バブル再来

バブルがまたやってきた。

「バブル」という言葉は90年代以降さかんに使われるようになったが、みんな過去のことだとばかり思っている。そんなことはない。今またバブルがやってきている。80年代は土地バブルだったが、今度は株バブルだ。

バブルというのは歪んだ考え方で、避けなければならないものだ。バブルの時代はどこかおかしい。おかしいのを無理やり押し隠してバブルは進行する。そして気がついた時にはバブルが一気にはじけ、歪みの代償だけが残る。バブルの時代は決していい時代ではなかった。一瞬いい時代に見えたかもしれないが、それはバカが踊っていただけだ。悪くなっているのにウソをつき続けるよりは、悪くなっているものを本当に悪く見せるほうがよい。

バブルとは、ものの価値がその本当の価値より高く評価されることだ。ただし単に高く評価されるだけではない。そこに正のフィードバックがはたらくことによってバブルになる。つまりバブルとは、そのものを皆が高く評価しているというだけの理由で高く評価される現象のことだ。簡単に言えば次の考え方だ。

皆が「価値がある」と言うものに価値がある。

本当は価値があるからみんなが「価値がある」と言うのだが、それが逆になってしまっている。原因と結果が逆になってしまっている。これがバブル思考の変なところだ。


バブルを何か特殊なもののように思っている人もいるが、バブルは身近にいくらでもある。「流行」は全部バブルだからだ。みんな持っているからといって自分も買う。皆が流行のファッションをしているから自分もそれにする。それが高いものだから買って自慢する。たくさんの人が見たというから自分も見る。

最近、本やCDに一極集中が目立つ。バブルだ。話題になっているからその本を読む。そして面白いといって皆に宣伝し、皆がその本を読み、また宣伝する。これの繰り返しだ。

これのどこがバブルだ?面白い本が売れるのは当たり前じゃないか、と言うかもしれない。しかし状況はちょっと違う。年に本を1冊しか読まないような人が話題になった本を読んで「面白い」と言って宣伝するから問題なのだ。商業ベースに乗っている以上一定の質は確保されているわけで、本が面白いのは当たり前。本当はどれだけ面白いかを考えなければならない。しかし、本を1冊しか読んでいなければ比較することができない。だから、普通の読書家が「こんな本よりいい本がずっとたくさんあっただろ」と思うような本が売れてしまう。

もちろん、「これたまたま読んだけど面白かったよ」と言ってはいけないと主張したいわけではない。こういうきっかけでバブルが生じると言っているだけだ。そういう意味では、バブルは極めて自然であり、放っておくとすぐバブルになる。バブルにならないようにするためには、皆でたくさん本を読むしかない。

バブルでは正のフィードバックがかかるため、いったんバブルに乗っかったら際限なく評価は増える。そしていつかバブルは弾け、10年後には本の名前すら皆忘れてしまう。バブル本はもともと10年後には存在すら忘れられるような本なのだからそれでいい。しかし、その時たまたまバブルに乗っかり損ねた本当にいいものが一度も取り上げられず忘れられてしまうから問題なのだ。

「こんなことは今に始まったことじゃない」と言う人がいるかもしれない。確かにそれはそうだ。しかし、90年代はバブルが弾けて「世の中に流されずに本当にいいものは自分で見つける」という考え方を皆が持ったのも確かだ。だからユニクロやドンキホーテが流行ったのだ。ユニクロのフリースを着ている人を「そんな安物着てるんだ。カッコ悪い」とバカにする人には、「ものの質を値段だけで決める方がカッコ悪い」と堂々と言えた。ブランド物を買った人も、それがブランド物だから買ったのではなく、質がいいからブランド物を買うんだと主張した。「ブランド物だから買う」という態度はバブル的だとバカにされた。

本当にいいものを自分で見つけるのは大変な作業だ。しかし、この大変な作業をやらないとヤバいことになる。15年前に皆反省したはずなのだが、最近そのことを忘れ始めてきているようだ。


「みんなが価値があると言っているから価値がある」というバブルを信じ込んでしまうと、価値があると言われているものを見た時に「きっとこれにみんな価値があると思っているんだ」と思ってしまう。そして、みんな価値があると思っているものには価値がある。価値があると言われているだけのものに本当に価値が出てきてしまうのだ。

この問題は、「みんなこれに価値があると思っている」という思い込み自体が間違っているかもしれないところである。いや、「みんな」というあいまいな基準で判断するところが問題だ。これは、子供がおもちゃをねだる時に「クラスの子はみんな持っている」と言うのと同じだ。よくよく調べてみると本当に全員が持っていることは稀だ。

しかしこの問題の複雑なところは、皆が「クラスの子はみんな持っている」といっておもちゃをねだることによって、実際にクラスの子はみんな持っているという状態になってしまうことだ。嘘がいつの間にか本当になってしまう。その後で「ほら、嘘じゃなかっただろ」と言う。嘘も皆が従うことによって本当になってしまうのだ。

どんな嘘でも皆がそれに従えば本当になってしまう。問題はそれが嘘かどうかではない。皆がそれに従うかどうかだ。正しいことではなく、皆が信じたいと思うようなことを言えばよい。こういう考え方がバブルを作る。


このバブルは価値の話だけではなく、いろんなところで起き始めている。これは一般化すると「皆が○○と言うから○○だ」という考え方である。「皆が迷惑だと言うからそれは迷惑行為だ」「みんなやってるんだから正しい」「いい大学を出ているから優秀だ」「法律に違反していないのだから問題ない」すべて同じだ。間違っているのは「から」の部分だ。前と後を逆にしたものこそが正しい言い方なのだ。

この考え方が変形して次のようになる。「会社を大きくするのが社長の使命」「金を儲けられる仕事がよい仕事」「お客様に喜んでもらえるように仕事せよ」「いい学校へ入るために勉強する」「クラスの人気者になりたい」などなど。これらの問題は、評価を得ることが目的になってしまっていることだ。本来、評価は目的を達成した結果得られるものだ。これを混同してしまうと、「目的を達成することが目的」になってしまう。

評価なんぞは本来どうでもいい。評価は、評価に値するようなことをすれば後から自然についてくる。本当に重要なのは、評価に値するようなことを実行することの方だ。人の評価というのはいいかげんなもので、価値のないものも時として評価されてしまう。しかし、本当に価値のあるものはたいてい評価される。

実体がないのに評価されたって何の得にもならない。実体があれば、心配しなくても見る目のある人がちゃんと評価してくれる。バカ100人に評価されるより、見る目の人1人に評価してもらえる方がずっとうれしいだろ。そして、自分に見る目があるなら評価してくれる人が必ず1人はいるのだ。