ライトノベルとは何か

ライトノベルは通常のフィクションとどこが違うのか。

メタフィクション

ライトノベルとは何かということを最も簡潔に述べるなら、「現実をベースとしない虚構」であると言えるだろう。現実を描き出すことが目的である通常のフィクションとは違って、アニメやマンガの世界を描き出すことを目的とするフィクションがライトノベルである。

「アニメやマンガの世界」もまた、ライトノベル的なものと、通常のフィクション的なものがある。ライトノベルが題材とするのは、前者である。つまり、とてもややこしいことだが、ライトノベルとは「ライトノベルを描くフィクション」であると言える。

この、フィクションのメタ構造こそが、ライトノベルの特徴である。

「この物語はフィクションです」

通常のフィクションは、あくまで、その物語がフィクションであることを隠して、それが現実であると主張する。だからこそ、開始前に「この物語はフィクションです」と但し書きをする。この但し書きがないと、その後の内容を本当だと信じてしまう人がいるからだ。

いや、正確には、「作品の内容を本当だと信じてしまう人がいるかもしれないという前提がある」と言ったほうがいいだろう。フィクションというのはある意味嘘なのだが、作品の中では決して「これは嘘です」とは言わない(言ってしまったらそれは嘘ではなくなってしまう)。だからこそ、作品の外で「これは嘘です」と言わなくてはならないのだ。

それに対して、ライトノベルでは、作品の内容を本当だと信じてしまうようなバカはいないことが前提となっている。それでも、面白いことに最初に「この物語はフィクションです」と但し書きをする。

ライトノベルではなぜ「この物語はフィクションです」と但し書きをするのか。それは、こういう但し書きをつけることが「フィクション」のフォーマット(お約束)だからである。つまり、そういうメッセージが出た方が「フィクションっぽい」からだ。だから、この但し書きもまた作品の一部なのである。

通常のフィクションが、「本物みたい」を目指すのに対して、ライトノベルは、「フィクションみたい」を目指す。ここが、ライトノベルの根本的な違いである。

第四の壁

演劇で、劇が演じられる舞台とそれを座って見ている観客の間にある(仮想的な)壁を、第四の壁という。劇が演じられていない間は、ここに幕が下ろされている。幕が上がると、観客はここを通じて、その先で演じられる劇を見ることになる。映画におけるスクリーンや、テレビにおける画面も同じである。

劇中の登場人物にとっては、この壁は存在せず、意識されることもないという約束事になっている。この壁は劇中から観客への一方通行であり、この壁を通して外から劇の中に何らかの影響を及ぼすことはない。また、劇中の登場人物は、あたかも自分が実在の人間であるかのようにふるまい、観客に見られているということも、自分は役者に演じられている存在だということも意識しない。これが、フィクションの約束事である。

この壁は、演出としてしばしば意図的に壊される。とくにコメディやギャグでは常套手段だ。暗黙の了解をぶち壊すのは、笑いを取る手段の一つだからである。登場人物が「観客の皆さん」と呼びかけたり、役者に固有の一発ギャグをやったり、あるいはテレビのブラウン管にぶつかるような演出や、マンガのコマをぶち破る表現など、様々な例がある。

この第四の壁を壊すことは、観客を演じられている物語から引き離し、考えさせるという効果を産む。逆に言えば、この壁を壊してしまうと、物語に熱中していた観客が現実に引き戻されてしまい、興ざめしてしまう。だからこそ、通常のフィクションではこの壁を壊さないように努め、逆にこの壁を意図的に壊すものは「難解」と形容される。

メタフィクション

第四の壁と似ているが、自分自身がフィクションであるということをネタにしたフィクションを、メタフィクションという。フィクションの中で別のフィクションが展開される劇中劇もこの中に含まれることもあるが、より狭義には、自分自身のフィクション性を自らの作品中で語ることを言う。たとえば、「俺はこの作品の主人公なんだから、これくらいのことで死ぬわけはない」とか、「この世界は実は誰かの書いたお話の中なのではないか」とお話の中の主人公が考えるなら、これはメタフィクションである。

しかし、面白いことに、このことが第四の壁を破るとは限らない。誰かがそんなことを思ってしまうことは現実にもあり得ることだからだ。「そんな風に思い込んでしまった人のお話」としてその様子をフィクションとして描くなら、メタフィクションもフィクションの枠内に入ることになる。

同じ仕掛けを使って、第四の壁を破った後にフォローを入れることで、無理やり修復してしまうこともある。ある登場人物が観客に呼びかけた時、その横にいる人物が「お前、壁に向かって何をしゃべっとるんや」とツッコミを入れることで、前の行為はフィクションの約束に戻されることになる。登場人物が約束に違反したと思い込んだだけで、物語世界が違反したわけではないということになる。

