ひところ「自己責任」という言葉が流行ったが、なんだかよくわからないうちに流行が終わってしまった。この言葉の意味を本当に知ってほしい一部の人は「無知な大衆によるよくわからないバッシング」としか受け取っていないような気がするし、逆の立場の人は腹が立ったから難癖をつけただけのようにも見えた。自己責任を振り回す人や、「責任を取れ」と言ってはばからない人にも、自由と責任について考えてほしい。
「自由に振舞うには、責任を果たすという代償を払わなければならない」と考える人が結構いる。しかし、これは間違いである。自由はもっと根源的なものであり、誰かに許されたり与えられたりする必要のないものである。人が「自由である」というのは事実であり、何者もそれを変えることができない。人ができるのは、自由を奪うことだけである。
そして、ある行為が自分の自由によるものであるという認識が「責任」である。だからこそ、責任は「問う」ものであり「認める」ものなのである。自由と責任は分離することはできない。自由イコール責任なのである。
自由とは、自分の行動を自分の意志によって選択できることである。では、自分の意志とは何か。これは「自分が自分であることを示す名状しがたい何か」とでもしておこう。何かよくわからないけど「自分」というものがあって、そいつが複数の選択肢から勝手にどれか一つを選ぶ。これが「自由」である。
「選ぶ」という行為が伴わなければ自由ではない、というのは特に異論はなかろう。メニューが一種類しかない料理屋では、客にはメニューを選ぶ自由はない。
複数の選択肢があっても、実質的にメニューが一種類しかない場合もある。例えば、あるラーメン屋に入ったら、しょうゆラーメンが680円で、みそラーメンが50万円だったとする。こんな時、客は「2つのラーメンの中から自由にしょうゆラーメンを選んだ」と言えるだろうか?
非合理的な選択肢は、選択肢とは呼ばない。この場合、普通のみそラーメンに50万円を払うのは、誰がどう考えてもおかしい。みそラーメンに50万円を払うという選択を却下するのに、わざわざ「自分」を持ち出してくる必要はない。「普通はこんな選択はしないでしょ」で済む。
「非合理的な選択肢」は、人によって変わる。例えば夏の暑い日に自動販売機でジュースを買おうとしたら、熱い汁粉と熱いココアとDr.Pepperしかなかったとする。冷房の効きすぎたオフィスから震えながら出てきた人にとっては、この3種類を自由に選べる。しかし、外回りをして汗だくの人にとっては、事実上自由はない。暑い夏に冷たいジュースを飲みたいと思うのは「普通の人なら誰でもそう思うこと」であり、この3種類なら誰しもDr.Pepperを選ぶ。これは仕方なしに選ばされたのであり、この条件で皆がDr.Pepperを選んだとしても「Dr.Pepperは日本でも大勢の人に選ばれている」という結論にはならない。
非合理的な選択肢、言い換えれば選ばない理由を説明できる選択肢を全部削って、残ったのが「自由に選べる選択肢」だ。逆に言うと、選択肢が自由に選べるということは、選ぶ理由を合理的に説明できないということだ。なぜなら、選択肢を合理的に選ぶことができるということは、それ以外の選択肢は非合理的な選択肢だったということであり、それらは「誰だってそんな選択はしないよな」で済んでしまうことだからだ。
つまり、自由な選択とは、それを選ぶ理由を説明するのに「自分」を持ち出さないといけないということである。自由な選択は、「自分の好きなのを選んだ」としか言いようがない。逆に、選択を合理的に説明できるというのは、自由な選択ではないのである。
自由には「合理性」あるいは「説明」が関連する。合理性がある行動、理由が説明ができる行動は自由な行動ではない。そして、「責任」とは、ある行為が自由の結果であるということ、つまり、その行為は「自分の勝手」を持ち出さないと理由を説明できないということだ。
日本人には、「責任」と「義務」を混同してしまっている人がかなりいる。日本語の「責任」という言葉を和英辞書で調べると、英語ではduty,responsibility, accountabilityの3つの単語が書いてある。しかし、英英辞書で調べると、responsibility と accountabilityは互いに類義語となっているが、dutyだけは意味が異なる。dutyは「義務」であって、本来の「責任」ではない。
