今まで、何回かオタクの話をしたが、ほとんどは広義の「オタク」の話をしてきた。今回は、狭義の、そしてもともとの意味の「オタク」の話をしたいと思う。なぜなら、最近、「オタク」という言葉の定義が(本来の意味に)狭まってきたからだ。昔のように「電車オタク」「怪獣オタク」とはあまり呼ばれなくなった。
もともと、「オタク」というのは侮蔑語だった。オタクという言葉はもともとアニメファンの造った言葉だったが、これはアニメファン全体を指す言葉ではない。当時のアニメファンが、アニメ好きの中に自分たちとは本質的に異なる人々がいるのに気づいて、そういう人達を侮蔑的に呼んだ言葉だ。ここでは、「オタク」という言葉はそうした一部の人達を指して呼ぶことにし、そうでない人達を「マニア」と呼ぶことにする。
もともと、同人誌と言えば「このアニメがどんなに素晴しいか」あるいは「このアニメはどんなにクソか」という論評が主だった。お互いに自分たちの書いた論評を交換して読み合った後、(たかがアニメの話で)殴り合いにもなりかねない大論争を展開した。お互い「俺の方が正しい」と言って譲らなかった。そうやって疲れ果てるまで大論争をした後、仲良く肩を組んでアニソンを熱唱した。アニメファンとはそういうものだった。
そうしたアニメファンの中に、いつの間にか、そうした交流を嫌う人々が現れた。これがオタクである。趣味に関して表面的な話はするものの、相手に気を遣ってか立ち入った話はしない。マニアにしてみれば、同人誌は買うものではなく作るもので、交換して読み合って互いに批評し合うためのものだ。自分が書いたものを人に読んでもらって卒直な意見を聞かせてもらうためにわざわざ書いているのである。それを持ち帰ってしまってどうするんだ。同人誌を作ってこないでどうするんだ。まあ、同人誌を作るのにはそれなりの手間がかかるからまだ許してやるとして、アニメについて徹夜で語り明かすんだから飲み会くらい出ろ、と思ったわけである。
アニメファンがなぜ一箇所に集まるかというと、同じ趣味を持った仲間と交流をしたいからである。皆が一番面白いと思うこと、それをしたいがためにわざわざ集まってきていることをやらずに帰ってしまう人がいる。それがどうにも理解できなかった。それで、そういう彼らに「オタク」という蔑称を付けたのだ。(自分たちが理解できない人々を、「まあそういう人もいるさ」と割り切るのではなく蔑んで呼ぶところがマニアらしい)
「オタク」という言葉の由来には諸説あるが、きっとそれは同時発生的だったのだろうし、だからどれが正しいかという話はどうでもいい。しかし、有力な説の一つに、「マクロスの主人公の口ぐせ」という説がある。これはかなり信憑性が高い。なぜなら、マクロスはここでいう「マニア」的ではなく、「オタク」的だからだ。普通の人から見たらガンダムとマクロスは同じジャンルに入るように見えるにもかかわらず、ガンダムはマニア的で、マクロスはオタク的なのである。
かなり古い話になるが、具体的な作品を考えればイメージはつかみやすいだろう。「ささきいさお、あるいは水木一郎が主題歌を歌っていたもの」というのがマニア的なものの一番直感的な定義だ。松本零士や石ノ森章太郎、あるいはアニメじゃないけど仮面ライダーなどの特撮物も守備範囲だ。それに対して、オタク的なものの筆頭は「マクロス」や「うる星やつら」、魔法少女ものなどである。高橋留美子はその代表的なものだ。マクロスの後にわんさか出ることになる「メカと美少女もの」もこちらである。そして、その真ん中に「ガンダム」がある。
簡単に言えば、マニアは男性的、オタクは女性的である。マニアが好んだのは「熱さ」であり、オタクが好んだのは「暖かさ」である。だから、こういう意味でのオタクには女性が多い。そして、オタクの男ばかりがクローズアップされるのは、オタクの男が一般の「男性像」とかけ離れているからである。例えば、女性は「白馬の王子様が迎えにきてくれるの」と言っても「いつまで夢見てんのよ」くらいで済むが、男性が「馬車に乗った王女様が迎えにきてくれるんだ」と言うと、相手は言い返す前にその場を逃げ出したくなる。(なお、これが社会的偏見だというのは、その通りだと思う。そして、その偏見がだんだんなくなってきてしまっている。)
