「ゲーム世代」とひとくくりにするとまたお叱りを受けるだろうが、便利な言葉なので使うことにする。この言葉は、ある年代の人が全員ゲームをやっていると主張するつもりでも、ゲームをやると全員がこうなってしまうという主張でもない。そこのところをまず言っておく。
さて、世の中で「ゲーム世代」と呼ばれる思考様式がある。一言で言えば「人生をゲームだと思っている」人のことである。彼らの思考様式、特に世界認識を見ると、以前に「セカイ系」として書いたことと重なる部分が大きい。
本当のゲーム好きは、「人生はゲームだ」なんて言わない。逆に「ゲームは人生だ」と言う。よくゲーム世代といわれる人たちは、実はまともなゲームを真剣にやったことがない人たちなのではないかと思うのだ。だからこそ、ここでは「ゲーム世代」という言葉をゲームの是非とは関係なく批判的に使う。
私が思うに、これはゲームが主犯なのではなく、彼らの考えている「人生」がゲームの特徴に似ているからそう名付けられたのだろう。ゲームは人生の縮図であり単純化である。つまり、彼らの考えている「人生」は単純化されたものだから、ゲームのように見えるのだ。
ここでは、自分が現実の世界というゲームの主人公であるというイメージを持っている人についての話をする。
(ここで言う)ゲーム世代は、世界を次のように見ている。
- 世界はあらかじめ決まったルール通りに動いている。
- ルールに従っていれば何をやってもいい。
- そのルールの中で、自らの目的が達成できるように行動を最適化する。
ここでは「ルール」という言葉を注釈なしに使ったが、この言葉が曲者だ。ゲーム世代の人間が勘違いしているのは、「ルール」という言葉の意味である。
ゲームの世界では、ルールとは、できる事とできない事を決めるものである。例えば将棋では、歩は一マス前に動かせる。後ろに動かしたり、いきなりジャンプしたりはできない。このルールに従っている限り、それは「将棋」というゲームである。
しかし、当然のことながら、将棋盤が目の前にあるなら、歩を横に動すことだって不可能ではない。もし、歩を横に動かしたらどうなるか?歩を横に動かすと、もはやそれは将棋ではなくなってしまう。しかし、将棋ではなくなるということがいったい何だというんだ?そこが、何とも言えない微妙な問題である。
現実世界には、こういう「微妙な問題」は存在しない。ルールに従わなかったら、警察に捕まるとか、賠償金を請求されるとか、とにかく何かが起こる。そしてそれもまた現実なのである。
現実世界での「ルール」とは、つまるところ、人同士での約束事である。ゲームで言うなら、マルチプレイヤーゲームのプレイヤー同士が「協力してあいつを攻めようぜ」などと言っているようなものだ。そういう約束を守らないとどうなるかというと、他のプレイヤーに嫌われる。それだけのことだ。
ゲーム世代の人間は、「ルールに従わない」ことを考慮に入れることができない。すべての人がきちっとルールに従わないと、世の中はめちゃくちゃになってしまうと思っている。実際は、ルールに従わない人もそこそこいて、それでも世の中はなんとかなっているのに、である。
ゲーム世代の人間は、世の中の「ルール」が絶対で、そこから外れることを想定できない。
また、ゲーム世代の人間は、ルールは誰かが恣意的に決めたもので、それがルールである必然性を考えない。ゲームでは確かにルールは恣意的に決まっているが、現実ではそうではない。
例えば、多くのRPGでは、主人公は勝手に人の家のタンスを漁ってアイテムを盗っていってしまう。これは、そうしてもよいという暗黙のルールがあるからだ。それに対して海外のRPGでは、同じ行為をすると警備隊に捕まったりする。では、新作のRPGを買ってきた時、人の家に勝手に上がり込んでいいのかどうか、どうやって判断したらいいだろうか。これはもう、実際に上がり込んでみるしかない。あるいは、攻略本を見て調べるかだ。
人の家に勝手に上がり込んでタンスの中のものを盗ってはいけないことくらい、誰でも知っている。しかし、そのゲームではどっちのルールに従っているかは、いくら考えてもわからない。ルールを知るには、捕まるのを覚悟で行動するか、それともルールを調べるかのどちらかしかないわけだ。