duty という単語は「やらなければならないことをやる」という意味である。「やらなければならないこと」とは社会や法や道徳が規定する。これらによって行動が縛られることがdutyである。例えば、「責任を果たす」という場合の「責任」である。普通dutyとは「義務」と訳される。「責任を果たす」を「義務を果たす」に言い替えても同じ意味である。
それに対して、responsibilityを辞書で引いてみると、そこに必ず「説明」という単語が入っていることがわかる(英和辞典では「責任」とだけしか書かれていないので、必ず英英辞典で調べること)。accountabilityという単語は、日本では「説明責任」と訳されて、普通の責任とは違った特別な「説明する責任」という意味に取られがちだ。しかし本来はどちらもほとんど同じ意味であり、同じものに対して説明という意味合いを強調しているだけに過ぎない。
本来、責任とは、それが自分の自由な行動の結果だということだ。単なる事実であり、それ以上の何者でもない。しかし、日本人は責任と義務をごっちゃにしてしまっている。そのせいで、本当に考えなければならない「どうすればいいか」という問題をきちんと考えられない場合が多い。これをどうしても責任の問題とリンクさせてしまう。結局、個人への罪のなすりつけ合いになってしまい、問題はうやむやになってしまう。
事実(=責任)と、それに対する対処(=義務)を分けて考えないから、こうなってしまう。まず責任を追及し、責任の所在がはっきりした後で改めて課すべき義務の量を考えるべきだ。日本では多くの場合、責任の話にすぐ義務の話がくっついてきてしまう。それで、「それは私がやったんじゃない」と「それは私がやった事だが、それに対してその義務は酷すぎる」という話がごっちゃになってしまう。「それは私がやった」と言うと何をされるかわかったもんじゃないから、意地でも「それは私がやったんじゃない」と言うようになってしまう。
理屈は関係なく、とにかく対処さえできれば問題ないという考え方をするから、とにかく誰かに義務を負わせて問題を終わりにさせようとする。そんな態度では、今回は対処できたとしても同じような問題がまた出てきてしまう。
まとめよう。責任とは自分の自由な行為の結果生じるものである。そして、責任問題とは、結果に対して誰の影響がどのくらいあるかを明らかにすることだ。そのため、各人は自分のした行為を説明して、自分のした選択が何なのかを明らかにする。「責任を取る」ということは、それが自分のした選択によるものであることを認めるということだ。謝罪したり辞職したり首を吊ったりすることではない。
自分の行為を説明することで、責任の所在が明らかになる。どんな決定がその人の自由でなされ、その後どんな出来事が発生してどんな結果になったかである。説明を受ける人は、その人が自由な決定をした時点でどんな状況にあったかを考え、その自由な決定がどのくらい正しかったか、あるいは間違っていたかを判断する。
もちろん、自由な行為では、つきつめると理由を説明できない部分がある。説明をすることで、どこから先が理由を説明できない部分、つまり自由な行為なのかがわかってくる。これによって、その人が自由にした行為がどこからどこまでなのかを確定させる。そして、その行為が本当にこの結果の原因となっているかを考える。
無責任とは、こうした説明をしないことではない。逆に、説明をいつまでもすることだ。言い訳や言い逃れである。自由意思のない人、ロボットのようにあらかじめ決められたプログラムを実行しているだけの人は、自分の行為をすべてプログラムのせいにできてしまう。念のため言っておくが、これは良い悪いの問題ではない。マニュアル通りの対応しかできないバイト店員は、基本的に無責任な存在であり、そういう人に責任を問うてはいけない。
逆に、言い訳や言い逃れを一切しないタイプも見受けられる。「すべては私の責任です」とだけ言って、説明を逃れようとする。これもまた良くない。本来その人の責任ではない部分にまで責任範囲が及んでしまうからである。これでは、事の真相が明らかにならないので、対処すべき事項が見えてこない。結果として、また同じことが発生し、別の人がまた責任を問われる。そして、悪しき前例があるので、またすべてがその人の責任になってしまう。これの繰り返しで、いつまで経っても良くならない。