こう考えて現在を見ると、現在の「オタク」と、当時の「オタク」はイメージが重なっている。つまり、本質的なオタク像が変わったわけではないということだ。ちょっと前まで、一般人はマニアとオタクの違いがわからず、一緒くたにオタクと呼んでいた。しかし最近になって、違いをだんだん認識しだした。ウルトラマンの怪獣フィギュアを集めるのは、昔はオタクと呼ばれていたが、本当はマニアだったのであり、今ではなんでも鑑定団で普通にカミングアウトできる存在になっている。しかし、狭義の「オタク」はやっぱり今でもカミングアウトできない。男が堂々とTVで「ミンキーモモのお宝売ってください」とは今でも言えない。
ここで言う「マニア的」なアニメのストーリーと配役を見てみると、ある特徴が浮かび上がる。それは一言で言えば「若者が大人になるストーリー」である。若者が大人の世界に入って、大人の中で戦って、やがて強大な力を持つ大人を負かして、自分も大人になったことを証明する。
こうしたアニメや特撮物のほとんどでは、主人公は若い。視聴者は主人公に感情移入する。そして、主人公以外はほとんど大人である。視聴者は、主人公の視点から大人を見つめる。
こうしたアニメで印象に残るのは主人公ではなく、主人公が対峙する敵である。銀河鉄道999ではメーテル、ヤマトではデスラー総統、ヤッターマンでは悪玉トリオ、ガンダムではシャア、北斗の拳ではラオウである。ルードヴィヒなんて、どんなアニメで主人公は誰だったかも忘れてしまっているのに、あの顔と声と悪の美学だけは覚えている。
さらに言うと、こうしたアニメには主人公の先輩あるいは指導者にあたる人がいた。彼らは、主人公と同じように清く正しい心を持った頼れる人だった。たまには喧嘩したりもするが、主人公は基本的にこの先輩を尊敬していた。丹下段平だったり、おやっさんだったり、沖田艦長だったりと、これもまた例を挙げるときりがない。
こうしたアニメは、どれも心に残る名セリフがある。名セリフは主人公ではなく、敵や先輩役が言う。名セリフの宝庫であるガンダムを見てみるといい。(ファースト)ガンダムからよく引用されるセリフの中で、アムロが言った言葉は驚くほど少ない。こうしたセリフは、主人公が言うものではなく、主人公に対して言われるものだった。
マニア向けのアニメでは、かっこいいのは主人公ではなく、その敵だった。敵に共感し、敵の方をよく覚えていた。そしてその敵はたいてい大人だった。そして味方にもまた尊敬できる大人がいて、その人に教えを乞いながら、敵を倒し、そして自分も尊敬できる先輩と同じ地位に昇りつめるのである。
これらのアニメのテーマは、どれも「正義」だ。主人公は、正義を信じて、正義のために行動する。途中どんなことがあっても、自分や仲間を信じて進め。これがこうした作品のメッセージだった。
正義を語る上で重要なのが、敵の存在である。それも、かっこいい敵でなくてはならない。かっこいい敵とは、主人公と同様に正義を信じた敵である。正義と正義が戦う。だからこそ面白いのである。
ガンダムでは、ジオン軍は圧政に苦しむ人々を解放するために戦争を始めた。これこそ正義である。もし、同じ世界設定でシャアを主人公にしてアニメを作っても、おそらく面白いアニメができるだろう。一年戦争もののゲームでは、アニメとは逆にジオン軍を主人公にしたゲームもよく作られる。ガンダムのモビルスーツで人気があるのは、主人公の乗っているガンダムではなく、ザクやドムやゲルググだ。
敵味方どちらも、相手もまた正義であることをわかっている。相手のことを認め、敵でなくて味方だったらどんなに良かったかと思いつつ、なおも全力で戦う。こういう人間が「漢」である。もし戦いで敵が死ぬことがなかった時には、今度は敵は味方となって現われる。互いのことを認めているのだから、味方となれば漢同士の絆は岩よりも固い。今まで撃ち合ってきた者同士が、背中を預けて戦うことができる。
これが有名な「友情」「努力」「勝利」である。友情とは互いの能力を認め合うことであり、努力とは信じた道に向かって進むことであり、勝利とは自分が越えるべき壁を乗り越えることだ。
それに対して、オタクアニメは、主人公はかっこ良く、敵は間抜けな存在に描かれている。「マクロス」が典型で、ゼントラーディは文化を知らないバカということになっている。それで、アイドルの下手くそな歌でやっつけられてしまうわけである。かっこ悪いことこの上ない。
ゼントラーディは設定上、既に負ける運命にある。人間に必要な基本的な何かに欠けていて、悪という設定になっているからだ。これが逆にゼントラーディの側から見たアニメになっていて、文化が負けてゼントラーディが勝つストーリーになっていたら、到底人々は共感しなかっただろう。これが「勧善懲悪」のストーリーだ。
