現実の重み

ネット世界と匿名の話

「現実と虚構の区別」の話は今までも別の文脈で何回かしたわけだが、今回はこれをメインテーマにしてきちんと書いておこうと思う。

よく「アニメやゲームのような虚構ばかりを見て育つと、現実と虚構の区別がつかなくなってしまう」と言われる。アニメやゲームのことをわかっていれば、当然、こんなに一般的なことは言えるはずはない。アニメやゲームはいろいろな種類があるのだから。

しかし、だからといって、これをまったくのウソだと言うこともできない。現実と虚構の区別がつかなくなってしまうタイプのアニメやマンガやゲームは確かに存在する。そして、そういうものの影響で、実際に区別がつかなくなってしまっている人も少なからず存在する。そして、同じアニメを見ても、受け取る側の問題で、現実と虚構を見分けられないこともある。これは主に見る側の問題だが、これらが虚構である以上、この問題に対して影響なしと言うことはできない。

今回は、この問題がどういう問題なのか、つまり、「現実と虚構の区別ができる」というのはどういうことを指すのかを考えてみたい。


現実と虚構の区別がつかなくなるとはどういうことか。区別がついてなさそうな人にこう言うと、おそらく「いや、俺たちは現実と虚構の区別はちゃんとついている」と言う。しかし、よくよく聞いてみると、彼らの「現実」と「虚構」の関係はどうもおかしい。

彼らは、どうやら「これは現実」「これは虚構」とはっきり区別して考えているようなのだ。つまり、「現実」に対して、それと等価な別の世界「虚構」が存在すると思っている。現実も虚構も「世界」の一つであり、たまたまこの世に出現した世界が「現実」であり、この世に出現しなかった世界が「虚構」だと思っている。

これこそが、「現実と虚構の区別がつかない」という問題である。現実と虚構の区別がつく人にとっては、現実はどこまでいっても現実であり、それ一つしかない。虚構というのはあくまで現実の上に乗っかっているものである。現実と虚構とは対比すべきものではなく、質の違うものなのだ。

現実とは、この世にあるすべてである。現実でないものは存在しない。現実を離れて虚構の世界に行くことができると思っている人が、現実の重みをわかっていない人であり、現実と虚構の区別がついてない人なのである。


この問題と一見関係なさそうだが大いに関係のある問題がある。「ネットマナー」や「ネチケット」の話だ。ことさらにネットマナーを言う人に、「ネットには現実とは違うルールがある」と思っている人がいる。これが、「ネットなんて人が会って会話する代わりにキーボードで会話してるだけじゃん」と思っている人との大きな違いである。

前者の人は、ネットには現実とは「違う」特徴があり、ルールがあると主張する。例えば、「現実とは違って、ネットでは何気なく言った一言が相手を傷つける」と言う。いや、現実でも何気なく言った一言が相手を傷つけることは十分あるのだ。ただ、現実では相手の表情などによって「傷つけるつもりはなかった」ということが伝わるのに対して、ネットではそれを伝えることが難しいだけだ。ネットは現実より伝えられるものが限られているから、現実より気をつけなければならない事が多いのだ。

「ネットには現実とは違うルールがある」というだけではなく、そのルールがサイトごとにそれぞれ違うと主張する人もいる。それぞれのサイトには管理人がいて、その人が「このサイトのルール」を掲げる。サイトはそれぞれ独立した世界であって、その世界には個別の「神」がいて、その神がルールを決めていると思っている。そして、そのサイトを訪問する時にはまずルールを確認しろと言う。

いつの間にか、「マナー」が「ルール」になってしまった。マナーとは、「皆が気持ちよく使えるようにしたい」という目的を果たすために、皆で考えた末の答えである。だから、ネットマナーをまったく知らなくても、自分で一生懸命考えれば同じような答えが出るはずなのだ。ネットマナーが明文化されているのは、一生懸命考えるのが大変だからというだけだ。ここが、いくら考えても導き出せない「このサイトのルール」と違うところだ。


