感情移入
ライトノベルとケータイ小説は、どちらも従来型のフィクションにハマれなくなってしまった人たちが、自分たちに合った物語を模索した結果である。彼らはどうして従来型のフィクションではダメなんだろうか。
フィクションでは、物語は主人公の行動によって進んでいく。この「主人公」に自分を重ね合わせることができないから、従来型のフィクションにはついていけないのである。
主人公とは
そもそも「主人公」とは何なのか。主人公とは、行動することによって話を進めていく主体である。多くの場合、物語は主人公の視点で語られるが、そうでないこともしばしばある。たとえば、名探偵ホームズでは、ワトソン博士の視点で語られるが、主人公はシャーロック・ホームズである。
さて、主人公を「話を進めるために行動する人」と定義すると、ライトノベルやケータイ小説の場合、一般的に主人公だと思われている人は、この定義による主人公ではないということがわかる。
ライトノベルでよくあるハーレムものラブコメでは、たくさんの女性の中に放り込まれた男性の視点で語られる。この男性が「主人公」であるように勘違いしてしまいがちだが、ストーリーをよく見ると、話のきっかけはたいてい女性の方が作り、男性はそれに巻き込まれるという形をとる。ケータイ小説では逆に、女性が男性に言い寄られて、プレゼントをもらったり、デートの誘いを受けたりする。だから、男性が主人公である。
もちろん、主人公以外の人間も、まったく何もしないというわけではない。話を「進める」役割をしないというだけだ。起承転結で言えば、「承」の役割を受け持ち、「起」や「転」の役割をしない。主人公が何か突拍子もないことを思いつくのに対して、普通の対応をする存在である。
憧れと恋
通常のフィクションでは、読者は主人公に憧れ、自分もあんな風になりたいと思う。しかし、ケータイ小説では、読者は主人公ではなく主人公の相手に目が行き、主人公のような恋人が欲しいと思う。
少年ジャンプのマンガに女性の読者が増えてきたのが、このいい例だ。少年ジャンプのマンガは、もともと少年がヒーローと自分を重ね合わせることを想定されている。それに対して、女性読者は、ヒーローの恋人になろうとする。
主人公を見て「あんな風になれたらいいな」と思うのと、主人公の相手を見て「あんな風になれたらいいな」と思うのとでは、大きく違う点がある。それは、主人公は自分の意志でなることができるが、主人公の相手にはなれないということだ。
主人公は、何もないところから事を起こすことができる。主人公さえいれば、何もない平和な町が舞台であっても、何かが起きて、物語が進んでいくことになる。映画やドラマでは、サラリーマンだった主人公が突然脱サラして何かを始める物語がよくある。ほとんどの人が、後先を考えずに同じことをやろうと思えば、それが可能な立場にある。
それに対して、ケータイ小説の場合、周囲の状況がすべてであり、逆に自分の行動は関係がない。かっこいい男が言い寄ってきてくれないと話が始まらないし、逆に言い寄ってきてくれるなら、自分はなんら努力をする必要はない。
ライトノベルを好む人も、ケータイ小説を好む人も、主人公に自分を重ね合わせることができない。自分が主人公になれるとは思えないし、なろうとも思わないのだ。
同情
つまり、ライトノベルやケータイ小説では、自分を主人公に重ね合わせる「感情移入」ではなく、主人公をあくまで自分とは違う存在として置いた上で、そこに「同情」させる仕組みになっている。
感情移入と同情の違いは、感情移入が「相手の立場になる」のに対して、同情は自分の立場のままであるという点だ。同情の場合は、あくまで他人事として受け取られる。たとえば、「不治の病に侵された」場合では、同情の結果は「かわいそう」であるのに対して、感情移入の結果は「つらい」になる。英語で言うと、sympathyとempathyの違いだ。sympathyの場合は移ってくるのは悲しいとかうれしいといった感情だけなのに対して、empathyの場合はその場の状況や考え方、価値観といったことも移ってくる。
感情移入の場合には、その場の状況や考え方が細かく書いてあればあるほど、感情移入が容易になる。それに比べて、同情の場合は、余計なことが書いてない方がいい。ごちゃごちゃ書いてあると、彼は何を考えているのか、自分も考えなくてはならない。同情したいだけなら、「悲しい」とか「怒っている」と書いてあるだけでよく、それ以外の情報は不要なのだ。だから、単純な性格の主人公を用意して、誰もが同じように考えるであろう極端な状況を設定する。誰もが泣くであろう状況を設定すれば、読者も安心して泣くことができる。
宣伝文句に「泣ける映画」とあるのは、たいてい同情である。感情移入できる場合は、「いろいろと考えさせられる映画」となるのが普通だ。
現実と虚構の区別
あまりものを考えない人にとっては、感情移入は何かと面倒くさいので、同情の方がお手軽で喜ばれる。ライトノベルがそういう人たちに喜ばれるのは、この「一歩引いて観客の立場になれる仕組み」があるからである。なお、ケータイ小説にはこの仕組みはなく、読者は自分たちがしているのが同情でしかないのに、それが感情移入であると信じている。
通常のお話では、知らず知らずのうちに感情移入をさせられてしまう。彼らにとっては、それが「重すぎる」のだ。ライトノベルでは、半ば意図的に、あり得ない状況とあり得ない価値観とあり得ない行動を示して、その人の立場に立ってものを考えることができないようにしている。さらに、免罪符として「これはただのお話。面白ければなんでもアリ」という考え方を導入することによって、「感情移入は面倒くさいので同情だけしたい」と主張することのバカっぽさを低減させている。
このことが、「現実と虚構の区別をつける」と称される。彼らにしてみれば、(本来の意味で)感情移入をすることは、「現実と虚構の区別がついていない」証拠なのである。彼らは、ニュースで「現実と虚構の区別がつかなくなって、こんな犯罪を犯すようになるんでしょう」なんて言うコメンテーターの意見を聞いて、現実と虚構の区別がつかないというのは悪いことだと思ってしまっているのだろう。本来、「現実と虚構の区別がつかない」というのは、フィクションにとって最高の褒め言葉なのだ。
まとめ
ライトノベルの読者もケータイ小説の読者も、従来型のフィクションの主人公にはなれないとあきらめている。どんな卑近な舞台を設定して、どんなに低い目標を置いても、彼らは主人公になれない。主人公になるには「自ら積極的に動く」ことが必要で、彼らにはそれができないからだ。
感情移入によって、違うものの見方や価値観を得たり、あることがらについて深く考えることができる。本来は、それこそがフィクションの意義だ。しかし、それができない人は、単に「楽しかった」とか「悲しかった」という感じだけを得たいと思う。
ケータイ小説では、そのために、「感想を言う人」を中心に据えて描かれる。そして、その人が「楽しかった」と書かれているときに一緒に楽しいと感じ、「悲しかった」と書かれているときに一緒に悲しむ。通常のフィクションでは感情を直接言葉で表現するのは下策とされているが、ケータイ小説ではこれは観客への「笑いなさい」「泣きなさい」という指示なので、直接書いてあるほうがいいのだ。
ライトノベルでは、読者が物語の中に入り込めないように、感情移入できないようにすることで、細かい情報を遮断し、感情だけが伝わるようになっている。ただし、「笑いなさい」「泣きなさい」という指示は、直接的ではなく、ちょっとひねって暗号のように書かれている。その暗号を読み解いて、「ああ、これは泣きどころなんだな」と理解させることで、物語の外にいる読者が物語に参加できるようにしている。