意見を述べるということ

対話と会話は違う

だいぶ前に、「活字離れとは」という話を書いた。そこでは、「活字離れ」でいう「活字」とは文字通り活字を読むことではなく、大量に書かれた文を自分で読み解くことであると述べた。だから、携帯メールやチャットは「活字」ではなく、本は「活字」なのだ、と述べた。

これは、単に文字がたくさん書いてあるかどうかではない。チャットのログはいくら文字が大量にあっても、チャットそのものが「活字」ではない以上、活字ではない。「活字」とは、たくさんの文章を一度にまとめて相手に渡すということである。

では、「活字」とそうでないものでは何が違ってくるのか。それが今回のテーマである。


結論から言うと、ここでいう「活字」とそうでないものを分けるのは、不特定多数の第三者の視点があるかどうかである。本は、不特定多数に向けて書く。それに対して、チャットやメールは特定の相手に対して書く。

対談は、一応人と人が互いに話をしているという形で書かれている。その点ではチャットと同じだ。しかし、チャットとは違って、第三者に読まれることを意識して書かれている。だから、これは「活字」なのである。対談は、チャットと同じようで実は違う。読者の有無の差である。対談では、本当に語っている相手は対談の相手ではなく読者である。専門家である相手は当然分かっていることでも、読者のためにあえて質問したり言ったりする。

逆に、読む側に立って考えてみよう。メールは、自分に向けて書かれている。そこに書かれた内容は自分専用のものであって、自分に一番都合のいいように書かれている。しかし、「活字」は、特に自分に向けて書かれているわけではない。自分も含めた大多数の人間に向けて書かれている。だから当然、自分にとっては意味がなかったり、よくわからなかったりする部分もある。それは自分で補って読んでいかなくてはならない。

問題は、「自分で補って読む」という部分である。メールやチャットは、相手にすぐ届いて、相手からすぐ返事がもらえる。だから、わざわざ補って読まなくても相手に聞けばいい。本ではそうはいかない。相手に聞いても返事は来ないから、自分で補って読む必要がある。書く方も、補うための材料を提供しなくてはならない。この形態の違いが、一度に読まれる文章の分量の差になって表れる。

ここでは、不特定多数の第三者に向かって何か言うことを「意見」と呼び、意見を言い合うことを「対話」と呼ぶことにする。そして、特定の相手に対して何か言い合うことを「会話」と呼ぶ。そして、会話と対話はどう違うのかを考えてみることにしよう。


会話も対話も、目的は自分の言いたいことを相手に伝えることである。会話の場合は、自分の言いたいことが話し相手に伝われば目的は達せられる。伝わってなさそうなら、なぜそれが相手に伝わっていないのかを考え、どうすれば伝わるようになるかを考える。

対話も同様に、目的は不特定多数の人々に自分の言いたいことを伝えることである。しかし、この目的は達せられることはない。なぜなら、「不特定多数」の中にはいろんな人がいるからである。自分と同じことを考えている人なら一言言っただけでわかってもらえるが、自分の言うことを聞く気のない人にはいくら言ってもわかってもらえない。考えていることも前提も違うすべての人に一様に自分の言いたいことを伝えることは不可能なのである。

会話はキャッチボールである。相手のミットのある場所にボールを投げる。しかし、対話の場合は、相手のミットのある場所が人によって違う。だから、真ん中に(より正確には、真ん中だと思うところに)投げるしかない。相手は、自分でミットをボールの飛んできた方に動かさなくてはならない。そして、まったく違った方向にミットを構えている奴のことは無視する。

対話は会話より難しい。「真ん中」という、明確に定まっていない場所にボールを投げないといけないからである。そして、受け取る側もただミットを構えているだけではなく、飛んできた方向にミットを動かさないといけないからである。


では、この「真ん中」はどうやったらわかるのか。相手が特定されない以上、これはどうやっても分からない。自分の経験から、真ん中だと思うところを推測するしかない。そして、それが本当に真ん中だったかどうかを確かめる術もない。意見を言う「相手」は、意見を言う人の心の中にしかないものである。

意見を言う場合には、「普通の人だったらどう考えるか」を考える。しかし、「普通の人」という特定の人がいない以上、それは推測するしかない。そして、どんな人が「普通の人」かを定義するのは自分自身である。つまり、自分が普通だと思う考え方が対象になる。

結局、意見とは、自分が考えたことを、自分が普通だと思う考え方をする人に向かって説明することである。これはある意味、自分で自分に向かって説明することである。「不特定多数の他人」という特定の人が存在しない以上、自分をそれに見たてて説明するしかないのだ。

自分で自分に向かって説明するには、「説明する自分」と「説明される自分」を分けて考えること、つまりは自分を複数の立場に置いて考えることができなくてはならない。説明される自分は自分がこれから言うことを知らないということを仮定して、彼にどう説明すればいいのかを「説明する自分」が考える。

