ケータイ小説
ライトノベルは、現実っぽくするのをやめたところに特徴があると述べた。だから当然、リアリティを考慮していない。むしろ、わざとリアリティをぶち壊している。
その対極にあるのが、リアリティを重視する「ケータイ小説」である。え?あれのどこにリアリティがあるんだ?と思う人もいるかもしれないので、これから説明しようと思う。
実話とノンフィクション
最近、「本当にあった話」と称して語られる物語が多くなってきた。これをここでは「実話」と呼ぶことにする。注意してほしいのは、実話では、それが本当にあったかどうかということは実はあまり重要ではないということである。
一般に、フィクションに対して、本当にあった話のことはノンフィクションと呼ばれる。しかし、ノンフィクションの場合には、それが本当かどうかというところに主眼がある。ノンフィクションの場合は、政治、経済、環境など、我々の生きる現実に直結したテーマが選ばれるからである。それに対して、実話では、その内容は受け手と直接関係のないテーマが選ばれる。
芸能人のゴシップ記事もある種の「実話」である。一般の人にとっては、どの芸能人が誰とくっつこうと、別に日々の生活が変わるわけではない。逆に、自分にとってまったく縁のない誰かが結婚することで幸せに思うなら、別にそれが架空の人であっても何も変わりがない。芸能人のゴシップ記事は、それが本当である必要性はどこにもない。それが、自分の投票行動、さらには国の将来に影響する政治家のスキャンダルとの大きな違いである。
職人的フィクション
では、なぜたいして重要ではないはずの「実話」であることにこだわるのだろうか。逆に言うと、なぜ普通のフィクションではいけないのか。それは、フィクションの舞台が、読み手から離れてしまっているからである。
ケータイ小説は、読み手と同じ女子高生やOLが書いていて、書き手の実体験が基になっているとうたわれている。それが真実なのかどうかはともかく、読み手にとってはこのことこそが重要なのだ。
同じ文章であっても、もし書いているのが中年のおっさんだったら、同じように読んではもらえない。読んだときに感激して大泣きしたとしても、友達から「おっさんの妄想でそんなに大泣きするなんてバカじゃない」と言われたら、いっぺんにさめてしまう。それが「同じ女子高生の妄想」なら、やっぱり妄想なのだけれど、それなりに何かの意味を持つように思える。
なぜおっさんの妄想はダメで、女子高生の妄想ならいいのか。それは、おっさんは「ウケるように書く」からだ。正確に言えば、おっさんの書くケータイ小説は、おっさんの妄想をつづったものではなく、これを読んで女子高生が感激して大泣きするように計算された「製品」なのである。ここに作り物臭さを感じるから、拒否反応を示すのだ。
フィクションが商業化され、職人が作り出すものになってしまうと、その作り物臭さが鼻につくようになる。「この作り物臭さがいい」と開き直ったのがライトノベルで、「作り物臭いのは嫌だ」と拒否したのがケータイ小説だ。
リアルと共感
ケータイ小説を読者がほめる際、必ずといっていいほど使われるキーワードが2つある。「リアル」と「共感」だ。読者は、ケータイ小説に書かれている話が「リアル」だと感じ、主人公に「共感」している。これは、フィクションとしては正統的な読み方だ。
普通の人がケータイ小説を読むと、おそらく「こんな荒唐無稽な話のどこをリアルに感じるんだ」と疑問に思うだろう。リアルなのは、一般に主人公と呼ばれている、読者が重ね合わせて読むように考えられている登場人物のことだ。(なぜこんなに回りくどい言い方になっているのかは、後の章で述べる)
ケータイ小説では、何のとりえもない普通の女子高生やOLがメインに据えられている。彼女らは基本的に周囲に流されていくだけで、自分からは特に何もしない。この態度が「リアル」なのである。逆に言うと、積極的に男を捕まえてくるような主人公に対しては、「こいつは違う人種だ」と思ってしまうし、共感もできない。
つまり、もし自分が置かれている状況がケータイ小説に書かれているのと同じになったとしたら、きっと自分も同じようになると思う、という意味で「リアル」なのだ。通常のフィクションなら、「自分だったらこうする」とか「自分だったらあんなことはしない」と思うかもしれないが、ケータイ小説ではそもそも何もしないのだから、主人公が誰に置き換わろうと同じ展開になる。
ケータイ小説では、宝くじに3回連続で当たるような偶然の出来事はあるかもしれないが、まったくあり得ない話はあまり出てこない。普通の人が感じる荒唐無稽さは、どちらかというと「ご都合主義」と呼ぶべきものだ。ケータイ小説がご都合主義なのはある意味当然である。メインとなる登場人物が何もしない以上、話は周囲の状況によってお膳立てしなくてはならないからだ。
まとめ
リアルであることを自ら捨て、作り物っぽいものを目指しているライトノベルに対して、リアルであることを目指しているのがケータイ小説だ。そこで書かれている登場人物は作者と近く、読者とも近い。そして、様々な方面で活躍する人間ではなく、何もしない人間を中心に据えている。しかも、しばしば「これは実際にあった話である」と主張する。そんなケータイ小説が「荒唐無稽な話」と評価されるのは、なんとも皮肉なものだ。
ケータイ小説とライトノベルは、普通の読者にとってはどっちも似たレベルであり、同じように小説の体をなしていないように見える。しかし一つ違うのは、ケータイ小説の読者は「これこそが作り物ではない小説」だと思っているのに対して、ライトノベルの読者は「小説なんてみんな作り物なんだよ」と思っているということだ。