今回はアイデンティティの話。
アイデンティティを「人とは違う自分だけの何か」という意味だと思っている人が結構いる。まったく違っているというわけではないのだが、アイデンティティという言葉の意味を考えるとなかなか興味深い。
もともと、アイデンティティとは「同一である」という意味だ。それを「違う」という意味に使っているところが面白いところだ。「同じ」と「違う」は表裏一体なわけだから、これはつまりどちらに注目するかという違いだ。普段「同じ」ことを当たり前だと思っている人は「違う」という部分に注目するのだろうし、逆に普段から違いばかりを感じている人は、たまたま見つけた「同じ」部分に注目するのだろう。つまり、アイデンティティを「同一であること」という意味にとる人は普段から違いを意識している人で、「違うこと」という意味にとる人は普段から同一性を意識している人だということだ。
アイデンティティという言葉が日本語で説明される時、どうも「違う」という側面が強調されることが多いような気がする。本来の意味である同一性ではなく。
さて、念のため、普段使われる「アイデンティティ」という言葉の意味を書いておくことにしよう。アイデンティティという言葉には、次の2つの意味がある。
- 帰属意識
- 自分と同じ性質を持つ人がいるということ
- 自己同一性
- 自分が自分であるということ
「同一性」という意味を考えると、前者の意味の方がわかりやすいだろう。私もあなたも日本人だということから「日本人としてのアイデンティティ」ができる。こうしたアイデンティティは、普段から同じ人ばかりに囲まれている時には意識しづらい。自分が日本人であるという意識は、日本にいる時より外国にいる時の方が強く感じる。
「自分が自分であるということ」という意味でのアイデンティティはいったい何が同一なのかというと、昨日の自分と今日の自分が同じ人間であるということである。時間が経つにつれて身体は変化するし、考え方も変わる。それでもずっと変化しない何かがある。それが「自分である」という意味でのアイデンティティなのだ。「自分が自分であること」という意識も、違いがある時に強く感じる。自分の身体や境遇や考え方が大きく変化した時にこそ、「自分の中の変わらない部分」を意識できるようになる。
普通は、帰属意識の方が先に芽生え、その後で自己同一性を獲得する。なぜなら、自己同一性を意識する方が難しいからだ。人間は、幼児の段階では自分と人との区別があまりついていない。だから、人が泣き出すと自分もつられて泣き出したりする。しかし、しばらくすると自分と他人の区別がついてくる。
子供が次に獲得するのが、性という帰属意識である。これが人間では一番わかりやすい「同じ部分」だからである。男同士、あるいは女同士で集まり、異性を敵視する。「男のくせに女の味方をするのか」と、まるで男は男の味方をしなければならないように考えるようになる。
帰属意識を獲得したら、その次はもっと複雑な帰属意識を作るようになる。友達が複雑にグループ化し、時には様々な場所で違う帰属意識を作るようになる。そうやってたくさんの「○○としての自分」ができてくると、「本当の自分はどれなのかがわからない」という疑問がわいてくるようになる。
結局、「本当の自分」というのはどれでもない。たくさんの「違う自分」の中に入っている一本の芯だ。それが見つけることが、自己同一性の獲得である。つまり、自己同一性は、帰属意識の先にあるものだ。
この2つのアイデンティティは、「何が同じか」という観点ではまったく意味が違うのに、「何が違うか」という観点ではほとんど同じ答えになる。どこかの誰かと違うのである。だから、アイデンティティを「人とは違うこと」だと思ってしまうと、この2つのアイデンティティを区別できなくなってしまう。
アイデンティティを獲得するには、「同じ」と「違う」が同居しなくてはならない。「同じ」ということは「2つは違うものなのに共通点がある」ということなのだから。「両者は同じだ」というためには、対象が「両者」でなくてはならない。つまり、2つのものが区別できないといけない。
少し前に書いた「概念のレベル」でいうと、違いを認識する段階がレベル1で、同じ部分を認識する段階はレベル2である。「違う」という概念がないと、「同じ」という概念は定義できない。アイデンティティは、「違う」という段階を通過したその先にあるものだ。「人とは違う」というのはアイデンティティではないが、「人とは違う」という概念を持たないとアイデンティティは持てない。
少し話は脱線するが、「愛国心教育」と称して日本の歴史や文化を教えようというのは、ここまでの話を考えると逆効果なのではないかと思う。本来、愛国心教育をするなら、外国の文化を教えないといけない。外国の文化を知ってはじめて「外国とは違う日本」というアイデンティティができるのだ。
昔に比べて、今の日本では外国の情報や文化が入りにくい。昔は外国の文化が常にメインストリームにあって、子供は外国の歌やアニメや映画やテレビドラマを見て育った。今の子供たちには、素晴らしい外国文化に触れることに慣れていないせいで、そういうものを毛嫌いする傾向にある人が多数見られる。そういう人は、よその国の良い部分を見ることができず、ネット右翼になってしまう。
ネット右翼というのは、「日本人」というアイデンティティが未分化な状態である。「日本人」というアイデンティティを持つには、日本人であるAさんとB さんのどこが同じでどこが違うかを見つけなくてはならない。しかしそれだけでなく、韓国人であるCさんとDさんのどこが同じでどこが違うか、そしてAさんBさんとCさんDさんとの間でもどこが同じでどこが違うかを見つけなくてはならない。そうでなければ、AさんとBさんの間の同一性と相違点を「日本人だから」というまとまりでくくることはできない。単に「人間」というまとまりでくくれるものかもしれないからだ。