ネットを現実とは別の世界だと考える人は、匿名にこだわる。ネットの人格というのが別にあって、それが現実の自分とリンクされることに対する恐怖感がある。ネットという虚構の世界の中で、「ネット人格」という虚構の人格を作り上げようとする。

ボイスチャットに感じる抵抗も、ここに原因がある。ボイスチャットというのは、今までネットでは伝わらなかった声のトーンを伝えることができ、表現力を現実世界により近づける。これは、ネットを現実から切り離そうとする人にとっては害悪でしかないが、ネットを現実に近づけようとする人にとっては非常に意味のあることだ。

前者の人にとって、究極の仮想世界とは現実世界の制約からまったく切り離された独立した世界であり、ネットが現実から離れる方向に進化することを期待している。それに対して、後者の人にとっての究極の仮想世界とは、現実とまったく同じ表現力を持つことである。つまり、ネットは現実に近づく方向の進化を期待している。

ここで言う「仮想世界」とは、ネットの上だけのことではない。たとえオフ会をやって現実に会ったとしても、常にハンドル名で呼び合い、相手がどういう人なのかも知らない場合は、現実の自分とはリンクしていないと言っても過言ではない。リンクしているのは顔や体型などだけで、それらはたいして自分というものを表現していないのである。こうした、普段の自分とは切り離された「ネット上の自分」が存在するかどうかの問題である。

最近、「日本ではSNSが流行らない」というような話を見かける。私はSNSのことはよくわからないから、本当に流行っていないかどうかはよくわからない。しかし、そうした話で書かれている内容はたいていこの「匿名」の問題と同じだ。SNSは現実世界の延長として作られた場所であり、ネットは別世界だと思っている人にはなじまない、と書かれている。


虚構と違って、現実は逃れることができない。虚構は簡単に作ったり消したりできるが、現実は消すこともできなければ作ることもできない。ただそこに「ある」ものだ。現実と違って、虚構は簡単に作り変えることができる。

「ネット人格」は、本物の人格と違って、作り上げられた人格である。もちろん、本物の人格だって、当人が「こういう人間になりたい」とか「こういう考え方をしたい」と思って作り上げたものではある。どこが違うのか。

現実では自分が望まない様々なことも起きてしまうから、それに対処する必要がある。とすると、きれい事ばかりでは済まなくなる。「嫌なことに対してどう対処するか」というところが問題となる。なかなか自分がなりたいと思うような人格にはなれない。だからこそ、なりたいと思うことに意味がある。

しかし、ネットでは、自分が望まない事は起きない。自分は自分のサイトの「神」であり、ルールを自由にコントロールできるからだ。そして、嫌なことが起きたら「荒らされた」と言って、そのサイトを閉鎖してまたどこかに作ればいい。これによって、嫌なことが起きたという事実そのものを消してしまうことができる。だから、ネット人格は理想の人格である。都合の悪いことは起きなかったことにできるのだから。

ネットは本当は「現実の延長」でもあるから、余計に始末が悪い。ネット人格こそが自分の本当の人格で、現実の人格は自分の本当の人格ではないと思ってしまう。ネットこそが自分の居場所であり、現実でつらい思いをしているのは現実世界で自分の周囲にいる人達が悪人だからだと思っている。こんな風に思っているから、「現実」は自分からどんどん遠ざかってしまう。

なぜネットでは仲間がたくさんできるのか。それは、仲間になるリスクが存在しないからである。とりあえず誰にでも「仲間だよー」と言っておけば困らないからだ。「仲間だ」と言っていても、都合が悪くなるとすぐ放り出して消えることができるからだ。ネットではその程度でも「仲間」と呼べてしまうから、仲間がたくさんいるように見えるだけなのだ。そしてこれは、ネットが現実ほどその人と密接に結びついていないからである。

つまり、ネットでの人格は、自分に有利な状況でのみ作り上げることができる理想的な人格に過ぎないわけだ。もちろん、それはネットの特性だから、そうなってしまうのは仕方がない。それが自分の「本当の人格」だと思ってしまうと問題だというだけである。


