自由と意思

自らの意思を持たない人々

以前、自由と責任の話をした。「意思」という言葉も、この2つの単語と深い関係にある。自由のもとになるのが自分の意思である。自分の行動を自分の意思で決めることができるというのが、自由であるということだ。

責任とは、自分の意思で決めた行動だということである。無責任であろうとするには、自分の自由を否定すればよい。その行為が自分の意思で行われたものでなければ、そこには責任がない。そうやって責任から逃げ続けると、だんだん自分の意思が無くなってくる。

自分の意思が無くなると、自発的な行動ができなくなる。外界の状況に応じて自分を合わせていくだけの、受け身の行動しかできなくなる。「〜しなければならない」という理由で行動し、「〜したい」という理由で行動しなくなる。そのうち、自分がやったことが自分がやったことだと認識できなくなる。自分と外界の境目がなくなり、自分が無くなってしまったような感じになる。自分が何かに動かされているような、自分が自分のものではないような感覚に陥る。

自分の行動がルールと条件反射によって決まってしまっている、ロボットのような人間がいる。そういう人は、人間は皆そういうロボットのようなものだと思っているから、それが問題だとすら思わない。問題だとすら思わないところに本当の問題がある。


自由とは「やりたい事が何でもできること」だと思われている。しかし、テレポートしたり空を飛んだり身長100メートルに巨大化したりすることができなくても、誰も「だから自由ではない」とは言わない。もともと不可能な事は対象外だ。

とすると、自由とは「やりたい事のうちできる事は何でもできること」となる。これはトートロジーだ。結局、「自由」という言葉の焦点は、「何でもできる」というところにあるのではない。「やりたい事」にある。できる事がいくつもある中で、どれか一つを「やりたい」と思うことが、自由であるということなのである。

では逆に、どうなってしまうと自由でなくなるのか。「やりたい事」がどれも現実にはできない事である場合は、自由でない。例えば、つき合っている相手がいなければ、「女の子とデートしたい」と思ってもできないわけだ。だから、相手がいないのなら、「デートしてくれる女の子を見つける」でなくてはならない。「やりたい事」は、自分がやろうと思っただけでできる事でなくてはおかしい。

「やりたい事」を自分のできる事の中から選ばないと、できる事がいくつもあるのに、どれもやりたくないと思ってしまう。仕方なく、どうしてもやらなくてはならない事だけをやる。これは、やる事を自分で決めていない。だから自由ではない。


そう考えると、自由でない状態、「やりたい事ができない状態」というのはあり得ない。やりたい事ができないのが問題なのではなく、できない事をやりたがるのが問題なのだ。人間は、できる事しかできない。この当たり前の事実を忘れてしまっているのが問題なのである。

例えば、深夜残業でフラフラになっている人に、「今やりたい事は?」と聞いたとしよう。それに「今すぐ家に帰ってぐっすり眠ること」と答えたとしよう。それに対して「じゃあ今すぐそうすれば?」と言われたら何と答えたらいいか。椅子に縛りつけられたり鍵のかかった部屋に缶詰めになっているような職場でなければ、「できない」ことはない。次の日どうなるかは知らないが。

もし、「そんなことをしたら会社をクビになるからできない」という答えなのであれば、そもそも今やりたい事は「家に帰って寝ること」ではなかったのだ。本当に今やりたい事は、会社をクビにならないように深夜残業をがんばることだったのだ。

「自由に行動できない」というのは間違いである。「奴を殺したいけど警察に捕まるからできない」のではない。「奴を殺して警察に捕まるのは嫌だから、殺したくない」のだ。ルールは自由に破ることができる。破りたくないから破らないだけである。ルールに縛られて自由に選択できないのではなく、「ルールに従う」ことを自由に選択したのだ。だから、それは自分の選択であり、自由な行動である。

「やりたい事」を、それをやった後の結果と切り離して考えるからおかしなことになる。行為には結果がついて回る。そして、結果も含めてそちらの方が望ましいと思うから、「やりたい」と思うのだ。できもしないことをやりたがったり、実際にはできる事をできないと思い込む事さえしなければ、やりたい事は必ずできるし、それを実行するはずである。