一見すると、ルールをきちんと調べるという手間をかけさえすれば良いように見える。しかし、現実はそう簡単には行かない。ルールが恣意的であるということは、どんなルールが設定されていてもおかしくないということだ。だから、自分の取るすべての行動についていちいちルールを調べないといけない。もしかしたら、そのRPGでは人の家のタンスは漁ってよくても、道端に落ちているアイテムは勝手に拾ってはいけないかもしれない。常識的に考えればそんなことはあり得ないが、そもそも人の家のタンスを漁っていい時点で、そこは既に常識的にあり得ない空間なのである。
ここにもう一つの問題がある。現実は、ルールに沿っているか違反しているかは簡単に割り切れるものではない。ルール違反なんだけど仕方がないことがあったり、普通ならルール違反ではない行動でも特定の場合においてだけはマズい行動だったりする。「今この瞬間、この状態において」の回答はどこにも記されていないので、自分で判断するしかない。しかし、ルールが恣意的であるなら、判断の材料がない。今この瞬間、この状態だけに通用する特殊ルールがあって、それを自分が知らないだけなのかもしれない。
ゲームではなぜこの問題が起きないかというと、自由な行動ができないからだ。ある決まった選択肢の中から選ぶことしかできない。さらに、多くのビデオゲームでは、ルール違反の行為はそもそも選ぶことすらできないようになっている。将棋ソフトで歩を横に動かそうとしても、入力を受け付けてくれないのだ。コンピュータがルール違反をチェックしてくれるから、自分でやる必要がない。
実際には、ビデオゲームでは、「ルールに従っていれば何をやってもいい」ではなく、「ルールに従っていることしかできない」になっている。これはつまり、「その行為が可能なら、それはルールに従っている」ということだ。これなら、自分の行動がルール違反なんじゃないかと心配する必要はなくなる。ルール違反の行動はそもそも実行できないはずなのだから。
つまり、自分の行為の善悪判断を、他の人に委ねてしまうのである。「もしこの書き込みがルール違反だったら削除してください」というように。この一文を書くことによって、自分が実際にルール違反の書き込みをしても、ルール違反をしなかったことになる。そして、その書き込みのせいで起こる様々な問題が、書いた人の責任ではなく削除しなかった人の責任になってしまう。まことに無責任で厚かましい考え方である。
まあしかし、彼らが「ルール」というものに対して判断材料を持たず、しかも自分がルール違反をしたということが自らの世界認識まで脅かす大問題なのだとしたら、それも仕方がないのかもしれない。結局のところ、彼らは物事の善悪を判断する能力に欠けているため、丸暗記するしかないのである。
「ルールに従っていれば何をやってもいい」という考え方には、一つの大きな仮定がある。それは、「自分はルールをすべて知っている」という仮定である。これがなければ、「ルールに従っていれば何をやってもいい」などと言えるわけがない。自分がしようとしている行動が、自分の知らない何らかのルールに抵触する可能性が必ずあるからだ。
しかし、ルールを知らなくても困らない方法がある。他人にルールの判断をさせて、ルールに合致していることが確認された選択肢を自分が選ぶだけにするという方法だ。どこぞのCMみたいに、自分の手の内にあるカードに行動の選択肢が書いてあって、どれを選ぶかを考えるだけにする。そうすると、選択肢はどうやって用意するのか?という疑問になるわけだが、たいていそれは他人がくれるから問題はない。
こういう仮定があるからこそ、「行動の最適化」などという大それたことも言える。それができるのは、彼らが結局はいくつかの選択肢から選んでいるだけだからである。普通の人は、「最適化」ではなく「いい方法を考えつこう」と考える。最適化というのは、「この方法が一番良さそうだ」というだけではない。「この方法以外にいい方法はない」という方法を見つけることだ。これは、自分がまだ思いついていない方法の存在を無視している。
「行動の最適化」という話には必ず「自分の知っている範囲で」という限定がつく、と反論する人がいるかもしれない。しかし、その限定をつけるなら、必ず「もっといい方法がないかどうかを考える」という選択肢があるはずだ。この選択肢の価値は評価できない(なぜなら、自分の知らないことについてだから)。だから、その選択肢がある限り、最適化はできないはずである。
少しまともな人は、まずその場のルールを完璧に覚えようとする。結局、いつまでたってもルール探しが続いて、何もできなくなってしまう。不確実な世界でなんとかやっていくことができない。
