ちょっと前に、敬語の使い方が変わってきたという話をした。その時には、上下関係ではなく距離を表すようになったと書いた。しかし、これは「最近の若いモンは敬語もロクに使えん」と文句を言う人への答えではない。
なぜ若いモンは目上の人に対して敬語を使えないのか。答えは簡単。尊敬してないからである。
敬語が当然持つはずの「敬意」を忘れてしまっている人が多い。「敬語は社会人のマナー」だと思ってしまっている。これは間違いだ。マナーなのは「相手に敬意を持つこと」である。そして、敬意を持つから敬語を使うのである。逆に、敬意を持って対応していれば、多少敬語が変だろうと敬語でなかろうとたいして問題ではないのである。
この当然のことを多くの人は教えず、敬語の使い方だけを教える。そして、形式ばかりの「敬語」だけが意識されて、本質である「敬意」は忘れられてしまう。敬意のない敬語を使われるよりは、敬語は使われなくても敬意を持たれた方がずっといい。
「敬意のない敬語」が当たり前になってくると、敬意を表すのが難しくなってくる。昔は敬語を使えば敬意を表せたのだが、今ではそうではない。敬語を使っても、敬意は相手に伝わらないのだ。そんな状況で何とか敬意を表そうとするから、敬語の上に敬語を重ねるような妙なことになってしまう。
「謝罪」も同じような仕組みになってきてしまっている。「納得できないかもしれないけれど、とにかく形だけでも謝りなさい」と言われる。本当は「謝意」が必要なのであり、謝意のない謝罪の言葉は意味がないのである。
それで、「そんなのは謝罪とは言えない」「じゃあどうやって謝罪すればいいというんだ」と言い争いになる。しかし、誰かが「これこれこうやれば、謝罪と認めよう」と言った瞬間、それは本当の意味での謝罪ではなくなってしまう。形式さえ満たせば謝意がなくてもかまわないということになってしまうからだ。
自分がもし十分謝意を持っているのに「そんなのは謝罪とは言えない」と言われたとしたら、自分の持っている謝意が足りなかったか、それが相手にうまく伝わっていないのか、あるいは相手の単なる言いがかりなのか、そのどれかだ。そのどれなのかは、相手の話をよく聞いて自分で判断するしかない。これを自分で考えないと、謝罪とは言えないのだ。
「意思」あるいは「意味」というものは、外から規定することのできないものである。自分の中にしかないものである。しかし、自分の中にある「意味」に自信が持てないと、自分の外にある「形式」に頼ることになる。「○○すれば謝罪である」という形式を求め、その形式に従うことで「謝罪した」ことにする。そして、意味(気持ち)がこもっていない謝罪になってしまう。
そういう人に「心がこもっていない」と言うと、逆ギレしたり開き直ったりする。「心がこもっている」とは何かがわからないのだ。そして、「心がこもっているとは何か」という質問は、言葉だけでは理解することはできない。これが心の問題だということがわかっていないと、「心がこもっている」は永遠にわからない。
「長い文章を読めない」という問題は、前回話をしたが、今回の問題とも密接に関係してくる。「長い文章」とは、本当は言葉では語り尽くせない「心」(前回は「主観」と書いたが)を何とか語ろうとしているものである。もともと語り尽くせないものだから、その内容は文章を読んだだけではわからない。自分で必要な部分を補ってやらないとわからない。
「わかる」とは、自分の中に意味をつくることである。書いてあることが自分の知識や経験と結び付き、そこに書いてあることに対して深い共感と洞察を得られるようになって始めて「わかった」と言える。ここで訳のわからないあいまいな言葉を使っているように、「わかる」ということを正確に文章で説明することはできない。「わかる」というのは、言葉にできない心のはたらきなのである。
これに対して、「わかる」ということを形式的にとらえてしまう人がいる。その文章に書いてあることを「○○は××である」という命題の羅列としてとらえること、そしてその命題間の論理のつながりをとらえることが「わかる」ことであると思っている。
「わかる」をこのようにとる人は、箇条書をありがたがる。「○○は××である」と明確に書かれていて、余分なことが書いてないからだ。それに対して、意味をつかもうとする人にとっては、○○が××であることよりも、なぜそんなことを言うのかの方が重要である。そして、抽象的な文では言い切れないことを、例やたとえ話で補う。こうしたものがなければ、「わかる」ようにならないのだ。