事故が起きた時に「すべて私の責任です」とだけ言って終わらず、「カーブの見通しが悪かった」とか「暗くて見えなかった」などと言うべきだ。そうすれば、カーブミラーや街灯がつくかもしれない。それをしないから、また別の人が同じ所で同じような事故を起こす。
責任追及とは、誰かに罪をなすりつけて安心することではない。実際に起きた結果から、当人が自由に選んだ行為の結果であるものと、誰がやっても同じようになったであろうことの区別をつけることだ。当人が自由に選んだ行為に対しては、今度はその行為を選ばないようにすれば二度と起きない。そして、誰がやっても同じようになったであろう問題に対しては、その問題を取り除くことで二度と起きないように対処する。
最近は「説明責任」などという言葉が出来てしまったため、あたかも「説明する責任」(日本では実際は「説明する義務」になってしまっている)という特別の責任が存在するかのように思っている人がいる。そうではなく、今まで述べたように、責任と説明はもともと深く関わり合っている。責任を説明することは自分の責任範囲を狭めることになるのだから、本来は誰もが説明したいと思うはずなのである。
問題は、説明に対して「言い訳」「責任逃れ」と言って非難することである。もともと、説明とは言い訳や責任逃れのためのものである。正当な言い訳や責任逃れは正しく受け取って、その人のものではない責任は取り除かなければならない。それをしないから、誰も説明をしなくなってしまうのだ。
正当な言い訳は重要だ。ここには、二度と同じことを起こさないようにするためのヒントが眠っている。
今までの話を元に考えてみると、「自己責任」という言葉に歪みを感じる人がいる理由がわかる。「自己責任」の名のもとに、言い訳や責任逃れをすべて否定する態度が問題なのである。結果の中から、誰がやってもそうなったであろう部分を除くということをしない。別の言い方をすれば、その人の身になって考えるということをしない。
「結果責任」という言葉にも同じような臭いを感じる。「その人の行為によって結果が生じた」という事実だけを問題にし、その裏にある様々な事柄をすべて無視する。結果は様々な要因が絡み合って出るものである。決して一人の行為だけで出るものではないし、人間の行為だけで出るものでもない。もともと、責任とは行為に対して言うものであって、結果に対して言うものではない。
例えば、家に鍵をかけてなかったせいで泥棒に入られたとしよう。これは誰の責任か。これを「家に鍵をかけてなかったのが悪い」と言う人が増えている。もちろん、家に鍵をかけてなかったのは悪い。しかし、それ以上に、泥棒に入った方が悪い。家にあったものが無くなったという「結果」は、「鍵をかけずに家を出た」という行為と「泥棒が盗んだ」という行為の2つから来た結果である。
すると、次にこれらの行為が誰もがする当たり前のことかどうかという問題が出てくる。他人の家にあるものを盗むという行為は、当然、誰もがすることではない。それに対して、鍵をかけずに家を出るという行為は、いつもかけてないのは問題ではあるが、誰でもうっかりとかけずに出てしまうことはあり得る。これは完全に泥棒の責任であることに間違いはない。そして、鍵をかけなかったことに対する責任も少しはある。
しかし、泥棒の責任だとわかったところでどうなるのか。実際はどうにもならない。泥棒はどこかに逃げてしまっているからだ。そこで無理に他の人に責任を負わせようとするからトラブルになる。責任問題と対処は別だ。「泥棒の責任なのだが、泥棒はいない。さてどうしよう」という問題なのだ。
結果責任を「自分がやった事に対する結果を受け入れること」ととるなら、これは責任云々を言う前の当たり前のことだ。鍵をかけずに家を出たせいで泥棒に入られたという事実は変えようがないし、盗まれた物を返してもらおうにも泥棒が見つからないという事実も変えようがない。他の誰にも責任がないのに、無理に警察など他の人に責任をかぶせようとするから問題なのである。
日本人の歪んだ「責任」の感覚は、歪んだ「自由」の感覚と表裏一体である。自由は無いのが当たり前であり、何かをしないと「自由がある」という恩恵を得られないと思うから、「自由の代償としての責任」という考え方になる。「自由にさせてもらう」ことが、何だか当たり前のことではないように感じている。