自分の意見を言ったり、人の意見を読んだりする上で重要なことが、この「説明される自分」を考えることだ。別の言い方をすれば、自分を客観化することである。意見を言う時には、特定の人にしか通用しない事を排除して、一般的な事を言うように努める。逆に聞く時には、それが自分に対してどうなのかということではなく、自分も相手も含めた「一般的な人」の立場に置いてどうなのかを考える。

これは、自分の中に複数の見方を持つことにあたる。ある問題について、そう思うという見方とそう思わないという見方の2つを自分の中に持ちながら、こうした見方の違いを越えて言えることを探す。だからこそ、意見を読んだり書いたりすることは重要なのである。

「客観化」と言うと勘違いする人がいるので一つ付け加えておく。重要なのは、客観的なことを言うことではなく、自分の思ったこと(主観)を客観化することだ。単に客観的なことを言えばいいなら誰にでもできるし、そんなものを聞いても面白くもなんともない。もともと客観的ではない主観を人に伝えるために客観化するからこそ面白く、意味があるのだ。


Webページや初期のブログでは守られていたこの「意見」という前提が、最近では破られつつある。不特定多数に向けて開かれているという特徴が、双方向性という別の特徴によって破壊されようとしている。双方向なものは会話であって対話ではない。もともと、Webの特徴は双方向性ではなく、「誰もが気軽に情報発信」だった。

もともと、Webページもブログも掲示板も大規模メーリングリストも、不特定多数性を持ったメディアだった。これらはすべて、「一人が皆に向かって発信する」という機能しか持たない。それが、今では掲示板はチャットと区別がつかなくなり、ブログは言い争いの場と化し、Webページは無断リンク禁止になってしまう。「不特定多数の人が見ている」という意識のない人、あるいは「不特定多数の人に見せよう」という意識のない人が問題なのである。昔はWebページを作る人が皆持っていた、つたない英語で"Sorry, Japanese only"などと書くくらいの意識は持つべきだ。

本来、ブログのコメントでも、不特定多数に向けての「意見」である。しかし現在では、それはブログ主に対してのメッセージになり下がってしまっている。本来、個人あてのメッセージは個人に向けて投げるべきであり、関係ない他の人にまで見せる必要のないものだ。だから、本来ならメールを使うべきである。ただ、メールが機能不全に陥っている現在、こうなってしまうのも仕方がないとは思う。

問題は、トラックバックまでコメントの延長になってしまっていることだ。単に文章が短ければコメントに書き、長ければトラックバックにするという違いだけだと思ってしまっている。例えば、Aさんが書いたブログのある記事を読んだ感想をBさんが別のブログに書き、トラックバックしたとしよう。この時、本来ならばBさんはBさんで自分から不特定多数の他人に向かって書かなければならない。しかし、BさんはAさんに言うつもりで書くことが往々にしてある。このやりとりが繰り返されると、本来意見を書く場であるブログが単なる会話の場になってしまう。コメントは元記事の付随物だからまだいいが、トラックバックは元記事とは独立したものなのだから、元記事から離れて一般性を持たせるべきだ。

Aさんの記事に対してBさんが「Aさんの記事は間違っている。なぜならば……」と書いてトラックバックするのは、Aさんに「間違っている」と言うためではない。不特定多数の人に「Aさんが言っていることは間違っている」と言うためだ。前者ならばAさんが分かれば目的達成だが、後者は不特定多数の人が理解できないといけない。Aさんに分かればいいだけなら、わざわざ不特定多数の目の届くところに置く必要はない。

もし、Aさんの記事が普通の人もよく勘違いするような間違いであるなら、それは一般性を持っている。「Aさんの記事は間違っている」と書かなくても、「こんな風に思う人が多いけどそれは間違っている」と書けばよい。その対象が特にAさんである必要はない。あるいは、「Aさんの記事は間違っている」と書くのでも、その背後に「そんな風に思う人が多い」という認識があるのなら問題はない。Aさんの記事に一般性を認めるからこそ、それへの批判にも一般性があるわけだ。逆に、Aさんの記事に一般性がないなら、それへの批判には一般性がない。簡単に言えば、誰もが間違っているとわかるようなことはわざわざ不特定多数に向けて言う必要がないということだ。

ある人の意見を批判する意見を書くということは、その人の意見を認めるということだ。「意見を認める」とはつまり、その意見を聞けば誰もがそう思うだろうと思うことだ。だからこそ、批判することに意味が出てくる。自分が認められない意見を批判してもしょうがない。


意見を言ったり聞いたりする能力に欠けている人、つまりは一般化の能力に欠けている人は、不特定多数向けの意見を自分に直接言われたものとみなしてしまう。そして、それに対して自分が思ったことを一般化をせずに直接相手に向かって言う。ステージ上でアイドルが「私はみんなのことが大好きです」と言ったのに対応して、楽屋へ直接「僕もあなたのことが好きです」と言いに行くのと同じ構図である。