上で「共感」や「洞察」と書いたが、「わかる」には「なるほどなー」とか「そうそう、そうだよね」とか、あるいは「そういう見方をすれば当然そうなるよな」といった、自分の心の底からの肯定が必要である。そしてそのためには結論より過程の方が重要である。反対に、「へーそうだったのかー。覚えておこう」で終わってしまう人は、結論だけで良く、過程は邪魔なのである。
年の始めによくやる未来予測を見るとわかりやすい。元旦番組でよく「今年の株価はこうなる」などとアナリストを呼んできて放送するが、各人が挙げる「今年の日経予想株価」だけを形式的に見ていたのでは、何の意味もない。こんなものは当たるも八卦当たらぬも八卦で、事前に誰が当たるかわからない以上、各人の挙げる予想株価を信用することはできないのである。そうではなく、各人の説明を聞いて、円高になったらどうなるか、アメリカや中国がどう動くとどうなるか、あるいは選挙でどっちが勝ったらどうなりそうかといったことを聞くことに意味があるのだ。
形式的な理解しかできない人は、「正しさ」の基礎を持つことができない。ある人が「○○は××である」と言った時、それが正しいのかどうかを判断することができないばかりでなく、自分で判断する方法すらわからない。わからないだけではなく、判断する方法は存在しないと思っている人までいる。
こういう人は、その信憑性もまた形式的に判断する。書いてあることそのものだけを読んで正しいかどうかを判断できないから、文体や書いた人、あるいは載った媒体の情報からそれが正しいかどうかを判断する。俗に言う「ソース(情報元)は?」という質問である。彼らは、その情報が正しいかどうかを自分で検証することができないため、情報元の信頼性で判断しようとする。つまり、信頼できる人からの情報を鵜飲みにするのである。そうすると、ある人の言うことは「丸ごと受け入れる」か「まったくのデタラメ」のどちらかだということになる。
意味を理解する場合には、上で書いたように、自分の心の底からの肯定があって始めて「わかった」と言える。自分でも正しいと思えるから、正しいと言うのだ。正しさを自分で判断するから、情報元の信頼性は関係がない。様々な言説の中から、自分が正しいと思ったものを受け入れるのである。
両者には、情報の受け入れ方に対して決定的な差がある。形式的な理解しかできない人は、自分の中に入ってくる前にまずその情報を受け入れるかどうかを決める。そして、受け入れた情報はそのまま頭の中のデータベースに蓄積する。それに対して、意味を理解する人は、情報をまず自分の中に丸ごと受け入れ、自分の中で消化し、消化し切れなかった部分を吐き出す。消化した部分はもはや原型をとどめていない「自分の言葉」として残る。
形式的な理解しかできない人は、互いに相反する情報がやってくるとパニックに陥る。どちらかを受け入れてどちらかを捨てないと、自分の頭の中の一貫性が保てない。相反した情報を両方とも受け入れることができないから、考え方が偏ることになる。しかし、一方的な見方も嫌いだ。これを受け入れてしまうと、反対の見方を受け入れられなくなってしまうからだ。
彼らにとっては、一方的な見方も、両面から見た見方も、どちらもそのまま受け入れるのに問題がある(もともと、そのまま受け入れるのが問題なのだが)。この問題に対処するために、言ったことを単なる「言った」という事実にしてしまう。「○○は××だ」という文を受け入れるのではなく、「Aさんは○○は××だと言った」という事実に変換すれば、別の人が反対のことを言っても「Bさんは○○は△△だと言った」という事実が残るだけで、矛盾することはない。(だから、同じ人が違うことを言うと困ってしまう。)
こういう人は、「Aさんは××だと言っていて、Bさんは△△だと言っているが、あなたはどう思う?」という質問には答えられる。しかし、「本当のところはどうなんだ?」という質問には答えられない。「人それぞれ答えが違う」とか「本当の答えは存在しない」という答えを返す。そして、自分の頭の中で矛盾がないことに満足して、「そんな答えを出すことに何の意味があるのか?」という重要な問題を考えない。本当の答えが存在しないのなら、Aさんが言ったことも、Bさんが言ったことも、自分が思ったことさえ、何の意味もないのだ。
