ゲームは、よく批判のやり玉にあげられる。ゲーム脳とか、現実と虚構の区別がつかなくなるとか。そういった批判は確かにいい加減ではあるものの、「よく知らない人が適当に何か言っているだけ」ではないし、時代が変われば無くなるものでもない。昔はTVが同じように批判されてきたが、その批判は間違っていたわけではない。みなTVを見るようになったため、「TVに対する批判」が「現代人に対する批判」に変わっただけだ。「ゲームをやると現実と虚構の区別がつかなくなる」というのも、実はこの過渡期にあるのではないかと私は見ている。
ゲームにはいろいろあるから、ひとまとめに語ることはできない。ゲームには良い面も悪い面もある。そんな当たり前のことは了解の上で、何を批判されているのかを考える必要がある。最後まで読むとわかるが、ただ「ゲームは悪くない」を繰り返すことは、それ自体が批判の正当性を証明していることになる。
前置きはいいとして、今回は、なぜゲームをやると現実と虚構の区別がつかなくなるのかを考えてみることにする。なお、ここで「ゲーム」という言葉はビデオゲーム一般を指す。
この問題は、ゲームが現実のモデル化・抽象化であることを考えれば分かる。ゲームは、現実を様々なことを抽象化・単純化し、数値とその操作に置き換える。こんな「ゲーム」で、物語を語ろうとすると問題が起きる。対象とする世界が違うからである。
ゲーム内の現実と、それを俯瞰して抽象化するゲームの機構がごちゃ混ぜになってしまう。ゲーム内で、村人が「攻撃するにはAボタンを押すのだぞ」と言う。村人が見ている世界には、Aボタンなんてものはないのに。
ゲーム内の現実にないのは、Aボタンだけではない。ヒットポイントも、マジックポイントも、攻撃力も防御力もない。ゲーム内で、村人や店の人がこれらの言葉を使うのは、現実とそのモデルの区別ができていない証拠である。本来、店の人は「この薬は一口飲むと気分が落ち着いて頭が冴えてくるんだ」とか何とか言っているはずで、それをゲームの言葉に翻訳したものが「この薬を飲むとマジックポイントが回復」であるはずなのだ。
ゲームのプレイヤーは、自分の頭の中でゲームの言葉を、ゲーム内での現実の言葉に翻訳しながらゲームをする。Aボタンを押すとゲーム上のキャラクターが剣を一振りするからといって、それは本当にゲーム内現実での剣の一振りに相当するとは限らない。本来、それは剣を構えて敵との間合いを取ったり、フェイントをかけたりする一連の行動の結果として表示されるものだ。Aボタンを押してダメージが与えられたり与えられなかったりする一連のメッセージを見て、プレイヤーは何が起きたのかを想像する。
ゲームの画像表現が向上すると、こうした想像力を働かせる余地が無くなってしまう。ゲーム内世界でも画面で見たままのことが起きていると思ってしまい、そこに省略があることを忘れてしまう。ゲーム機が提示する表現とゲーム内現実の間にある「自分の想像」という段階が薄くなり、だんだん意識しづらくなる。これが、現実と虚構の区別をつかなくさせるはじまりである。
ゲームにおける「現実と虚構の区別」という言葉は、その辞書的意味はともかくとして、ゲーム内現実とゲーム内容の区別の問題であると考えると、問題ははっきりする。
もともと、ゲームというのは記号と数値のやり取りでしかない。Aボタンを押すと、キャラクターのX欄の数値に比例して相手のY欄の数値が減る。しかし単なる数値ではわかりにくいから、X欄に「攻撃力」、Y欄に「ヒットポイント」という名前をつけ、Aボタンに「攻撃ボタン」と名前をつける。これによって、抽象的な数値のやりとりを、現実的なイメージとしてとらえることができるようになる。
記号と数値のやりとりを「ゲーム内容」、それに対する現実的なイメージを「ゲーム内現実」と呼ぶことにしよう。ゲーム内容は抽象的すぎて人間にはわかりにくい。それをわかりやすくするためにゲーム内現実がある。そして、ゲーム内容をゲーム内現実に即した形で提示するのが「ゲーム的表現」である。
