だいぶ前のことだが、「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」という問いが話題になったことがあった。今でも、たまにガキがこんな問いを投げかける。最近は大人がみんな物わかりが良くなってしまって、それに対してなんとか説明をしようとする。きっと昔なら「そんなことは常識だ!」と怒鳴られて、「そんなくだらん事考えてないで宿題をやれ」で終わりだったろう。
もちろん、後者の対応はまともな議論とは言えない。しかし、本当は後者の対応の方がガキのためには良い。
なぜ「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」と問うてはいけないのか。これは自分で答えを出すべき問題だからである。答えを知ることが重要なのではなく、自分なりに理由を考えることが重要だからである。だから、正確には、「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」と問うところまでは問題ない。それを他人に質問するから問題なのだ。自分で答えを出さなければ意味がない。
こういう質問を他人にするガキは、答えが出てこないと「なんだ、人を殺すことは悪いことだと皆は言うけど、そんな決まりはないんだ。本当は人を殺すのは悪いことじゃないんだ」という答えを出してしまう。自分でした問いの意味を忘れてしまっている。「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」と問うたはずだ。人を殺してはいけない理由を問うたのだから、「人を殺すのは悪いことじゃない」というのは答えになっていない。この質問では、「人を殺すのは悪いこと」というのは前提条件なのである。
こういう質問を他人にするということは、この前提条件が抜けてしまっているということだ。だから問題なのである。自分では、人を殺すのがいい事なのか悪い事なのかが判断できない。だから理由を聞く。そういう態度でいる限り、これは問題である。問題なのは質問をすることではなく、人を殺すのは悪いことかどうかすら人に聞かないとわからないところである。
「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」という質問は、「なぜ私は人を殺すのは悪いことだと思うのだろう?」という質問と同義だ。これは自分についての問題だから、自分で答えを出すべき問題だ。もちろん他人の意見を聞くのは答えを出す上でためになる。しかし、最終的に答えを出すのは自分であり、自分にしか答えは出せない。自分のことだからだ。
そして、もしこれが同義でないのなら、同義でないことそのものが問題だ。つまり、人を殺すのを悪いことだと思っていないことそのものが問題なのである。
例えて言えば、「唐辛子は辛い」というようなものだ。「なぜ唐辛子は辛いか」という質問には、唐辛子の成分が云々とか、人間の舌の構造がどうこうという話をする。しかし、究極のところ、「なぜ舌がそういう刺激を受けると『辛い』なのか」という問題に行き着く。これは問いがあべこべだ。舌がそういう刺激を受けると「辛い」と思うのではなく、そういう刺激のことを「辛い」と名づけたのである。だから、「唐辛子は実は辛くない」という答えはあり得ない。
しかし世の中には何でも例外があるもので、舌の感覚がマヒしてしまっている人も中にはいる。そういう人にとっては、唐辛子は辛くない。でも、そういう人がいるからといって「唐辛子は辛くない」が正しくなることはない。
唐辛子が辛いか辛くないかは、舌の感覚がある人とマヒしてしまった人の力関係で決まると思ってしまっている人がいる。それは間違いだ。いくらほとんどの人の舌がマヒしてしまって、唐辛子は辛くないと思う人が大多数だったとしても、やはり唐辛子は辛いのである。舌の感覚がマヒしてしまった人は、味がわからないのだから、その人がいくら「辛くない」と言ったところでそれは正しくない。
「舌の感覚がある人とマヒしてしまった人」と書いたが、何が「感覚がある」で何が「マヒ」なのか。これがわからない人もいるが、本当はそう難しい話ではない。唐辛子を食べて何かを感じたら「感覚がある」であり、何も感じないとしたら「感覚がない」である。「何か感じる」と主張する人に、「いいや俺は何も感じない。感じる方がおかしいんじゃないか」と言っても、自分の感覚がマヒしてしまっていることが露呈するだけである。
本当に難しいのは、唐辛子を「甘い」と感じる人が現れた時だ。そんな時はどうしたらいいか。まずすべきことは、その人の「甘い」が、本当に自分の「甘い」と同じなのかどうかを確かめることだ。
「甘い」とか「辛い」というのは、結局のところ、感覚につけた言葉に過ぎない。「唐辛子は、カレーや胡椒や塩みたいに甘い」と感じる人は、単に言葉の使い方を間違えているだけだ。だから「ああ、君が甘いと言っている味のことを、僕らは辛いと呼んでいるんだよ」で済む。
食べ物の中には、食べた時同じような味を感じるものがある。もちろん味はそれぞれ微妙に違うが、そこに大まかな共通点を感じる。そして、そこに「辛い」という名前をつける。名前のつづり自体は重要ではない。そこに共通点を感じることが重要なのだ。
唐辛子を食べて砂糖と同じような味に感じる人がいたら、本当に難しい話になる。その人にとっては、「唐辛子は辛い」というのは間違いで、「唐辛子は甘い」というのが正しいということになる。では、「唐辛子は辛い」というのは間違っているのか?「唐辛子は辛い」というのは一般的的な事実ではなく、「それは人によって違う」というのが正しい回答なのだろうか?これに対しては、こういう回答をする。「唐辛子を食べて砂糖と同じような味に感じる人はいない。だから、唐辛子は甘いというのは間違いである」と。
「唐辛子は辛い」が一般的なものではないことを示すには、唐辛子を食べて砂糖と同じような味に感じる人を見つければいいのか。話はそう単純ではない。何事にも例外があるからだ。そういう人がもしいたとしても、「それは例外です」で終わりだ。
とすると、「例外とは何か」という問題にぶちあたる。普通であるか例外であるかはどうやって見分けるのか。それは、問い自体に答えがある。「〜を見つける」と言った時点で、それは例外だということを自ら証明している。例外でなければ、わざわざ見つけようとする必要はないはずだからだ。