もともと、アイデンティティとは「同じである」ということを示すものである。日本人というアイデンティティは、「日本人は韓国人とは違う」ということに主眼があるのではなく、「日本人同士には共通点がある」ということに主眼がある。外国の人と比べるのは、その共通点が「日本人」というまとまりであることを確認するだけの意味しかない。ことさら違いを強調するネット右翼は、逆にアイデンティティを確立できていないのである。
本来、「同じである」という意識は、違いを意識してからでないと持つことはできない。もともと、たくさんの違った人と出会ううちに同じような仲間を見つけるという順序をたどるものだからだ。
たとえば、バンドをやりたいと思ったら、周りの人にやたらめったら「バンドやろうぜ」と声をかけてみて、あるいは友達にベースギターを押しつけて、同調してもらえるかどうかを見る。同調してもらえたら「同じ」であり、同調してもらえなかったら「違う」ということだ。こうやって、「同じ」と「違う」を両方経験することで、同一性という概念を獲得できる。
しかし、今ではこの過程が少し違ってきている。バンドをやりたいと思ったら、どこかのサイトに「バンドメンバー募集」と書く。そうすれば、同じようにバンドをやりたい仲間にすぐ出会える。しかし、こうやって出会った仲間は本当に「同一」なのだろうか?本当は、出会った時点では本当の「仲間」ではない。音楽性の違いや真剣さの度合いなんかで幾度もトラブルを起こして初めて本当の「仲間」になれる。
「バンドメンバー募集」と掲げて人を集めるやり方では、「同じ」はわかっても、「違う」を知ることができない。「違う」人とは初めから関わらないからだ。そして、「同じ」であることもわざわざ詮策しない。本当に同じであるかどうかを検証しないまま、同じだと思い込もうとしてしまう。
こうやって集まった集団を、ここでは「仮想的なコミュニティ」と呼ぶことにする。仮想的なコミュニティでは、構成員それぞれから同じ部分を抽出するのではなく、初めから同じ部分が言葉として与えられていて、そこに人が集まる。そして、そこに集まった人が本当に同じなのかどうかを検証することはない。実際には、恐くてできないのである。
仮想的なコミュニティでは、「空気を読む」ことが必要となる。自分たちが言葉で掲げた仮想的な同一性に皆が合わせるようにしなくてはならない。「合わせるようにしなくてはならない」というということはつまり、本当は合っていないということだ。本来、わざわざ合わせようとする必要はないはずだ。何もしなくても既に合っているはずだから。
仮想的なコミュニティの構成員は、この同一性は実は偽物なんじゃないかと疑いながら、それを試す勇気を持てないでいる。だから、コミュニティの内部に違いが出ることを恐れ、それについて真剣に議論するよりは見かけだけの同一性を保とうとする。真剣に議論すると、その同一性は実は偽物だということがバレてしまうかもしれない。だから、自分たちのことについて真剣に議論するより、目を常に外に向けることを選ぶ。
仮想的なコミュニティによって、「同一性」が、言葉で表された性質のことを指すようになってしまった。他の人との「同じ部分」を、他の人と関わり合うことによって自分で見つけるものではなく、初めから言葉で与えられるものになってしまった。そして、その言葉を壊さないように、自分の方を言葉に合わせていくようになってしまった。
仮想的なコミュニティでは、その構成員の中身に目を向ける必要がない。「私は○○である」という概念の中に、自分以外の人が入る余地がなくなってしまっている。自分が○○でありさえすれば、他の人がどうであろうと関係ないのだ。この点で、本当の意味でのコミュニティとは考え方が違ってくる。本当のコミュニティならば、その中の個人対個人の付き合いが最も重要なのだが、仮想的なコミュニティでは、そのコミュニティ内の人の具体的な「顔」が思い浮かんでこなくなる。コミュニティの構成員がどんな人なのかが具体的にはわからないのに、「同じ」と認識してしまっている。
仮想的なコミュニティでは、コミュニケーションの形態も変わってくる。個人対個人ではなく、個人対全体という形をとるようになる。そうなると、個人を表に出すことは嫌われる。コミュニティの内側では、そのコミュニティのテーマに沿った内容の話しかしてはいけなくなってしまう。
こうした仮想的なコミュニティへの帰属意識がそのまま「私は私である」という自己同一性の概念になってしまうと、大きな矛盾が発生する。「私」という性質を持っていることが「私」のアイデンティティになってしまう。こうなってしまうと、もはやどこにも「同一性」が存在しない。だからこれはアイデンティティではないのだ。
仮想的なコミュニティで見られる同一性は、2つのものの間に見られる同一性ではない。「1つのものである」という同一性だ。対象となるものが、実質的に「自分」という1つのものでしかない。
「同一性」というのは、本来、様々な違うものの中に同じ部分を見つけることである。だから、違うものを「違う」とだけ言って終わるのでは、いつまで経っても同一性は見つからない。
同一性というのは、実際に様々な体験をして自分で見つけなくてはならないものだ。同一性は、いくら言葉で説明しても無駄だ。言葉による同一性は、本当の同一性ではない。なぜなら、言葉にしてしまうと「違い」が存在しなくなってしまうのだから。
同一性を見つける過程で言葉が先行してしまうと、他人と自分との同一性を考えるのではなく、言葉と自分との同一性を考えるようになってしまう。そうすると、「他人」の入る余地がなくなってしまう。現実を見ず、言葉だけで判断してしまうようになる。
「アイデンティティ」という言葉の解釈を間違えると、他人との深いかかわりあいを避けるようになってしまう。「違いがない」ということを「同じである」と勘違いしてしまう。違いがないというのは、本当は単に見えていないというだけなのに。