例えば、FPSでは、自分も含めた動く的があって、それを射つというのがゲームの内容である。ただ射つのではつまらないから、障害物を設けたり、射ったときのダメージを違えたりする。この時点では、まだ幾何学的な数値でしかない。それをわかりやすくするために、標的を人間にしてみたり、フィールド上に家や壊れた自動車を配置したりする。これがゲームの表現であり、それによってゲーム内現実が生まれる。
ゲーム内現実は、ある意味何だっていい。ゲームの画面上の敵は、別に人間でなくたって、ゾンビでもモンスターでもロボットでもいい。こう言うと、「じゃあ敵は全部丸とか四角でもいいのか?」なんて言う奴がたいていいるが、そういう奴はジオメトリウォーズをやってみろ。
というのは冗談として、グラフィックがきれいで中身も面白いゲームが一番いいから、みなグラフィックに凝っているのだ。グラフィックがきれいなだけで中身がないゲームよりは、敵が丸とか四角で面白いゲームの方がいい。重要なのは、ゲームはもともとゲーム内容で遊ぶものであり、ゲーム内現実はゲーム的表現をわかりやすくする補助的なものでしかないということだ。
例えば、残虐なゲームがもたらす「現実と虚構の区別がつかない」という問題について考えてみよう。敵兵士を銃でバッタバッタとなぎ倒すFPSをやっていることを考えてみる。自分が今やっていることに対して、人が頭を撃ち抜かれて倒れているというゲーム内現実をきちんと想像できるだろうか。
そんなことをいちいち想像してたら、とても心がもたない。FPSはあくまでゲームであって、画面上に人が描かれていたとしてもそれは単なるデータに過ぎないのであり、良心の呵責など感じずにバンバン撃ち殺してしまうものである。もともと人間という表現は「射つべき的をわかりやすくしたもの」でしかない。
これは、「人間を銃でバッタバッタと撃ち殺すような残虐なゲームでも、それを丸や四角と同等に認識していれば問題はない」という結論ではない。問題は、残虐表現があることではなく、残虐表現を好むことだ。表現にこだわっているということは、ゲーム内現実とゲーム内容の区別がついていないということだ。数値の世界での単なる的には興味を示さず、残虐表現に興味を示すことが問題なのである。
本当にゲーム内現実とゲーム内容の区別がついている人なら、つまり「これは現実じゃなくてゲームだからいいんだ」と考えている人なら、別に残虐なゲームでなくてもいい。ゲームに残虐表現があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい。わかりやすくて、やってて違和感を感じないかどうかだけが問題だ。敵が人間でなかったり体がすぐ消えてしまったりするとどうも違和感を感じるから、結果として人間をバッタバッタと撃ち殺して死屍累々というゲームになってしまっている。つまり、残虐表現は目的ではなく結果だ。
ゲームの表現は、ゲームに使用する情報をすっきりと提示して、変に目立つことがないようにする、いわば空気のような存在だ。最近のリアル指向のFPSを見てみるとわかる。一昔前のゲームでは、変な影や作りものっぽい煙が目立つ。技術の進歩は、こうした違和感を減らすように努力をしている。一見してどこにも「なんだこれは」と思わず、特別なものを何も感じさせない画面こそが、ゲーム画面の一つの理想である。
つまり、ゲームの表現というのは、それがあるからプラスになるようなものではなく、それが不十分であることによるマイナス点を減らすためのものである。表現が何らかの重要性を持ってしまっては、それはゲームではない。
ゲームの内容とゲーム内現実の主従関係が逆転しつつある。ゲームの面白さではなく、画面のきれいさやストーリーなどに重きが置かれつつある。感動的なストーリーのムービーを見せたいなら、わざわざゲームなんかにせずDVDにすればいいのに。
ストーリーを見せる手段としては、ゲームは不適切だ。プレイヤーの自由度があるからだ。現実をある視点で切り取るからこそ、そこを濃密に描けるわけだ。どこから見られるかわからない場合、すべての場合において何かを用意しなければならない。プレイヤーが何をしてもまともな反応が得られるゲームを本気で作ろうと思ったら、会社をゲーム機ハードから撤退させるくらい傾かせることになる(そして結局失敗する)。だから、ほとんどの会社は、「プレイヤーは何をしても自由」と言いながら実際には全然自由じゃないインチキゲームしか作らない。