人間は基本的に自由である。ある瞬間において自分ができるいろんな行為の中から一つを選ぶことは、誰にも妨げられることはないからである。自分の脳みそが自分の体に直結している限り、人間は自由なのである。

脳は、いくつもある行動の候補の中から、やりたい事を一つ選んで、それを身体に命令する。やりたい事を決めるのが「自分の意思」である。この決定は自分の頭の中でだけ行われるから、誰にも干渉することはできない。だから、人間は誰でも自由なのである。

他人が何か言うことによって、自分の決定が左右されると言うかもしれない。しかし、他人が何か言うことで自分の決定が変化したとしても、自由でないことにはならない。例えその人がどんなことを言おうと、その人の言うことを聞かないという選択が必ずできるはずだ。

他人の言ったことは、そのまま自分の身体に命令として伝わりはしない。一度自分の耳から脳に入って、それを自分の中に取り入れるかどうかを判断する。そして取り入れないと決めた場合は無視し、取り入れると決めた場合は自分の決定を変える。取り入れるかどうかを決めるのは自分の意思だ。だから、他人に言われた通りに実行したとしても、それは自分の意思でないわけではない。「他人に言われた通りにする」ことを自分の意思で自由に決めたのだ。

つまり、本当のところ、自由でない人間はいない。「自由でない」と言う人は、勘違いしているだけである。刑事ドラマの悪党がよくこんな論理を使う。「やだなぁ、私は動いたら撃つとちゃんと言いましたよ。それなのに、ヤツは動いた。だから撃ったんです。ヤツが自分で自分を撃ったようなもんですよ」自分の意思で撃ったのに、自分の意思を否定するのである。

自分で何かをした以上、それは自分の決断でなされた行為なのだ。だから、「騙された」と言うのならいいが、「操られた」と言うのは間違いだ。前者は少なくとも自分がやった行為については自分の意思を認めているが、後者は自分の意思を認めていない。


つまり、「自由でない」と言うのは、自分の意思で下した決断に自分で気がついていないということだ。自由の問題は自分の頭の中だけの問題であり、自分で何とかすべき問題だ。自分の身体は自分にしか操作できないのだから、そこに自分以外を巻き込んではいけない。

なぜ「自由でない」と感じるのか。なぜ「自分のやりたい事ができない」と感じるのか。それは、自分が本当にやりたい事を見据えず、自分が本当にやりたい事のために本当にすべきことを考えていないからだ。実際には不可能なことばかりを「やりたい」と思うのは、本当にやりたいことを真剣に考えていないからだ。

上で「不可能なことをやりたがる」と書いたが、これは、本当にできるかどうかは問題ではない。できると思っているかどうかが問題である。より正確に「自分でもできないと思っていることをやりたがる」と書くと、矛盾していることがはっきりする。できると思うなら、やれ。できないと思うなら、やりたがるな。

意思のない人は、確実性を求める。失敗を恐れ、自分にも確実にできることしかやろうとしない。できるかどうかわからないことを「できない」に分類してしまう。そのせいで、「できない」領域がどんどん増えてしまう。「できる」という言葉を「できる保証がある」とか「できると証明されている」という意味にとるな。そんなことを言ったら、「できる」ことなんてほとんどない。少なくとも、やりたいと思えるようなことはそんな中にはない。

自由でないと感じるのは、自分の勝手な思い込みである。やればできることも「できない」と勝手に決めつけてしまうからである。そして、それが続くと、自分がする事を考えるのを忘れてしまう。やりたい事を考えるのは、やるためだということを忘れてしまう。


意思のある人は、常に「次に何をしようか」と考えている。これは、現実のことしか考えていないということではない。小説を読んでも、「今日は元気をもらった。よし、明日からまたがんばろう」などと思う。すべてが最終的には「〜しよう」に結びつく。

意思のない人は、常に「次に何をしなければならないか」を考えている。そして、そこから逃げることを考えている。最終的には「〜しなくてもいい」に結びつく。

意思のない人は、「知らないから仕方がない」「できないから仕方がない」と威張って言う。これによって「しなければならない」を「しなくてもいい」に変えることができるからだ。本当は、こんなことは威張って言うことじゃない。「知らないから知りたい」「できないからできるようになりたい」と思わないとおかしい。