そうではなく、人間はもともと自由である。そして、自由であるということそのものが責任なのである。ここに、日本流の「何かをしなければならない」という意味は含まれない。人間は自由に行動できて当たり前であり、いついかなる時でも、できる事は何でもできる。自由でない人は、「〜しなければならない」という固定観念に縛られて、自分で自分の自由を奪っているのである。
人が自由に行動していれば、当然利害がぶつかることもある。そこでまずしなければならないのが、問題の整理と事実関係の把握である。これが「責任追及」である。ここで、各人が自分の思いでしたことと、自分とは無関係のことを明らかにする。その後で、明らかになった事実関係を元に対処法を考える。
問題の整理や把握をしないまま対処法から考えるのが、日本人の悪い癖である。とにかく見かけ上対処できれば良しとする。だから、「責任追及」が単なるスケープゴート探しになってしまう。そして、理屈に合う合わないではなく、一番簡単にできる対処法を実行しておしまいになる。それが本当に対処になっている必要すらなく、ただ「何かした」という事実だけでよしとする。だから、一番弱い人間がスケープゴートになって、そいつの首を切っておしまいになる。問題の根本原因が改善されないまま、同じことがいつまでたっても繰り返される。
「自己責任」「結果責任」というのは、スケープゴート探しの道具になってしまいがちである。これらの呪文を唱えておけば、特定の当事者以外に火の粉が降りかかる恐れはない。スケープゴートになってしまった人を除けば、まことにありがたい呪文である。
このせいで、人々は責任問題に敏感になってしまう。「出る杭は打たれる」から、出ないように気をつける。まともに議論がなされるのであれば、「自分のしたことにはきちんと責任を取れ」と言える。しかし、まともな議論がなされない場では、「責任を取る」と言ってしまうと関係ない責任まで全部押し付けられてしまう危険性がある。そんな場で「責任を取れ」と言うことこそ無責任な行為だ。
日本人の多くは、自分では「責任を取れ」と言うが、どうすれば責任を取ったことになるのかがよくわかっていない。そういう人たちには、自分が責任を取ることに対する恐怖がある。なぜ恐怖なのかというと、何をしたら責任を取ったことになるのかがわからないからだ。「責任を取る」と言ったが最後、何をしても「そんなのは責任を取ったうちに入らない」と言われるリスクがつきまとう。
自殺は、日本では一種の「責任の取り方」だと見なされている。そして、これに対しては「そんなのは責任を取ったうちに入らない」とは言われない(言われても本人の耳には入らない)。だから、このわかりやすい「責任を取る方法」に皆逃げたがる。そして、他の人はこれ幸いとその人にいろんな責任をかぶせてしまって、責任を取ったことにしてしまう。結局、そんな風に責任を取ったところで何になるというのか。結果として物事が良い方向へ向かわなければ、その責任の取り方は間違っている。
正しい責任の取り方を身に付けよう。自分のしたことを説明し、なぜ起きたかを明らかにする。これが正しい責任の取り方だ。そして、それで責任問題は終わりだ。
では、責任が明らかになった後はどうすればいいか。それはその人の自由だ。せっせと償いをしてもいいし、ケツをまくって逃げてもいいし、首を吊ってもいい。何でも、自分がしたいと思うことをすればよい。
自分の自由を受け入れられない人は、こういう場合に「償いをしなくてはならない」と考える。「ケツをまくって逃げる」という選択肢を思いつかない。もちろん、ケツをまくって逃げよと言っているわけではない。「償いをする」というのも自分の自由な選択によるものであるということを認識しろということだ。「償いをしなくてはならないからやった」というのは、自分の自由な選択が入っていないから、無責任な行為だ。本当の意味で自分の行為に責任を持てる人とは、ここで必ず償いの選択をする人のことではない。時には自分の判断でケツをまくって逃げられる人のことを言う。そして、逃げられるけど逃げないからこそ、責任ある行為なのだ。
もちろん、その結果どうなるかはまた別の話だ。信用を無くそうが、牢屋に放り込まれようが、それはその人のした自由な行為の結果であり、自己責任である。それを誰の責任にもせずただ結果として受け入れ、どうしたらいいかを考える。これが本当に自分で責任を取るということである。
結局、責任からは一生逃れられない。だが、自分のしたことの説明くらいは一生やり続けてもいいんじゃなかろうか。