今回は、前回の話の続きである。前回は、中身のわからないブラックボックスを言われた通りに使う話をした。
ブラックボックスは使い方が決まっていて、それ以外の使い方を「してはならない」とされている。しかし、「決まった使い方だけしていればいいのであって、間違った使い方をしなければ問題ないじゃん」で済むわけではない。そう思ってしまうような人は、規定外の状況になった場合に、どうすればいいのかがわからなくなってしまう。
例えば、電化製品のマニュアルにはたいてい、「異物を入れるな」と書いてある。しかし、異物は「入れる」ものではない。「入ってしまう」ものである。自分が入れなければ大丈夫と思っている奴はただのバカだ。
もし、ついうっかり小物を通気口から落としてしまったらどうするか。機械オンチでなければ、きっとネジを外して裏蓋を開けて、落ちてしまったものを取り出そうとするだろう。ここで、マニュアルに書いてある「蓋を開けるな」という禁止事項をもう一つ破ってしまうが、それによって問題をすぐ解決することができる。もしそれができなかったらどうするか?メーカーに電話し、製品を送って有償修理してもらうか?ドライバーを持っていれば数分ですむのに、何日もの時間と高いお金がかかってしまう。
ブラックボックスは、うまく動いているうちはいいが、何か少しでも予定と違うことが起きると、もうどうしていいかわからなくなってしまう。いくら「そんなことはしなければいい」と言っても、現実には起きてしまうものなのである。そして、いったん想定外のことが起きてしまったら、マニュアルに書いてあることをいくらやってもダメなのだ。
マニュアル通りのことはうまくこなすが、何か想定外の問題が起こるととたんに何もできなくなってしまう。これがいわゆる「マニュアル人間」である。マニュアル人間にとっては、きちんと定式化されて理解できるもの以外は、存在しないものになってしまう。
想定外の問題とはすなわち「リスク」である。マニュアル人間には、リスクの存在を認識することができない。リスクは想定外なのだから、存在を証明することはできない。論理でいくら否定されてもリスクは無くならない。なぜなら、リスクはすべての想定の外にあるものだから。
マニュアル人間ではないまともな技術者なら、「起きるはずのないことが起きる」のは日常よく目にしていることだ。そしてその度に、自分の想定の浅はかさを思い知らされる。その時には「起きるはずがない」と思っていたことも、原因を究明できてみれば「なんでこんなことがわからなかったのだろう」になる。人間の想定とか定式化とか理解なんて、そんな程度のものなのだ。
ブラックボックスをマニュアル通りに操作している人は、そうはならない。「起きるはずがない」とは思わず、「マニュアルが間違っている」とか「欠陥品だ」と思うからだ。自分の勘違いが発覚してさえ、「マニュアルの書き方が悪い」と人のせいにする。
責任逃れをするなと言いたいのではない。自分の理解を越えるものに対するセンスの問題だ。自分が「現実の世界だと思い込んでいるもの」は、常に現実の世界より狭い。自分の理解を越えるものの存在を認識し、起きるはずのないことを想像できるようになれ。
若者言葉の「ありえない」という言葉が、この問題を端的に示している。現実の世界と自分が思い込んでいる世界とで違いがあった時に、「ありえねー」と言う。彼らにとって、「自分が思い込んでいる世界」は、「現実の世界」と同じくらい確かなものなのである。自分の認識している世界が、現実の世界並みに確固としたものであると思ってしまっている。
対象を受け入れるかどうかを自分の世界の基準で決める。これではあべこべだ。対象を何でも受け入れられるように、自分の世界を広げていくべきなのである。
マニュアル人間には、マニュアルにすべてのことが書いてあると思っている。それが間違いのもとである。この世には、マニュアルに書いてないことも存在するのである。
マニュアルに「やってはいけない」と書いてなければ、やってもいいのだろうか?「通気口をふさぐな」と書いてなければ、通気口をふさいでしまってかまわないのだろうか?「火の中に入れるな」とか「水につけるな」とはたいてい書いてあるが、「油で揚げるな」と書いてなければ、油で揚げてもいいのだろうか?書いてなければ、水銀の中に入れようが、液体ヘリウムの中に入れようが、問題ないのだろうか?
あるいは逆に、「やらなくてはならない」と書いていないことは、やらなくてもいいのだろうか?「この製品が動作するには空気が必要です」と書いてなければ、真空中で動作しなければいけないだろうか?重力がないと動かない製品には、「重力がないところでは動きません」と書かないといけないだろうか?