意思のある人間は何を言われようと常に自分で選択する。「相手の言うことを無視する」という選択肢を常に持っている。これが、意思のない人にはわからない。意思のない人は懸命に「しなくてもいい」を主張するが、意思のある人間にとっては、この言葉の意味がわからない。

「○○しなければならない」は「××したいのなら○○しなければならないが、××したくないなら○○しなくてよい」と同義である。つまり、「しなければならない」と「しなくてもいい」を分離することはできないのである。「しなければならない」か「しなくてもいい」かは、「××したい」かどうかで決める。「××したい」かどうかは自分で決めることである以上、しなければならないか、しなくてもいいのかは自分で決めることである。そして、人によって違うものである。

「○○しなければならない」とか「○○しなくてもいい」と言う時には、その前提である「××したいのなら」をきちんと読み取らないと、話がおかしくなる。この前提は、やった時にどうなるか、やらなかった時にどうなるかを比べれば、わざわざ言わなくてもすぐわかることだ。しかし、意思のない人は「××したい」を考える癖がないため、それを考えることを思いつかない。

自分の行動は自分で決める。自分以外に、自分の行動を決められる者はいない。これは誰が何と言おうと事実であり、変わることはない。問題は、それに気がついているかいないかである。


この話は、客観的な論議をするとズレた話になる。「人間には意思があるのか」という問いの答えは、YesでもNoでもない。ある人にはある。ない人にはない。

意思がある人と意思がない人の境目はどこにあるのか。自分に意思があると思っている人には意思がある。自分には意思がないと思っている人には意思がない。不思議な感じがするが、そうなのだ。そして、境目はここだけなのだ。「自分には意思がある」と思いさえすれば、意思がある人になれる。いくら反対の理屈を並べられても、「自分には意思がある」と思っている限り、意思がある。

意思があったりなかったりするのは、自分の考え方次第だ。意思のない人には、この「自分の考え方次第」という概念が理解できない。自分がないからだ。それで、自分の考え方次第でどうにでもなるものを、普遍性を持ったものと思ってしまう。

つまり、自分の内の世界と外の世界がきちんと分離されていないのである。意思のある人は、これを分けて考えられる。そして、自分の内の世界は自分の自由にできる。しかし、意思のない人、より正確に言えば自分の意思の存在を認識していない人は、「自分の内の世界」の存在を認めることができない。意思のない人も、本当に「自分の内の世界」を持っていないわけではない。持っているのだが、認識できていないのだ。

例えば、意思のない人は、他人に言われて自分が思ったことを、「他人にそのように思い込まされた」と感じる。自分がそのように思ったことを、自分ではなく他人のせいにする。確かに「考えさせられた」という言い回しはあるが、これは考えるきっかけを与えられただけで、考えたのはあくまで自分である。そうではなく、まさに洗脳されるが如く、他人によって自分の考えが強制的に書き換えられてしまうと思っている人がいる。

意思のない人は、単なる自分の思い込みを普遍的なものだと勘違いし、それに自分で縛られている。それが自分で自分を縛ったものだと気づかずに苦しむ。本当は縄なんてないのに。


今、ニートという言葉がいろいろ議論されている。勘違いしている人もいるが、彼らは決して怠け者なのではない。「怠けよう」という意思すらないのだ。

夏にバイトして冬はスキー三昧な人は、「スキーをしたい」という「やりたい事」が根本にあり、すべてはそれを中心に回っている。そんな状態でいいのかという議論は別として、彼には一応自分の意思がある。同じ遊んでいるのでも、ボケかけた爺さんが一日中テレビの前で過ごしているのとは訳が違うのだ。遊びたくて遊んでいる人と、何もしていない人は、区別して考えないといけない。

ニートには、「やりたい事」がない。ちょっと前までは、やりたい事を探す「自分探し」が流行ったが、今のニートはそれすらしない。やりたい事がないことを問題だとも思っていない。やりたい事がある人を「なんでそんなバカな事に懸命になるんだろう」と軽蔑している。何にも懸命になれないよりは、バカな事に懸命になれる方がずっとマシだ。

こんな奴らに働く意欲を身につけさせようとするのは、いきなりハードルを高くしすぎじゃないか?その前に、遊ぶ意欲を身につけさせよ。