ゲームは本来、こうした問題を抽象化で乗り越えるというアプローチをとる。おおまかな法則だけを設定して、細かい部分はすべてその法則から導き出すというやり方だ。こういうゲームでは、すべての反応は自動的に生成され、毎回違ったストーリーになる。これは、マルチエンディングという話でもなければ、ストーリーの自動生成という話でもない。ストーリーというのは、状況を見てプレイヤーが勝手に感じるものであって、ゲームが作るものではないのだ。
Civilizationのような戦略ゲームを考えてもらうとわかるだろう。このゲームは、それぞれの国が同じような立場でそれぞれ自分の担当する国家を建設していく。そこには決められたストーリーはない。しかし、ゲームを進めていく途中で、どこかの帝国がいきなり裏切って攻めてきたり、敵の帝国の重要拠点を少数精鋭部隊で陥落させるために陽動作戦を起こしたりというように、そのへんのRPGでストーリーとして語られるような状況が生まれる。
ゲームは、筋書きのないドラマである。それは、現実が筋書きのないドラマであるのと同様だ。筋書きがあるようなものは、ゲームではない。筋書きがあるということは、結末が決まってしまっているということなのだから。自分の行動が結末に影響を及ぼすからこそ、行動を考える意味があるのだ。
ストーリー部分を本当に「ゲームではない」と割り切るならば、それはそれで問題はない。事実、RPGなんかではゲーム部分とストーリー部分は相互にほとんど関連がないから、ゲームに勝つごとにご褒美ムービーが見られる脱衣麻雀の変形だと思えばいい。なんだかなぁとは思うが、実はムービーが見たいのではなくてゲームの勝利に対するインセンティブを上げているのだと思えば、まあわからなくもない。
本当の問題は、ゲームの内容によってストーリーが変化することにある。言い換えると、プレイヤーがストーリーを自分で作ることにある。これと本物のゲームとの違いは、ゲームをクリアすることではなくストーリーを求めていることであり、自分の求めているストーリーを得るためにゲームを操作するという点である。
本物のゲームの場合は、自分の行く手には困難が待ち受けていないと面白くない。しかし、ストーリーを求める人は、自分の求めるストーリーが手軽に得られる方がうれしい。難しいゲームは敬遠され、自分が予定していた通りの展開になるゲームが望まれる。どの選択肢をとるとどんな展開になるかもわかっていて、自分の好きな展開になるように自由に選ぶことができる方がいい。
多くのビデオゲームの世界には、意思を持って能動的に動く存在がプレイヤー一人しかいない。プレイヤー以外の様々な要素は、振舞いが単純で予測できるものばかりであり、プレイヤーがその振舞いを利用して自由に操れる。そのゲーム内には、意思を持った人間は一人しかいなくて、それ以外のものはすべてその人間に利用される道具になっている。こんなゲームで、自分がゲーム世界の神となって、ゲームに出てくるキャラクタを好きなように操って、自分の望む世界を作り出していくようになる。
自分が頭に思い描く「自分の求めるストーリー」を、ゲームが「ゲーム内現実」として提示してくれるようになる。これは、いわば「自分が見たいものを見せてくれる装置」である。自分が見たいものだけを見て、見たくないものからは目をそむけ、都合の悪いものは存在しないものとして過ごしたい。そんな願望を持つ時点で、普通の人は「おいおい、大丈夫か?」と思うわけである。そういう心理がわからないというわけではない。そういう心理がわかるからこそ、そしてそれを続けるとどうなるかもわかるからこそ、そうならないように気をつけているのだ。
プレイヤーの操作が、ゲームをクリアするためではなく、ゲーム内現実を変えるためになってきてしまっている。ゲームの究極の目的である「クリア」より、自分の好きなキャラクターを作り、自分の好きな相手と好きな物語が展開されることを目標にする。自分の脳内の世界をゲームの中で実現しようとする。