要するに、物語内現実と物語の登場人物の現実認識の間に隔たりがあろうとも、それらと観客との間に壁があれば、それはフィクションの約束の中に入っているということだ。その場合、「物語の登場人物がフィクションについて考えている」という形式になるので、メタフィクションとなる。

ゲームとフィクション

物語内の現実と観客との間に壁があり、その壁は物語の中のことを観客に伝えるという一方通行であるというのが、フィクションの約束事だった。しかし、その約束事を壊すメディアが現れた。ゲームである。

ゲームであることは、第四の壁が崩れていることとイコールではない。しかし、ゲームの場合には、壁のあちら側とこちら側に物理的な仕切りがないため、気を付けないと混同しがちになってしまう。

たとえば、ゲーム内のキャラクターが、「攻撃するにはAボタンを押すんだ」と発言する場合は、第四の壁を崩していることになる。しかし、画面の右上にメッセージとして出るなら、壁を崩していることにはならない。つまり、画面上のすべてが「舞台側」であった映画やテレビとは違って、画面上に「舞台側の部分」と「観客側の部分」があるのだ。

観客は、ゲームに参加し、実際に主人公を動かす。だから、観客は観客席に座っているのではなく、舞台に立っていることになる。自分が舞台に立つことによって、舞台の中のことに影響力を持つようになる。この場合、崩れているのは第四の壁ではない。プレイヤーが「観客」であるという前提が崩れているのだ。

しかし、ゲームがストーリー重視になり、話を進めるためにボタン操作をするものになってしまうと、この前提が崩れてくる。プレイヤーは舞台の中の様々なものへ能動的に影響力を及ぼすのではなく、ゲームが提示する選択肢の中から一つを選ぶという役目になる。このため、プレイヤーは「舞台にいる」という感覚が薄れて、観客席に座っているように振る舞う。つまり、プレイヤーが観客席に座って舞台を見ていると、舞台の側から「どっちの展開がいいですか?」と聞いてくるというわけだ。これは、第四の壁という約束事を崩していることになる。

ゲーム感覚

フィクションでは、舞台の中の世界と、観客の世界は切り離されている。観客は、観客の世界のことは忘れて、舞台の中の世界へ入り込む。ゲームでは、自らが舞台の中で演じることによって、舞台の中の世界へ入り込む。それに対してライトノベルでは、第四の壁というお約束を破ることで、壁の存在を観客に認識させ、舞台の中の世界と観客の間に距離を感じさせるようにしている。

自分で簡単に過程や結末を操作できてしまうようなものが、現実であるはずがない。この考え方は、ある意味正しく、ある意味間違っている。なぜなら、現実は、そこに存在する自分の行動によって操作できるものだからだ。「現実でない」と感じるのは、自分がそこにいないと感じているからだ。

この感覚が、「ゲーム感覚」である。自分が何かをやって影響を及ぼしている世界とは別の世界に本当の自分がいるという感覚である。「ゲーム感覚」の場合、自分は対象を操作できるが、対象は自分を操作することができない。この一方通行の感覚こそが「ゲーム感覚」であり、フィクションとライトノベルを分けているものである。

まとめ

ライトノベルとは、現実のフリをすることをやめたフィクションである。通常のフィクションが、そこで展開される話を現実であるかのように観客に思わせるのに対して、ライトノベルではそこで展開される話を観客とは別世界のお話だと思わせる。

この定義からすると、ライトノベルかどうかというのは作品の問題ではなく、受け手の問題だ。どんなに良質のフィクションであっても、受け手がそこに没入しないまま読むのなら、その受け手にとってのそれはライトノベルである。

しかし、その逆は成り立たない。ライトノベルには、第四の壁を破ることで、受け手を作品世界から突き放すような仕掛けがされているからである。作品としてのライトノベルを定義するなら、「作品の虚構性を強調することで、読者がその世界に没入できないようにしたもの」であると言える。

作品の虚構性を直接的に強調しようとすると、作品の中で作品それ自体のフィクション性について語るメタフィクションの形式となる。ただし、虚構と現実の入り混じった混沌とした作品世界に没入する通常のメタフィクションと違って、「作品自体のフィクション性を語ること」もまた「現実ではない」と突き放してしまう。

作品の虚構性を間接的に強調する方法としては、既存の有名なフィクションそっくりに作る方法がある。作品の対象世界を利用したり真似したりするのではなく、作品そのものを利用することによって、「作品のフィクション性」がそのまま言及されることになり、作り物っぽさが増す。

受け手は、作品世界から突き放されることで、自分自身は影響を受けない安全地帯に自分を置いたまま、作品を鑑賞することができる。これがいわゆる「ゲーム感覚」である。じゃあ普通のフィクションでは自分自身は危険地帯にいるのか?と疑問に思う人は、夜中に手元の明かりだけをつけてモダンホラーを読んでみるといい。もしかしたらそれでもわからないかもしれないが、その場合はもうご愁傷様と言うほかない。