敵は悪い人間、卑劣な人間、劣った人間で、正常な人間は感情移入できないような曲った根性を持っている。見るだけで腸が煮えくり返り、思わずブラウン管(これももうそろそろ死語か)に拳を叩きつけたくなるような奴だ。こうした敵の横暴によって溜まりに溜まったフラストレーションを主人公が晴らしてくれる。これがオタクアニメの基本的な構造である。
オタクアニメでは、視聴者は画面の外にいて、登場人物の誰にも感情移入しない。自分は主人公を脇から眺めている。主人公が次々と素晴しい能力を発揮しているのを「かっこいい」と羨望のまなざしで見る。対象が異性なら、これは「恋愛」のメカニズムである。主人公の魅力に魅かれるわけだ。こうしたアニメでもし主人公を自分(視聴者)と同一視してしまうと、これはナルシシズムになる。
オタクアニメでは、主人公の強さを演出する。そして、強い敵を倒すことで強さをアピールする。そして、主人公の正しさと、相手の悪をアピールする。主人公は絶対に強くて正しくてかっこいい。こういうメッセージである。そして、視聴者はそういう主人公に対して「愛」を感じる。
マニアアニメとオタクアニメの違いに、主人公の能動性が関係してくる。マニアアニメの主人公は自分から行動するが、オタクアニメの主人公は自分が望まないうちに戦いに巻き込まれていく。
マニアアニメの主人公は、戦いに赴くかどうかを自分で決める。どちらかというと、周囲はそれを止める側である。それに対して、オタクアニメの主人公は戦いを「嫌だ」と拒否する。それでも周囲に説得されて、仕方なしにやることになってしまう。
説得されて戦い始めるならまだいい方で、極端になると、目の前に大事な人の死体が転がるまで戦い始めない。戦場の中でひたすら「戦いたくない、戦いたくない」と、耳をふさいでうずくまっている。それが、自分の大事な仲間が傷ついたり死んだりした時点で、音楽が一瞬止まり、「いやぁぁぁぁっ」と絶叫して、オーラを発しながら敵に向かって突撃したりする。「キレる子供」そのままである。
オタクアニメでは、主人公は自分の大切な人のために生命をなげうって戦う。だから、オタクアニメでは、主人公は戦いを嫌うのである。自分はどんなに嫌なことでもその人のためにならできる、というメッセージだからである。戦いをとことんまで嫌うように描かないと、その後のメッセージが生きてこない。オタクアニメでは、「視聴者=主人公」ではなく「視聴者=主人公の恋人」であるから、オタクアニメは実際には「私のために生命をなげうって戦ってくれる恋人」を見せているわけである。
それに対して、マニアアニメの主人公は、自分の信じるもののために生命をなげうって戦う。自分の信じるものを否定する敵に対して、「それはおかしい」とノーを突きつけるのが戦いだ。マニアアニメでは、戦うことがすなわち自分の信じるものの正しさを示すことだから、戦い続けることがこのメッセージを生かすことである。
キャシャーンが映画になってボロクソに言われたのはこういう理由なのである。キャシャーンは自分から、たった一つの生命を捨てて生まれ変わったんだ。嫌がるのを無理やり改造されてそれを後々までウジウジ言ってるような情けない奴じゃなかった。こんなクソ映画喜んで見てるやつは女の腐ったのだけだろ。キャシャーンは本当は漢のアニメだ。何が反戦のメッセージだ。ふざけるな。もともと「キャシャーンがやらねば誰がやる!」だったんだぞ。
マニアは戦いを積極的にやるが、オタクは戦いを避ける。マニアは戦いこそ人生だと思っているが、オタクは戦いを良くないもの、してはいけないものだと思っている。そのうち、ゲームというもう一つの文化ができ、マニアはすべてそちらに流れていってしまった。そしてアニメにはオタクだけが残り、オタク的なアニメばかりが作られるようになった。(最近、ゲームにすらオタクが侵食してきて、マニアは戦いの場であるゲームすら追い出されようとしているのであるが)
オタクは、マニアは戦いを「好んで」いると勘違いしている。そんなわけはない。戦いはしないに越したことはない。しかし、時には戦わなければならないこともあるのだ。そして、戦うということは大事なもの、譲れないものを賭けているということであり、戦わないということは、守らなければならない大事なものを何も持っていないということだ。だから、戦う方がかっこいいのだ。
オタクには、「大事なこと」の存在が理解できない。だから、漢と漢が大事なものを賭けて戦っていることを理解できず、「頭が空っぽのバカ共が殴り合っている」としか見ることができない。「なぜ戦っているのか」を考えることができないのである。