自分の脳内にしかないものが現実の行動を左右することに、人は言いようのない違和感を感じる。これは、大の大人が等身大美少女フィギュアに名前をつけてかわいがる事に対するのと同質の違和感だ。この違和感の根本は、エロとかセックスといった話にあるのではない。もっと奥深く、「現実」というものの認識の欠如にある。「世界は自分がどう考えようと無関係に厳然としてそこにある」という客観的な現実認識が崩れて、自分の認識によって世界が変わってしまうようになってしまう。それに対する違和感だ。
本人がどれだけ愛情を注ごうと、目の前のフィギュアはモノでしかない。どれだけMMORPGでお金を稼ごうと、それは単なるデータでしかない。これはある意味当たり前ではある。しかし、この当たり前なことを否定してしまうと、それはそれで矛盾のない体系を作れてしまう。現実に対するこだわりを捨てれば、目の前のフィギュアは現実の誰よりも愛すべき完璧な美少女になるし、キャラクターの持っているお金は預金通帳の数字より意味を持つようになる。そして、いったんそうなってしまうと、それを外の人間が否定することはできなくなり、自分の思い込みが作った閉じた世界にいつまでも留まることになってしまう。
そして、自分の思い込みの世界と外の世界に違いがあると、外の世界の方を自分の世界に合わせて修正しようとする。これはまさにゲームでやっていることだが、それを現実の世界でもやろうとする。しかも、その本来不可能なことがある意味可能なところが恐しい。相手が認めるまで自分の脳内世界の主張を繰り返し、相手が「認める」と言いさえすれば、本当に認めていなくても主張をやめる。彼らにとっては、見えなくなったらそれは無くなったということだから、彼らが思っている「現実」が修正されたことになる。実際は外の世界の情報が入ってくるルートを一つ潰しただけのことなのだが、自分では外の世界が自分の思い通りに変化したと思っている。
映画や小説などのメディアでは、誰かが一方的に作ったものを受け取ることになる。そこに描かれている虚構は、誰か他の人の頭にある虚構だ。しかし、ゲームでは、プレイヤー自身の頭にある虚構をプレイヤー自身が操作してゲーム内に作り上げることになる。すべてが自己完結してしまうからこそ、恐いのである。
さて、そろそろまとめるとしよう。ゲームというのは、もともと記号と数値の世界であるゲーム内容と、現実を模したゲーム内現実の2層構造になっている。プレイヤーが楽しむ対象はゲーム内容であり、ゲーム内現実はその理解の助けであるに過ぎない。ゲーム内現実は、プレイヤーの頭の中に構築されたものでしかなく、それ以上の意味はない。
しかし最近では、ゲームの中でゲーム内現実の占める割合が大きくなってきて、ゲーム内容とゲーム内現実の逆転現象が起きている。ゲーム内容が面白いからゲームをするのではなく、ゲーム内現実(ストーリーやゲーム画面)を見たいからゲームをするようになってしまっている。
ゲームで特徴的なのは、内容をプレイヤーが操作できるという点である。プレイヤーは、見たい内容のものが見られるようにゲームを操作する。本来はがんばって操作してもなかなか自分の見たい内容にはならないからこそ面白いのだが、そういう困難さがないゲームでは、簡単な操作で見たい内容のものを見られるようになっている。その結果、視野が狭まり、見たいものだけしか見られないようになる。自分の見ている世界が自分の中で閉じてしまい、外の世界と隔絶されてしまう。
ゲーム内のキャラクターがいくらお金持ちになろうと、珍しい装備をしようと、あるいは魅力的な女性キャラクターとデートしようと、それはすべて虚構である。本当にそんなことを目的にゲームをやっているんだったら、わざわざゲームなんか買わないで、自分で紙切れに一億円札とでも書いてありがたがっていればいいのだ。(こう書いて、本当にやる奴がいるんじゃないかとちょっと心配になる。)
ゲームは虚構ではない。現実の世界で、プレイヤーは提示された情報を元に認識・判断してコントローラを操作し、困難を乗り越えて目的を達成している。ゲームをクリアしたのなら、それはまぎれもなく現実の世界で自分が成し遂げたことであり、大いに自慢していい。虚構の世界の出来事ではなく、現実の自分の行為に対して面白さを感じるのが、ゲーム本来の姿である。