もちろん、そんなことはない。マニュアルには、やってはいけないことをすべて書くわけにはいかないし、やらなければならないことをすべて書くわけにもいかない。ブラックボックスには、自分が意図的に入れている入力もあれば、意図していなくても入ってしまっている入力もある。たとえ自分が入れているつもりはなくても、空気や温度、振動などの入力を暗黙のうちに与えている。
マニュアル人間は、この「暗黙のうちに」が苦手だ。書いてあることしか見えず、自分が意識したことしか想定できない。
さて、全然違う話をしよう。「目には目を、歯には歯を」で有名なハムラビ法典を、日本では間違えて理解している人がいる。暴力には暴力で対抗するという野蛮な法だと思っている人がいる。それではこの法の本当の意味がわからない。
この法は、「たとえ目を奪われたとしても、相手の目を奪うだけで止めておきなさい」という意味だ。法律のなかった昔は、やられたらやり返せとばかりに報復合戦が無限に続いた。その無限の連鎖を断ち切るための法である。
日本では、法律というと「やってはいけないことが書いてある」と思っている人が多い。しかし、「目には目を」が意味するところは、そうではない。人の目を潰すのが悪いことくらい誰でも知っている。問題は、相手の目を潰してしまった時どうするかだ。法は、誰かが悪いことをやってしまった時の後始末のためのものである。
過去のことは何をやっても取り返しがつかないのだから、そんなことでいつまでも悩んでいても仕方がない。きちんと償いをして、それでおしまいにして、もうそのことはきれいさっぱり忘れる。法律は、何をしたらあとはもう忘れてしまっていいのかを第三者が決めてくれるものだ。しかし、日本人はなぜか忘れることが嫌いで、当時の感情をいつまでも引きずってしまう。
日本人は、「悪いことはやめましょう」と言うのは好きだが、誰かが悪いことをやってしまった時の後始末が下手だ。キリスト教には、告解(懺悔)という、悪いことをやった後始末の制度がある。日本では仏教がその役割を果たしていたが、今の日本にはそのシステムがほとんど残っていない。
日本では、いったん失敗すると復活が大変だとよく言われる。それは復活の制度がないからなのだが、単なる制度の問題ではなく、根はもっと深いところにある。
問題は、物事を「あっている」「間違っている」で判断することである。自分が出会った対象を、「あっている」「間違っている」の2つに分類して、それで満足してしまう。「あっている」とは、自分の持つ論理に適合するもののことを指し、「間違っている」とはそうでないもののことを指す。そして、違っているものは思考の外に追いやってしまう。
いったん「間違っている」としてしまうと、それ以上何ともできない。間違っているものを間違っていると言ったところで、間違っているもの自体が無くなるわけではない。「だから何だ?」と言われると、何も言えなくなってしまう。
「あっている」とはつまり、既存の社会システムの上に乗っかっていることである。つまり、自分が「既存の社会システム」というブラックボックスに対して、社会のルールで規定された入力をしているということだ。規定された入力をしている限り、生活が保証される。
しかし、システムを外れた入力をした場合にどうなるかがわからない。「決められた入力しかしなければ大丈夫」というのは、万が一決められた入力がされなかった時のことを考えていない。いったん「正しいこと」の範囲から外れるようなことをしてしまうと、もはやシステムの範囲から外れ、何が起きても文句を言えないことになってしまう。
もしブラックボックスが電気製品みたいなモノだったら、故障したら修理に出すなり新しいのを買うなりすればいい。しかし、それが、変えることも捨てることもできない「自分のいる環境」だったとしたら、とても恐しいことだ。いったん間違った入力をしてしまったら、修理に出して元通りというわけにいかない。だからこそ、間違った入力を恐れるのである。
ブラックボックスに慣れてしまう恐しさとは、自分の今いる社会(あるいは「現実」)がブラックボックスと化してしまうところにある。決められた通りのことが続いているうちはいいのだが、いったん問題が起きるともう何もできなくなってしまう。そこで初めて、「決められたルールを守れない奴はバカだ」と簡単に言っていた自分の愚かさに気がつく。
マニュアル人間は、新しいこと、変わったこと、今までにないことを恐れる。どうしていいかわからないからだ。どうしていいかわからないものは「間違い」と呼んで無視する。これでは、世の中は停滞してしまう。
正しいか間違っているかではなく、問題が何でそれをどう解決するかを考えよ。解決のためにしなければならないことをする。もしかしたら、解決しないという選択になるかもしれない。すべてのことを問題と解決のバランスで考えないと、そのうち自分が何をしているのかがわからなくなってしまう。