「ネット人格」「自分探し」「ドリーム小説」には共通点がある。どれも、「理想の自分」を表現しようとする。「こんな人だったらいいよね」という自分を表現しようとする。

もちろん、普通の人だって「こんな人だったらいいよね」という人になろうとする。しかし、普通の人は現実の制約の中でこれを実現しようとする。そして、それはあくまで理想であって、自分はまだそこには到達していないことを知っている。永遠に到達できないかもしれないことも知っている。

それに対して、現実と虚構の区別がつかない人は、自分の「ネット人格」が完璧な「理想の自分」だと思っている。「現実の自分」が「理想の自分」ではないのは、周囲のせいだと思っている。現実の世界ではイジメられるのは周囲にいじめっ子しかいないからだと思っている。良い友達がいて女の子がたくさんいる環境ならば、モテモテでハッピーな生活なのに、と思っている。

その通り。現実が理想と違うのは、周囲のせいだ。しかし、それは同時に、言っても仕方がないことなのである。現実がそうでない限り、いくら仮定の話をしても仕方がない。そこでいくら「周囲が悪いんだ」と言っても、現実は何も変わらないのである。

普通の人なら、現実には何も変わらないことはしても仕方がないと思う。もちろん、「周囲が悪いんだ」と言い続けることによって本当に状況が変わるのなら、言い続ける。しかし、どうも状況が変わらなさそうなら、やめて他の手を考える。これは、目的が「現実を理想に近づけること」にあるからである。

しかし、現実と虚構の区別がつかない人にとっては、「周囲が悪いんだ」と言うことには意味がある。彼らにとっては、「現実の自分」が悪い状況にあろうとも、「理想の自分」が良ければそれでいいのだ。それで、ある人は「どんな悪い自分であろうと、周囲の状況さえ良かったら理想の自分になれたはずなんだ」ということを小説に書く。ある人は悪い要素をすべて排除することでネット上での「理想の自分」を保ち、ある人はどこか他の国には悪い要素のない世界があるんじゃないかと思ってしまう。

現実と虚構の区別がつかない人が忘れているのは「意味」である。「そんなことをして何になる?」という質問への答えだ。非難の書き込みを削除しても、決して非難そのものが無くなるわけではない。逆にいくら相手を非難しても、相手が納得しなければ何も変わらない。問題を相手のせいにしても、問題そのものが無くなるわけではない。目をふさいで問題が見えなくなっても、問題がなくなったことにはならないのだ。

まず、「理想の自分」が虚構であることを認識せよ。100%理想的な状況というのはあり得ない。だから、そんな状況についていくら考えても意味はない。意味がないことをするなとは言わないが、意味がないということは自覚せよ。


まとめよう。現実には「意味」あるいは「価値」がある点が虚構と異なる。人間は現実に生き、現実から逃れることはできない。だから、自分と現実との関係だけが問題なのであり、現実でないものはどうでもいい。まったく現実と関係ないものは無意味で無価値なのである。

虚構に意味や価値が出てくるのは、そこにどこか現実に通じるものがあるからである。小説には、現実の人間と共通する心理や行動、考え方などが描かれている。だから小説を読む意味がある。もし小説が完全に現実離れしたものであったなら、現実に持ってこられるものが何もないのだったら、そんなものに意味はない。現実こそが意味のすべてだからだ。

「現実以外のものにも意味がある」と思ってしまうのが、「現実と虚構の区別がつかない」人である。本来意味ではないものを意味だと思ってしまうせいで、そのうち意味とは何かがわからなくなってしまう。「意味」や「価値」の基準を失って、意味や価値は勝手に操作できるものになってしまう。そのうち、「生きている意味」や「自分の価値」すらわからなくなってしまう。

現実を大切にしろ。「自分」は「現実の自分」一つで十分だ。そして、虚構に接する際には、そこの中から現実に通じる部分を選び出すようにしろ。これこそが「現実と虚構の区別」なのである。