「行動の最適化」という話が机上の空論である理由はもう一つある。自分と同じように自由に動ける他人の存在である。他人がどう動くかわからない以上、最適化はできないはずだ。これは、他人の行動の推測が難しいという意味ではない。他人は自分の考えの「裏をかく」ことができるからだ。
こういう話は、むしろゲーム慣れした人の方が得意なはずだ。ゲームには敵がいて、そいつがどう考えるかを考えながら、勝利を目指していくものだからだ。しかし、対人ゲームではなくビデオゲームに慣れてしまうと、こういう訓練がかえってできなくなってしまう。残念ながら、多くのビデオゲームでは、敵は決まりきった行動しかしない間抜けばかりだ。それは相手がコンピュータなのだから仕方がない。しかし、ゲームとはそういうものだと思ってほしくないし、世の中とはそういうものだと思ってしまうと、それはもっと問題である。
ゲーム世代の人々が好む小説やマンガを見てみるとよくわかる。こうした小説やマンガの登場人物には、自由意志が感じられず、あらかじめ与えられた性格や目的などの設定に沿って動く機械のような存在である。そして、そうした設定がなされていない一般の人は、無個性で何もしないまったくの無能な人として描かれている。
そもそも、ゲーム世代の人自体が、自由意思を失った機械のような存在である。目的を与えると、最適な行動を計算して実行する機械だ。だから、自由意志を感じられない登場人物にも違和感を感じないのかもしれない。人間はそれで当然だと思っているのではなかろうか。
彼らは、無意識のうちに、ゲームのプレイヤーに相当する人とそれ以外を区別する。物語の言葉で言うと、メインキャストとそれ以外である。メインキャストとは、自分の目的を最大限に発揮するために自由な行動ができる人であり、それ以外の人は、自分からは何もせず、無能で、言われた通りのことしかできない人だととらえている。後者も、実際のところは別の行動原理であるとはとらえていない。ただ、「何もしない」というのを目的として行動しているのだと解釈している。
ゲーム世代の人間には、すべての人が自分と同じような思考能力や感情を持つことを仮定していない。主な登場人物以外は、能動的に動くことをせず、ただ受動的にルールに流されるだけの存在だと思っている。そして、主な登場人物でさえ、彼らに与えられた目的に従って動く機械だと思っている。彼らどこか冷酷な印象を受けるのは、このせいだ。
ゲーム世代の人間は、目的を与えられないと、行動が決められない。逆に、目的が決まると、行動が決まってしまう。そこに自由な意思が介在しないことが、大きな問題である。
困ったことに、彼らは「目的」を自分で決めることができない。なぜなら、彼らにとって、自分で「決める」ということは、様々な解の候補の中から、ある目的を一番良く果たすものを計算して選び出すということだからだ。自分というものをこのような機械であると考える限り、与えられたことしか考えられない。
彼らは、外から「押し付け」られる様々な価値観に反発し、「価値観を押し付けてはいけない」と言う。なぜなら、彼らは基本的に価値観、言い換えれば目的を持っていないからだ。そして、彼らの行動原理では、それはどうやっても自分で作り出すことはできないし、押し付けられたらそれを拒否することができない。だからこそ、価値観の押し付けが恐いのである。自分の頭のメモリに無理やり上書きされて、自分がそれに従うロボットになってしまうからである。自分の判断で従ったり従わなかったりできるような柔軟さを持ち合わせていないのである。
彼らは、いったん目的を設定してしまうと、その目的を果たすためにはなかなかの能力を発揮する。それには理由があって、その目的以外の様々なことを無視してしまうからである。普通の人なら、ある目的を設定しても、そこに書かれていない様々な問題について考える。例えば「金を稼げ」という目標を掲げても、「それで信用を落としたらダメだしなぁ」とか「他人を騙してまではやりたくないなぁ」と考える。そういう無意識の縛りがなく、ひたすら目標だけを考えるから、パフォーマンスがいいように見える。
しかし、他の事を考えないというのは、柔軟性の欠如につながる。これは、彼らが世界のルールを固定的に考えていることも関係する。ある目標に向かってひたすら最適な行動を繰り返していたら、いつの間にか目標もルールも変わってしまい、泣きを見ることになる。あわてて目標とルールを再設定して走り出しても、またそのうちそれらが変わってしまう。
彼らは、彼らの行動プログラム上当然の帰結として、自らの目的を自分で操作することができない。しかし、目的がないと行動できない。彼らは目的自体を自分で評価することができないので、原始的で動物的なものを自分の目的として置き、それ以上のことは考えない。