一般化の能力に欠けている人は、(ここのような)断定形の文が嫌いだ。こうした文を会話だととれば、つまり面と向かって言われることを想像すれば、こうした文が嫌いになるのもわかる。ブログなんかで「バカが多くて困る」と書くなら、そうだなぁ、で終わる。しかし、突然ある人に面と向かって「バカが多くて困る」と言われたならどうだろう。言われた方は、暗に「お前はバカだ」と言われたような気がする。なぜなら、普通は面と向かって相手に関係のない話はしないからだ。

それで、こういう人はブログにある「バカが多くて困る」という文章に対して「俺はバカじゃない」と言い返す。ブログ主はこれを見て頭の中に疑問符が10個くらい浮かぶ。お前がバカかどうかなんて知ったこっちゃないのになぁ、と思う。一般化の能力に欠ける人は、「一般」と「自分」を区別することができない。自分=一般だと思っている。すべてにおいて自分が基準だから、「一般の人」と書いてあると自分のことだと思ってしまうし、逆に自分に当てはまらなければそこには一般性がないと思ってしまう。本当は、すべての意味で「一般的な人」というのは存在せず、皆何らかの意味で一般的なところから外れた人なのだ。

意見というのもの本質を考えるなら、断定形でなくてはならない。なぜなら、意見は一般的なものだからだ。「私は〜と思う」というのは意見ではない。なぜなら、それは私一人の思いに過ぎず、一般的なことではないからだ。それが意見になるためには、「私だけでなく、普通の人なら誰もが〜と思う」という一般化が必要である。一般的・普遍的なことであれば、断定形になるのは当然だ。「思う」主体がないのだから。

会話では、相手は自分のためにしゃべってくれる。そこで話される文は、「自分が理解できること」が唯一の目的である。それは自分が聞いて理解できるはずであり、理解できないとしたらそれは不良品である。しかし、意見はそうではない。多くの人に向けて同じ文が書かれるからだ。ある人が理解できるように書いた文章が、別の人にはかえって理解できないかもしれない。こうした当たり前のことがわからず、意見に対して「自分が理解できること」を書き手に要求する人が結構いる。意見は、わざわざ自分用に書いてはくれない。自分で読み取るべきものであり、自分で読み取るからこそ意味がある。

一般化の能力に欠けている人は、相手の意見を自分で読み取ることができないから、自分の頭の中で「相手の意見」と「自分の思い」がぶつかる。これをを自分の力で解こうとはせず(その能力もないわけだが)、相手に解いてもらおうとする。具体的に言えば、「お前の意見は理解不能」と書けば、意見を書く人にはバカ親切な人が多いので、理解できるように教えてくれる。それで、ますます自分で理解しようとはしなくなってしまう。


匿名の問題も、意見の原則が通用しなくなってから急速に浮上してきた。匿名は、意見なら歓迎されるが、会話では歓迎されない。そして、意見を言う人は匿名にする必要を感じないが、会話をする人は匿名にする必要を感じることがある。一見逆に見えるが、こう解釈すればいい。意見では、匿名かどうかということは意味がなく、どっちだっていいのだ。それに対して、会話の場合には「名前」が重要になってくる。だから、それを出すのか隠すのかを慎重に考えなくてはならない。

意見は、言った瞬間に発言者の元を離れて、不特定多数のものになる。意見には一般性が含まれているからだ。意見はそれ自体で完結しているから、他の情報は必要がない。誰が言ったかということは関係なく、その意見の中身だけを考えればいい。それが匿名であろうとなかろうと関係がない。

会話ではそうはいかない。なぜなら、会話は意見と違って、話す相手が特定される必要があるからだ。相手の気持ちや考えを推し量り、相手にわかるように話す必要がある。そしてそのためには、相手のことを知らないといけない。だから、そこに何の前提もない匿名の相手にわかるように話すことは不可能なのである。

匿名でしかも一般性のないことは、他人にとっては意味がない。しかし、逆に言えば、意味がないということは害もないということだ。匿名はそんな時に効果を持つ。他人にとっては何の意味もないことをただ叫びたい場合には、匿名にするといい。本当は、そういうことはチラシの裏にでも書いていればいいのだが。

匿名を基本としたシステムは、参加者がきちんと意見を言えるうちは問題にならなかった。それができない人が匿名で参加してきたのがトラブルの原因である。


会話は、基本的に双方向である。人と人が2人で、互いに相手にわかるように自分の思いを伝える。会話の技術は、相手に向かってボールを投げる技術である。

会話では、相手にわかるように話さなければならないから、相手が何をわかって何をわからないのかを把握して、相手にわからないことがないように話さなくてはならない。また、会話では聞く方は相手が何を言いたいのか、何をしたいのかを察しなくてはならない。これは、自分を相手に合わせようとするやり方である。こんな事ばかりやっていると自分を見失ってしまう。