それで、オタクはよく戦いを人格攻撃と勘違いする。マニアが戦う対象はお互いの正義であって、相手自体は漢として認めている。そして、認めた者同士で全力で戦う。しかし、オタクにとって戦いは「愛する人(自分を含む)を守るために仕方なくすること」であり、人以外のもののために戦うという概念がないから、攻撃されると人が対象だと思ってしまうわけである。
オタクには、戦う人の気持ちがわからない。戦う人を、自分とはまったく違う異星人のように感じている。それで、戦いを常に恐れてびくびくしている。相手の気持ちがわからないから、何をすれば相手が戦いをやめてくれるのかもわからない。それで、とにかく相手を排除することを考える。とにかくやってくる相手を排除するだけだから、相手の気持ちは永久にわからない。
勧善懲悪の物語では、主人公は絶対的に正義であり、敵は絶対的に悪である。それでは、本当の正義はわからない。自分も正しく、相手も正しく、それでいて互いに相反する。この矛盾をきちんと矛盾のまま受け止めて、そして自分なりに答えを出す。これが正義だ。正義のわかっていない人は、自分が正しければ相手は間違っていると思う。相手をバカにしているのであり、相手のことを理解できないのである。
正義のヒーローは、相手の言い分を聞く耳持たずにやっつけてしまっているのではない。相手の言い分をきちんと聞いた上でやっつけているのだ。むしろ、理由があって相手を攻撃する方が無邪気で単純だ。「相手にも相手の理由がある」ということがわかってないのだ。
水戸黄門を見て「あんな面倒なことしなくても、最初から印籠を出しとけばいいやん」と思った人は、水戸黄門を100回じっくり見て、なぜそうしないのかを考えるように。水戸黄門が「印籠を出したから一件落着した」と思うのが間違いであって、本当は「一件落着したから印籠を出した」のである。
正義のヒーローをワンパターンと呼ぶ人は、番組の最後の5分しか見ていない。最後の5分に至るまでに起きた諸々のことを理解できないのだ。水戸黄門は、黄門様の物語ではない。黄門様が出会った町の人と、その人の敵である悪代官との戦いの物語である。黄門様は主人公ではあるが、その物語の主要人物ではない。視聴者と同様、たまたま通りかかった単なる傍観者である。単なる傍観者であるからこそ、双方の言い分を聞いて審判を下すことができるのである。
ヒーロー物は、ヒーローの物語なのではない。そこに登場する一般人の物語なのである。ヒーローは、力がなくてなかなか正義を通せない一般人(物語の真の主人公)に力を貸してくれる。だからこそ「正義の味方」なのである。
「オタク」という言葉は、昔は大人になってもアニメなんかを喜んで見ていた人のことを言ったけど、それはそろそろやめにして本来の定義に戻そう。人に譲れないもの、戦ってでも守るべきものを何も持っていなくて、人生という戦いの場で「自分には何も来ませんように」と隅っこでうずくまっているのがオタクだ。何も起きないことが一番の幸せであり、世間に無視されることを望んでいるのがオタクだ。
オタクの好きなアニメや物語では、常に主人公にスポットが当たっている。主人公がどんな人で、何をし、どう考えたかが語られる。オタクは、そんなあこがれの主人公を眺めながら、「かっこいいなぁ」と思っている。そして、いつまでも「私、彼のことをこうやって毎日眺められるだけでいいの」と言っている。
それに対して、マニアのアニメや物語では、主人公の目を通して世の中の出来事が語られる。そして、物語の中で主人公がとった行動を見て、自分もあのヒーローのようになりたいと思う。マニアの物語では、主人公の気持ちや考えは語られない。それは、視聴者が自分で考えるべきものだからである。そういうことを考えることのできないオタクが、主人公の気持ちがあえて語られていないのを「主人公は何も考えていない」と勘違いする。
「ヒーローのようになりたい」を「ヒーローのように、空を飛んだり、強大な力を持ちたい」という意味にとった人は、ヒーローをオタク的に眺めていた人、つまり「あこがれの他人」として眺めてきた人だ。マニアは、ヒーローの別な面を見ている。「ヒーローのように、問題から逃げず、敵を認め、自分を信じて、自分で答えを出せる人になりたい」と思っている。オタクは人間を外見や能力だけで見、マニアは人間をハートで見る。
さて、最後に本当に言いたかったことを言おう。ファーストガンダムとそれ以降のガンダムはまったく違うんだ。わかったか。だが、Gガンダムは許す。あれは漢のアニメだ。
そして、男なら、熱い漢のアニメを見ろ。女も見ろ。