動物的な目標とは、「楽をしたい」「セックスしたい」「おいしいものを腹いっぱい食べたい」というようなものだ。人間がこうした目的を持つのを当たり前のこととし、それ以上の何かを目的に置こうとしない。そして、他人もそうであるということを仮定している。
彼らは、「人間は楽をしたい生き物であり、そうでない人はいない」と主張する。幼稚で底の浅い考え方である。しかし、彼らはそれ以上の目的がインプットされるのを拒否するので、仕方がない。そしてそれは必要でもある。もし、彼らが与えられた目的を何でもインプットされてしまうとしたら、「死ね」という目的をクソ真面目に遂行してしまうかもしれないのだ。
彼らは、他人も自分と同じような機械だと思っていて、自分の目的のために他人の目的をインプットしようとする。あるいは、他人がそういう目的で自分の頭に目的をインプットしようとしているのだと思う。他の人はそういう機械ではないということがわからないのだが、そもそもそういう機械には自由とか人間性といった概念を理解することができないのだから、ある意味仕方がない。
こういう幼稚な人間に対して、人は嫌悪感を覚える。ただ幼稚だから困るのではない。幼稚な状態で安定してしまい、変化することができないことが困るのである。悪い状態なのだが、もはやどうしようもない。だからこそ、人は嫌悪することしかできないのである。
ゲーム世代の世界観は、端的に言うと視野が狭い。ここでいう視野の狭さは、量的な問題ではなく質的な問題だ。「自分の視野の狭さ」という問題が視野に入っていないので、視野が狭いのである。
彼らは、確実なことしか考慮に入れることができず、不確実性に対処することができない。本当に確実なことしか考慮に入れないとなると何もできなくなるのだが、幸いなことに、彼らは自分が確実だと思っていることは実は確実ではないということを知らない。そのため、何とかやっていける。
視野が狭いせいで、セカイ系に陥りやすくなる。自分の身の回りと、テレビなどで得られる世界の頂点の情報は取得できるが、その間にある様々な事を自分の力で補間することができない。自分が知らないことについて、どう補間すればいいかがわからないからだ。「世界」というものを、既知のルールに従って動く一個の機械として考えてしまっていて、物事をすぐ、自分と世界との対立という構図で考えてしまう。自分の他に、自分と同じように自由に行動するたくさんの人がいるということを忘れてしまう。
彼らは、様々なことが見えていないにもかかわらず、自分に必要なことはすべて見えているつもりでいる。もちろん、彼らが「自分は世界をすべて知っていると思っている」と主張するつもりはない。そうではなく、「自分は知らなくても問題はない」と思っているのが問題なのだ。自分に必要なことはすべて知らされるべきであり、自分が必要なことを知らないとしたらそれは自分が悪いのではなく、知らせなかった相手が悪いと思っている。情報は向こうからやってくるのが当たり前であり、行動しないと取得できないものだとは思っていない。
彼らは、本質的に無責任な存在である。なぜなら、自分の意思で何かをすることができないからである。彼らの行動はすべて自動的なので、その行動の責任はそういう状況をつくった外部にあるのだ。だから、知ることに対する欲望、逆に言えば知らないことに対する恐怖がない。
自分で知らないことを積極的に勉強したり、できないことをできるようになりたいと思っていない。できないことはできないままでいいと思っているし、知らないことを無理に知る必要もないと思っている。そして、自分の行動の結果を他人のせいにする。できることとできないことを事前に線引きしてしまって、できないことをやろうとしない。いや、本当はそれはできないことではなく、ちょっと頑張ればできるはずのことなのだが、自分にはそれはできないと思い込んでいるのだ。
ゲーム世代の大きな問題は、変化への適応力や柔軟性に乏しいところである。すべてが厳密に決まってしまっている世界ではやっていけるが、ちょっとでも異変が起きるとすぐダメになってしまう。ゲーム世代はよく「リスクをとる」という言葉を口にするが、実際はリスクを考えず無謀な賭けを行っているだけだ。それは、今の状態が変化するという見えない可能性を無視しているからできることである。
ゲーム世代的な世界観を肯定する人は、そこには重要なものが抜け落ちていることを意識してほしいと思うわけである。