合わせやすい。

昔と違って、今では未知の世界がどこにもなくなってしまった。昔は、大海原が舞台としてよく使われたが、海もさして危険な場所ではなくなってしまうと、今度は宇宙がよく使われるようになった。しかし、宇宙も単に何もない場所だと認識されてしまうようになると、剣と魔法が支配する別世界を使うようになる。というわけで、ジュブナイルはSFやファンタジーという形式をとることが多い。

ジュブナイルのパターン

ジュブナイルの基本パターンを抽出すると、こういうことになる。

  • 若者が、安全な我が家を出ていき、あるいは放り出され、見知らぬ世界を旅する。
  • 同じ立場の仲間と一緒に旅をする。あるいは、旅の途中で仲間が加わる。
  • 仲間と一致団結して目的を達成する。

1970年代の終わりから1980年代にかけて、このパターンが少年向けマンガやアニメの主流になる。それ以前のロボットものは、基地から発進して基地に帰ってくるパターンだったのが、基地の代わりに戦艦になり、戦艦自体が移動するようによって、旅をさせることができるようになった。宇宙戦艦ヤマトもガンダムもマクロスもみんなこのパターンだ。

このパターンは、どこにでもある普遍的なパターンであるように見えて、箇条書きにすると意外に適用範囲は狭い。特にライトノベルで顕著に少ないのが、「旅」の要素である。見知らぬ世界がないので、冒険の要素が入っていない。

ファンタジーと冒険

「旅」というと、荒野をさすらう剣士を思い浮かべる人も多いだろう。ファンタジーと冒険は、とても深い関係にある。ファンタジーであるということの意味を考えると、深い関係の理由がわかってくる。

ファンタジーは、西欧近代文明に対するアンチテーゼである。洗練された都会的な雰囲気にノーを突きつけ、田舎っぽい素朴な雰囲気をよしとする。頭脳派の主人公が知恵とひらめきによって問題を解決するのではなく、脳みそまで筋肉でできているようなバカがすべての問題を剣の一振りで解決する。理性より情熱が力を持つ時代である。

ファンタジーの舞台は、中世のものが多い。これは、中世がまだいろんなことがよくわかっていなかった時代だからだ。村から外に出たら、もう何があってもおかしくない。そんな世界を舞台にするんだから、村の中で身に着けた知識は何の役にも立たない。より正確に言えば、そんな乏しい知識よりは探究心や柔軟性、勇気といったものの方がずっと重要だ。そういうメッセージを発するのが、ファンタジーなのである。

ジュブナイルでよくファンタジーが題材となるのは、ティーンエイジャーという年代が、学校のように条件を整えられた場所ではうまく暮らせるようになったけれど、何でもアリの外の世界で暮らすのはまだ不安な状態だからだ。そんな年代に対して、学校を飛び出して自分の力でなんとかやっていく物語を描くには、ファンタジーはもってこいなのである。

ファンタジーのパターン

さて、ファンタジーの定番といえば、次のパターンだろう。

  • 魔法を使って隆盛を極めた文明が没落した
  • 現在では、多種多様な種族が独自の文化を形成している
  • そんな中、魔法使いが古の帝国を復活させ、全土を支配下に置こうとしている
  • 様々な種族が一致団結して、魔法使いに立ち向かう

このパターンは、誰かの創作というわけではなく、中世ヨーロッパの歴史をなぞったものである。ローマ帝国がゲルマン民族の大移動によって分裂・滅亡し、ヨーロッパは多種多様な民族が入り混じってそれぞれが国として存在するようになった。それが、ルネサンスによってギリシャ・ローマの文化が再評価され、それがやがて近代の自然科学や社会科学につながっていく。

古の帝国を復活させようとする「魔法使い」とは、ギリシャ・ローマの考え方から発展した、西欧近代の学問的な考え方のことである。劣った野蛮人に近代科学と人権思想を授けることで、文明的な生活に変えていこうとする考え方だ。それに対して、「近代的イコール優れたものとは限らない」とし、多様な文化を認め、それらのゆるやかな連合を目指すべきだファンタジーは主張する。

だから、ファンタジー世界のラスボスは悪の大魔法使いか魔王なのである。しかも、悪の大魔法使いが使う魔法は、まじないや神聖魔法、精霊魔法といった素朴で原始的なものではなく、占星術や錬金術のように体系だった学問である。彼らが復活させようとしている悪の帝国は機能的かつ均一・無個性的であり、発達した機械や使っていることも多い。

つまり、悪の帝国は都会であり、それを田舎者が倒すという構図になっている。その世界でトップクラスの知識と技術を持った大魔法使いを、どこかの村の無学な青年が倒すのだ。それは、人間として大切なのは知識ではなく心だというメッセージに他ならない。

まとめ

1980年代に流行ったリアルロボットものも、1980年代後半に流行ったドラクエ風ファンタジーものも、「ジュブナイルファンタジー」という観点から見ると、同じ構図であることがわかる。それは、若者が一致団結して、未知の世界を旅して何か大きなことをやり遂げるという物語である。

未知の世界だから、今までの知識は通用しない。そんな場所で重要になるのは、頭より心である。そんなメッセージを、これらの物語は含んでいる。

ファンタジーは、反知性であり反権威である。都会的で洗練されたものを否定し、野蛮で素朴なものを肯定する。1980年代から90年代にかけてよく使われた「熱血」というキーワードが、まさにこれである。

この考え方は、1990年代に入ってだんだん下火になり、ライトノベル世代である1990年代後半以降はほとんど見られなくなった。ライトノベルでもたまに「熱血」がモチーフとして使われることがあるが、それはここで述べた様々な要素を含まない、見かけだけのものである。それはなぜかというと、読み手が「素朴」という概念を理解できないからである。もしかすると、書き手も理解できていないかもしれない。