つまり、「唐辛子は辛い」に対して反論しようとして、「いや、××の場合には」とか「○○の人にとっては」と言っても、それは全然反論になっていない。それらはすべて例外である。条件を限定している時点で、言っている本人が自分で「これは例外です」と言っているのだ。
結局、「唐辛子は辛い」というのは、自分がそう思っていて、それが一般的であると思っている限り、正しい。「一般的」というのは、「特別な理由が何もなければ」という意味である。それに対していかに理由をつけて「そうではない場合もある」と反論しようと、そこに理由がある限り、それは例外でしかない。
「一般的」というのは、単なる数の問題ではない。たとえ多くの人が「唐辛子は辛くない」と言っても、彼らに唐辛子を辛く感じない特別な理由があるなら、それは例外である。「一般的」というのは、理由の問題である。理由を何もつけずに言えるということが、「一般的」ということなのである。
「一般的」ということを崩すには、いくらそれを否定をしても無駄だ。どんな反例を用意しようと、それが一般的であることを否定することはできない。例外が増えるだけだ。もちろん、あまり例外が多すぎると「なんだ、例外だらけじゃないか。まったく使いものにならない」ということになるかもしれないが、使いものになるかどうかは使う人が決めることである。いくら使いものにならなくても、正しくないわけではない。
そうではなく、一般的なことに対して理由を説明することこそが、それが一般的なものではないということを証明することになる。それによって、一般的だと思われていたものは、もっと一般的な何かの特殊ケースだということになるからだ。
さて、「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」に戻ろう。問題は「悪いこと」という言葉の解釈にある。これを「やってはいけない事」という意味にとるのは間違いだ。悪いことは悪いこと。盗みや嘘といった行為とどこか共通する点があるということが、「悪いこと」だということである。やってはいけないことだから悪いことなのではなく、悪いことだからやってはいけないのである。
「人を殺すのは悪いことだとは思わない」というのは、ただそいつが鈍感なだけだ。これは頭で理解するのではなく心で感じる問題だから、本当にそれが感じられないのであれば、もうどうしようもない。10次元の世界を実感できないように、善悪を実感できないのだ。自分には感じることのできない感覚の話をしているのだということを理解し、他人がどう言おうと一切口を出すな。
同じように実感できない人の意見をいくら持ってこようと、それを実感できていないことに変わりはない。これは数の問題ではない。そして、人を殺すのが悪いことではない理由をいくら述べても無駄だ。これは理由の問題でもない。この問題の主題は、「人を殺す」というところにあるのではない。「悪」という概念の定義の問題なのである。
繰り返しになるが、これは言葉の定義ではない。「悪」という言葉を辞書でひいて、そこに書いてある文章を丸暗記すればいい問題ではない。食べ物の味をいくら言葉で伝えようとしてもうまく伝えられないように、悪という概念もまた言葉ではうまく伝えられないものである。伝える努力をするなというわけではない。伝えられなくてもおかしくはないと言っているだけだ。
この質問の答えは言葉で伝えられる類いのものではない。だから、自分で考えなくてはいけないのだ。自分で考えて言葉にすることに意味があるのであって、その言葉を人から聞いておしまいでは意味がない。
「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」という質問にきちんと答えることは、「人を殺すのは悪いことだ」という常識の否定につながる。なぜならば、それ自体が常識なのではなく、それ以外の常識から導かれたことにすぎないということを示すことだからだ。それはつまり、「人を殺すのは悪いことだ」というのは、常に正しいことではなく、ある前提条件が正しい時にしか正しくないということである。そしてそれは、常識にとらわれないで考えるためには重要なことである。
結論。「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」と質問するガキには、「そんな質問するな」ではなく、「そのくらい自分で考えろ」と答えよ。そして、「なぜ人を殺すのは悪いことなのか、自分で考えてみた」と言えるようになったら、ほめてあげよう。自分で考えようとしない人に説明をするのは、グルメ番組のリポーターが超高級料理の味を説明するのと同じくらい、意味のないことである。
ついでなので、別の話も少ししよう。「一般的」の話である。
上で私は、「唐辛子を食べて砂糖と同じような味に感じる人はいない」と書いた。本当か?と聞かれても、「本当だと思う」としか言えない。証明しろと言われても、証明はできない。そもそも、「同じような」というあいまいな言葉が含まれている時点で、厳密な証明などできるはずがない。
それでもあえて理由を問われれば、「同じ人間だから」と答える。同じ人間なんだから、同じように感じるはずだ。他人の感情を知るには、ここを出発点にしない限りどうしようもない。
もちろん、同じように感じないこともある。しかし、それは「例外」である。例外とはつまり、感じ方の違いには特別な理由があるということだ。それは経験の違いだったり、個性だったりする。しかし、その理由を知れば、双方とも同じ原理に基づいていることがわかる。それによって、違っているように見えるところでも、より深いところは同じであることを発見する。
たまに、この「同じ人間だから、同じように感じるはずだ」という原則を認めない人がいる。自分の感じたことを一般的だと思うことができない。そういう人は、他人の感情を考えることはできない。「原理的に不可能」で終わってしまう。感じ方に違いがあった時には、「人間は誰しも感じ方が違って当たり前」で終わってしまう。そこで終わってしまうために、そこから先へ進むことができない。
人が言ったことを正しいとも間違っているとも思わないのは、わからないのと同じである。わからないのにそれ以上何もしないのは、無視である。つまり、「感じ方は人それぞれだから」というのは、相手の言ったことを無視したのと同じである。時には無視も必要ではあるが、無視であることは自覚しろ。