会話は危険なものである。下手な相手に自分を合わせてしまうと、自分が相手の操り人形になってしまう。しかし、会話では相手に自分を合わせないといけない。現実なら、面と向かっているから顔や声の調子、格好や仕草などである程度わかる(しかし、それでも騙されることもあるわけだが)。しかし、ネットでは文体くらいしか判断の材料がない。そのため、相手の素性がやけに気になる。そもそも、相手の素性が気になる時点で、意見を読み取る力がない証拠である。

意見は、意見として書いてある文章だけを見て、自分の力で判断しなくてはならない。相手に合わせる必要はない。相手の意見を受け入れるのか受け入れないのかは自分で決めることである。もちろん、「一部は受け入れられない」という場合もある。

そして、受け入れられない部分があったら、なぜ受け入れられないのかを「意見」として言う。「自分は受け入れられない」というだけでは意見ではない。「こういう見方をすれば誰もが(そして当然相手も)受け入れられないと思うはずだ」というところまで自分の思いを一般化するのである。

こうして、相手に対して一般化された意見を言い合うのが「対話」である。これは会話とは違う。会話は相手に向かって何かを言うが、対話ではそれぞれが不特定多数の人に向かって言う。相手はいてもいなくてもたいして変わらないし、複数人いてもメンバーが入れ換わっても問題はない。誰が言ったかということは関係がないからだ。誰かの言ったことを受けて、しかしその人に直接言うのではなく、不特定多数に対して何かを言う。


まとめよう。「意見」とは、不特定多数に対して何かを言うことである。そしてそれには、現実には存在しない「一般の人」という抽象概念で考える能力が必要である。そういう能力のない人は、「一般の人」が何か具体的なものであると勘違いし、「そんな人がどこにいるのか?いるんなら見せてみろ」と言う。バカの典型である。

抽象思考とは、具体的なものから抽象的な概念を取り出すことと、逆に抽象的な概念を具体的なものに応用することの2つの能力からなっている。これができないと、その人にとっての「抽象的な概念」は、現実世界から遊離した言葉の遊びになってしまう。意見を言う上で重要なのは、自分の現実的・具体的・主観的な「思い」を、概念的・抽象的・客観的な「考え」に変えること、そして逆に誰かの考えを自分の思いに変えることだ。

特定の誰かに言うつもりで文章を書いてしまうのでは、これは達成できない。自分の主観が相手の主観に変換されるだけのことだ。これをいくらやっても「一般化」にはならない。自分の思いをそのまま相手にぶつけるのでは、いくらやっても客観的にはならない。逆に、既に他の人が客観化してしまった事、例えば偉い人が提唱した概念を自分の思いに変えることなく丸暗記したまま言っているんでは、それを「自分が」言う意義がない。

「私は〜と思う」をいくら言ったって、「ああそうですか。で、それが何か?」で終わりだ。どこの誰かがどう思おうと、そんなことは知ったこっちゃない。そこに、「どこの誰かがこう思った」というだけではなく、自分にも通じる何かがあるなら、聞こうと思う。「自分がこう思った」でおしまいではなく、そこに他人にも通じる何かを埋め込むのが「一般化」である。

一般化ができない人は、意見に対して「理解不能」とか「さっぱりわからない」と言う。それは、バカだからである。自分が思っていることと違う意見に対しては「私はそうは思わない。私にも納得できるように説明しなさい」と言う。そいつの理解能力を越えていることなんだから、それは無理な話だ。これが会話なら相手にわかってもらえるようにいろいろ考えるかもしれないが、意見を言う人はそういうバカには理解されなくても困らない。自分が意見を理解できない時にいちいちそれを書き手に言ってくるのは、意見の「教えて君」だ。書いてある文章の意味くらい自分で考えろ。

意見に対しては意見で返す。それが「対話」の作法である。対話で出されるそれぞれの意見には、当事者でない人が読んでもなるほどと思う情報が含まれている。相手の意見の全否定ではなく、新しい事実や仮定や考え方を導入してそれを別の観点から見ることによって、相手と違う結論を出す。相手と結論が違うのは、相手の意見がでたらめなのではなく、違う前提に立っているからだ。どの前提が違っているかという情報を自分で付け加えることによって、そこに価値が出てくる。

「活字を読む」とはつまり、一般化や抽象思考の練習である。携帯メールやチャットは相手が決まっているから、いくらやっても活字を読んだことにはならない。そして、本来不特定多数への意見を書く場である掲示板やブログやWebページも、不特定多数の人を意識せず携帯メール感覚で書いてしまったら、やっぱり活字にはならないのである。