形式的な理解しかできない人には、間違った情報がやってくることへの潜在的な恐怖がある。その情報が正しいかどうかを自分で判断することができないからだ。もし20年前に生きていたら、おそらく新興宗教にハマっていただろう。だからこそ、こういう人達は新興宗教が大嫌いだ。新興宗教に対処する術を持っていないこと、いったん新興宗教が「正しい」という風潮になってしまったら自分もそこから抜け出せないことを自覚しているからである。そこで、情報から距離を置くことで、間違った情報から身を守ろうとする。それは同時に、正しい情報からも逃げているのだが。
形式的な理解しかできない人は、思ったことは言うが、その理由は述べない。「その理由は?」と聞くと、「誰かがそう言っていた」と答える。これが理由だと思っているのである。自分で理由を考えたことがないからであり、それを自分で消化できていないからである。自分できちんと消化できている人は、「誰かがそう言っていた」ではなく、その人がなぜそう言っていたのかを自分の言葉で答える。
「正しさ」の根拠を自分の中に持てないで、「皆がそれを正しいと言っている」ということに置く。皆が正しいと言えば正しい、そんな宗教裁判や魔女狩りの時代の考え方をそのまま持っている。本当は逆で、正しいから皆が正しいと言うのだが。
彼らは、自分たちの正しさの根拠がないことを自分でもわかっているから、できるだけ「正しさ」を言わないように気をつける。そして、「正しさ」を持つ人を拒絶する。その代表例がマスコミだ。彼らはマスコミを批判的に見る。「マスコミの言うなりになってはいけない」という思いの表れだが、それは逆に、そう思っていないと簡単にマスコミの言いなりになってしまうということでもある。
「マスコミを批判的に見る」というのは、ちょっと前まではそんな意味じゃなかった。マスコミというのは「皆が正しいと思っていること」を言っていると思うから、「皆がそれを正しいと言うからといって無条件に受け入れてはいけない」と思ってマスコミを見ていた。今は、マスコミというのは時代遅れでもはや皆の思いを代弁していないと思ってマスコミを見ている人がいる。確かにそうかもしれないが、だからといって皆の思いを代弁している方が正しいとは言えない。「マスコミを批判的に見る」というのは、「マスコミだから正しい」のでも「マスコミだから間違っている」でもなく、「マスコミだということを忘れて考えよ」と言っているのである。
形式主義は、あちこちに顔をのぞかせている。「金さえ儲かれば何でもよい」というのも「法律に書いてなければ何をやってもよい」というのも「女性を口説くスキル」というのも形式主義だ。意味という難しい問題に取り組むのを逃げている。
難しくて解けない問題にぶち当たった時、問題を形式化して、それを解いて、それでもともとの問題も解けたものと勘違いする。問題を形式化した時点で、もともとの問題に含まれていた様々なものがそぎ落とされてしまい、問題を解くための問題になってしまう。そんな問題を解いたとしても「だから何?」という問いが残ってしまう。本当に熟考すべきは、問題を解くことではなく、問題を立てることなのである。
よっぽどのバカでなければ、文章を読めばそこに書いてある言葉から形式は拾える。しかし、そこから意味を汲みとるのは簡単なことではない。そこに書いてある内容を実感できるだけの知識と経験がなければ、「わかる」ことはできない。
本来、そこに書いてある内容を実感できないなら、それは自分がそれを理解するだけの知識と経験を持っていないからであり、自分にとって不必要なものである。放置しておけばいいのだ。わからないことは問題ではない。知識と経験を積んでからまたトライすればいい。逆に、自分はすべてのことがわかると思っている方が問題だ。
問題を形式的にとらえていると、自分にはすべてのことがわかると思ってしまう。なぜなら、自分がすることと言えば形式的に書かれた論理を追っていくだけの機械的な作業だからだ。こういう機械的な作業は本質ではなく、言葉を形式のレベルに落とし込む作業が本質なのだ。
機械的な単順作業を「考える」と呼ぶな。自分で本当に考えることをしなければ、わかるようにはならない。念のため言っておくが「じゃあ何をしたら本当に考えたと言えるんだ?」というバカな質問はしないように。